第10話 山を銭に変える
天文十四年、夏。
沢の水はまだ冷たいが、昼の日差しは強い。屋敷の裏山では、蝉が鳴き始めていた。
あれからも、俺は猟のことを考えていた。
鹿を一頭獲れば、肉も皮も骨も角も取れる。
だが、落とし穴は人手を食う。場所を誤れば人を落とし、獲物がかからなければ丸損だ。
なら次に考えるのは、少ない人手で獣を獲る方法だった。
「若様」
庭先から声がした。
弦十郎だった。
今井弦十郎。
今井家は小身ながら、橘家に代々仕える譜代である。
「弦十郎、ちょうどいい。作兵衛のところへ行くぞ」
「作兵衛のところでございますか」
「鹿の骨と角を見たい。あと、作らせたい物がある」
弦十郎が少しだけ目を細めた。
「また、何か思いつかれましたか」
「まあな。歩きながら話す」
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俺は屋敷を出た。
道端の草は、春よりも高く伸びていた。畦の脇には露草が青い花をつけ、葛の蔓が土手を覆い始めている。
村の子供が、沢の方へ駆けていった。
落とし穴で獣を獲るなら、人が立ち入る沢の方に穴は掘れない。
「落とし穴は増やさない」
俺は歩きながら言った。
「兎や狸には、箱罠を使う」
「箱罠、でございますか」
「箱に餌を置く。獣が入れば、扉が落ちる。追わずに待つ罠だ」
「追うのではなく、入るのを待つのでございますな」
「そうだ。獣が通る場所に仕掛ける。そこは孫兵衛に任せる」
畑の端に差しかかったところで、見知った顔がいた。
孫兵衛だった。
片手に、先日の鹿皮を丸めて抱えている。皮はまだ湿り気を残しているのか、端が重そうに垂れていた。
「若様」
孫兵衛は、短く頭を下げた。
「例の皮か」
「はい。使えるところだけ残しました」
「穴は多いか」
「多いです。罠に落ちた鹿ですからな」
孫兵衛は、丸めた皮の端を少しだけ開いた。ところどころに破れがある。
綺麗な一枚革にはならない。
だが、捨てるほどでもない。
「紐にはなるか」
「裂けば使えます。継ぎ当てにもなりましょう。ただ、干しただけでは硬くなります」
「なら、柿は使えないか」
孫兵衛が、少しだけ目を上げた。
「柿でございますか」
「渋柿だ。潰して汁を取る。あれを塗れば、ただ干すよりは持つかもしれない」
弦十郎が首を傾げた。
「柿を、皮に」
「試しだ。うまくいくかは分からん」
孫兵衛は、鹿皮の端を指でこすった。
「柔らかくするなら、揉みと脂が要ります。柿だけで革になるかは、やってみねば分かりませぬ」
「そこは任せる。渋柿は秋でいい。干し柿にする分と、試す分を分ける」
「食う分まで奪うわけではないのでございますな」
「そうだ」
孫兵衛は鹿皮の端を押さえた。
「なら、この皮の端は干して残しましょう。秋に試せます」
「濡れたままなら腐るな」
「薄く裂いて、風の通るところで干します」
「それでいい。孫兵衛、その皮も持ってきてくれ。作兵衛に骨や角と合わせて見せる」
「承知しました」
「口で言うより早い」
作兵衛の小屋が、畑の向こうに見えてきた。
屋根は低く、入口の横には薪と炭俵が積まれている。近づくにつれて、鉄と炭の匂いが濃くなった。
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作兵衛は小屋の前で、火床の灰をならしていた。
俺たちに気づくと、手を止めて頭を下げる。
「若様。弦十郎殿。孫兵衛殿」
「作兵衛。先日の鹿の骨と角はあるか」
「ございます。使えそうなところは、分けてあります」
作兵衛は小屋の奥へ入り、布の上に鹿の角と骨を並べた。
角はまだ土の色が残っている。骨は太いもの、細いものに分けられ、欠けたものは端へ寄せてあった。
孫兵衛も、抱えていた鹿皮を広げる。
作兵衛は、それを見て眉を寄せた。
「これは、なかなか傷んでおりますな」
