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#10 職掌の外

王都の喧騒から離れた、宮廷の片隅にある小さな部屋。私は、その部屋を「傾聴の間」と名付けた。壁は厚く、窓は小さく、外界の音を遮断するように設計されている。官吏たちは、この部屋に予算を割くことに対し、露骨な冷ややかさを示していた。彼らにとって、私の行う行為は、単なる「おしゃべり」に過ぎないのだろう。


「ただ座って話を聞くだけの部屋に、これほどの備品を要求するのですか」


ある時、担当の官吏が、私の備品リストを指差しながら、鼻で笑った。私は、彼らの視線が、私の「行為」そのものに向けられていることを理解していた。彼らは、私が何をしているのか、その本質を理解していない。彼らにとっては、私は単なる「話を聞く人」であり、その行為に価値を見出せないのだ。


私は、彼らの言葉を遮らなかった。ただ、静かに、彼らの言葉を「受け止めた」。それは、彼らの言葉を反論したり、論破したりするのではなく、その言葉の重さ、彼らの焦燥感、そして、彼らが抱える「理解できないこと」を、ただそこに存在させることだった。


そして、私は、この部屋を、私自身の「歯止め」として設計した。


「同意の手順」と名付けたその文書は、私の手で、この部屋の隅に置かれた机の上に、丁寧に綴じられた。それは、私自身を縛るための、最も厳格な契約書だった。


(1) 何が起きるかを説明する。

(2) 何を失うかを説明する。

(3) 本人が言葉で選ぶまで、触れない。


この三つの項目は、私自身の過去の過ち、ハルトを失ったあの夜の、あの「決めつけてしまった」瞬間の反省から生まれた、絶対的なルールだった。私は、誰かの傷に触れる前に、必ずこの手順を踏む。それが、私なりの、この世界での「倫理」だった。


そんな私が、ある日、ニナという少女を診ることになった。


彼女は、王都の郊外にある、小さな慈善施設に身を寄せていた。彼女は、戦時中に敵国に売られ、奴隷として扱われた経験を持つ。解放された後も、彼女の魂は、あの檻の冷たい石の感触から抜け出せないでいた。夜ごと、彼女は檻の中の夢を見る。


彼女は、祝福を持っていなかった。この世界において、祝福は戦場での苦痛を燃料とする加護であり、彼女の魂には、その「燃料」が枯渇していた。彼女は、私の職掌の範囲外だった。国家資産ではない。


「私は、あなたを治す資格があるのでしょうか」


私は、彼女の保護者に対して、この問いを投げかけた。彼らは戸惑ったが、私の真剣な眼差しを前に、やむなく私を呼んだ。


ニナは、痩せていて、常に俯いていた。彼女の瞳は、光を失っているというよりも、光を「拒絶している」ように見えた。彼女の傷の輪郭は、他の英雄たちの持つ、燃えるような、あるいは鋭利な輪郭とは全く異なっていた。それは、湿った土のような、重く、鈍い輪郭だった。


私は、彼女の前に座った。そして、私は、この時、自らに課した「同意の手順」を、彼女に対して適用した。


「ニナさん。私は、あなたの魂に触れる前に、まず、あなたに説明をしなければなりません」


私は、手順を読み上げた。何が起きるか。そして、何を失うか。


彼女は、私の言葉を、まるで遠い国の言語を聞いているかのように、ただ静かに聞いていた。彼女の呼吸は浅く、規則的だったが、その規則性の中に、微かな「乱れ」が混じっているのが分かった。


「失うもの、ですか」彼女は、掠れた声で尋ねた。


「はい。あなたの記憶の一部が、私の手によって、別の形に変換される可能性があります。それは、あなたの苦痛を、別の形で『処理』することになります」


彼女は、その言葉を咀嚼するように、長い沈黙を続けた。私は、その沈黙を、ただ待った。私は、彼女が「はい」と言うまで、決して、彼女の魂に触れないと自分に言い聞かせた。


そして、彼女は、震えながらも、小さく頷いた。


「……お願いします」


それは、私にとって、最も純粋で、最も恐ろしい「許可」だった。


私は、彼女の「檻の夢」を、段階的に、ゆっくりと引きずり出した。


私は、彼女の「檻」のイメージを、言葉の断片として、そっと引き出した。彼女が「檻」と呼ぶものは、物理的な構造物というよりも、彼女自身の「自己認識」の牢獄だった。彼女は、自分が「売られた」という事実を、自分のアイデンティティの核として受け入れてしまっていたのだ。


「あなたは、檻の中にいる、と自分自身に言い聞かせているのですね」


私は、彼女の言葉を、そのまま鏡のように返した。解釈しない。断定しない。ただ、彼女が発した言葉を、そのまま彼女の耳に戻す。


数週間が過ぎた。それは、私にとって、途方もない時間だった。私は、彼女の言葉の「間」を数え、彼女の呼吸の「パターン」を追った。私は、彼女が「檻」という概念を、自分の内側から、少しずつ剥がし取っていくのを、ただ見守り続けた。


そして、ある朝。


彼女は、私に向かって、はっきりと、自分の言葉で言った。


「もう、檻の中にいない」


その瞬間、私は、自分がこの世界で、初めて「純粋な成功」を収めたのだと感じた。祝福の代償という、あの恐ろしい計算が、一切発生しなかった。彼女は、燃料を失うことなく、解放された。


私は、安堵した。この世界には、まだ、私の「計算」が及ばない領域があるのだと。


しかし、その安堵は、数日後、冷たい紙の束となって、私の机の上に置かれた。


それは、正式な譴責状だった。


「治癒官殿。国家資産以外の個体への介入は、職権の濫用と見なされます」


私は、その文面を読み終えた後、添付されていた書類に、視線を落とした。


それは、ニナとの面接記録の完全な写しだった。


日付。時刻。発言内容。私の介入のタイミング。彼女の呼吸の微細な変化。


すべてが、誰かの手によって、完璧に、記録されていた。


私は、凍りついた。


私の「傾聴の間」は、私自身の意志で作り上げた、私だけの聖域だと信じていた。しかし、この世界には、私の知らない、もっと巨大で、もっと冷徹な「記録」のシステムが存在していた。


誰かが、私の行為を、すべて「データ」として収集していたのだ。


私は、その書類を、そっと机の引き出しの奥深くにしまい込んだ。この静かな成功は、私にとって、最初の、そして最も残酷な「警告」だった。私の善意は、この国の制度という名の巨大な機械にとって、単なる「ノイズ」でしかなかったのだ。

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