#7 まだ戦っていない子
王都の宮廷は、常に重厚な石造りの壁と、それに伴う空気の重さで私を包み込む。私は、その重圧の中で、今日もまた「傾聴の間」の椅子に座っていた。
今日の相手は、リゼット・ファーンウッド。次期勇者候補として、王国の未来を担うと謳われている少女だ。彼女は、この世界の「希望」という名の、最も磨き上げられたガラス細工のような存在だった。
彼女が部屋に入ってきたとき、私は一瞬、息を詰めた。彼女の纏う空気は、他の患者たちとは質が違った。騎士ダグの、戦場での泥と汗と、それに伴う激しい怒りの残滓。あるいは、ガレスのような、長年の沈黙と、それに伴う乾いた痛みの匂い。それらは、すべて「重さ」を持っていた。
しかし、リゼットの周りには、重さがなかった。
彼女は、まだ「薄い」のだ。
私は、彼女の魂の輪郭を、目に見えない形で感じ取ろうとした。それは、前世の訓練や、この世界で得た知識というよりも、むしろ、私自身の内側にある、あの澱んだ罪悪感――ハルトを抱えたままにしてきた、あの重荷が、彼女の周りの空気を微かに歪ませるのを感じるような、そんな感覚だった。
彼女の祝福は確かに存在している。それは、彼女が戦場で受けたであろう、小さな恐怖や、予期せぬ危機に対する反応が、魂に刻まれ、力として変換されている証拠だ。だが、その「刻まれたもの」の密度が、他の者たちと比べてあまりにも希薄だった。
「初めまして、治癒官殿」
彼女は、礼儀正しく、しかしどこかぎこちなく頭を下げた。その仕草は、完璧に訓練された貴族のそれでありながら、その奥底には、まだ「本能」が勝っているような、微かな震えがあった。
私は、彼女の前に座り、静かに待った。私の技術は、まず「待つ」こと。相手が、自分の言葉で、自分のペースで、世界を再構築するのを待つこと。
「どうぞ、お話しください。何が、あなたをここに連れてきたのでしょう」
彼女は、しばらく私の目を見つめた後、小さく息を吐いた。その息は、まるで張り詰めた糸が、ようやく緩んだ瞬間の音のようだった。
「私、強くなりたいんです」
その言葉は、あまりにも純粋で、あまりにも無垢だった。それは、私を最も苛立たせる、そして最も恐れさせる響きだった。
「強くなる、ですか」私は、努めて平坦な声を出した。
「はい。私は、次期勇者候補として、王国の期待を背負っています。でも、時々、自分が、この重荷を背負う資格があるのか、わからなくなってしまうんです」
彼女は、自分の胸元をそっと押さえた。その仕草は、まるで、内側から何かが押し出そうとしているかのような、微細な痙攣を伴っていた。
私は、彼女の「傷」の輪郭を再度辿った。薄い。本当に薄い。
もし、彼女が私に「傷」を語り始めたとしたら、それは、彼女が「何かを失う」ことを選ぶ準備ができていない証拠だ。彼女の魂は、まだ「無傷」という幻想を維持しようと必死に抵抗している。
「具体的に、どのようなことが、あなたを不安にさせるのでしょうか」私は尋ねた。
彼女は、言葉を探した。その瞳の奥で、何かが激しく揺れているのが見えた。それは、恐怖というよりも、むしろ「自己否定」に近い、もっと根源的な不安だった。
「戦場でのこと、ですか? 私は、戦場そのものが怖いわけではないんです。怖いのは……私が、その戦場にいる自分自身なんです」
彼女は、言葉を詰まらせた。その沈黙は、私にとって、何よりも雄弁な証言だった。彼女は、自分の存在そのものが、この世界の「強さ」の定義に適合していないのではないかと恐れている。
私は、彼女の言葉を、ただ受け止めた。私は、彼女の言葉を「訳さなかった」。彼女が「自分自身が怖い」と言ったなら、私はそれを「自分自身が怖い」として、そのまま受け止めた。
この「傾聴」という行為が、彼女の魂に、微かな波紋を広げているのを感じた。彼女の呼吸が、わずかに深くなった。
私は、このまま、彼女が自ら、その「薄さ」の理由を語り尽くすのを待つつもりだった。それが、私の「手順」だった。
しかし、彼女は、私の沈黙を、ある種の「無関心」だと誤解したのかもしれない。あるいは、彼女の心の防衛機構が、次の段階へと移行したのかもしれない。
彼女は、突然、顔を上げた。その表情は、先ほどまでの怯えとは全く違う、ある種の諦念を含んでいた。
「先生」
彼女は、私を真っ直ぐに見据えた。その視線は、まるで、私という存在を、試しているかのようだった。
「私、いつになったら強くなれますか」
その問いは、あまりにも直接的で、あまりにも切実だった。それは、私に「答え」を要求している。
私は、喉の奥で、乾いた音を立てた。
答えなければならない。この場で、彼女の問いに答えるか、それとも、この「傾聴の間」という名の檻の中で、彼女が自ら答えを見つけ出すのを待つか。
もし、私が「頑張れば強くなれます」と答えたとしたら、それは彼女の「傷」を無視した、空虚な励ましに過ぎない。それは、彼女の魂の輪郭を、さらに薄くしてしまう行為だ。
もし、私が「あなたは、まだ十分に傷ついていないから、強くなれないのです」と答えたとしたら、それは、彼女の存在そのものを否定することになる。
私は、この二つの選択肢の間に立ち尽くした。
私の内側で、前世の記憶が、津波のように押し寄せてきた。ハルト。あの時、彼が私に尋ねた「先生は、誰に話すんですか」。私は、彼に「大丈夫です」と答えた。それは、彼が「話す」という行為そのものを、無意味化しようとする、私自身の防衛反応だった。私は、彼が「話す」ことを許さなかった。
私は、あの時、彼が「誰に話すか」を問うたとき、彼が求めていたのは、単なる「答え」ではなかったのだ。彼は、私に「誰か」という、外部の参照点を与えてほしかった。
リゼットの問いは、その鏡像だった。彼女は、私に「誰か」を求めている。彼女は、この「傾聴の間」という、私自身が作り上げた、安全な空間の外側にある、誰かという存在を求めている。
私は、彼女の問いを、受け止めることができなかった。
私は、彼女の「強さ」という概念が、この世界の「祝福」という仕組みと、私自身の「見立て」という、二つの原理的な矛盾の上に成り立っていることを、この瞬間、痛感した。
私は、彼女の問いに、答えられなかった。
私は、ただ、その沈黙を、彼女の前に置いた。それは、私自身の、最も大きな「加害」だったのかもしれない。




