#4 よく眠れた朝に
王都の喧騒から離れた、療養所の静かな一角。そこは、教会の庇護の下に設けられた「傾聴の間」だった。壁は淡いクリーム色で塗られ、窓からは庭の緑がぼんやりと見えている。私は、この部屋の隅に、小さな木製の椅子を配置した。
「どうぞ、お座りください」
私は、声を抑え、丁寧に促した。
そこに現れたのは、若い騎士ダグだった。彼は、まだ二十代前半に見える。制服は着ているものの、その肩の力が抜けている様子は、戦場にいる兵士とは全く異なっていた。彼は、私を見ても、すぐに視線を逸らし、床の模様を数え始めた。
「ダグさん、ですか」私は、彼の名を呼んだ。
彼は、小さく頷いた。その動作は、まるで重力に逆らっているかのように、微かに震えていた。
「3か月ほど、眠れないのです」彼は、絞り出すように言った。その声は、掠れていて、まるで喉の奥で何かが詰まっているようだった。
「眠れない、というのは、具体的にどのような状態でしょうか」私は尋ねた。
彼は、言葉を詰まらせた。彼の瞳の奥には、激しい焦燥と、それを押し殺そうとする必死さが渦巻いているのが、私の「目」には見えていた。それは、彼の魂の表面に刻まれた、細く、しかし鋭い、波打つような輪郭だった。
「考えが、止まらないんです。戦場でのこと、部下を庇えなかったこと、あの時の匂いとか、血の感触とか……全部が、頭の中で再生される。夜になれば、それはまるで、今起きているかのように……」
彼は、言葉を続けるうちに、呼吸が浅くなり始めた。彼の胸郭が、浅く、速く上下している。私は、彼の呼吸のパターンを、無意識に数え始めた。規則的ではない。途切れ途切れだ。
私は、彼が語り終えるのを待った。決して、途中で遮らない。それが、この部屋の、唯一のルールだった。
沈黙が訪れた。ダグは、息を荒げながら、ただ私を見つめている。彼の視線は、私を試しているようにも見えたが、同時に、助けを求めているようにも見えた。
私は、ゆっくりと口を開いた。
「ダグさん。まず、お話しくださって、ありがとうございます」
彼は、その言葉に、微かに身を強張らせた。
「あなたに起きていることには、名前があります」私は続けた。
彼は、目を見開いた。その反応は、予想していたものよりも遥かに大きかった。
「名前……?」
「はい。それは、あなたが弱いから起きていることではありません。あなたの魂が、戦場で受けた、非常に大きな負荷を、処理しきれていないために起こっている現象です」
私は、専門用語を避けた。この世界では、そうした概念は「呪い」や「信仰の欠落」として処理されてきた。だから、私は、この世界で通用する、最も穏やかな言葉を選んだ。
「それは、あなたのせいではない。あなたが、悪かったわけではない」
その言葉が、彼の張り詰めていた糸を、一瞬で緩ませた。
ダグの顔から、張り詰めた緊張が、まるで水が抜けるように消えていった。彼は、その場で崩れ落ちそうになり、両手で膝を抱えた。そして、堰を切ったように、嗚咽を漏らし始めた。
「嘘だ……そんな……」
彼は、泣き始めた。それは、戦場での恐怖からくる叫びではなく、長きにわたり、自分自身に課してきた「強さ」という名の重荷が、ついに崩壊した音だった。
私は、ただ、その泣き声を、静かに受け止めた。私は、彼が泣くことを、予測していた。だが、その感情の奔流の大きさに、私は少しだけ、息を詰めた。
私は、彼が泣き止むのを待った。そして、彼の呼吸が、少しずつ安定してくるのを感じ取った。
「ダグさん。大丈夫です。泣いてもいい。ここで、誰にも責められません」
私は、彼が泣き止むのを待った後、そっと尋ねた。
「もしよろしければ、今、一番強く記憶に残っている、その『匂い』について、少しだけお話しいただけますか。安全な場所で、少しだけ、その記憶を、私に教えていただけませんか」
私は、段階的な想起を提案した。一度に全てを出すのではなく、安全な場所で、本人が主導権を持って、少しずつ言語化していく。
