第88話 宿野峠の戦い
弘治二年(1556年)、六月上旬。
伊勢国、三重郡、江野、屋敷。
長良川から正利を連れ帰り、一月半ほどが過ぎた。
具政が江野を去った後も、関方への探りは続けている。益重には菰野から南を見させ、甲賀の者も関領へ入れていた。
敵が兵を進めてからでは遅い。兵を集めて食わせる物を揃えるだけで、人も荷も動き始める。ここ十日ほどで、関宗家が兵糧と馬を集め、峯、鹿伏兎、国府、さらに鈴鹿郡の与力衆へ出兵を命じたことが分かった。兵を向ける先は橘だという報せも届いている。
その朝、政基が座敷へ入り、俺の前に膝をついた。
「十兵衛様。関勢が出ました。峯勢を先頭に北へ向かっております。鹿伏兎勢、関宗家勢、鈴鹿郡の与力衆が続き、国府勢は別の道を進んでおります」
「数は」
「合わせて四千五百ほど。峯勢が八百、鹿伏兎勢が七百、関宗家勢が千八百にございます」
「残りは」
「鈴鹿郡の与力衆が七百、国府勢が五百ほど。事前の見立てから、大きくは外れておりませぬ」
関勢は四千五百。こちらは江野の千三百、菰野の六百、千種の五百を合わせて二千四百だ。数では半分ほどだが、治田、山口、朝霧からは、これ以上兵を動かさない。
俺は政基に命じた。
「弦十郎、善祥坊と勘九郎を先に呼んでくれ。主だった連中を集めるのは、二人と話してからだ」
* * *
ほどなく継潤と正利が座敷へ入り、政基が書付と絵図を二人の前に広げた。
正利は書付を読み、絵図の北側を指した。
「全部をまともに相手にする必要はない。先頭を止めよ」
継潤が宿野峠へ指を移した。
「ここで峯勢を止めれば、後ろの鹿伏兎勢も前へ出られませぬ」
「関宗家勢も続いておる。後ろへ行くほど、兵が詰まるぞ」
正利の狙いが分かった。峯勢を峠に押し留め、後続が道に詰まったところを横から叩く。そうすれば、四千五百を一度に相手にせずに済む。
俺は鹿伏兎勢の位置を指した。
「ここが詰まったところを横から叩くか」
「左様にございます。鹿伏兎勢が南へ崩れれば、後ろの関宗家勢へ流れ込みましょう」
「与力衆も横から崩そう。関宗家勢が前後の味方を助けに兵を割けば、千八百をまとめてこちらへ向けられない」
ただ、国府勢は別の道を進んでいる。街道の混乱を避けて関宗家勢と合流されれば、立て直す余地を与えてしまう。俺は絵図の別道を指した。
「国府勢は合流する前に止める」
正利は絵図から手を離した。
「本部の百は、最初から使うな。絵図の通りに進む戦なら、誰でも軍を動かせる。必ずどこかで狂う。その時に使える兵を、手元に残しておけ」
峯勢が道を外れ、鹿伏兎勢が踏みとどまるかもしれない。国府勢が進路を変えることもある。そのたびに持ち場から兵を引き抜けば、別の場所まで崩れる。正利の言う通り、百人は手元に残すことにした。
俺は政基に主だった者を集めるよう命じ、立ち上がった。正利は座ったままだった。
俺は正利へ声を掛けた。
「お前は来ないのか」
「わしは橘の家臣ではない。軍議にまで出る筋ではなかろう」
「ここまで考えておいて、今さらかよ」
「ここまで考えたから十分だ」
正利を残し、俺は継潤と軍議の座敷へ移った。
* * *
利家、成政、秀吉、忠治、善住坊が揃うと、絵図を囲んだ。俺はまず宿野峠を指した。
「儀太夫と弥左衛門には、ここで峯勢を止めてもらう。俺の合図は待たなくていい。敵が来たら、その場の判断で峠を抜かせるなと伝えろ」
