第10.5話 閑話 槍の前に足
翌朝、俺は屋敷の庭に立たされていた。
目の前には、木刀を持った政虎がいる。少し離れたところでは、弦十郎が腕を組み、こちらを見ていた。
まだ朝だ。
飯のあと、少し涼んでからでも罰は当たらないはずである。
「なぜ、朝から稽古なのだ」
俺が聞くと、政虎は木刀の先をわずかに下げた。
「若様が山へ入ると聞きました」
「木地師に会うためだ。まだ決まったわけではない」
「決まってからでは遅うございます」
返事が早い。
しかも正しい。
昨日、作兵衛の小屋で、山を銭に変える話をした。鹿の皮も骨も角も使い、小さな獣は箱罠で獲る。木地師に木を削らせ、品にしたら商人へ流す。
言うだけなら簡単だ。
だが、山へ入る足がなければ、何一つ始まらない。
「……分かった」
俺は木刀を構えた。
政虎は打ち込んでこなかった。
「まずは足でございます」
「木刀は飾りか」
「木刀を振る前に、足が乱れております」
「そこまで言うか」
「申します」
政虎は真顔だった。
前へ一歩。
横へ一歩。
下がって一歩。
腰を落とし、足を流さず、目線を下げすぎない。
やることは単純だ。
単純なのに、すぐ汗が出た。
「若様、腰が高うございます」
「これ以上落とすのか」
「はい」
「足が死ぬぞ」
「死なぬ程度にいたします」
信用できない。
政虎はこういう時、顔色を変えずに人を追い込む。
「若様、膝が伸びております」
「伸びたがっているのだ」
「膝の言い分は聞かなくてよろしいかと」
「少しは聞け」
「聞けば稽古になりませぬ」
弦十郎が横で小さく笑った。
助ける気はなさそうだ。
屋敷の庭で音を上げるようでは、山へ入るなどと言えない。木地師の谷へ行く前に、政虎の足運びで潰れるわけにはいかなかった。
しばらく続けると、政虎がようやく木刀を下げた。
「少し休みましょう」
「やっとか」
俺は息を吐いた。
腕も足も重い。何より、こちらがいくら動いても政虎に届く気がしない。
ならば、武器を持たない戦いならどうか。
前世で、そういう動画を見たことがある。
ロシアの徒手格闘、システマ。
相手の力を流し、重心を崩す。
見ている分には、簡単そうだった。
もちろん、見ただけで強くなれるなら、世の稽古場は全部潰れている。
「彦九郎、少し手を貸せ」
「はっ」
俺は木刀を置き、政虎の手首に手を伸ばした。
力に逆らわず、外へ流す。体をずらし、相手の重心を崩す。
頭の中では、そうなるはずだった。
「……若様」
俺の手は空をつかんでいた。
政虎は半歩ずれている。崩れるどころか、顔色一つ変えていない。
「もう一度だ」
「はっ」
今度は手首に触れた。
触れた、と思った瞬間、政虎の腕はするりと抜けた。俺の体だけが前に泳ぐ。
「……なぜだ」
「手が先に来ております」
政虎は淡々と言った。
「足が残り、腰も動いておりませぬ。腕だけで人は崩れませぬ」
正しい。
腹立たしいほど正しい。
動画では、そこまで分からなかった。いや、言っていたのかもしれない。見ている側の俺が、分かっていなかっただけだ。
弦十郎が目を細める。
「妙な手ではありますな」
「今のは、だめか」
「今のままでは使えませぬ。ただ、見ておられるところは悪くございません」
「どこだ」
「相手の崩れるところです」
政虎がうなずいた。
「若様は、手先で勝つお方ではありませぬ。足と腰ができれば、刀より槍の方が合いましょう」
「槍か」
「はい。遠くから崩れを取れます」
そう言って、政虎は庭の端から木槍を持ってきた。
穂先はない。稽古用の、短めの柄である。
「持ってみてください」
「休みではなかったのか」
「休みは終わりました」
「早いな」
「若様が山へ入るなら、早いに越したことはございません」
容赦がない。
そう思った時、政虎が木槍を軽く構えた。
「まずは、こうでございます」
政虎の足が半歩出た。
次の瞬間、木槍の先が庭の隅に置かれた古い俵を突いていた。
乾いた音がする。
突く。
戻す。
また突く。
速い。
いや、速いというより、いつ動いたのか分からない。
派手な掛け声もない。大きく振りかぶるわけでもない。なのに、俵だけが小さく跳ねている。
俺は黙った。
戦国武芸、思ったより怖い。
「……彦九郎」
「はっ」
「今の、本気か」
「いいえ。形を見せただけでございます」
ひぇー。
形でこれか。
前世の知識では、槍で名を残した武将はいくらでもいる。
本多忠勝。
前田利家。
政虎は、そういう名を天下に轟かせた者ではない。
その政虎で、これだ。
つまり、本多忠勝あたりは何だ。
人間ではなく、槍を持った災害か。
「若様?」
「いや、何でもない」
危ない。
一瞬、俺の中の戦国武将図鑑が悲鳴を上げた。
俺は木槍を受け取った。