彼は、顔を上げることができなかった。しかし、彼の肩が、微かに震え始めた。
「……匂い、ですか」
「はい。例えば、土の匂い、鉄の匂い、あるいは、誰かの香水の匂いでも構いません。あなたが、今、安全なこの部屋で、その匂いを、少しだけ思い出してくださってもいいのです」
私は、彼に「中断する権利」があることを、何度も、静かに伝えた。
彼は、しばらく沈黙した後、震える指先で、何かを掻き集めるように、空中に手を動かした。
「……鉄……」
その一言が、彼の口から出た瞬間、彼の瞳の奥にあった、激しい炎のようなものが、わずかに鎮まったように見えた。
「鉄の匂い、ですか。それは、どのような鉄の匂いでしょうか。錆びた鉄ですか? それとも、血の鉄ですか?」私は、問いを細かく分けた。
彼は、その問いに答えることができず、再び嗚咽を漏らした。だが、その嗚咽は、先ほどまでのパニックのようなものではなく、むしろ、深い疲労からくる、静かな消耗の音に変わっていた。
私は、その小さな進展を、丁寧に、記録した。
数回の、非常にゆっくりとした「想起」のやり取りを重ねた。私は、彼が安全だと感じられる範囲で、彼の記憶の断片を、そっと引き出していった。それは、まるで、水底から、壊れやすいガラス細工を掬い上げるような、慎重な作業だった。
そして、その日の午後。ダグは、初めて、深く、規則正しい呼吸を繰り返していた。彼は、私の前で、静かに目を閉じていた。
「……7時間、眠れました」彼は、掠れた声で呟いた。
私は、その言葉を聞き、胸の奥が、奇妙な熱を帯びるのを感じた。それは、安堵感というよりも、何かが「動いた」という、物理的な感覚に近いものだった。
私は、彼が安らかに眠っている姿を、しばらく見つめていた。
その時、私の意識の端で、遠い、別の記憶がフラッシュバックした。
ハルト。
前世の記憶。私の担当していた元自衛官、ハルト。彼は、私に「先生は、誰に話すんですか」と尋ねた。私は、その問いに対して、何と答えたのだろうか。私は、彼が抱える重荷を、自分の「理解」という名の枠組みで覆い隠そうとした。私は、彼が話す前に、私が「大丈夫だ」と、話題を変えてしまった。
ハルトも、一度だけ、「眠れました」と、笑ったことがあった。その笑顔が、今、ダグの安らかな寝顔と、奇妙に重なって見えた。
私は、その二つの光景を、同時に抱えていた。
ダグは、安らかに眠っている。彼の祝福は、一時的に、しかし確実に薄れていた。
私は、この成功を、誰にも共有できないことを知っていた。この成功は、私自身の、内側で何かが軋む音を立てていた。
***
翌朝、私は「傾聴の間」を早く開けた。
ダグに、経過を聞くつもりだった。初回の想起の後は、必ず翌日に確認する。眠れた翌朝ほど、揺り返しが来ることがある。前世で、私はそれを何度も見ていた。
彼は、来なかった。
昼を過ぎて、私は厩舎の脇の練兵場へ行った。
彼はそこにいた。仲間に囲まれて、地面に膝をついていた。
目の前に、盾が置かれていた。
彼は、両手でその縁を掴んでいた。腕に力が入っている。首の筋が浮いている。顔が赤い。
盾は、動いていなかった。
彼の腕は、鍛えられている。祝福がなくとも、あの程度の重さを持てないはずがない。私は、そう思った。思いながら、自分の中の何かが、急速に冷えていくのを感じた。
「治癒官殿」
誰かが、私に気づいた。
ダグが、顔を上げた。
彼は、私を見て、笑おうとした。笑おうとして、うまくいかなかった。
「……先生」
彼の声は、朝の光の中で、妙に子どもじみて聞こえた。
「昨日、7時間、眠れたんです」
「はい」
「よく、眠れたんです」
彼は、また盾を掴んだ。
「なんで、持てないんですか」
***
私は、答えられなかった。
この世界に来てから、私は渡された記録を、読めるかぎり読んだ。祝福について。英雄崩れについて。名簿に押された処理済の印について。
そのどこにも、書いていなかった。
治療の翌朝に何が起きるかを、この国の誰も、一度も記録していなかった。
私が、最初だった。