次に、矢合川の手前へ指を移した。
「又左衛門は東へ回れ。鹿伏兎勢がここまで来たら、横から鉄砲を撃ち込んで南へ押せ」
「向き直れば槍で止めます。関宗家勢を助けに戻る余裕は与えませぬ」
「ああ。討ち減らすより、その場から動けなくすることを優先しろ」
次に、与力衆の位置を示した。
「内蔵助は、又左衛門が動いてからだ。与力衆を横から叩き、関宗家勢との間を切れ」
「与力衆が割れたら、関宗家勢へ向かう方を先に叩きます。南へ逃げる者は追いませぬ」
「それでいい」
俺は国府勢が進む別の道を指した。
「藤吉郎、国府勢を関宗家勢へ合流させるな。戦わずに済むなら、道を塞ぐだけでいい」
「道を変えれば、こちらも先へ回ります。関宗家勢へ向かわぬ限りは追いませぬ」
政虎が率いる千種の五百は、関宗家勢の西に伏せさせる。
「彦九郎には、俺から使いが届くまで姿を見せるなと伝えろ。関宗家勢が前後へ兵を割いたところで出てもらう」
小岐須から兵が出る場合に備え、忠治にも持ち場を与えた。
「三郎左衛門は内部川まで進み、小岐須を押さえろ。兵が出てきたら止める。動かなければ、無理に仕掛けなくていい」
「小岐須が動かぬようなら、関勢の後方も見ておきます」
俺は善住坊へ向き直った。
「お前は俺の側に付け。侍大将、足軽大将、使番を優先して撃て」
「中務大輔は」
「狙えるなら狙え。ただし、あいつ一人に拘るな。敵の指揮を止める方が先だ」
最後に、本部の百人を示した。
「こいつらは予備だ。最初から持ち場を決めず、予定が狂ったところへ俺の判断で回す」
* * *
軍議が終わると、江野の各隊は支度が整った順に出陣した。
俺も黒塗りの具足を着け、鹿角の脇立を付けた兜を被った。金船に跨がると、政基が十文字槍を手渡してきた。
本部の百人と政基、継潤、善住坊を連れ、足見川の北、街道東側の林へ入った。益重と元家は、すでに宿野峠へ向かっている。俺たちはここで各所の報せを受け、必要になれば予備の百人を動かす。
やがて南から、関勢の先頭が街道を進んできた。峯勢の旗が林の前を過ぎ、兵の後には荷を運ぶ者や騎馬が続く。こちらには気づかず、矢合川を越えて宿野峠へ向かった。峯勢の最後尾が過ぎてしばらくすると、鹿伏兎勢の旗が現れた。先頭は矢合川へ近づいている。
ここで手を出せば、後ろの関宗家勢が警戒する。峯勢を峠へ入れ、鹿伏兎勢がその後ろで詰まるまで待つ。
宿野峠から、まとまった銃声が響いた。少し間を置いて二度目、さらに三度目と続く。
林の外へ出していた偵察兵が駆け戻った。
「峯勢が宿野峠へ入りました! 滝川勢が食い止めております!」
第一大隊と第二大隊も、それぞれ持ち場に着いた。別の道へ回った第三大隊は国府勢の進路を押さえている。あとは饗庭勢からの報せを待つだけだ。
峠では、まだ鉄砲が鳴っていた。だが、鹿伏兎勢の列が詰まる前に第一大隊を動かせば、東へ向き直られる。俺は街道を見張らせたまま待った。
やがて、西へ送った伝令が戻ってきた。
「饗庭勢、所定の場所に入りました。いつでも動けます」
続いて、街道を見張る偵察兵も駆け込んできた。
「鹿伏兎勢の先頭が止まりました! 峯勢の後ろで列が詰まっております。後続も次々と追いついております!」
俺は政基に合図した。
「弦十郎、狼煙を上げろ」
林の端から白い煙が立ち、木々の上へ伸びていく。間もなく矢合川の方で、第一大隊の小隊が一斉に撃った。少し間を置き、次の小隊の銃声が続く。
