第86話 長良川の戦い
弘治二年(1556年)、四月十七日。
伊勢国、桑名郡、桑名、川岸。
川岸へ下りると、正勝が二艘の舟を前に船頭と話しており、長康は片方の舟で船底に積まれた荷を確かめていた。
長康が岸へ上がってくると、俺たちに気づいた正勝は船頭を送り出し、声を掛けてきた。
「橘。行きはこの二艘だ。帰りの舟も、言っておいた場所に残してある」
長康が川の上流を指した。
「小六殿からお聞きの場所でお待ちしております。そこまで戻っていただければ、舟で桑名までお送りします」
「頼む。山城守を川まで連れてくるのは、俺たちでやる」
正勝は俺たちの旅装を見渡した。
「戦場まで迎えに来いなんて言うなよ」
「そこまで頼む気はない。帰りも舟を出してくれれば十分だ」
俺と政基、利家、成政は二艘へ分かれて乗り込んだ。舟で川を上れるところまで進んで岸へ上がると、土手の下では甲賀の男が待っていた。
男は俺たちの顔を確かめ、脇道を示した。
「こちらです。ここから先は人通りを避けます」
翌十八日の朝、木立の向こうに荒れた寺の屋根が見えた。境内では、外から戻った兵が縁へ腰を下ろし、休んでいた者が入れ替わりに出ていく。壁際には鉄砲が並び、奥には火薬と弾が分けて置かれていた。
善住坊は戻った兵の報告を聞き終えると、俺たちを迎えた。
「山城守は鶴山におります。兵は二千七百ほど。治部大輔方は長良川の南に、一万七千五百ほど集まっております」
「上総介殿は」
「大良におりますが、まだ動いておりませぬ。こちらは鶴山と川の双方に見張りを置き、それぞれ二組で交代させております」
俺が覚えている長良川の戦いは二十日だ。あと二日。日付の記憶が合っていても、道三や義龍が、そのとおりに動く保証はない。出る時を決めるには、甲賀衆の報せを待つしかなかった。
俺は善住坊へ言った。
「なら、そのまま続けてくれ。肝心な時に動けなくなったら困るから、休める者は休ませろ」
利家は寺の外へ目を向けた。
「十兵衛様。某は南岸を探り、どの渡りへ兵を寄せているか確かめてまいります」
「ああ。ただし、向こうの物見に見つかるほど近づくなよ」
成政も支度を始めた。
「では、某は鶴山から川へ下る道を。山城守方が兵を出せば、どこを通るか分かるでしょう」
「二人とも、日が傾く前には戻れ。報せを合わせて、こっちの動き方を決める」
二人が別々に寺を出ると、政基が俺へ声を掛けた。
「私どもも、山城守へ近づく道を確かめておきましょう。来る時に通った道だけでは、兵が広がった際に塞がれるやもしれません」
「そうだな。帰りにも使えそうな道を、もう一本探しておこう」
昼前には、来る時とは別の木立まで回り込めた。枝の隙間から鶴山と長良川の北岸が見え、道三方が山を下りれば、途中までは動きを追えそうだ。
政基は俺を残して奥を探り、北へ抜ける道を見つけて戻ってきた。
「麓まで兵が広がらねば、通れましょう」
「場所を覚えておこう。使えるかどうかは、その時に確かめるしかない」
その後も場所を変えて川と鶴山の様子を探ったが、大きな動きはなかった。日が傾く前に寺へ戻ると、利家と成政もほどなく帰ってきた。
利家は腰を下ろすと、南岸で見た配置を話し始めた。
「治部大輔方は、渡りに近い二か所へ兵を寄せておりますが、まだ川へは入っておりませぬ。片方を囮にするのか、両方から渡るつもりなのかは、まだ分かりませぬ」
「動き出さないと分からんか」
成政は鶴山側の様子を続けた。
「山城守方も麓へ兵を出したままです。山へ籠もって迎え撃つつもりではないようですが、今日は配置を変えておりませぬ」
「分かった。今夜は見張りの報せを待つことにして、飯を食ったら休んでくれ」
十九日になっても、両軍は動かなかった。大良にいる信長も、そのままだ。昼を過ぎた頃、甲賀の男が二人戻り、一人が懐から二通の書状を取り出した。
