#5 治せば、弱くなる
隊長の怒りは、部屋の空気を一瞬で凍らせた。
「治癒官殿!一体どういうことだ!あの騎士は、昨日まで戦力だったはずだぞ!今日、盾を持ち上げられないだと?一体、何が起こったんだ!」
隊長は、私に向かって、まるで私個人を糾弾するかのように、声を荒げた。彼の顔は、怒りで真っ赤に染まり、その目には、私という存在に対する、明確な「不満」が浮かんでいた。彼は、私を「治療者」としてではなく、「機能の回復を担う機械」としてしか見ていなかった。
私は、彼の激昂を、静かに受け止めた。私は、彼が感情を爆発させることを、予期していた。この世界では、感情の爆発こそが、彼らの「強さ」の証明だと信じられているのだから。
「ダグさんは、一時的に、その力を失ったようです」私は、努めて平坦な声で答えた。
「一時的だと?そんな馬鹿な!彼は、我々の部隊にとって、不可欠な存在だ!貴様、何をしたんだ!」
彼は、私を「何をしたのか」という、行為の責任に引きずり込もうとしていた。彼は、私を、戦力という「資産」を管理する者として認識している。
私は、彼の言葉を遮らずに、ただ、彼の怒りの波を、受け止めた。私は、彼が私に責任を押し付けようとしていることを理解していた。だが、私は、その責任を負うつもりはなかった。私は、ただ、目の前の現象を、観察し、記録する立場なのだから。
「私は、彼の、魂に刻まれた、処理されていない記憶に触れただけです。それが、一時的に、彼の身体の機能に影響を及ぼしたのでしょう」
私は、できる限り、専門的で、客観的な言葉を選んだ。この世界では、「魂」という言葉は、単なる比喩ではなく、物理的な実体として扱われる。
隊長は、私の言葉を理解できなかったようだった。彼は、私を「曖昧な言葉で事態を矮小化しようとする、無能な者」として見なしたのだろう。
「影響だと?そんな曖昧な言葉で済ませるな!我々は、戦力が必要なんだ!貴様は、我々の武器を、一本減らしたんだぞ!」
彼の言葉は、私に対する非難であり、同時に、この国の価値観そのものの表明だった。**「武器」**。英雄は、国家の防衛を担う、動く兵器なのだ。
私は、彼の言葉を、静かに受け止めた。私は、彼が私に突きつけている「価値観」を、そのまま受け取った。
私は、この瞬間、自分が直面している現実の、冷たい輪郭を、はっきりと認識した。
私は、彼を「治した」。彼は、安らかに眠り、一時的に、その苦痛から解放された。だが、その代償として、彼は、その「力」を失った。
私は、この国の、最も根源的な矛盾を、目の前で体現してしまったのだ。
私は、この矛盾を、誰かに説明しなければならない。この世界で、この現象を理解できるのは、私だけだ。
私は、その夜、宮廷の静かな一室を借りて、女神ミレイアを呼んだ。
「女神様」私は、静かに、しかし、強い意志を持って問いかけた。「この国の仕組みは、どうなっているのですか。祝福は、一体、何によって維持されているのですか」
ミレイアは、祭壇の光の中で、静かに私を見つめていた。彼女の表情には、申し訳なさの色が濃く浮かんでいた。
「涼子。あなたは、その核心に触れようとしている」
私は、躊躇しなかった。私は、この「仕組み」を知らなければ、この世界で生きる意味を見出せないと感じていた。
「祝福は、戦場で受けた恐怖と苦痛の記憶を、心が処理する代わりに、そのまま『力』へ変換する加護だと、私は理解しました。それは、戦場という極限状態での、魂の防衛反応のようなものだと、私は推測しています」
ミレイアは、静かに頷いた。
「その推測は、正しい。祝福は、苦痛を燃料として、力を生み出す。それは、この世界の、最も強固な法則だ」
私は、息を呑んだ。私の推測が、単なる「勘」ではなく、この世界の根幹をなす「法則」だったのだ。
「では、その燃料は、どこへ行くのですか。処理されなかった分は、どうなるのですか」私は、核心を突いた。
ミレイアは、その問いに、一瞬、言葉を詰まらせた。彼女の顔に、微かな動揺が走った。
「……それは、処理されなかった記憶が、そのまま魂に蓄積される。それが、力となる。そして、処理された記憶は……」
彼女は、言葉を濁した。
「処理された記憶は、力から解放される。それは、祝福の喪失を意味する。つまり、治癒とは、燃料の枯渇を意味する」
その瞬間、私の頭の中で、何かがカチリと音を立てて嵌まった。
**治癒と戦力は、原理的に両立しない。**
私の仕事は、この国の、最も重要な「武器」を、一本ずつ減らしていく仕事なのだ。
私は、その事実を、全身で受け止めた。それは、私がこれまで信じてきた「助け」という概念の、完全な否定だった。
「私の仕事は、この国の武器を一本ずつ減らしていく仕事だ」
私は、そう呟いた。それは、自らに言い聞かせる言葉であり、同時に、この世界に対する、私の最初の、そして最も残酷な宣言だった。
その夜。私は、自室の小さな机に向かい、ダグの記録を眺めていた。彼の呼吸は安定していた。彼は、安らかに眠っている。だが、その安らぎは、彼の「力」の喪失と、同義だった。
私は、この事実を、誰にも話すことができなかった。誰に話せば、この世界が、私を「異端者」として排除するのだろうか。
その夜、ダグが、私の部屋を訪ねてきた。彼は、以前のような、焦燥に駆られた様子ではなかった。彼の足取りは、重く、しかし、静かだった。
彼は、私の前に立ち、その小さな体を震わせながら、口を開いた。
「先生……」
私は、彼が何を言うのか、予測していた。彼は、この「代償」について、何かを尋ねてくるのだろう。
「元に戻せますか」
その問いは、あまりにもシンプルで、あまりにも重かった。それは、彼が、自分の「強さ」を、再び取り戻したいという、本能的な叫びだった。
私は、彼を見つめた。彼の瞳には、恐怖の色はない。あるのは、ただ、諦めと、微かな希望の残滓だけだった。
私は、嘘をつくことはできなかった。前世で、ハルトに対して、私は「大丈夫だ」と、都合の良い嘘をついた。その嘘が、彼を死へと導いたかもしれない。私は、その過ちを、この世界で、二度と繰り返すわけにはいかなかった。
私は、ゆっくりと、首を横に振った。
「戻せません」
その言葉は、私の人生において、最も重い、沈黙の重さを持っていた。
ダグは、私の返答を聞いても、激しく動揺しなかった。彼は、私の言葉を、まるで予期していたかのように受け入れた。彼は、私を責めなかった。
彼は、長く、長く、沈黙した。その沈黙は、先ほどまで私を襲った隊長の怒りとは全く異質だった。それは、深い湖底のような、静かで、底知れない沈黙だった。彼は、自分の「強さ」が、単なる「記憶の蓄積」という、脆い土台の上に成り立っていたことを、理解したのだ。
そして、彼は、震える声で、たった一つの言葉を紡ぎ出した。
「眠れるほうが、いいです」
その声は、微かに震えていた。それは、抵抗の震えではなく、疲弊しきった魂が発する、微かな震えだった。
私は、その言葉を聞き、全身の力が抜けるのを感じた。私は、彼を「治した」のではなく、彼から「何か」を奪い取ったのだ。そして、その代償として、彼は、自らの「強さ」を、自ら手放したのだ。
私は、彼が去っていく背中を、ただ見つめることしかできなかった。私は、この国の、最も残酷な真実を、自らの手で、証明してしまったのだ。




