#3 剣を置いた男
王都の喧騒から外れた、郊外の石畳の道は、静寂を纏っていた。空気は湿り気を帯びていて、遠くの森の匂いが混じっている。私は、ミレイアから渡された名簿を握りしめながら、その隠遁先の門の前に立っていた。ガレス・ドナヴァン。討伐パーティの剣士。彼の名前は、名簿の中で、他の英雄たちと同じように、淡々と記されていた。
「隠遁先」という言葉は、この世界では一種の婉曲表現なのだろう。彼らは戦場から遠ざけられ、静かに「管理」されている。
門は古く、苔むしていた。衛兵らしき人物は姿を見せず、ただ、石造りの重厚な門扉が、私を拒絶するかのように立ちはだかっている。私は、彼らに許可を求めるような仕草はしなかった。私は「治癒官」として、ここにいるのだ。
門の脇に設けられた、低い石段に、私はそっと腰を下ろした。靴の裏が、冷たい石の感触を伝える。私は、彼が私を拒絶するだろうと予想していた。この世界で、傷ついた英雄が、他者の介入を歓迎するはずがない。
しばらくして、重い扉が軋む音を立てて開いた。
ガレスが姿を現した。彼は、想像していたよりもずっと痩せて見えた。鍛え上げられた肉体は、隠遁生活のせいで、どこか弛緩しているように見えた。彼の顔には、深い疲労の色が滲んでいたが、その眼差しは、驚くほど研ぎ澄まされていた。それは、戦場で見せる鋭さとは違う、内側から湧き出る、冷たい警戒の色だった。
彼は私をまっすぐに見据えた。その視線は、私という存在を、査定し、分類し、そして排除しようとしているように感じられた。
「何だ」
彼の声は低く、乾いていた。感情の起伏がほとんどない、単なる事実を述べるような響きだった。
私は立ち上がらなかった。石段に座ったまま、彼を見上げた。
「早瀬涼子です。治癒官殿です」
私は、彼に近づこうとはしなかった。距離を取ること。それが、この状況における、唯一の礼儀だと直感したからだ。
ガレスは、私の言葉を一度だけ聞き、それからゆっくりと、しかし有無を言わせぬ力で、門を閉めようとした。
「用件を言え。無駄な時間は持たない」
私は、彼の動きを静かに見つめた。彼は私を追い出そうとしている。それは、彼なりの防衛線だ。私は、その防衛線を、物理的に突破しようとはしなかった。
「私は、あなたの状態について、お話を伺いに参りました」
「状態、だと?」彼は鼻で笑った。その笑いは、嘲笑というよりも、諦めにも似た響きを持っていた。
私は、彼が私を拒絶していることを理解していた。だが、私は彼を追い払うつもりはなかった。私は、彼が私を拒絶するその行為そのものを、観察対象として受け入れるつもりだった。
私は、石段に座り直した。そして、沈黙した。
1分。2分。3分。
彼の呼吸が、わずかに速くなるのが分かった。彼は、私がただ座っているだけだと感じているのだろう。彼は、私が何かを要求している、あるいは、何かを強要しようとしているのだと警戒している。
私は、彼の視線を受け止め続けた。彼の視線は、私を分析しようとしている。私の服装、私の態度、私の存在そのものを、戦場における「敵」として評価しようとしている。
私は、彼が何かを話すのを待った。
沈黙は、重かった。それは、単なる「会話がない」という状態ではない。それは、二つの異なる世界観が、互いの存在を認め合えないまま、張り詰めた糸のようにぶつかり合っている状態だった。
私は、彼の傷の輪郭を、視覚的に捉えていた。それは、私の「目」が捉える、この世界の特異な現象だ。彼の魂の表面に刻まれた、古く、深く、そして乾ききっていない、微かな波紋。それは、彼が抱える苦痛が、まだ「処理」されていない証拠だった。
私は、それを「自分の観察眼」だと信じ込もうとした。前世の訓練、心理学の知識、それらがこの異世界で、何らかの形で「見える」力として発現しているのだと。だが、その確信は、常に脆いガラス細工のようだった。
