第9話 鹿一頭の使い道
罠の跡を片づけ、危ない穴を埋め戻すころには、もう昼近くになっていた。
鹿は土にまみれたまま、罠を仕掛けていた場所のそばに横たわっている。
人足の一人が、土のついた手を払って息を吐いた。
「これで豆も少しは助かりますやろな」
「畑に出るやつが一頭減っただけでも、大きいわ」
弦十郎も、興奮の残る顔で鹿を見ていた。
「若様の策で、本当に仕留めましたな」
孫兵衛は何も言わず、鹿の脚や腹を確かめている。
皆は、害獣退治だと思っている。
間違ってはいない。
本音を言えば、これが欲しかった。
肉だ。
だが、肉だけで終わらせるつもりはない。
竹を捨てないなら、鹿も捨てない。
前世で在庫を見ていたころ、俺は何を見ても、まず分けて考える癖がついていた。
そのままでは売れないものでも、分ければ使い道が出ることがある。まとめて見ればただの在庫でも、部品や付属品に分ければ金に変わることがある。
鹿も同じだ。
一頭の獣として見れば、畑を荒らす厄介者だ。だが、分けて見れば違う。
肉は食える。皮は残せる。骨も角も腱も、使い道がある。
これは、ただ畑を荒らす獣ではない。
山から出てきた、使えるものの塊だ。
「村へ運ぶ」
弦十郎が顔を上げた。
「村へ、ですか」
「屋敷の裏庭で捌く。肉だけじゃない。皮も骨も角も、腱も捨てるな」
人足たちは、すぐには返事をしなかった。
孫兵衛が目を細める。
「若様。退治ではなく、取りに来たのですな」
「そうだ。畑を守るだけなら、一頭減ればいい。だが、村を助けるなら、食えるものも使えるものも持ち帰る」
人足たちは、まだ鹿を見ていた。
孫兵衛だけが、鹿を見たまま頷いた。
「捨てるものではありません」
「そういうことだ」
俺は人足二人を見た。
「二人で運べるか」
人足たちは顔を見合わせた。
「重いですけど、やれんことはないです」
「無理はするな。危ない場所では止まれ」
「へい」
俺は弦十郎を見る。
「弦十郎は俺につけ。危ない場所では、俺を背負え」
弦十郎は一瞬、鹿の方を見た。
「平らな場所なら手を貸していい。だが、山道では俺を優先しろ」
「承りました」
孫兵衛が鹿の脚と腹を見た。
「前脚と後脚を縛ります。腹は締めすぎません」
「任せる。屋敷まで運ぶ」
「承知」
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鹿を担いで山を下りるのは、人足たちにも楽ではなさそうだった。
前脚と後脚を縛られた鹿が、太い枝に吊られて揺れる。
孫兵衛は少し先を歩き、足場を確かめていた。
崩れやすい土。
濡れた石。
草に隠れた段差。
そういうものを見つけるたび、短く声をかける。
「そこ、滑ります」
「右へ」
「枝。頭を下げて」
沢に近い細い道では、俺は弦十郎の背にいた。
行きもそうだった。俺の足で歩かせるには、まだ危ない場所が多すぎる。
弦十郎は俺を背負い、人足たちの少し後ろを歩いた。鹿を担ぐ二人が足を止めれば、すぐに声をかけられる距離だ。
「若様、枝が来ます」
「分かった」
俺は首を低くした。
平らな場所へ出ると、弦十郎は膝をついた。
「若様、ここから少し歩けますか」
「歩ける」
地面に下ろされると、弦十郎はすぐに鹿の方へ回った。人足の一人と肩を替え、太い枝を受ける。
鹿の重みで、弦十郎の肩がわずかに沈んだ。
俺はその少し後ろを歩いた。
近すぎれば、鹿が揺れた時に巻き込まれる。離れすぎれば、俺が足を取られても、すぐには手が届かない。
弦十郎は鹿を担ぎながら、ときおりこちらを振り返った。
「若様、足元を」
「分かっている」
「そこは石が浮いております」
言われた通りに足を置く。
弦十郎はすぐ前を向き直り、人足と声を合わせて鹿を運んだ。
しばらく進むと、人足の一人が息を吐いた。
「こりゃ、思ったより重いですわ」
もう一人も肩を回す。
「鹿一頭いうても、なかなかですわ」
「休むか」
俺が言うと、人足たちは一瞬だけ顔を見合わせた。
「まだ行けます」
「少し休め。足を滑らせれば、鹿より人の方が厄介だ」
鹿を平らな場所へ下ろすと、人足たちは肩を回した。弦十郎も息を整えている。
無理に運ばせて、帰り道で怪我でもされたら困る。
人手は、鹿より貴重だ。
孫兵衛は休んでいる間も、戻る道の先を見ていた。
「この先は、少し広い」
「なら、そこまで慎重に進む」
「承知」
しばらく休むと、人足たちは先ほどより慎重に鹿を担ぎ直した。