木刀より長い。持っただけで、先が少し揺れる。腕で押さえようとすると、余計にぶれた。
政虎の槍は、さっきまるで揺れていなかった。
おかしい。
同じ木の棒のはずなのに、俺が持つと急にただの棒になる。
「若様、突いてください」
「待て。今、棒と相談している」
「棒は返事をいたしませぬ」
「知っている」
仕方なく、俺は俵へ向けて木槍を突き出した。
俵には当たった。
だが、柄が手の中で跳ねる。戻そうとした時には、先が下を向いていた。
「腕だけでございます」
「またか」
「はい」
政虎は木槍の中ほどを軽く叩いた。
「前の足で入り、腰を送る。突いたら、すぐ戻す。槍は伸ばしたままにしておくものではありませぬ」
「伸ばしたままでは駄目なのか」
「取られます」
政虎は俺の木槍を横から押さえた。
それだけで先が流れた。慌てて戻そうとすると、政虎は半歩踏み込み、柄を払った。
木槍が手の中で大きく揺れる。
「今のように、相手に触れられます」
「なるほど。嫌だな」
「嫌で済めばよろしいですが」
弦十郎が横でぼそりと言った。
「戦なら、もう一度考える暇はございませんな」
「分かった。分かったから続けろ」
政虎は小さくうなずいた。
「突く。戻す。足を残さない。もう一度」
俺は俵を見る。
突く。
戻す。
また突く。
三度目で、肩が重くなった。五度目で、足がずれた。七度目には、息が上がっている。
「若様、先ばかり見ております」
「俵を突くのだから、先を見るだろう」
「相手は俵ではございません。足も手も動きます」
「俵のままでいてほしい」
「戦では、そう都合よくはいきませぬ」
政虎は俺の前に立ち、木刀の柄でこちらの木槍を軽く外した。
ただそれだけで、俺の突きは横へ流れる。
「力で戻そうとしない。足で戻るのです」
「足で戻る?」
「はい。手で引く前に、体を戻す」
言われた通りにやる。
突いて、戻る。
今度は少しだけ、先の揺れが減った。
政虎がうなずく。
「それです」
「できたか」
「少しだけでございます」
「そこは褒めろ」
「褒めております」
絶対に褒めていない。
だが、木槍を持つと分かったことがある。
これは腕の武器ではない。
足が動かなければ届かない。腰が遅れればぶれる。戻しが鈍ければ、相手に取られる。
前世の動画で見た技を、そのまま持ち込む必要はない。
使えるところだけ取り入れ、この時代の武芸に合わせればいい。
そのためにも、まず足と腰だ。
「山も戦も、まず足でございます」
弦十郎が真面目な顔で言った。
「足か」
「はい。山で転ぶ者は、戦でも足を取られます」
「嫌な言い方をするな」
「分かりやすく申しました」
分かりやすいのが、余計に嫌だった。
木槍を置いた時には、腕も足もだいぶ怪しくなっていた。
だが、ここで手を抜くと、政虎は黙って回数を増やす。弦十郎は真面目な顔で、休みを短くする。
たぶん、どちらも悪気はない。
悪気がない者ほど厄介だ。
「分かった。次は体を作る」
俺は地面に手をついた。
両手とつま先で体を支え、胸を地面に近づけ、また押し上げる。三度目まではどうにかなった。四度目で腕が震えた。
「……若様」
「見るな」
「見ねば危のうございます」
弦十郎の声は真面目だった。
それが余計に腹立たしい。
前世で言えば、筋トレに近い。腕を伏せ、腰を落とし、食って寝て、また動く。
それだけだ。
銭は借りられる。人も雇える。だが、自分の体だけは他人から借りられない。
「次は何をなさるのです」
政虎が問う。
「腰を落とす」
俺は立ち上がり、足を開いた。
腰を沈め、また立つ。
十にも届かぬうちに、太ももが熱くなった。
「……これは、地味にきついな」
「若様が始めたことでございます」
「分かっている」
政虎はしばらく見てから、小さくうなずいた。
「変わった稽古ですが、足腰を作るには悪くありませぬ」
「これは毎朝やる」
「毎朝でございますか」
「一日で体は変わらん。毎朝やる」
「ならば、姿勢は私が見ます」
「頼む」
「無理をされるなら止めます」
「そこは少し見逃せ」
「見逃せませぬ」
山へ入るにも、槍を振るにも、今の体では足りない。
それくらいは、今日一日で嫌というほど分かった。
「厳しいな」
「若様が山へ入ると仰せなら、甘くはできませぬ」
家臣というものは、主の都合より先に、主の危うさを見るらしい。
垣根の向こうで、村の童らが首を伸ばしていた。
「若様、地べたで何してはるんや」
「稽古やそうな」
「さっきは長い棒も持ってはったで」
「けど、彦九郎様が見てはる。遊びやないやろ」
子供らは顔を見合わせた。
よく分からない。
だが、若様がまた変わったことを始めたのは分かったらしい。
「……今度は、わしらもやらされるんやろか」
「知らん。けど、逃げられへん気がするわ」