「落とし穴に落ちた鹿だ。綺麗な皮にはならない」
「ですが、紐や当て革なら取れましょう」
「俺もそう考えている。皮の分け目は孫兵衛に見てもらう」
孫兵衛が短く頷いた。
「使えるところは残します」
作兵衛はそれを見届けてから、布の上の骨と角へ目を移した。
「角は削れば柄になります。小刀の柄、錐の柄、留め具にもなりましょう。骨は針や小物にできますが、細工には手間が要ります」
「なら、俺が兜を作る時は角を使ってくれ」
作兵衛は、鹿角を見てから俺を見た。
「若様には、まず兜に合う背丈になっていただかねば」
「それもそうだ」
弦十郎が、かすかに口元を緩めた。
俺は、並べられた骨と角と皮を見た。
分けて並べれば、ただの残り物には見えない。
「作兵衛。こういう使えるものを増やしたい」
「肉や皮、骨や角を、でございますか」
「そうだ。鹿だけじゃない。兎も狸も、獲れば肉になり、皮になる。小さくても、集まれば材料になる」
弦十郎が、こちらを見た。
「そのための箱罠でございますな」
「そうだ。作兵衛、形を見てくれ」
俺は、作兵衛の小屋にあった板切れを借りた。炭の欠片で、その上に四角い箱を描く。
「これが箱罠だ。獣が入れば、扉が落ちる」
作兵衛と弦十郎が、板の上を覗き込む。孫兵衛も、少し離れたところから目を細めた。
作兵衛は、炭の線をじっと見た。
「箱だけなら、村の者でも作れましょう」
「なら、作れるな」
「一つなら。ですが、肝は扉でございますな」
「扉か」
「はい。落ちねば閉じませぬ。落ちても隙間があれば逃げます」
「上から落とす形でいいか」
「木の溝に沿わせるのがよろしいかと。鉄は留めと補強に回します」
「鉄は少なくて済むか」
「少なくはできます。ですが、数を作るなら、木を正しく削る者が要ります」
孫兵衛が、そこで口を開いた。
「形が良くても、置く場所が悪ければ入りません」
「やはり、そこか」
「はい。兎にも狸にも、通るところがあります。そこを外せば、ただの箱です」
「人が通る場所も駄目だな」
「駄目です。人の匂いが強ければ避けます。子供なら面白がって近づく」
弦十郎が眉を寄せた。
「なら、村に近い沢には置けませぬな」
「置けません」
「村外れの沢筋ならどうだ」
「見ねば分かりませぬ。多くは置けますまい」
「なら、見回れる数だけでいい」
「遠くへ置けば、獲物が傷みます」
「まずは試しだ。増やすのはその後でいい」
作兵衛が、板の上の箱罠を見ながら言った。
「若様。数を作るなら板が要ります。となれば、大鋸ですな」
大鋸。
丸太を板に挽く、大きな鋸だ。
「作れるか」
「作れぬことはございませぬ。ですが、鉄を食います」
「今すぐ揃えるとは言わない。鉄のことは父上にも相談する。村の鍬や鎌を後回しにするものではないからな」
「されど、いずれは要るのでございますな」
「板は、箱罠だけで終わらん」
「ほかにも使うのでございますか」
「小箱にも、荷を運ぶ道具にも使う。いずれ、水を使う仕掛けにも要る」
作兵衛が、わずかに目を上げた。
「水を使う仕掛け、でございますか」
「まだ先だ。今は箱罠を作る」
話を広げすぎれば、最初の一つすら形にならない。
作兵衛は、炭の線を指でたどった。
「箱を一つ作るだけなら、どうにかなります」
「数を作るなら」
「溝が曲がります。扉が噛みます。逃げられます」
「木を削る腕が要るか」
「はい。木地師でございますな」
木地師。
山に入り、椀や盆を削る者たちだ。
「隣の谷におります。椀や盆を削る者どもです。木を見る目は確かでございましょう」
「呼べるか」
「話を通すことはできます。ですが、仕事を頼むなら銭が要ります」
弦十郎も、そこで顔を曇らせた。
「朝霧に、余るほどはございませぬ」
「分かっている」
銭がないなら、いきなり大きく頼めばいいわけではない。
「先に多くは払えない。なら、空いた手で少し試す」