「山城守の使いが持っていたものです。一人は尾張へ、もう一人は京へ向かっておりました」
善住坊から受け取って開くと、信長へ美濃を譲ると書かれていた。もう一通も宛先は違うが、自分の死後は美濃を信長へ託すという内容だ。
利家が傍らから紙面を覗いた。
「これが尾張へ届けば、治部大輔も捨て置けますまい」
「ああ。山城守を助け出しても、この書状が残れば美濃を譲った話だけは消せなくなる」
「山城守へお返しになるので」
「そのつもりだ。生き残った後でどうするかは、本人に決めさせる」
二通を重ね、持ち帰った男へ尋ねた。
「使いはどうした」
「書付を押さえた後、二人とも始末しました。まだ行方を捜す動きはございませぬ」
「分かった。書状は俺が預かる」
その日も戦は始まらなかった。夜になると寺に戻る兵が増え、見張りへ出る者だけが交代していく。俺も横になったものの、眠りは浅い。外の足音で目が覚めては、慌ただしい出入りではないと分かって、また目を閉じた。
二十日の朝、寺へ駆け込んできた甲賀の男が、善住坊の前で足を止めた。
「治部大輔方が川へ出ました。山城守も鶴山を下りています」
善住坊の声で、休んでいた兵が起き上がった。鉄砲を取り、火薬と弾を身につけた者から外へ出ていく。俺たちも目出し帽を被り、袖へ決めておいた紐を結んだ。顔を隠した味方を、乱戦の中でも見分けるためだ。
善住坊は出発する兵へ声を掛けた。
「先へ出る者から行け。撃つのは合図の後だぞ」
利家と成政は鉄砲を受け取ると、それぞれ一緒に動く兵のところへ向かった。俺も火縄と火薬を確かめて政基とともに寺を出ると、川の方からは、もう鬨の声が聞こえてきた。
木立を抜けて下見した場所へ入ると、義龍方の一隊が川を渡っていた。先頭に見えるのは、竹腰摂津守道鎮の旗だ。六百ほどの兵が続いているが、後ろはまだ水の中にいる。道鎮はその到着を待たず、北岸へ上がった兵を率いて道三方へ突っ込んだ。
正面の列を押して奥へ食い込んでいく道鎮勢を、利家は木の陰で身を低くして見ていた。
「深く入りましたな」
「あれじゃ、引こうとしても後ろが詰まる」
道三方が左右から寄せると、道鎮勢の足が止まった。押し戻された兵は、川から上がってきた味方とぶつかり、横へ逃れようにも敵がいる。人の間へ旗が沈み、その周りを道三方が囲んだ。
やがて道鎮の旗も見えなくなり、北岸から大きな鬨が上がると、利家は身を乗り出しかけたものの、南岸に続く敵の旗へ顔を向けた。
「摂津守は討たれたようですが……まだ、あれだけおりますか」
「ああ。ここからだ」
次に川へ入った兵は、先ほどとは比べものにならない数で、北岸に上がった者から左右へ広がり、後続が渡る場所を空けていく。道三方も追撃を止め、前へ出ていた兵を引き戻した。
義龍方が北岸で隊列を整える間に、長屋甚右衛門が一騎で進み出ると、道三方からも柴田角内が馬を出した。二騎は駆け寄って斬り合い、やがて馬を降りると、そのまま組み合った。
甚右衛門が角内を組み伏せたものの、下から脇差で刺されて力を緩めると、角内は相手を撥ね退けて上になり、その首を取った。道三方から再び鬨が上がったが、今度はその声が収まる前に、義龍方の槍先が一斉に傾いた。
渡り終えた兵が前へ押し出して道三方の列へぶつかり、一隊を押し返しても、すぐ後ろから別の隊が来る。道三方が踏みとどまる間にも川から上がる兵は途切れず、俺は戦列の奥に道三の旗を探し、その周りにどれだけ兵が残っているかを確かめた。
右へ回っていた成政が戻ってきた。
「治部大輔方が右から回り込み始めております。山城守の周りは、まだ崩れておりませぬ」
「右がどこまで来るか、そのまま追ってくれ」
