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9/11

#9 丸腰

王都の市場は、いつも通り、生命の匂いと、汗と、香辛料の混じった熱気で満ちていた。石畳の上を歩く人々の足音、露店で叫ぶ商人の声、遠くから響く鍛冶の槌音。それらが織りなす喧騒は、この王都の日常そのものだ。私は、その喧騒の中に、異質な静けさを持って立っていた。


先ほどまで、バルドウィン将軍の執務室で、私は「結果」という名の鎖を自ら受け入れた。私の存在意義が、国家の「損益計算」に組み込まれたのだ。私は、武器として機能しなければならない。その重圧を背負いながら、私は市場へと足を踏み入れた。


その時、喧騒が、一瞬、異様な音に塗りつぶされた。


「……っ!」


それは、単なる叫びではなかった。それは、制御を失った、純粋な「苦痛」の爆発だった。


市場の片隅、肉屋の露店付近で、一人の男が暴れていた。元近衛兵だと、衛兵たちが慌てて叫んでいる。彼の纏う甲冑は、戦場での激しい衝突を物語るように擦り切れており、その動きは、訓練された兵士のものではなく、獣のような、制御不能な痙攣に近かった。


彼は、露店を吹き飛ばした。木製の骨組みが悲鳴を上げ、肉や野菜が、血のように赤い土埃を上げて四方八方に飛び散る。衛兵たちが即座に剣を抜き、彼を取り押さえようと動いたが、その剣は、まるで彼の皮膚をすり抜けるかのように、効果を持たなかった。


「止めろ! 奴を鎮めろ!」


衛兵たちの声は、焦燥と恐怖に震えていた。彼らは、この男が「病んでいる」のではなく、「何か」に憑かれているのだと、本能的に理解していた。彼らの目には、私のような「治癒官」が、この事態を収拾する唯一の希望として映っているのだろう。


私は、その群衆の動きを、ただ静かに観察していた。私は、彼らの視線を感じていた。期待、恐怖、そして、ある種の諦念。彼らは、私に「解決」を求めている。


私は、誰かの指示を待つことなく、その暴走の中心へと歩み寄った。


「治癒官殿! 危険です! 討伐命令が出ます!」


衛兵の一人が、私に叫んだ。彼の声は、私を「戦力」として見ている証拠だった。彼らは、私を「治療」の専門家としてではなく、「問題解決の道具」として認識している。


私は、その命令を無視した。私は、彼らの剣や、衛兵たちの威圧的な視線、そして、彼らが発する「討伐」という言葉の響きを、すべて受け流した。


私は、その男から、十数メートルほど離れた場所に立ち止まった。


武器も、魔法も、私にはない。私は、ただの、この世界に召喚された「観察者」だ。


私は、ゆっくりと、呼吸を整えた。


(足の裏の感覚。石畳の冷たさ。硬い、しかし微かに湿り気を帯びた感触。)


私は、意識を、自分の足の裏に集中させた。石畳の凹凸、その冷たさが、皮膚を通して、骨格に伝わってくる。それは、この世界で私が最も信頼できる、最も確かな「現実」の錨だった。


(手のひらの温度。右手の甲に、微かな汗が滲んでいる。その熱が、私の体温と、周囲の熱気と混ざり合っている。)


次に、聴覚。市場の喧騒。叫び声、商人の声、そして、男の荒い呼吸音。その呼吸音の「間」を数える。彼の息が吸い込まれる瞬間、そして、吐き出される瞬間の、その微細な「空白」。


私は、この三つの感覚に、意識を固定した。


男は、私の方を向いていなかった。彼の視線は、市場の喧騒の向こう側、あるいは、この市場の「外側」に向けられているように見えた。彼の攻撃的な動きは、私や衛兵たちに向けられているのではなく、まるで、背後にいる誰かを庇うかのように、無意識に発露していた。


私は、その「庇う」という動作の背後にある、何らかの「対象」を探ろうとした。それは、物理的な存在ではない。それは、彼の魂の奥底で、必死に守ろうとしている、何かだった。


数分が過ぎた。衛兵たちは、私を「何をしているのか」と苛立たしげに見つめていたが、誰も私に命令を下すことはできなかった。私の存在自体が、彼らの「討伐」という論理を一時的に停止させてしまっているようだった。


私は、ただ、その男の「呼吸のパターン」を追っていた。彼の呼吸は、単なるパニックによるものではなく、極度の緊張状態にある、一種の「防衛反応」のパターンを繰り返していた。


「……っ、あ……」


男の動きが、わずかに、途切れた。


私は、その「途切れ」を逃さなかった。それは、彼の意識が、外部の刺激ではなく、内部の何かに引き戻されようとしている瞬間だった。


私は、声を出すことはしなかった。ただ、その「間」を、静かに、深く、受け止めた。


数十分が経過した。市場の熱気は、依然として重かったが、男の暴走は、徐々に、その激しさを失いつつあった。彼の筋肉の緊張が、徐々に、弛緩し始めているのが、私の感覚を通して伝わってきた。


そして、ついに、彼は膝をついた。


その動作は、攻撃的なものではなく、崩れ落ちるような、重力に抗えなくなった者のそれだった。彼は、地面に両手をつき、その甲冑の隙間から、嗚咽を漏らし始めた。


「……っ、うぅ……」


彼の体は、激しい震えに襲われていたが、それはもはや「暴走」ではなく、制御不能な「解放」の震えだった。


群衆は、一瞬、息を呑んだ。衛兵たちは、剣を鞘に戻し、ただ立ち尽くしている。


死者はゼロ。


私は、その場に立ち尽くしたまま、彼が泣き続けるのを、ただ見つめていた。


この瞬間、私は公然と、私の「力」を証明した。私は、剣や魔法を使わなかった。私は、ただ、彼が「そこにいない何か」から、自分を守ろうとしていたという、その「意志」の輪郭を、五感だけで捉え、それを静かに受け止めた。


市場のざわめきが、再び戻ってきた。しかし、その音は、先ほどまでの「恐怖」を伴う喧騒とは質が異なっていた。それは、理解しがたい、静かな「沈黙」を伴った喧騒だった。


その時、群衆の中にいた軍務卿ヴォルフガング・ライネスが、私を静かに見つめていた。彼の表情は、先ほどまでの冷徹な計算とは異なり、何かを深く分析しているようだった。彼は、私に近づいてくることなく、ただ、その場に留まっていた。


彼の視線は、私に向けられていた。


私は、彼が何を考えているのか、正確には理解できなかった。だが、その視線が放っていたのは、感謝でも、賞賛でもなかった。それは、まるで、完璧な「道具」が、予期せぬ形で機能したことに対する、冷たい「着想」の光だった。


彼は、私のこの「丸腰」の鎮圧が、単なる「治療」ではないことを、瞬時に理解したのだろう。


彼は、静かに、しかし明確に、その考えを私に投げかけていた。


**治さなくても、使える状態には戻せる。**


その一言が、私の胸に、冷たい刃のように突き刺さった。私の最初の成功が、この国の最も危険な計画の、最初の設計図となってしまったのだ。

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