街道の偵察兵が林へ駆け戻った。
「鹿伏兎勢が東から撃たれております! 一部は南へ下がり始めましたが、東へ向き直る隊もございます!」
崩れ切らなかったか。継潤が絵図の鹿伏兎勢と関宗家勢の間を指した。
「まだ関宗家勢との間が空いております。第一大隊が南へ追えば、鹿伏兎勢と押し合うことになります」
「弦十郎、又左衛門へ伝えろ。鹿伏兎勢を南へ追うな。今いる場所で足止めしろ」
政基が伝令を走らせた。
矢合川の方で銃声が重なり、やがて鬨の声が上がった。戻った偵察兵によれば、第一大隊が槍兵を前へ出し、鹿伏兎勢も長槍を東へ向けて畑際で踏みとどまっているという。林の端から街道を見ると、鹿伏兎勢の旗はまだ立っていた。ただ、先頭は峠へ進めず、後続が追いついて道に兵が溜まり始めている。
政基が南の道を指した。
「十兵衛様、関宗家勢が動きます!」
盛信の馬印の周りから使番が走り出した。やがて関宗家勢の旗が二つ前へ出る。鹿伏兎勢から退いてきた兵を道脇へ寄せ、その間を槍兵が北へ進み始めた。
継潤がその動きを追った。
「中務大輔も、鹿伏兎勢だけでは持ちこたえられぬと見たのでしょう。関宗家勢を前へ入れるつもりです」
「弦十郎、又左衛門へ伝えろ。関宗家勢が出てくるまで持ち場を離れるな。近づいたところを叩け」
政基が伝令を送り出したところへ、宿野峠からも使いが駆け込んできた。
「儀太夫様より! 峯勢の一部が道を外れ、東から抜けようとしております!」
「弥左衛門は」
「すでに兵を回され、槍を合わせております!」
元家が押さえているなら、本部の百人を動かすのはまだ早い。そう判断したところへ、南寄りから銃声が響いた。第二大隊が与力衆を叩き始めた。
伝令が駆け込み、街道の南を指した。
「第二大隊より! 与力衆が二手に割れました! 二旗は南へ下がり、三旗は関宗家勢へ寄っております。関宗家勢からも兵が出ました!」
継潤が絵図の南側を指した。
「退く二旗は追わずとも構いませぬ。三旗が関宗家勢へ合流する前に、間を切るべきかと」
俺が成政へ使いを出そうとすると、伝令が続けた。
「内蔵助様はすでに隊の向きを変えております! 関宗家勢から出た兵と、合流を図る三旗の間へ入りました!」
成政も同じ判断をしたか。そこは任せていい。
そこへ、別路から馬を飛ばしてきた伝令が林へ駆け込んだ。
「第三大隊より! 国府勢が進路を変えました! 我らを避け、関宗家勢の後方へ回ろうとしております!」
「第三大隊はどう動く」
「先回りして道を塞ぐとのことです!」
「それでいい。関宗家勢と合流させるな」
利家、成政、秀吉は、それぞれの持ち場で動いている。俺は本部の百人を手元に置き、どこへ入れるかを見極める。
街道では、鹿伏兎勢が少しずつ南へ押し戻されていた。関宗家勢の槍兵は退いてくる味方を道脇へ寄せ、その間から北へ出ようとする。だが、鹿伏兎勢の兵は後から後から戻ってくる。槍列が乱れ、旗が一本、大きく傾いた。
盛信はそれでも兵を動かし続けた。馬印の周りから使番が走り、一人は鹿伏兎勢へ、もう一人は後方へ向かう。旗の下では武者が散った兵を呼び集め、槍を並べ直していた。
善住坊が火縄銃を構えた。
「まず、あれを落とします」
狙ったのは、前へ出た関宗家勢へ走る使番だった。銃声が響き、男が馬から落ちる。