成政が持ち場へ戻る頃には、左からも義龍方が押し始めていた。道三方が兵を回すと、その分だけ中央が薄くなる。そこへ敵が入り込み、今度は道三の旗本が駆け出した。さっきまで旗の前に並んでいた者まで、崩れかけた列へ加わっていく。
左から戻った利家が、道三の旗を指した。
「こちらは退く者が出始めました。山城守はまだ旗の下におりますが、周りの兵が減っております」
まだ早い。今、五十人を入れれば、道三方の戦列に加わることになる。軍が崩れ、本人を囲む兵が離れたところで連れ出すしかない。だが、遅れれば道三の首が飛ぶ。
右がさらに押され、道三の旗が後ろへ動いた。旗本から出た兵は乱戦に呑まれ、戻ってこない。成政が再び近づいてきた。
「右が持ちませぬ。このままでは、山城守のところまで」
「分かってる。もう少し待て」
道三の近くにいた兵が、まとまって前へ出た。その後ろを埋める者はいない。左でも列が切れ、敵へ向き直りながら下がっていた兵まで、背を向けて走り始めた。開いたところへ義龍方が入り、道三の旗へ迫っていく。
俺は善住坊へ声を掛けた。
「行くぞ、善住坊」
善住坊が手を上げ、木立に伏せていた兵へ声を飛ばした。
「前へ出ろ!」
五十人が木立を出た。利家は左、成政は右へ鉄砲衆を進め、俺と政基は中央の兵とともに道三の旗を目指す。先に出た者が撃つと、進路にいた義龍方の兵が倒れた。俺たちはその隙間へ踏み込み、逃げてくる道三方の兵を避けながら進んだ。
木立からは見えていた旗も、人の背と槍に遮られて見え隠れする。折れた槍を抱えて逃げる者、その後ろから追ってくる者、倒れた味方を踏み越えて下がる者が入り乱れ、数間先も見通せないうえ、白煙まで流れてきて、とうとう旗を見失った。
政基が前方へ銃口を向けた。
「十兵衛様、あそこです。山城守が」
人の間が開き、道三の姿が見えた。守っていた兵は押し退けられ、敵がすぐそばまで来ている。そこへ長井忠左衛門道勝が踏み込んだ。
道三が太刀を振るうと、道勝はそれを受けながら詰め寄り、そのまま組み付いた。政基は狙いをつけかけたものの、二人の身体が重なっているため銃口を逸らした。これでは道三にも当たる。
さらに横から、小牧源太道家が駆け込んできた。道三が道勝を振りほどこうともがく間に、道家が刀を振り上げたのを見て、俺は手を上げた。
「今だ!」
善住坊の号令とともに銃声が弾け、道家の胸へ弾が入った。具足の隙間から血が噴き、刀を取り落として倒れる。道三が咄嗟に身を捻ると、組み付いていた道勝も引かれ、その胸から脇腹がこちらへ向いた。
続く射撃が道勝を捉えた。胸へ二発、脇腹へ一発を受け、道三を掴んでいた腕が外れる。そのまま膝から崩れ落ち、動かなくなった。周囲の義龍方にも弾が飛び込み、白煙の中へ兵が倒れていく。
善住坊が鉄砲衆へ指示を飛ばした。
「撃った者は下がれ。次、前へ!」
善住坊が兵を入れ替える間にも、左右から銃声が続いた。道三へ寄ろうとした兵が利家たちの射撃で倒れ、右から回り込んだ者も足を止める。俺と政基はその間に駆け込み、道勝の死体から離れた道三へ近づいた。
道三が俺たちへ太刀を向けると、政基はその横へ入り、義龍方へ鉄砲を構えた。
「山城守殿、我らへ刀を向けている場合ではございません。お急ぎくだされ」
俺は反対側へ回り、木立を示した。
「ここで死なれると困る。来い」
「わしを生かして、何をさせるつもりじゃ」
「それは後で考える。何もなければ茶飲み相手でもいい」
道三は俺を見てから、自軍へ顔を向けた。旗本はもうまとまっておらず、逃げる者と踏みとどまる者の間へ義龍方が押し寄せるのを見て、太刀を下げた。
「……面白い。案内せい」
