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#1 女神は、壊れた者を選んだ

目を開けた瞬間、私は自分がどこにいるのかを理解できなかった。


視界を埋め尽くしていたのは、白く、しかしどこか重苦しい光だった。肌理細やかな大理石の床、天井から降り注ぐように配置された、しかしどこか人工的な光の筋。そして、その光の中心に、私はいた。


祭壇。


それは、私が知るどの宗教的な空間とも異なっていた。荘厳でありながら、どこか事務的で、まるで巨大な研究室のようにも見えた。私の身体は、見慣れない、しかし極めて健康的な肉体の中に収まっていた。30歳。私の記憶と、この肉体の外見年齢は一致していた。


「早瀬涼子」


静かで、しかし有無を言わせぬ響きを持つ声が、空間を満たした。私はゆっくりと顔を上げ、その声の主を見た。


彼女は、神話的な美しさを持っていた。光そのものが形を成しているかのような、透明感のある肌。長い髪は、光を吸い込むように深い青を帯びていた。彼女は私に向かって微笑んでいたが、その微笑みは、慈愛というよりも、むしろ「必要な道具を手に取った」という、ある種の静かな満足感を帯びていた。


「ミレイア……?」


私は、自分がこの世界で呼ばれる名前を、反射的に口にした。


「そう。私はミレイア。この世界の理を司る者だ」


彼女はゆっくりと祭壇から降りてきた。その一歩一歩が、この空間の重力を変えているように感じられた。


「あなたは、死んだ」


彼女は淡々と告げた。私は、自分が日本の駅のホームで、くも膜下出血で倒れた記憶を鮮明に思い出した。あの、冷たいコンクリートの感触。そして、あの、誰にも話せないという、あの絶望的な孤独。


「私の魂を、この世界に掬い上げた。肉体ごと、この器に収めた。なぜなら、この世界には、あなたのような『目』が必要だからだ」


私は息を詰めた。目。私の専門は、人の内側にある、言葉にならない傷を見ることだった。


「英雄崩れ」という言葉が、彼女の口から滑り落ちた。


「魔王討伐から4年が経った。このアルデシア王国は、表向きは平和だ。だが、その屋台骨は静かに蝕まれている。英雄たちが、崩れ始めている」


彼女は、私の目の前に、この世界の現状を象徴するかのような、重い沈黙を置いた。


「彼らは戦場で受けた恐怖と苦痛を、処理せずに魂に溜め込む。それが『祝福』という形で力となって発現する。だが、その記憶が処理されずに溜まり続けることは、彼らの精神を内側から腐らせる。それが『英雄崩れ』だ」


私は、その説明をただ受け止めていた。私の前世の知識――複雑性トラウマ、PTSD、解離――が、この世界の現象と奇妙に重なり合っている。だが、この世界には「トラウマ」という言葉はない。あるのは「祝福」と「記憶の変換」という、物理的な法則のようなものだ。


「私は、あなたに『女神直属治癒官』の位を与える」


彼女は、まるで私が何らかの契約書に署名するかのように、その地位を提示した。


「ただし、職掌は祝福持ちのみ。英雄は国家資産だ。治癒官はその整備係として設置される。あなたは、彼らの『維持』を担う」


私は、その言葉の裏に隠された冷たい論理を感じ取った。国家資産。彼らは、傷ついた存在として、管理されるべき資源なのだ。


「私の名は、早瀬涼子。私は、この世界で、何をするのですか」


私は、自分の名前を、この世界で再び発した。


ミレイアは、私の問いに答える代わりに、私を祭壇から引き離し、広大な宮殿の廊下へと導いた。


「まずは、この国の『常識』を理解してもらう必要がある。君の知識は、この世界の前提と衝突するだろう。だから、まずは現場を見学してもらう」


その言葉と共に、私は、この世界の「常識」がどれほど歪んでいるのかを、肌で感じることになるだろうと、本能的に悟った。


***


着任初日。私は、宮廷の華美な装飾とはかけ離れた、教会の裏手にある簡素な部屋に案内された。そこは、祈祷室という名がついていたが、その空気は祈りというよりも、むしろ抑圧と焦燥に満ちていた。


「これは、治癒官殿の初任務です」


案内役の司祭は、私に対して一切の敬意を払うことなく、事務的に告げた。


「拘束された元兵士です。信仰の欠落、と教会は見ています。祈祷を続けていますが、効果が見られません。どうか、あなたの『術』で、この男を鎮めてください」


部屋の中央には、一人の男がいた。彼は、分厚い革の拘束具に身を包まれ、椅子に座らされていた。その顔は、汗と土埃で汚れ、全身が微細な痙攣を起こしている。彼は、祈祷の音に合わせて、小さく、しかし激しく震えていた。


「断食は3日目です。祈祷は、このまま継続します」


司祭は、その男の様子を、まるで実験動物でも観察するかのように、淡々と報告した。


私は、その男の身体に近づいた。彼の呼吸は浅く、不規則だ。彼の瞳は虚空を見つめており、焦点が定まっていない。


「この男は、何に苦しんでいるのですか」私は尋ねた。


司祭は鼻で笑った。「信仰が足りない。悪魔が憑いている。祈りが届いていないだけです。我々がやれることは、祈ることだけです」


私は、その言葉を遮らなかった。私は、彼が「信仰が足りない」というレッテルを貼られる前に、その内側にあるものを、ただ見ようとした。


私は、彼から数歩離れた場所に立ち、静かに息を整えた。私は、この世界で、自分の技法を「術」と呼ぶことになった。


私は、彼に話しかけなかった。沈黙した。


私は、彼の震えを観察した。


祈祷が始まると、男の震えは増した。それは、単なる恐怖によるものではなく、内側から湧き上がる、制御不能なエネルギーの揺らぎのように見えた。私は、その震えのパターンを、無意識のうちに数え始めた。


1回、2回、3回。


その間、司祭や、部屋の隅で待機している他の教会の職員たちは、誰もその震えの「間隔」に注意を払っていなかった。彼らは、祈りの「質」や「量」にのみ関心を向けていた。


私は、その間隔を数え続けた。


震えが強まる。間隔が短くなる。それは、彼の魂が、何らかの閾値を超えようとしている兆候のように見えた。


私は、ただ、数えていた。


誰も、その数え方に意味を見出していなかった。それは、私だけの、この世界での最初の「観察」だった。


私は、この男の震えが、単なる「信仰の欠落」ではないことを、静かに理解し始めていた。それは、何か、言葉にできない、重いものが、彼の内側で軋んでいる音のように聞こえたのだ。

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