盛信の旗の下から、すぐに別の使番が走り出した。善住坊が次の弾を込める間も、撃たれた使番の向かっていた先では、北へ進む兵と押し戻される鹿伏兎勢がぶつかっている。道脇へ逃れる者まで重なり、槍列は整わない。
俺は善住坊へ声を掛けた。
「次も使番を狙え。中務大輔の下知を前へ通すな」
南では第二大隊の銃声が続いていた。伝令の話では、与力衆を助けに出た関宗家勢は押し戻され、合流を図っていた三旗も下がり始めたという。
その間に善住坊は、盛信の馬印の脇で使番へ下知を伝える武者を狙っていた。銃声とともに武者が倒れ、そばにいた使番の馬が驚いて横へ跳ねた。
継潤が絵図の西側を指した。
「関宗家勢は前後へ兵を割いております。彦九郎殿を動かすなら、今かと」
「弦十郎、彦九郎へ使いを出せ」
政基が伝令を走らせた。しばらくして西から鬨の声が上がり、林に隠れていた饗庭勢が関宗家勢へ向かう。
街道を見張っていた偵察兵が叫んだ。
「関宗家勢、西へも兵を向けます!」
盛信の馬印から、また使番が走った。鹿伏兎勢を支えに出ていた関宗家勢の一部が引き返し、前列も西へ槍を向け始める。南の与力衆へ出した兵にも、戻るよう下知が飛んだ。
善住坊が三度目の狙いをつけた。関宗家勢の前で声を張っていた武者が撃たれ、整いかけた槍列が止まる。だが、すぐに別の武者が前へ出て、兵を動かし始めた。
善住坊が銃を下ろした。
「しぶといですな」
「千八百もいる。次は馬印の周りを見ろ」
弾を込めた善住坊が、盛信の馬印へ銃口を向けた。
「中務大輔が見えました」
「狙えるか」
「やってみます」
銃声が響き、馬印の下で武者が一人倒れた。盛信ではない。善住坊が次の弾を込もうとした時、馬印が南へ動き出した。
継潤が街道を指した。
「十兵衛様、中務大輔が下がります!」
関宗家勢の前列は、まだ槍を揃えている。盛信は自分の一団を先に下げ、残した兵で追撃を防ぐつもりか。追うなら今だが、あの槍列へ本部の百人をぶつけるわけにはいかない。
その時、鹿伏兎勢の方から怒号が上がった。第一大隊に押された兵が一気に南へ崩れ、関宗家勢の前列へぶつかる。関宗家勢は槍を横にして押し返そうとしたが、敗兵が次々と押し寄せた。旗が一本、人波の中へ倒れ、もう一本も沈む。槍列が横へ押され、間に隙が開いた。
継潤が声を上げた。
「十兵衛様、今なら入れます!」
「弦十郎、本部の百人を出すぞ!」
「どちらへ」
「あそこだ。鹿伏兎勢と関宗家勢の境へ、斜めに突っ込む!」
金船の腹を蹴り、林から街道へ飛び出した。政基が後ろの兵へ命じる。
「本部、十兵衛様に続け! 左右へ広がるな!」
百人がまとまって後に続いた。近づくと、二つの旗の境が見えてくる。南へ逃げる鹿伏兎勢を関宗家勢が北へ押し返し、逆向きに進む兵が同じ場所で詰まっていた。長槍も入り乱れている。その横から、開いた隙間へ馬を向けた。
関宗家勢の兵がこちらに気づき、槍を向けた。
「橘だ!」
「槍を揃えろ!」
正面から伸びた穂先を十文字槍で払い、空いた脇へ金船を進める。横から飛び出した兵は政基が槍で止め、その後ろから本部の兵が続いた。
俺は後続へ声を張った。
「押せ! そこで止まるな!」
百人が両勢の境へ食い込む。逃げてきた鹿伏兎勢が関宗家勢をさらに押し、槍列が横から崩れた。倒れた兵を避けて道脇へ散る者もいる。開いた隙間を、本部の兵が押し広げていった。
盛信の馬印は、すでに南へ離れ始めている。金船をそちらへ向けると、一騎が前へ割り込んできた。