俺たちは道三を挟み、敗兵の流れに沿って下がった。横から槍を突き出そうとした兵を政基が撃ち倒し、俺へ寄ってきた別の兵は左からの射撃で倒れる。利家と成政が両側の追手を食い止める間に、俺たちは戦場を外れて木立へ入った。
枝葉の間を進むと、待っていた甲賀の者が手を上げた。その脇には、あらかじめ運び込んでおいた首のない死体が横たわっている。
道三は足を止め、死体から俺へ顔を向けた。
「わしの代わりか」
「ああ。具足を外してくれ。着替えもある」
甲賀の者たちが具足の紐を解き、外した物を死体へ移していく。その途中、戦場の方から枝を踏む音がした。
肩から血を流した道三方の近習が現れ、主の姿を認めるなり刀を抜いた。
「殿、お下がりくだされ!」
近習が俺たちとの間へ入ると、善住坊の兵が一斉に鉄砲を向けた。道三は具足を外す者の手を止め、片手を上げる。
「待て。わしの近習じゃ。そやつを撃つな」
近習が道三と具足を着せられている死体を見比べ、刀を下げかけたところで、道三が声を掛けた。
「斎藤山城守はここで死ぬ。おぬしは、それを見届けよ」
俺は木立の近くに倒れている義龍方の足軽を指した。
「あれに着替えろ。その格好のままじゃ、向こうの兵へ近づけない」
「治部大輔方へ紛れろと申されるか」
「ああ。山城守は討死し、首は覆面の者に奪われた。そう広めてくれ。皆が信じたら、お前も戦場を離れろ」
「その後は、いかがすれば」
「生きていれば、こちらから探す」
近習は俺に答えず、道三へ顔を向けた。道三は男を見据えたまま命じた。
「やれ。今日見たのは、斎藤山城守の最期じゃ。それ以外は知らぬで通せ」
「……承知いたしました」
近習が刀を収めて足軽の死体へ向かうと、甲賀の者たちも着替えを再開した。道三は旅装に替え、渡された目出し帽を被る。
木立の奥へ案内されかけた道三は、その場に残る俺に気づいて足を止めた。
「おぬしは来ぬのか」
「治部大輔が、この死体を山城守だと認めるまで残る。生きていると疑われたら困るからな」
「面倒な男じゃ。助けた相手より、死体の始末が気になるか」
「あんたが後で追い回されないようにするんだから、先に行ってくれ」
道三はそれ以上言わず、甲賀の者と木立の奥へ消えた。ほどなく利家が戻り、戦場の方を警戒しながら近づいてくる。
「左からの追手はおりませぬ。こちらへ向かっていた兵も、戦場へ戻りました」
「又左衛門は先に抜けろ。俺は弦十郎と、死体が見つかるのを待つ」
利家を送り出すと、右を受け持っていた成政も戻ってきた。こちらも追手は途切れたという。俺が撤退を命じると、成政は利家とは別の方角へ木立を抜けていった。
善住坊も兵を数人ずつ持ち場から離れさせ、最後に自分も別の道へ入った。五十人がまとまって逃げれば、追う側にも目につく。俺と政基は死体を見通せる木陰へ下がり、枝の間から戦場側を窺った。
義龍方の足軽に着替えた近習が、近くを通った兵を呼び止めた。死体へ連れていくと、一人が具足に気づき、別の兵を呼ぶ。やがて武者も現れ、死体のそばに膝をついた。
政基が声を抑えた。
「近習の話は通じたようですな」
「まだだ。上の連中がどう扱うか見ておこう」
武者たちは具足を調べ、近習へ何か尋ねていた。ここまでは声が届かない。一人が立ち上がって戦場の奥へ走り、残った者は集まってくる兵を死体から遠ざけた。
周囲ではまだ敗兵を追う声が続いている。俺たちが木陰で待つうち、死体の周りにいた者たちが左右へ退いた。その間を義龍が進み、父の具足を着けた死体の前で足を止めた。
義龍は具足を調べた後、近習を呼び寄せた。男は頭を下げたまま、問い掛けに答えている。義龍は最後にもう一度死体を確かめ、傍らの武者へ何か命じて立ち去った。
ほどなく、近くの兵が道三の討死を口にし始めた。首は持ち去られたらしいという話も広がり、誰が討ったのか、覆面の者は何者なのかと、話し合う声が聞こえてくる。
