第8話 小徳丸、狩りに出る・後
春は、俺の襟元を直し、最後に帯を軽く叩いた。
「これでよし」
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、春は少しだけ目を細めた。
「小徳丸」
「はい」
春は一度だけ息を吐いた。
「行っておいでなさい」
止める言葉ではなかった。
俺は、もう一度深く頭を下げた。
「はい」
弦十郎が一歩前へ出る。
「奥方様、若様は私が」
「頼みましたよ」
「はっ」
春の手が、俺の肩に一度だけ触れた。
温かかった。
頼政は、その様子を見て小さく息を吐いた。
「小徳丸」
「はい」
「山では、己の考えだけで動くな」
「はい」
頼政は、孫兵衛へ目を向ける。
「孫兵衛。山のことは任せる」
「承りました」
「弦十郎」
「はっ」
「小徳丸のそばにつけ」
「承りました」
屋敷の前に並んだのは、孫兵衛、弦十郎、人足二人。
持っていく大きな物は、槍一本、鍬二本、それに縄一束。孫兵衛は腰に山刀を差し、人足の一人も鉈を持っていた。
猟犬も馬も、弓の名手もいない。
武家の狩りというには地味すぎるが、鹿一頭を穴へ落とすなら足りる。
「参りましょう」
孫兵衛が山へ目を向けた。
俺は頷いた。
「行こう」
---
沢の音が近づくにつれ、道は細くなった。
孫兵衛が足を止める。
「若様。ここからは背に」
弦十郎がすぐに膝をついた。
「若様」
「分かった」
俺は弦十郎の背へ乗った。
弦十郎の足取りは乱れない。湿った土でも滑らず、枝が近づけば、俺に当たらないように肩を逃がす。
なるほど。
頼政がつけた理由は、足の速さだけではなさそうだった。
孫兵衛が前で足を止め、草むらを見た。
「まむしが出ます。足元をよう見て」
「承知しました」
弦十郎が短く返す。
俺は弦十郎の背で、草の陰を見下ろした。
しばらく進むと、孫兵衛が足を止めた。
「ここです」
弦十郎が膝をつき、俺を下ろす。
足元は草の薄い、少し高くなった場所だった。沢の音が近い。斜面は崩れ、上へ抜ける細い道がある。
その中間に、草の切れた隙間が見えた。
俺には、そこが逃げ道に見えた。
「孫兵衛」
孫兵衛は土を踏み、沢と斜面を見比べた。
「沢と崩れを嫌わせ、柴で押せば、あそこへ逃げます」
人足の一人が、草の切れたあたりを覗き込んだ。
「若様、あそこは根が多そうですな」
もう一人も鍬の柄を握り直す。
「石も出るやろうし、楽な土ではなさそうです」
「掘れないか」
「……掘れんことはないです」
人足は孫兵衛を見た。
「ただ、縁が崩れますさかい、狭う掘ると危ないですな」
孫兵衛が短く頷いた。
「広く取れ。深さも要る」
「分かりました」
俺も頷いた。
「なら、そこだ」
孫兵衛が斜面の下を見た。
「浅ければ、跳ねます」
「浅くはしない」
孫兵衛だけが、すぐに意味を取ったらしい。
「底に仕込みますか」
「竹を入れる」
弦十郎が、削る前の竹の方へ目を向けた。
人足の一人も、思わず穴を掘る場所を見た。
「竹、ですか」
「ただ落とすだけでは、暴れて出るかもしれん」
俺が言うと、人足は口を閉じた。
ただ落とす穴ではない。落として、動きを止める穴だ。
逃げられれば、次は警戒される。
今日の罠は、一度で決める。
「竹はあるか」
「この辺りで取れます」
孫兵衛が、斜面の脇を示した。
細い竹が、まとまって生えていた。
人足の一人が腰の鉈を抜く。
「若様、これくらいの太さでよろしいですか」
「孫兵衛」
俺が呼ぶと、孫兵衛は竹を見た。
「太すぎれば扱いにくい。細すぎれば折れます。これでよいでしょう」
「それで頼む」
人足の一人が竹を切る。もう一人が節のところで長さを揃え、先を斜めに削っていく。
乾いた音が、山の中に小さく続いた。
弦十郎は、削られた竹の先を見て目を細めた。
「落ちれば、ただでは済みませぬな」
「そのための穴だ」
弦十郎はそれ以上、何も言わなかった。ただ、穴の位置を確かめるように視線を動かした。
---
人足二人が穴を掘り始めた。
根が邪魔をする。石も出る。
だが、太い根ではない。鉈で切り、鍬の先で土を崩せば進められる。
人足の一人が、湿った土の中から拳ほどの石を掘り出した。
「石もありますな」
「大きいか」
「いや、これなら退けられます」
もう一人が近くの枝を拾い、石の下へ差し込んだ。梃子にして浮かせると、石はごろりと脇へ転がった。
