第87話 欲しいのは城じゃない
弘治二年(1556年)、四月の末。
伊勢国、三重郡、江野、屋敷。
長良川から戻って、一週間ほどが過ぎた。朝の政務にはまだ早く、庭へ出た俺は身体をほぐしてから、地面へ手をついて腕立て伏せを始めた。
出陣中も鉄砲を抱えて走り回っていたが、それで日頃の鍛錬を済ませた気にはならない。山道を走る時とは違うきつさを腕や胸に感じながら、身体を上下させる。
五十回を越えて立ち上がり、肩を回していると、縁側から声が掛かった。
「またなさっているのですね」
振り向けば、綾がこちらを見ていた。少し後ろには綾付きの侍女が控え、庭口にも女中が一人いる。
「朝飯まで時間があるからな」
「朝霧にいた頃から、毎日なさっていたのでしょう」
「毎日じゃない。出陣してる時まではできないからな」
「それでも、お暇があればなさっているように見えます」
否定しかけて、やめた。言われてみれば、朝に少しでも時間があれば身体を動かしている。綾は俺が腕を伸ばすのを眺めながら尋ねた。
「鍛錬がお好きなのですか」
「好きというのとは少し違う気もするが……やらないと落ち着かないんだよな」
「では、嫌々なさっているわけではないのですね」
「ああ。もう自分からやりたくてやってるんだろうな」
槍や馬の稽古と違い、腕立て伏せや腹を鍛えるだけなら相手も広い場所も要らない。前世では運動不足を気にしてやる程度だったが、今は身体が変わっていくのも面白かった。
袖を上げて腕に力を入れると、筋肉が盛り上がる。まだ成長の途中だが、同じ年頃の者と並んでも肩回りや胸の厚みはかなり違う。鍛えるだけで、ここまで育ったわけでもないだろう。
俺は袖を戻しながら言った。
「食う物が違うのも大きいだろうな」
「食べる物ですか」
「ああ。米だけじゃなく、牛も豚も鶏も食ってるし、魚や卵、豆もある。身体を大きくしたければ、まず食わないとな」
綾は自分の食事を思い返すように答えた。
「後藤の家にいた頃より、こちらへ来てからの方が食事は多うございます。量だけでなく、出てくる物も随分違います」
「嫌な物まで食わされてないか」
「いいえ。むしろ、何を食べようか迷うことが増えました」
「それならいい」
橘で牛や豚を飼い始めたのも、元は俺が肉を食いたかったからだ。それが今では家中でも珍しくない食い物になり、俺も成長期なのをいいことに遠慮なく食っている。戦国時代の人間の体格など正確には覚えていないが、子供の頃から十分に食って身体を動かしてきた分は、身についているのだろう。
もう一度地面へ手をつき、十回ほど続けた。息は上がるが、まだ腕は動く。回数を増やすより、そろそろ負荷を増やしてもよさそうだ。
俺は腕を伸ばしたまま、縁側へ顔を向けた。
「綾、ちょっと背中に座ってくれ」
「私が、十兵衛様の背中へ座るのですか」
「ああ。腰より少し上の辺りに」
綾は俺と地面を見比べてから、裾をまとめて庭へ降りた。侍女も後に続き、そばへ付く。
「潰れませんか」
「無理ならすぐやめるから、大丈夫だ」
姿勢を整えて待つと、綾がおそるおそる腰を下ろした。
「ここでよろしいのですか」
「もう少し上だな。そう、その辺」
背中へ重みが掛かるのを確かめ、身体を沈めてから押し上げる。何も乗せていない時とは、腕に掛かる負荷がまるで違った。
綾は身体を固くしていたが、何度か繰り返すうちに少しずつ力を抜き、声を掛けてきた。
「本当に上がるのですね」
「上がると思ったから頼んだんだろ」
「落とされるかと思いました」
「そんなことしたら、俺が母上に何を言われるか分からん」
背中で綾が笑った。さらに何度か続け、腕が重くなってきたところで止める。綾が降りるのを待って立ち上がったが、これなら次からは重りを用意してもいいかもしれない。
そう考えていると、縁側へ戻りかけた綾が足を止めた。
「綾、どうした」
顔を覗き込むと、さっきまであった血の気が引いている。綾は口元へ手を当て、身体を屈めた。
「どこか痛いのか」
「少し……気分が……」
「腹か」
「いえ、痛いわけでは――」
俺が身体を支えると、侍女が反対側へ回った。
「奥方様、こちらへ。無理に立たれませぬよう」
背中へ乗せたせいなのか、それとも前から具合が悪かったのか。考えても分からず、俺は庭口へ声を上げた。
