#8 老将軍の値踏み
王都の宮廷は、常に重厚な石造りの壁と、それに伴う空気の重さで私を包み込む。私は、その重圧の中で、今日もまた「傾聴の間」の椅子に座っていた。
リゼット・ファーンウッドの面接を終えた後、私は一連の公務をこなしていた。教会の事務処理、騎士団からの報告書の確認。それらはすべて、私が「治癒官」という肩書きを背負っていることの、冷徹な証明だった。私は、この世界で、人の心の傷を「管理」する係なのだ。
その日の午後、私は老将軍バルドウィン・グレイスの執務室に呼び出された。彼の部屋は、宮廷の他の部屋とは異なり、装飾はほとんどなく、重厚な革張りの椅子と、磨き上げられた古木の机が支配していた。部屋の隅には、戦場での傷跡を思わせるような、無骨な鎧の一部が飾られている。
バルドウィン将軍は、私を部屋の中央に座らせると、分厚い羊皮紙の束を机の上に広げた。彼は私をじっと見つめていたが、その視線は、私という個人に向けられているというよりも、私が持つ「機能」という、冷たい概念に向けられているように感じられた。
「治癒官殿」
彼の声は、長年の戦場での号令のように、低く、重く、そして一切の感情を排していた。
「お前の術とやらで、死んだ部下は帰ってくるのか」
問いは、飾り気のない、刃物のような鋭さを持っていた。私は、この問いが、単なる皮肉や試練ではないことを直感した。彼は、私の能力を、国家の「損益計算」の視点から見ている。
私は、深呼吸をした。この瞬間、私は「臨床心理士」としての私と、「女神直属治癒官」としての私、二つの役割の狭間で、最も不安定な状態にある。前世の私なら、この問いに対して、何らかの「希望」を提示しようとするだろう。しかし、今の私は、その希望を提示することが、この世界の論理を破壊することだと知っている。
「帰りません」
私は、淀みなく答えた。
部屋の空気が、一瞬、凍りついたように感じた。将軍の表情が、微かに、しかし明確に緩んだ。それは、安堵というよりも、むしろ「予想通りだ」という、一種の確認の表情だった。
彼は机に肘をつき、私の方へ身を乗り出した。その動作は、まるで獲物を定める捕食者のようだった。
「では何が変わる」
彼は、私の言葉を否定せず、次の問いを投げかけた。これは、単なる質問ではない。彼は、私の「治療」という行為が、国家という巨大なシステムに対して、どのような「価値」をもたらすのかを、私に証明させようとしている。
私は、この問いをどう解釈すべきか、一瞬迷った。彼は、私が「治す」ことによって、何を得るのかを知りたいのだ。それは、単なる個人の幸福ではない。国家の「戦力」という、最も冷たい指標に関わることだ。
私は、ゆっくりと、言葉を選んだ。
「死んだ理由を、本人が引き受けすぎなくなります」
その言葉を口にした瞬間、私は、自分の言葉が持つ重さを肌で感じた。それは、単なる「精神的な安定」という、曖昧な概念ではなかった。それは、戦場という極限状況下で、人間が自己を破壊するに至る、その「論理」を、わずかにずらすことだ。
「引き受けすぎない」――それは、責任の所在を、個人の内側から、外部へとわずかに逸らすこと。それは、彼らが「英雄」という記号に押し込めてしまおうとする、過剰な自己犠牲の構造に、微細な亀裂を入れることを意味していた。
バルドウィン将軍は、私の言葉をしばらく咀嚼するように、静かに見つめていた。彼の目は、まるで何十年も前の戦場の光景を再生しているかのようだった。彼は、私の言葉が持つ「倫理的な重さ」を理解しているようだったが、同時に、それが「実用的な価値」を持つのかどうかを測っているようにも見えた。
沈黙が、部屋を満たした。それは、単なる会話の途切れではない。それは、国家の存続に関わる、重い計算が進行している音だった。
やがて、彼は深く息を吐いた。その息は、長年の重圧を吐き出すような、疲弊した音だった。
「好きにしろ」
彼は、そう言い放った。それは、許可というよりも、一種の「免責」に近い響きを持っていた。
「ただし、結果を出せ」
その一言が、私の自由を、同時に最も厳格な鎖で縛り付けた。私は、この国の「武器」として、機能しなければならない。私の慈悲や、倫理的な動機は、この部屋の中では、単なる「ノイズ」として扱われるのだ。
私は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
私は、この「結果」という名の呪縛を受け入れた。
将軍は、立ち上がった。彼は机の前に戻り、広げられた羊皮紙に視線を落とした。そして、まるで独り言のように、しかし、部屋の静寂を切り裂くように、呟いた。
「英雄というのは、便利な言葉だ」
彼は、ペンを手に取り、その紙の上を、ゆっくりと撫でた。
「あれを付けると、人を数に数えなくて済む」
その言葉は、私に向けられたものでも、誰に向けられたものでもない。それは、この世界の構造そのものに対する、冷めた、そして深い諦念の表明だった。
私は、その言葉を聞きながら、自分が今、この国の「システム」の歯車の一つとして組み込まれてしまったことを悟った。私は、傷を癒すために来たはずだった。だが、私は、この国の「沈黙」という名の、最も強固な防衛機構を、維持するための、新たな「管理官」として選ばれたのだ。
執務室を出る際、私は、自分の足の裏が、石畳の冷たさを感じていた。それは、宮廷の重厚な空気とは違う、研ぎ澄まされた、研ぎ澄まされた「現実」の感触だった。
私は、この「結果」という名の重荷を、背負って、次の案件へと向かうしかなかった。