孫兵衛が先に立ち、弦十郎は俺の近くへ戻る。道がまた細くなるところでは、黙って膝をついた。
俺は、もう一度その背に乗った。
鹿を担ぐ人足たちの足音と、沢の音が重なる。
山から村へ、獲物を運ぶ。
それだけのことが、思った以上に手間だった。
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村の近くまで戻ると、先に気づいた子供が声を上げた。
「鹿だ!」
その声で、人が集まり始めた。
畑から戻る者。
井戸端にいた女。
薪を背負った男。
皆、土にまみれた鹿を見て足を止める。
「鹿だ」
「丸ごと運んできたんか」
「畑を荒らすやつを獲ったんやろか」
「屋敷へ持っていくんか」
ざわめきが広がった。
鹿を担いだ人足たちは、疲れた顔をしていた。それでも、どこか誇らしげでもある。
弦十郎は俺のそばに戻っていた。
山道では何度も背負われたが、村の近くまで来れば、自分の足で歩ける。
だが、その鹿が何に変わるのかまでは、誰もまだ分かっていない。
屋敷の前に着くころには、頼政と春が出てきていた。その後ろには政虎もいる。
頼政は、運ばれてきた鹿を見てしばらく黙った。
人足たちが鹿を屋敷の前へ下ろす。土にまみれた身体が、どさりと音を立てた。
先に口を開いたのは、春だった。
「小徳丸、怪我は」
「ありません。途中までは、弦十郎に背負われていました」
春の目が弦十郎へ向く。
弦十郎は慌てて頭を下げた。
「若様には、危ないところへ近づかせておりませぬ」
春はまだ心配そうだったが、それ以上は言わなかった。
頼政が鹿へ近づく。
「まことに獲ったのか」
「はい」
「穴でか」
「はい」
頼政は孫兵衛を見た。
孫兵衛が深く頭を下げる。
「若様の仰せ通りです。鹿は、狙った道へ入りました」
周囲がまたざわついた。
若様の仰せ通り。
ただ鹿を獲ったという話より、その言葉の方が効いたらしい。
政虎が、俺の前へ一歩出る。
「若様。この鹿は、いかがなさいますか」
「裏庭へ運ぶ。そこで捌く」
「捌く、と」
「食う。皮も残す。骨も角も使う」
その場が、少し静かになった。
今までは、鹿を獲った驚きだった。だが、俺の言葉で空気が変わる。
おせんが、女房衆を連れて前へ出てきた。
「若様、鹿を召し上がるのでございますか」
「食う」
「山の者ならともかく、屋敷で四つ足を出すとなると、嫌がる者もおりますよ」
「なら、俺が先に食う」
「若様」
「食う者と食わぬ者は分ける。無理には食わせん」
おせんが言葉を失った。
春が困ったように俺を見る。頼政もすぐには口を挟まなかった。
政虎だけが、小さく息を吐く。
「若様の仰せならば、まずは場を整えましょう」
政虎がそう言うと、迷っていた家人たちも動き出した。
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鹿は屋敷の裏庭へ運ばれた。
筵が敷かれ、水と桶が並ぶ。
おせんが女房衆に声を飛ばした。
「ぼうっとしてるんじゃないよ。水を多めに。刃物も洗っておきな」
迷いはあっても、動き出せば早い。
孫兵衛は腰の小刀を抜いた。
「血を抜きます。皮は、使えるところを残します」
「頼む。使えるところは捨てるな」
「承知」
孫兵衛の手元に迷いはなかった。
俺には詳しい手順までは分からない。だが、無駄な動きがないことだけは分かった。
やがて孫兵衛が、薄く切った肉を一切れ差し出す。
「若様。焼きましょう」
「頼む」
肉が串に刺され、火にかけられた。
脂が落ちる。
じゅっと音がした。
米でも粟でもない。味噌でも漬物でもない。
肉の匂いだ。
庭に集まった者たちは、誰も声を出さなかった。
顔をしかめている者もいる。だが、目は火の上の肉から離れていない。
おせんが、火のそばにいる女房衆へ声を飛ばした。
「よく焼きな。生のところを残すんじゃないよ」
口ではそう言いながらも、顔はまだ渋い。
だからこそ、最初に食う者が要る。
やがて、孫兵衛が肉を返した。
「もうよいでしょう」
俺は串を受け取ると、そのまま肉にかじりついた。
硬い。
だが、嫌な硬さではない。
噛むほどに、締まった赤身から濃い味が出る。
獣の匂いはある。けれど、山の草と血が混じったような匂いで、不思議と悪くない。
脂ではなく、肉そのものがうまい。
塩か味噌があれば、もっと化けるだろう。だが、今はこれで十分だった。
山からもらった恵みだ。
俺は、串を持ったまま言った。
「うまい」
庭がざわついた。