政基が俺を促した。
「これなら、もうよろしいでしょう。兵が散る前に離れましょう」
「ああ。戻るぞ」
俺たちは身を低くしたまま木陰を離れ、木立の奥へ引き返した。
* * *
川へ戻った時には、道三を乗せた舟はすでに出ており、俺と政基も残された舟に乗って桑名へ下った。利家と成政は、それぞれ別の経路で戻る手筈になっている。
桑名で道三と合流してからも、俺たちは名を明かさず、人の出入りがある間は顔を隠したまま、道三にも目出し帽を外させずに進んだ。
しばらく黙って従っていた道三も、道中でとうとう口を開いた。
「いつまで顔を隠すつもりじゃ」
「外の人間がいなくなるまでだ」
「せめて、どこへ連れていくのかくらい教えてもよかろう」
「着けば分かる。もう少し付き合ってくれ」
道三は何か言いかけたものの、それきり尋ねてこなかった。江野へ着くと道三を離れへ通し、荷を運び込んだ者たちが引き上げるのを待って、屋敷の者だけになったところで、ようやく俺たちは目出し帽を外した。
道三は露わになった俺の顔を、しばらく見ていた。
「若いとは思うておったが……」
「橘十兵衛だ」
「なるほど。北伊勢で名を上げておる十兵衛とは、おぬしだったか。十四の小僧が、わしを長良川から攫うとはな」
「攫ってない。自分の足でついてきただろ」
「周りを鉄砲で片付けられて、断れる者がどれだけおる」
それを言われると返しにくく、返答に詰まっているうちに、道三は政基へ顔を向けた。
「そちらは、戦場でわしの前へ入った男じゃな」
「今井弦十郎にございます」
「名は覚えておこう。……さて、十兵衛。ここなら、わしを生かした訳も聞かせてもらえるのであろうな」
「あんたの知恵を借りたい。いろいろ話を聞かせてくれ」
「戦場では、何もなければ茶飲み相手でもよいと言うておったぞ」
「茶を飲みながらでも話は聞けるだろ。家臣になれと言ってるわけじゃない」
俺は懐から二通の書状を出し、道三の前へ置いた。一通目を開いた手が止まり、そのまま紙面を辿っていく。続けて二通目も読み終えると、道三は俺へ顔を上げた。
「どこで手に入れた」
「あんたが出した使いからだ。届く前に止めさせた」
「使いは、もう生きてはおらぬか」
「ああ」
道三は二通を重ねたまま、紙面に目を戻した。俺は何も言わずに待った。やがて書状が膝前へ置かれた。
「わしを死んだことにし、書状まで奪う。ずいぶん勝手な救い方をするものじゃ」
「助け方に文句があるなら聞く。ただ、斎藤山城守は討死したことになってる。その名で表に出るのはやめてくれ」
「それで、何と名乗れと言う」
「西村勘九郎だ。諱は正利。これからは、その名で暮らしてくれ」
正利は二通の書状を取り、乱れた折り目を指で直した。重ねて俺へ差し出す。
「そいつはおぬしが持っておれ」
「いいのか。返すつもりで持ってきたんだが」
「斎藤山城守が書いた物じゃ。西村勘九郎には要らぬ」
俺は書状を受け取り、懐へ戻した。正利はそれを見届けると、何も置かれていない自分の前へ目を落とした。
「それで、茶は出ぬのか」
「今から用意させる。飲みながら、いろいろ聞かせてもらう」
「着いた早々か。茶飲み相手も楽ではなさそうじゃな」
女中が茶を運んでくると、正利は茶碗を受け取り、口へ運んだ。俺も自分の茶に手を伸ばしたが、聞こうと思っていたことは、ひとまず後にした。
正利は一杯目を飲み干すと、茶碗を置いた。
「もう一杯もらえるか」
「ああ」
女中へ茶を頼み、俺は懐の書状を脇へ置いた。正利はそちらを見たものの、もう手を伸ばそうとはしなかった。
二杯目の茶を受け取ると、正利は両手で茶碗を包んだ。長良川で太刀を握っていた手を眺めながら、俺も自分の茶を飲んだ。聞きたいことはあったが、今は口にしなかった。