「医者を呼べ」
「十兵衛様、まず奥方様をお部屋へ」
「分かってる。誰か医者を――」
「もう女中が呼びに走っております」
振り返ると庭口にいた女中の姿はなく、俺が騒ぎだすより早く動いていたらしい。侍女とともに綾を支えて廊下へ上がると、向こうから正利が歩いてきた。長良川から戻って以来、離れで暮らしており、今は旅装ではなく屋敷で用意した着物を着ている。
正利は俺たちの前で足を止めた。
「何を騒いでおる」
「綾が急に具合を悪くしたんだ。勘九郎、こういう時はどうしたらいい」
「なぜわしに聞く」
「俺より年上だろ」
「年を取れば、女の病まで分かるようになると思うておるのか」
「……それもそうだな」
正利は綾の様子を確かめ、部屋の方を示した。
「ともかく寝かせよ。立たせたまま騒いでおっても治りはせぬ」
部屋へ入ると、侍女と女中たちが寝具を整えた。綾を横にさせ、俺も枕元へ座ろうとしたところで、侍女に止められた。
「十兵衛様は、しばらく外でお待ちください」
「俺もいた方がいいんじゃないか」
「医者が参りましたら、お呼びいたします」
女たちはすることが分かっているらしく、俺が口を挟まなくても動いている。枕元に座ったところで何ができるわけでもなく、仕方なく廊下へ出た。
正利は壁へ背を預けたまま残っていた。
「戦場では、もう少し落ち着いておったと思うがな」
「戦なら、敵が何をしてくるか考えればいい」
「今は医者を待つしかなかろう」
「それは分かってるんだがな」
長良川では、正利が殺される寸前まで待てた。そうしなければ助け出せないと分かっていたからだ。今は何が起きているのかも、待っていて大丈夫なのかも分からない。
ほどなく医者が到着し、部屋へ入った。戸の向こうで話し声が続く間、俺は廊下を何度も往復した。
とうとう正利がその場へ腰を下ろした。
「床が減るぞ」
「減るわけないだろ」
「なら好きにせい」
しばらくして戸が開くと、俺は医者のそばへ駆け寄った。
「どうなんだ」
「さほど御心配には及びませぬ。奥方様は、御懐妊かと存じます」
「……懐妊か」
「まだ初めの頃と思われますが、月の障りが遅れておられるとのこと。今日の御気分も、それによるものでございましょう」
言葉の意味は分かるのに、すぐには返事ができなかった。俺は医者の後ろにいた侍女へ顔を向けた。
「知ってたのか」
「遅れておられることは存じておりましたが、それだけでは何とも申せませんでした」
「そうか。それは、そうだよな」
背後から正利が声を掛けてきた。
「十兵衛、顔が間抜けになっておるぞ」
「うるさい、勘九郎」
部屋へ入ると、横になった綾がこちらを見た。
「驚かれましたか」
「そりゃ驚く」
枕元へ座ったものの、次に何を言えばいいのか分からない。父親になるのだと思っても、まだ実感が湧かなかった。とりあえず綾の手に自分の手を重ねた。
「無理はするな。重い物も持つなよ。しばらく庭へ降りるのも――」
「十兵衛様。まだ何もできなくなったわけではありません」
「……そうなのか」
「医者も、そのようには申しておりませんでした」
「そうか」
何をしてよいのか分からず、何もさせなければいいと思ったのだが、それも違うらしい。戸口から笑いを堪えるような声が聞こえた。正利だろうが、今は振り返る気にもなれなかった。
* * *
それから一週間ほど経った頃、俺は三嶽寺から運ばせた古い帳面を調べていた。年貢や寺領の記録に交じって、僧兵へ食わせた物の覚えがあり、その一枚で手が止まった。
猪に味噌、甘酒、山の芋、茸。それらを大鍋で煮て、山から戻った者へ食わせたとある。俺は材料をもう一度読み返した。
「……僧兵鍋じゃないか」
前世で聞いた湯の山温泉の名物に、そんな鍋があった。僧兵が猪や鹿の肉を味噌で煮て食ったのが由来だったはずだ。食べた記憶ははっきりしないが、聞いた話とはよく似ている。
覚書を持って台所へ行くと、ちょうど山から入った猪肉があった。台所番に材料を揃えてもらい、俺も袖を捲ると、男が手を止めた。
「十兵衛様、このようなことは我らがいたします」
「今日は俺がやる。綾に食わせたいんだ」
台所番はそれ以上止めず、場所を空けた。鍋に湯を張り、猪肉と山芋、茸を煮て、火が通ったところで味噌を溶く。最後に加える甘酒を少し椀へ取り、味を確かめた。