「大石が出たら、ここは無理ですな」
孫兵衛が穴の縁を見た。
「その時は場所を替える。今は掘れ」
「分かりました」
鍬を振る者と、崩れた土を外へ出す者。二人しかいないから、手を止めればすぐ作業が詰まる。
「若様、これは思うたより骨ですな」
人足の一人が、額の汗を袖で拭った。
孫兵衛は穴の縁を見て、短く言った。
「そこは崩れる。削るなら、こちらです」
そう言うと、自分でも山刀を抜き、邪魔な根を切った。
弦十郎も、俺のそばを離れすぎない範囲で、掘り出された土を脇へ寄せる。
「弦十郎、無理に手を出すな」
「若様を見失うほどは離れませぬ」
そう言って、弦十郎はまた土を運んだ。
人手が足りない。
それは分かっている。
だが、何かを始める時に、十分な人数も道具も揃っていることなど、この村ではまずない。
足りないまま、どうにか回す。
今は、それを覚えるところからだった。
穴は、きれいな形にはならなかった。
それでいい。
鹿が気づかず落ちればいい。
だが、浅くても脆くても困る。穴が深くなるにつれ、鍬を振る音が重くなった。
「若様、これで人の腰ほどはあります」
人足の一人が、額の汗を袖で拭った。
「孫兵衛」
孫兵衛は穴の底を確かめた。
「もう少し」
「まだですか」
「跳ねます」
人足は顔を見合わせたが、すぐ鍬を握り直した。
「なら、もう少し掘ります」
しばらくして、孫兵衛が底を確かめ、削った竹を受け取った。
一本ずつ、底に竹が並んでいく。
誰も喋らなかった。
鹿を獲る。
言葉にすれば簡単だ。だが、その前には、獣を殺す段取りがある。
人足の一人が、小さく息を吐いた。
「山でこんな穴、初めて見ます」
「俺もだ」
俺が答えると、人足は少しだけ目を丸くした。
孫兵衛が穴を覗き、短く頷いた。
「これでよいでしょう」
「孫兵衛、隠せるか」
「隠せます」
「なら、隠そう」
枝を渡し、草を乗せ、薄く土をかける。
近くで見れば分かる。だが、逃げる鹿に足元を確かめる余裕などない。
---
次に、鹿が嫌がる場所を作った。
沢へ降りる道には、柴を低く置く。完全には塞がないが、踏み込めば脚に触れる。
上へ抜ける細道には、枝を斜めに散らした。
通れなくはない。だが、走れば脚を取られる。
残すのは、その間にある細い道だけだ。
そこだけが、一番楽に逃げられるように見える。
弦十郎が、罠を見て呟いた。
「追い込むというより、間違えさせるのですね」
「そうだ」
鹿が自分で選んだと思う道を残す。その先に、穴を置く。
孫兵衛が柴を一つ動かした。
「これは寝かせます。高すぎれば戻る」
「腹に触れるからか」
「はい。脚に触るくらいでよろしゅうございます」
「任せる」
人足の一人が首を傾げた。
「塞がんでよろしいんですか」
「塞ぎすぎると、鹿が戻る」
俺が答えるより先に、孫兵衛が言った。
人足は納得したように頷いた。
「なるほど。逃げ道を残すんですな」
穴は隠れ、道だけが残った。
道に見える罠だった。
---
孫兵衛が低く言った。
「一人は沢側。声で鹿を動かせ。もう一人は上の道へ」
人足たちの顔つきが変わった。
一人は沢側へ回る。鹿をこちらへ向ける役だ。
もう一人は、上へ抜ける道の近くへ入る。鹿が柴を越えて逃げようとした時、声で戻すためだ。
俺は罠から少し離れた岩に腰を下ろした。
穴と道は見える。鹿が暴れても、すぐには巻き込まれない距離だ。
弦十郎は、俺の横より少し前に立った。
鹿がこちらへ逸れれば、先に弦十郎が当たる。それでいて、俺から離れすぎてもいない。
孫兵衛は、沢側と上の道、そして穴をまとめて見られる場所に立った。
あとは、鹿が来るかどうかだ。
「今日は通るか」
俺が聞くと、孫兵衛は沢の向こうを見た。
「風は悪くありませぬ。来るなら、昼前です」
それだけ言って、孫兵衛は黙った。
---
待つ時間は長かった。
鳥の声と沢音、葉擦れだけが続く。
近くの弦十郎は、俺の少し前に立っていた。鹿がこちらへ逸れれば、先に受ける位置だ。
ただ立っているだけではない。すぐ動ける姿勢だった。
孫兵衛の手が、すっと上がった。
近くの弦十郎が、息を殺す。
孫兵衛は沢の向こうを見たまま、指先だけで場所を示した。
俺には、枝が揺れたようにしか見えなかった。
だが、次の瞬間、茶色い背が見えた。
鹿だ。