弦十郎がそちらを見ると、童らは慌てて首を引っ込めた。
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昼前には、稽古の場所が村外れへ移った。
俺は小さな袋を背負っている。中身は川原で拾った丸い石だ。
重すぎるほどではない。
だが、歩けば背中で石が動く。揺れれば足も乱れた。
前を弦十郎が歩き、横に政虎がついた。少し離れて、孫兵衛が山の方を見ている。
「若様、そこは踏まぬ方がよろしい」
弦十郎が言った。
「なぜだ」
「草が寝ております。水が溜まりやすい」
言われて見れば、道の端の草がわずかに倒れていた。土の色も少し濃い。
俺は足をずらした。
別の場所に体重を乗せる。
沈まない。
「なるほど」
「獣より先に、足元を見ねばなりませぬ」
孫兵衛が口を挟んだ。
「石も、根も、濡れた土も、人を転ばせます」
「罠を置く者が転んでは話にならんな」
「はい」
俺は山裾の坂を見上げた。
深い山ではない。屋敷からも村からも見える浅い坂である。
それでも、登れば息が上がった。
「若様、戻れますか」
弦十郎が問う。
「戻る。ここで戻れねば、谷へは行けん」
政虎が小さく笑った。
孫兵衛は山の奥を見ている。
「谷へ行くなら、日を選ばねばなりませぬな。雨の後は避けた方がよろしい」
「分かった。父上にも話を通す」
「山道を知る者にも声をかけましょう。崩れやすい所を知っている者がいます」
俺はうなずいた。
箱罠も小荷車も、弩も、作兵衛の小屋に残った炭の線でしかない。鹿皮も骨も角も、使える品にするには手間がかかる。
だが、手間が見えたなら段取りは組める。
「弦十郎」
「はっ」
「明日もやる」
「承知しました」
「彦九郎」
「はっ」
「槍の続きも見る」
「もちろんでございます」
「楽しそうだな」
「若様が上達されるなら、喜ばしいことにございます」
また真顔で言う。
この男、稽古となると遠慮がない。
山裾から見下ろすと、朝霧村は思ったより小さかった。
田畑があり、屋敷があり、作兵衛の小屋がある。その向こうに、細い道が村の外へ続いていた。
景色は悪くない。
登る時は重かった足も、村を見下ろしていると、少しだけ軽くなった気がした。
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夕方、俺は作兵衛の小屋に寄った。
昨日の炭の線は、まだ板に残っている。箱罠も小荷車も、横に据えた弓のようなものも、まだ板の上にあるだけだ。
小屋の中では、鹿の骨と角が粗い布の上に並べられている。
作兵衛は角を手に取っていた。
「若様、稽古を始められたそうですな」
「耳が早いな」
「村の童らが騒いでおりました。若様が地べたで変わったことをして、長い棒まで突いていた、と」
「変わってはいるが、遊びではない」
「若様がそう言われるなら、いずれ村の者もやることになるのでしょうな」
「まだ決めていない」
「決めておらぬ顔ではありませぬ」
否定できなかった。
山に入る者も、荷を運ぶ者も、いずれは体の使い方を覚えねばならない。
ただ、今日のところは俺の腕と足が震えただけだ。
「若様、これはどう見せます」
作兵衛が布の上を示した。
「村の者にか」
「はい。鹿は肉だけではないと見せるなら、早い方がよいかと」
「角は柄。骨は針や小物。皮は紐や当て革だ」
「はい」
「捨てるものではないと見せる」
「売り物にするには、まだ粗うございます」
「すぐ売る物でなくていい」
「では」
「まずは、見せる」
「承知しました」
作兵衛は角を置き、板に残った線を見た。
「忙しくなりますな」
「またか、と言われるぞ」
「もう言われております」
戸口にいた村の男が、困ったように笑った。
「若様が何か始めはると、後から仕事が増えますでな」
「安心しろ。今回は俺もやる」
「若様も、ですかい」
「そうだ。俺も朝から地べたに手をついている」
男は返事に困った顔をした。
作兵衛が小さく笑う。
「なら、逃げられませんな」
「逃がす気もないだろう」
「若様ほどではありませぬ」
ひどい言われようである。
俺は板に残った炭の線をもう一度見た。
箱罠も、小荷車も、横に据えた弓のようなものも、まだ線のままだ。
だが、俺の足は今日から動き始めた。
作兵衛は骨と角を並べ、村の童らは若様の妙な稽古を覚えた。
形になる前から、噂と仕事だけは増えていく。
朝霧村は、今日も少しだけ忙しくなっていた。
今回は第10.5話の閑話です。
本編の合間の話なので、少し軽めの空気で書いています。主人公の前世知識や趣味由来のネタ、軽いパロディ、時事ネタ寄りの言い回しなどが入ることもあります。
次回からは本編側に戻ります。