20分が過ぎた頃、ガレスは、苛立ちを隠そうともせず、苛立ちを露わにした。彼は、私を「無能な介入者」として見下している。
「時間の無駄だ。お前のような者が、何ができる」
彼は、私を値踏みするように見下ろした。その言葉には、明確な侮蔑が含まれていた。
私は、彼の言葉をそのまま受け止めた。反論はしなかった。
「私は、あなたの話を聞くためにここにいます」
「話すことなど、ない」彼は続けた。「俺は、もう話すものなどない。全ては、終わった」
「終わった、と。それは、あなた自身が決めたことですか」
この問いは、彼を動揺させた。彼は、その問いに対して、一瞬、言葉を探しているように見えた。だが、すぐにその表情を硬くした。
「俺の勝手だ。俺の人生だ」
私は、彼の言葉を否定しなかった。ただ、その言葉の背後にある、何かを押し殺している気配を感じ取った。
さらに時間が流れた。私は、彼が私を拒絶するその行為を、静かに受け入れ続けた。私は、彼が私に何かを語ることを強要しなかった。ただ、そこに「いる」ことだけを続けた。
そして、約1時間が経過した頃、ガレスは、まるで何かに耐えきれなくなったかのように、深く息を吐いた。彼は、私から視線を外し、遠くの石垣を見つめた。
「女神は、何人よこせば気が済むんだ」
その言葉は、突然、静寂を切り裂いた。それは、私に向けられた問いかけというよりも、世界そのものに向けられた、深い不満の吐露だった。
私は、その言葉に、全身の血が冷たくなるのを感じた。
「女神……?」
私は、思わず声を漏らした。
ガレスは、私の反応を見て、わずかに目を見開いたが、すぐにその表情を元に戻した。彼は、私がその言葉の重みを理解したことを察したのだろう。
「ああ。治癒官どもは、何人か送られてきた。お前も、その一人だろう」
彼は、私を「治癒官」という記号でしか見ていない。私個人の存在を、彼の警戒システムは認識していないのだ。
「以前にも、誰かが……」私は、言葉を探した。この世界では、誰かが「治癒」を試み、そして失敗した、という記録が、この種の英雄たちの間で暗黙の了解として存在しているのだろう。
ガレスは、私の言葉を遮り、さらに低い声で続けた。その声は、まるで秘密を漏らすかのように、周囲の静寂を破った。
「だが、一つだけは言っておく。俺の領域に踏み込むな。特に、あの男の名前を出すな」
彼は、私を鋭く見据えた。その眼差しは、もはや警戒というよりも、警告に近い。
「アルフレートの名前を出したら、二度と来るな」
その名前。アルフレート。私は、その名前を聞いた瞬間、全身の力が抜けるのを感じた。
私は、ミレイアから渡された名簿を、再び思い出した。アルフレート・ファーンウッド。2年前の記録。あの、妙に丁寧に書かれた「病死」という一文。
私は、何も言わなかった。ただ、その名前を、心の中で反芻した。
「……承知しました」
私は、静かに答えた。それは、彼の命令に対する服従であり、同時に、私自身の内側で、何かが決定的に動いた瞬間でもあった。
私は、石段から立ち上がった。彼の視線が、私を追っているのが分かった。彼は、私が去ることを許していないようだったが、私には、彼を留める術はなかった。
「お気をつけて」
私は、そう言って、門を背に歩き始めた。背中越しに、彼の視線が、私を追いかけているのを感じた。
私は、この一回の訪問で、彼が抱える傷の輪郭を、より深く、より鮮明に感じ取った。それは、単なる「不眠」や「易怒」といった症状ではなかった。それは、国家という巨大なシステムが、ある個人の「記憶」を、意図的に、そして丁寧に、抹消しようとする、その行為そのものだった。
私は、彼が私に突きつけた「警告」を、重く受け止めた。アルフレート。その名前が、私の胸の奥底で、静かに、しかし確実に、何かのスイッチを入れたような気がした。
私は、この国の「沈黙」の、最も深い層に、触れてしまったのだ。