細い脚と動く耳、こちらを疑うように上がる首が見えた。
胸の奥が熱くなる。
だが、声は出せない。
孫兵衛が指を二本立てた。
沢側の人足が、ゆっくり回り込む。鹿の正面には立たない。声と気配で、こちらへ向ける。
孫兵衛が小石を拾い、軽く投げた。
かさり、と斜面の奥で音がした。
鹿が跳ねる。
沢側の人足が声を上げた。
「こっちだ!」
鹿は、まっすぐ罠へは向かわない。
沢へ降りようとする。だが、そこは湿っている。
水音も近い。
鹿が一瞬ためらった。
今度は、上へ逃げようとする。
上には柴がある。
通れなくはない。だが、走りにくい。
それでも鹿が強引に抜けようとした時、上の道に入っていた人足が声を張った。
「そっちへ行くな!」
鹿の脚が止まる。
孫兵衛が低く言った。
「今」
沢側の人足が、もう一度声を上げる。
「こっちだ!」
鹿が走った。
空いているように見える道へ。
俺の喉が、勝手に鳴った。
そこだ。
鹿は沢も柴も人の声も嫌い、自分で選んだつもりの道へ踏み込んだ。
枝葉が割れ、前脚が沈み、土が崩れる。
次の瞬間、鹿は穴の中へ落ちた。
鈍い音が山に響いた。
土が跳ねる。枝が折れる。穴の中で鹿が暴れる。
弦十郎が、俺の前へ半歩出た。
俺は岩に腰を下ろしたまま、穴を見ていた。
落ちた獣は、まだ獲物ではない。
鹿はしばらく暴れていた。土を掻き、身体を打ちつける。
だが、跳ね上がれない。
やがて、音が小さくなった。
孫兵衛が槍を持って近づく。
穴の縁には寄りすぎない。鹿の動きを見て、しばらく待つ。
それから、槍を差し入れた。
鹿の身体が一度、大きく震える。
孫兵衛は槍を引き、なおも待った。
やがて、鹿は動かなくなった。
誰もすぐには喋らなかった。
沢の音が、やけに大きく聞こえる。
弦十郎が、穴を見下ろしたまま言った。
「本当に、落ちた」
その声には、驚きが混じっていた。興奮もあった。少しだけ、怖さもあった。
孫兵衛は鹿を見てから、俺を見る。
昨日、灰の上の線を見ていた時とは違う目だった。
「若様」
「何だ」
「灰の上だけの話では、ありませんでしたな」
「山でも通じたか」
「一度は」
一度できたから、次もできるとは限らない。
だが、一度できた。
それで十分だった。
---
「鹿を出せるか」
俺が言うと、孫兵衛は穴の縁を見た。
「横を崩します。縁には近づかずに」
「分かった。頼む」
人足たちが動き出した。
まず、穴の横を崩し、鹿を引き出すための口を作る。
「若様、こりゃ重いですぞ」
「足を取られんようにせんと、こっちが落ちます」
人足たちは声を掛け合いながら、慎重に土を崩していく。手近な竹を一本ずつ外し、鹿の身体が引っかからないようにする。
弦十郎も加わり、縄を鹿の脚へ回した。
鹿は重かった。
人足二人だけでは、簡単には動かない。
弦十郎も縄を取り、孫兵衛は穴の縁を見ながら足場を指示した。
「縁へ寄るな。崩れます」
「こっちへ引けばよいですか」
「少し右へ」
「せーの」
人足の声に合わせて、弦十郎が縄を引く。
土にまみれた鹿の身体が、少しずつ穴から出てきた。
「もう少しです」
「足元、気ぃつけてください」
鹿の身体が穴の外へ引き出された時、人足の一人がぽつりと言った。
「若様の言うた通りになりましたな」
もう一人は何も言わず、鹿を見ていた。
孫兵衛は残った竹を指した。
「抜けるものは抜く。折れたものも集めよ」
人足の一人が、土のついた竹を持ち上げた。
「これは捨てますか」
「捨てない。使えるものは分けておけ」
「血がついてますが」
「食い物や水回りには使わん。それでも、柵の補修や畑の目印にはなる」
短く折れたものも、燃やせば灰になる。
一度使っただけで捨てる余裕はない。
人足は少し驚いた顔をしたが、すぐに竹をまとめ始めた。
穴の底を確かめ、危ない竹を外し、土を戻す準備にかかる。枝と柴も、道を塞がない場所へ寄せた。
罠を仕掛けたなら、片づけるところまでが仕事だ。
山に危ない穴を残せば、次に落ちるのは人かもしれない。
「戻す土は、これで足りますか」
人足の一人が聞いた。
孫兵衛が穴を覗く。
「足りる。踏み固めすぎるな」
「分かりました」
作業は、まだ続く。
だが、鹿はもう穴の外にある。
俺は、土にまみれた鹿を見た。
山から獲物を引きずり出す。
その第一歩は、確かに成功した。