甘い。砂糖を好きなだけ使えない中で、米と麹からこれだけの甘さが出せるなら、鍋に入れる以外にも使えそうだ。
残りを鍋に加えて混ぜながら空になった椀を眺め、甘酒だけで売ってもいいんじゃないかと思った。酒を飲まない者や子供にも出せるし、人足が仕事の途中に飲むのにもよさそうで、食が細くなった者でも口にしやすいかもしれない。
酒造には米も麹もあるから、新しい材料を遠くから仕入れる必要もない。そこまで考えてから、俺は鍋へ目を戻した。今は商売より綾だ。
煮上がった鍋を椀へ取り分け、部屋まで運ばせた。綾は膳の上に湯気を立てる椀を見てから、俺へ顔を向けた。
「十兵衛様がお作りになったのですか」
「ああ。三嶽寺の僧兵が食ってたらしい。猪肉も入ってる」
「私が僧兵になるのでしょうか」
「そこまで元気になれとは言ってない」
綾は箸を取り、汁を口にしてから猪肉へ手を伸ばした。二口目も食べるのを見て、俺も少し安心した。
「食える時に食ってくれ。全部食わなくていいからな」
「美味しいです。これなら、もう少しいただけそうです」
「ならよかった」
俺も自分の椀へ箸を伸ばした。濃い味噌に猪の脂が合い、甘酒の甘みが塩気を和らげている。鍋も悪くないが、さっき飲んだ甘酒の味がまだ頭に残っていた。今度、酒造の者に話してみよう。
* * *
五月が終わる頃には、江野の市で新しい札を掲げる店が増えていた。
『橘の手作り甘酒』
名を考えろと言われ、そのまま付けた。捻りはないが、何を売る店なのか分かれば十分だ。
店先では小さな子供が椀を両手で抱え、その横では荷を下ろしたばかりの人足が一杯飲んでいた。狙ったとおり、酒とは違う客が買っているようだ。
江野支店へ入ると、裏では次の仕込みが始まっていた。蒸した米が運ばれ、麹を扱う者が桶の中を確かめている。台所で鍋に使った甘酒が、今は売り物として仕込まれていた。
支店の者が帳面を持ってきたので、俺は売れ行きを尋ねた。
「市へ出した分は、その日のうちになくなることが多うございます。ただ、酒ほど長く置いてはおけませぬ」
奥には昨日の桶と今日の桶が分けて置かれていた。俺はそれらを指して念を押した。
「古い物を混ぜるなよ。余るなら仕込みを減らせ」
「市で売れた数を確かめ、日ごとに増減しております。桑名へも運べぬかという話が出ておりますが、まずは江野で一日に売れる量を見定めた方がよろしいかと」
「ああ。それでいい。腐らせてまで遠くへ持っていく必要はない」
日持ちしないなら、売る場所の近くで必要な分だけ仕込む方がいい。帳面を見ても、売れ残りに応じて量を変えているのが分かる。これなら細かな仕込みまで俺が決めなくてもよさそうだ。
店先へ戻ると、通りの向こうから政基が歩いてきた。俺を見つけると、そのまま近づいてくる。
「十兵衛様。北畠より使者が参っております」
「誰だ」
「木造左近衛中将殿にございます」
木造左近衛中将具政本人が来たということは、北畠の当主、北畠中納言具教が、自分の弟を江野まで寄越したわけか。
俺は店の者に帳面を返し、政基へ尋ねた。
「善祥坊は」
「すでに屋敷へ参っております」
「なら、戻ろう」
政基と市を離れて屋敷へ戻ると、座敷では継潤が具政の相手をしていた。
互いに礼を済ませると、具政は長々と挨拶を続けず、本題に入った。
「中納言殿は、橘殿が伊勢で何をなさるおつもりか、今のうちに確かめておきたいと仰せだ」
「何を、とは」
「三重郡で所領を広げ、員弁郡でも東部を残して大半を取られたが、この先はどこへ兵を進められるおつもりか」
三重郡で止まらず員弁郡まで取ったのだから、北畠が警戒するのも当然だ。俺は具政へ答えた。
「南勢へ兵を入れる予定はありません」
「南勢へは、か。北勢については申されぬのだな」
「そこまで約束するつもりはありません。先のことを言い切っても、守れるとは限りませんから」
「随分と用心深い物言いをなさる」
具政はそれ以上約束を求めず、ここまで兵を進めた理由へ話を移した。
「では、なにゆえ三重や員弁を攻めた。伊勢国司たる北畠を侮ってのことか」
「そのつもりはありません。橘の商いに必要だったからです」
「商いのために土地まで取ったと申されるか」
