#2 語られなかったものが、力になる
ミレイアは、私の最初の「観察」を終えた私を、宮殿の奥深くにある、静謐な執務室へと案内した。そこは、先ほど見た教会の簡素な部屋とは対照的に、重厚な木材と、磨き上げられた真鍮の装飾が支配する空間だった。彼女は、私を中央の大きな机の前に座らせると、静かに身を屈めた。
「君の『目』は、鋭い。だが、それはこの世界の理を知らないままの鋭さだ」
彼女はそう言うと、机の上に一枚の羊皮紙を滑らせた。それは、この王国における「英雄」たちの記録簿だった。
「君が直面する問題は、単なる精神的な不調ではない。それは、この世界の根幹に関わる、構造的な病だ」
私は、その羊皮紙を手に取った。羊皮紙は、古く、そして奇妙なほどに丁寧に扱われている。そこには、数えきれないほどの名前が並んでいた。騎士、戦士、魔術師、そして勇者。彼らの功績、そしてその後の「状態」が記されている。
「祝福」という言葉を、彼女はもう一度口にした。
「君は、それが単なる『加護』だと理解しているようだが、それは表層的な理解だ。祝福とは、戦場で受けた恐怖と苦痛、極限の緊張状態そのものを、魂が処理する代わりに、そのまま『力』へと変換し続ける加護なのだ」
私は、その説明を、前世で学んだ知識と照らし合わせながら、静かに受け止めた。それは、一種の極端な自己犠牲のシステムだ。苦痛を「燃料」として利用する、壮大な、そして残酷な設計図。
「つまり、彼らは戦うことで、自分たちの存在意義を証明し、同時に、自分たちの精神を摩耗させている、と」私は、言葉を選びながら尋ねた。
ミレイアは、私の言葉を遮らなかった。彼女は、私がその概念を咀嚼するのを待っていた。
「その通り。彼らの魂は、常に戦場という名の炉の中で燃焼し続けている。その炎が、彼らの力なのだ」
私は、その仕組みの矛盾点に、本能的な違和感を覚えた。
「では、その燃料、つまり『処理されなかった記憶』は、どこへ行くのですか。燃焼し続けるのであれば、どこかで蓄積されるはずです。あるいは、何らかの形で排出されるはずですが」
私の問いは、あまりにも素朴で、あまりにも根本的だった。それは、この世界の「祝福」という現象を、単なる魔法的な恩恵としてではなく、一種の物理法則として捉えようとする、私の前世の科学的な思考の残滓だった。
ミレイアの表情が、初めてわずかに揺らいだ。彼女は、私の問いをしばらく見つめた後、深く息を吐いた。
「誰も、その問いを尋ねたことがない。だから、誰も答えを知らない」
その言葉は、私にとって、何よりも重い重荷となった。誰も尋ねていない。誰も、このシステムの「廃棄物」について考えたことがない。
「処理されなかった分は、どこへ行くのですか」私は、もう一度、問い直した。
ミレイアは、その問いに対して、明確な答えを出すことを拒んだ。彼女は、ただ静かに、その記録簿を指差した。
「君が、この国の『英雄崩れ』の記録を、見てほしい」
私は、その羊皮紙に視線を落とした。そこには、数えきれないほどの「処理済」の印が押された記録が並んでいた。
「処理済」――その言葉が、私の胸に冷たい棘を刺した。
私は、その記録を辿り始めた。それは、治癒を意味するものではなかった。それは、国家がその存在を「無効化」したことを意味していた。除隊。記録からの抹消。彼らは、病気で死んだわけではない。ただ、国家の都合で、存在を消されたのだ。
「これは、治癒ではない」私は、静かに断言した。
ミレイアは、その指摘を静かに受け入れた。
「君の理解は正しい。治癒官の職掌は、彼らを『使える状態』に保つこと。完全な回復は、この国のシステムにおいては、一種の『機能停止』を意味する」
私は、その冷徹な論理を、全身で受け止めた。
「では、この『処理済』の記録の中で、特に目につくものはありませんか」私は、努めて感情を抑えながら尋ねた。
ミレイアは、私の視線が羊皮紙の特定の箇所に釘付けになっているのを察したのだろう。彼女は、そっと指を動かし、ある一箇所を指し示した。
「勇者アルフレート・ファーンウッド。2年前の記録だ」
私は、その名前を見つけた。アルフレート。魔王討伐の英雄の一人。
私は、その記録の「死因」の欄に目を落とした。そこには、他の多くの記録と同じ、簡潔な文字が記されていた。
『旧傷の悪化による病死』。
私は、その一行を、他の記録と比べた。他の記録は、事務的で、機械的で、感情を一切含まない。しかし、アルフレートの記録だけは、妙に丁寧だった。筆圧が均一で、文字の形が、他の記録よりもわずかに、しかし決定的に、丁寧に整えられていた。
まるで、誰かが、この「病死」という言葉を、慎重に、何度も練り上げて書いたかのように。
私は、その一文を、指先でそっと撫でた。
「なぜ、この記録だけが、他のものと違うのですか」私は、尋ねた。
ミレイアは、その問いに答えず、ただ私を見つめた。その瞳の奥には、深い疲労と、ある種の諦念が宿っているように見えた。
「君が、この国の『沈黙』の重さを、これから知ることになる」
私は、その羊皮紙を握りしめた。この国の英雄たちは、力を持つために、語ることを禁じられている。そして、その沈黙こそが、彼らの力を支えている。
私は、この世界で、誰かの「沈黙」を、どう扱うことになるのだろうか。