具足姿の男が馬を立て直し、槍を構えた。
「待て! 某は鹿伏兎近江守――」
「モブが邪魔すんな!」
名乗りを最後まで聞く気はない。金船を走らせ、十文字槍の穂先を向ける。男が槍を合わせようとした時には、もう間合いへ入っていた。
すれ違いざまに横鎌を首元へ掛け、金船の勢いで引く。男は鞍から引きずり落とされ、地面へ叩きつけられた。
振り返らずに駆け抜けると、追いついた政基が落ちた男へ目をやった。
「十兵衛様、今のは鹿伏兎勢を率いる関の重臣ですぞ」
「誰だそれ。知らん。それより中務大輔は――」
盛信の馬印を探したが、あの一騎に足を止められた間に、ずいぶん南へ離れていた。鹿伏兎何某など、俺の戦国武将辞典には載っていない。
「くっそ、モブのせいで逃げられただろうが! 弦十郎、兵を南へ押し込め。関宗家勢を立て直させるな!」
政基が本部の兵へ声を張った。
「そのまま南へ! 関宗家勢を押し続けろ!」
百人が再び前へ出たところで、後方の継潤から声が飛んだ。
「十兵衛様、左です! 関宗家勢の旗が三つ寄っております!」
左手では、散った兵が三本の旗の下へ集まり、槍列を作り直そうとしている。このまま南へ進めば、横を突かれる。
俺は政基を呼んだ。
「弦十郎、又左衛門へ使いを出せ! 東の三旗を叩かせろ!」
政基の呼んだ伝令が東へ走った。間もなく第一大隊の銃声が響き、三本の旗の下に集まりかけていた兵が崩れる。そこへ鹿伏兎勢の敗兵まで流れ込み、整いかけた槍列は押し潰された。
南からは第二大隊の伝令が来た。
「関宗家勢へ寄ろうとした与力衆は押し返しました! 残りも南へ退いております!」
続けて、国府方面から第三大隊の伝令が駆け込んだ。
「国府勢は二度進路を変えましたが、どちらも先を塞ぎました! 関宗家勢との合流を諦め、退いております!」
継潤が西へ顔を向けた。
「与力衆も国府勢も合流できませぬ。西は饗庭勢が押さえております。関宗家勢だけでは、もう持ちこたえられますまい」
関勢の方から低い法螺の音が響いた。関宗家勢の各隊が、旗を掲げたまま南へ退き始める。ほどなく宿野峠からも伝令が駆け込んだ。
「滝川勢より! 関宗家勢に続いて峯勢も下がり始めました! 脇へ出た兵も道へ押し戻しております!」
追えば、まだ斬れる。盛信の馬印も、南に見えていた。
だが、こちらの隊列も乱れている。第一大隊は南へ進み、第二大隊は関宗家勢と与力衆の間にいる。本部の百人も深く入り込み、他の隊と混じり始めていた。このまま追えば、こちらまで隊列を失う。
俺は十文字槍を上げた。
「追うな! 隊を戻せ!」
政基もすぐに声を張った。
「本部、止まれ! 分隊ごとに集まれ!」
前へ出ていた兵が足を止めた。負傷者を担いで下がる者もいれば、入り混じった隊の中から自分の旗を探す者もいる。
関勢を退かせるという目的は果たした。兵を集め直しているところへ、忠治から伝令が来た。
「三郎左衛門様より。小岐須から兵は出ておりませぬ。関勢が退くのを見届け、小岐須の押さえを解いて大久保へ向かわれました」
「大久保の城まで取るつもりか」
「はい。敗兵が城へ逃げ込んでおります。守りを固められる前に押さえるとのことにございます。七郎左衛門様、甚助様、作内様も合流されました」
忠治は、すでに次の城へ動いていた。俺は伝令に答えた。
「分かった。俺も行く」
* * *