「そうです」
「城や領地が欲しいというなら、まだ分かる。商いのために兵を出すなど、笑止千万ではないか」
「某は、城を取ることそのものには興味がありません」
具政は返しかけた言葉を止め、俺の続きを待った。
「人が働いて物を作り、それを運んで売る。そのために土地や城が要るなら取りますが、持つこと自体が目的ではありません」
「領地を治める者の言葉とは思えんな」
「由緒正しい家に生まれた方々には、分からないのでしょう」
「某もそこに含まれておるのか」
「左近衛中将殿を外す理由はありません」
「随分と言うものだ」
具政が席を立つ様子はなく、俺も話を続けた。
「某には、初めから広い領地も高い家格もありませんでした。酒を造って売り、その銭で人を雇い、兵を養ってきたのです」
「ゆえに、銭が全てと申すか」
「少なくとも、某にとっては。家格も面目も、支えるものがなければ守れません」
抽象的な話を続けるより、身近な物を挙げた方が早そうだ。
「左近衛中将殿。北畠の御領で売られている酒が、どこの物か御存じですか」
「橘であろう」
「その酒で銭を得るのは、某だけではありません」
「商人どもも、ということか」
「運ぶ商人や売る店だけでなく、船頭も人足も銭を得ます。その銭が、また北畠の御領で使われるのです」
「それで、我らにも利があると申すのだな」
俺は桑名の商いを例に出した。
「桑名でも、今は商人や船を使わせてもらっています」
「土地を持たずとも構わぬと」
「商いをするだけなら、それで困りません」
具政は桑名についてそれ以上問わず、具教の意向を伝えた。
「中納言殿も、おぬしが南勢へ兵を入れぬのであれば、今ここで事を構えるおつもりはない」
「であれば、互いに商人や荷、船の往来を妨げない。それでよろしいのでは」
「北畠から橘の商いを止めるつもりはない。ただし、南勢へ兵を入れぬことだ」
「承知しました」
南勢については、これで話がついた。北勢の約束も求められるかと思ったが、具政が次に口にしたのは別の名だった。
「されど、中務大輔は、そう都合よくは受け取らんぞ」
関中務大輔盛信のことかと思い、俺は具政へ答えた。
「こちらから中務大輔殿と事を構えるつもりもありません」
「おぬしのつもりは、あちらには分からぬ。三重郡に続いて員弁郡の大半まで取れば、次は自分のところかと考えよう」
「それは、そうでしょうが」
「我らには今の約束がある。だが、中務大輔には何もない」
俺が商いのためだと言っても、盛信から見れば、隣で橘の領地が増え続けていることに変わりはないと考えていると、具政が先ほどの俺の言葉を持ち出した。
「城そのものが欲しいのではないにせよ、必要なら取るのであろう」
「はい」
「ならば、次に何が必要になるのかと気を揉むのも当然ではないか」
盛信が俺を危険だと考えているなら、三重と員弁の仕置きが済むまで待つ理由もなく、具政の言葉は否定できなかった。
「ただ、兵を出されれば、こちらも応じます」
「そう申すと思うた。我らも今は長野を相手にしておる。中務大輔の動きまで、いちいち見てはおれぬ」
「御忠告、承っておきます」
「気をつけられよ。おぬしが戦を望まぬからといって、相手までそうとは限らぬ」
具政がそれ以上話を広げずに席を立ったので、見送りを済ませて座敷へ戻ると、継潤はまだ同じ場所に座っていた。
「随分と親切な忠告でございましたな」
「親切だけじゃないだろ。中務大輔とやり合うなら、北畠まで巻き込むなってことだ」
「されど、中務大輔へ加勢せぬとも申されませんでした」
「ああ。そこまでは約束してない」
北畠がどう出るにせよ、まずは関の動きを確かめようと、俺は政基を呼んで菰野への伝言を託した。
「弦十郎、儀太夫に関の動きを探らせろ。普段と違う兵や荷の動きがあれば、すぐ江野へ知らせるようにな」
「足の速い者を出しますが、菰野から先をどこまで探らせるかは、儀太夫殿に任せてよろしゅうございますか」
「ああ。現地のことは儀太夫に判断させてくれ」
政基が出ていくと、窓の外を俵を積んだ荷車が通り、その脇を歩く人足の後ろには、荷を載せた馬が続いていた。市へ向かう一行を見送るうちに、廊下の向こうから政基が使いの者を呼ぶ声が聞こえてきた。