嫌そうにしていた者まで、火の上の肉を見直している。
俺は弦十郎を見た。
「弦十郎、食べてみろ」
弦十郎は一瞬だけ固まったが、すぐに頭を下げた。
「いただきます」
肉を口に入れる。
次の瞬間、弦十郎の目が変わった。
「……うまい、です」
その声は、思ったより大きかった。
孫兵衛が自分の分を取り、政虎も続いた。
頼政が肉を取ると、家人たちも手を伸ばす。村人たちも、恐る恐る火のそばへ寄ってきた。
春は最後まで迷っていたが、俺と頼政の顔を見て、小さく息を吐いた。
「少しだけですよ」
そう言って、焼けた肉を口に入れる。
吐き出しはしなかった。
それで十分だった。
女房衆の一人が、焼けた肉を見ながら呟く。
「粟飯ばかりの日よりは、よほど力が出そうだね」
その言葉に、何人かがうなずいた。
鹿一頭で村が救えるわけではない。
だが、山にいる獣を獲れるなら、食えるものは増える。害獣から畑を守れる。そのうえ、作物の収穫を待つあいだの食い物にもなる。
それだけでも、やる意味はある。
俺は、庭の端に置かれた皮へ目を向けた。
肉を食えば、腹の中へ消える。だが、皮は残る。
残るものがあれば、次につながる。
孫兵衛は、言われた通り皮を傷めぬように広げていた。
「その皮は、塩をすり込んで畳んでおけ」
「承知」
そこで、おせんが顔をしかめた。
「若様、塩を使うのでございますか」
「使う」
「塩は安くございません」
「だから使う。腐らせれば、何も残らない」
おせんが、意味を測りかねた顔をした。
「塩を使っても、残せば損にはならん」
「損、でございますか」
「穴の空いた皮でも、使えるところはある。紐になる。継ぎ当てになる。手や足を守る当て革にもなる。小さな袋くらいなら作れる」
おせんは、すぐには言い返さなかった。
塩は減る。
だが、使わなければ皮ごと失う。
どちらが損かは、考えるまでもない。
「分かりました」
おせんは女房衆へ振り返った。
「塩を持ってきな。ただし、無駄に使うんじゃないよ」
女房衆が動き出す。
皮が広げられ、汚れが落とされ、塩の用意が進む。
これで皮は残る。
次は、骨と角と腱だ。
「作兵衛はいるか」
人垣の後ろから、煤のついた中年男が顔を出した。
「へえ。ここにおります」
鍛冶屋の作兵衛だ。
おせんが振り返り、少し呆れた顔をした。
「あんた、いつからそこにいたんだい」
「鹿を獲ったと聞けば、見に来ぬわけにはまいりません」
俺は、庭の端に取り分けられた骨と角を指した。
「作兵衛。骨と角は、任せる」
「骨と角、でございますか」
「捨てるな。柄でも留め具でもいい。使える形を考えろ」
作兵衛の目が、肉ではなく骨と角へ向いた。
材料を見る目だ。
「……面白うございますな」
おせんが呆れたように眉を上げる。
「あんた、こういう時だけ目が変わるね」
「鍛冶屋でございますからな」
作兵衛はそう言って、角を一つ手に取った。
俺は孫兵衛の方を見る。
「腱は、孫兵衛に任せる」
孫兵衛は頷いた。
「干して裂きます。縫うにも、括るにも使えましょう」
「頼む」
庭では、鹿だったものが次々と形を変えていた。
肉は食われ、皮には塩がすり込まれる。骨と角は作兵衛の前に置かれ、腱は孫兵衛が分けていく。
女房衆の一人が、ぽつりと呟いた。
「鹿ってのは、こんなに使えるもんだったのかね」
誰も、すぐには答えなかった。
頼政が、庭に並んだものを見回してから俺を見る。
「小徳丸。初めから、ここまで考えていたのか」
「全部ではありません。でも、獲れたなら使い切るつもりでした」
頼政はしばらく黙っていた。
鹿ではなく、鹿を囲んで動き始めた者たちを見ている。肉を食い、皮を残し、骨を道具にしようとする流れが、もう庭にできていた。
それから、政虎へ目を向ける。
「彦九郎」
「はっ」
「しばらく、倅の言うことを聞いてやれ。必要な人手や道具があれば、俺に通せ」
政虎が深く頭を下げた。
「承知いたしました」
その一言で、庭の空気が変わった。
俺の言葉は、ただの子供の戯れではなくなった。
弦十郎が、汗の残る顔で俺を見る。
「若様。次も、俺をお使いください」
俺は弦十郎を見た。
若く、強がる。だが、命じれば従うし、山でも動ける。
「考えておく」
「はっ」
弦十郎は、それだけで嬉しそうに頭を下げた。
庭には、まだ鹿肉の匂いが残っている。
村の者たちは、この日初めて知った。
山の獣は、畑を荒らすだけのものではない。
食える。
残せる。
使える。
鹿一頭の使い道は、肉だけでは終わらなかった。