「木地師が、それで受けましょうか」
「先の仕事を奪う気はない。作ったものが売れれば、そこから手間賃を渡す」
「売れるまで待て、ということでございますか」
「違う。損をさせぬ形を探す。続かなければ意味がない」
作兵衛が低く笑った。
「鍛冶屋に畑仕事をさせるより、鉄を打たせた方がよい。木地師には木を削らせる。そういう話でございましょう」
「そういう話だ」
俺は、板の上に描かれた箱罠を見た。
「箱罠は、すぐ銭になる物ではない。だが、獣が獲れれば肉も皮も骨も増える。木地師を入れれば、売る小物も作れる」
「罠だけを見るな、ということですか」
「そうだ。山から出せる物を増やす」
作兵衛は、しばらく黙っていた。
やがて、炭の欠片を取り、箱罠の横に小さな輪を二つ描いた。
「では、運ぶ道具も要りましょうな」
「小荷車だ。人が引ける大きさでいい」
「車でございますか」
「山の奥までは無理でも、村の道なら使える」
「車輪が歪めば回りませぬ。軸が悪ければ、すぐ壊れます」
「そこも木地師か」
「要りましょうな」
俺は板の上の絵を見た。
箱罠を作るにも、荷を運ぶにも、売る小物を作るにも、木を削る腕が要る。
別々の話ではなかった。
弦十郎は、板の上の絵を見比べた。
「罠も、荷車も、売り物も、つながっているのでございますな」
「そうだ。作るだけでは足りない。運べなければ使えない。売れなければ銭にならない」
作兵衛が、低く笑った。
「鍛冶屋の小屋で聞く話にしては、大きくなりましたな」
「まだ大きくはない。箱罠一つの話だ」
「箱罠一つで、ここまで考えるので」
「一つ目で詰まれば、二つ目は作れない」
作兵衛は笑うのをやめ、真顔で頷いた。
「承知いたしました」
俺は、板の端にもう一つだけ形を描いた。
弓を横へ据えたような形だ。
作兵衛の目が、すぐにそちらへ動いた。
「これは何でございますか」
「弩だ」
「弓を寝かせたような形でございますな」
「そうだ。先に引いて留めておく」
作兵衛は、しばらく炭の線を見ていた。
「これは、すぐには難しゅうございますな」
「分かっている。今は作らん。だが、覚えておいてくれ」
「承知いたしました」
ここで弩に手を出せば、箱罠が止まる。
俺は、炭の線を箱罠へ戻した。
「まずは箱罠だ」
炭で描いた箱罠の線を、もう一度なぞる。
「一つ作ってくれ。兎を基準に、小さく、直しやすく」
「承知いたしました」
「作兵衛は、骨と角も並べておいてくれ。村の者に見せる」
「見せるのでございますか」
「鹿一頭で何が残るか。罠で何を獲るつもりか。木で何を作るつもりか。口で言うより、見せた方が早い」
孫兵衛が、畳んだ鹿皮を抱え直した。
「穴の多い皮も、並べますか」
「並べる。綺麗なものだけ見せても意味がない。紐にするところ、当て革にするところも分けて見せる」
作兵衛は、骨と角の並びを見た。
「では、私が削れそうなものも少し出しておきましょう」
「頼む」
小屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。
板の上には、箱罠や小荷車、椀、小箱、弩の絵が並んでいる。どれも、まだ形にはなっていない。
ただの炭の線だ。
だが、炭の線がなければ、誰も同じものを見られない。
「若様」
弦十郎が静かに言った。
「これは、山を銭に変える話でございますな」
「そうだ」
俺は頷いた。
「今は箱罠一つでいい。小さく始めて、残ったものを次につなげる」
作兵衛が頷く。孫兵衛が鹿皮を丸め直す。弦十郎が、板の上の絵を見てから、俺に向き直った。
「若様」
「何だ」
「また、村が忙しくなりますな」
「俺が家督を継いだら、もっと地獄だぞ」
弦十郎は、一瞬だけ言葉を失い、それから困ったように笑った。
作兵衛の小屋を出るころ、夏の日差しはさらに強くなっていた。
裏山では、蝉が鳴いている。