本部の百人を集め直し、政基と継潤を連れて大久保へ向かった。着いた時には城に橘の旗が立ち、門前と城下では忠治たちの兵が忙しく動いていた。
忠治がこちらへ歩いてきた。
「遅うございましたな、十兵衛様」
「勝手に先へ行った奴が言うな」
「門を閉められては手間が掛かります。先に押さえさせてもらいました」
「抵抗はあったか」
「ございましたが、長くは続きませなんだ」
後ろでは家次が、城下に残った者を家ごとに集めていた。俺が来ても作業の手は止めず、声だけを掛ける。
「十兵衛様、城へ入ろうとした者も、こちらへ戻しております」
「分かった。家族は離すな。後で移す」
門から戻ってきた親正は、道脇に寄せた荷を振り返った。
「門前の道は空けました。荷も、持ち主の分かる物と分からぬ物とに分けております」
光泰も兵を交代させ、こちらへ来た。
「降った兵には武具を外させております。歩けぬ負傷者は別にし、捕らえた人数を数えているところです」
城と捕虜の始末は任せられる。俺は城下へ目を向けた。
「城は焼く。村の家も残さない」
継潤が尋ねた。
「村の者はいかがなさいます」
「菰野へ移す。米と種、農具、持ち出せる家財は持たせろ。牛や馬も連れていけるようにする。ただし、田畑と水路には手を付けるな」
城と家々を残せば、関がまた兵を入れる足場になる。だが、田畑まで潰せば、こちらが取った土地も使えなくなる。壊すのは、関がすぐに使える拠点だけでいい。
俺は忠治たちへ命じた。
「人と荷をすべて出してから火を掛けろ」
家次は村の者をそれぞれの家へ戻し、持ち出す物をまとめさせた。米俵や農具は親正のもとへ運ばれ、持ち主の分かった荷から車に積まれる。光泰は捕虜の人数を数え、歩けない負傷者を別に集めた。
支度のできた家から、菰野へ向けて出発した。家財を抱える者、荷車を押す者、牛馬を引く者が続く。光泰も捕虜と負傷者を城下から出した。
最後の者が去ったのを確かめ、城と家々へ火を掛けた。乾いた木が爆ぜ、屋根へ火が回る。田畑は、その外に手を付けずに残した。
後始末の最中、継潤が捕虜の数を書き留めた紙を持ってきた。
「捕らえた者はいかがなさいます」
「関が応じるなら交換する。こっちの兵も捕まっているかもしれん」
「鹿伏兎近江守の遺骸は」
「ああ、さっきの奴か。捨てておけ」
あの男の名が鹿伏兎近江守定長だと知ったのは、後になってからだった。
継潤は書付を畳み、南へ目を向けた。
「兵をまとめ直せば、亀山まで押せます」
「帰る」
関勢が崩れた今なら、押せばまだ土地を取れるだろう。だが、具政はつい先日、こちらの動きを気にして江野まで来た。関領の奥へ踏み込めば、北畠まで動きかねない。
俺は継潤へ言った。
「中務大輔が話をする気なら、こちらから条件を出す」
その場で条件を詰めた。大久保は返さず、来年六月末まで双方とも新たに兵を進めない。その間に関方の者が自ら橘へ従っても、停戦違反とはしない。捕虜は交換し、銭も人質も求めない。
継潤は条件を書き留め、読み返してから紙を畳んだ。
「では、これを持って中務大輔と話してまいります」
「頼む」
関から銭を取っても、今欲しいものは手に入らない。必要なのは時間だった。
継潤を使者として関方へ送り、数日のやり取りを経て、盛信は条件を受け入れた。和睦を結ぶ際、継潤にはもう一言だけ伝えさせた。
「次はない。来年六月末まで、生き残る猶予を与えただけだ」




