表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
近江の山奥から始める近代国家建設 〜転生田舎領主は戦国そのものを終わらせたい〜  作者: 近江もののふ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/9

第7話 小徳丸、狩りに出る・前

天文十四年てんぶんじゅうよねん、春の終わり。


畑を荒らすけものを、どうにかしたい。


そう言い出すために、また一年が過ぎた。


本音を言えば、肉が欲しい。

だが、それを正面から言う気はなかった。


この家でその話を持ち出すには、順番が要る。


畑の損を減らす話にすれば、頼政よりまさはるも最初から否定しにくい。

そのうえ、山に詳しい者の話を聞く口実にもなる。


この一年、俺がしたのは山歩きではない。


屋敷に出入りする者から、鹿の出る場所や畑の被害を聞いて回ることだった。


さわの上で鹿を見ました。二頭、いや三頭かもしれませぬ」


薪を背負って戻った男が、そう言った。


「畑の豆を食われました。夜のうちでございましょうな」


畑番の老人が、苦い顔でぼやいた。


「若様、泥に獣の足跡がありました! 細いやつです!」


子供たちは、見つけたものを競うように話した。


その足跡は、どうやら鹿のものらしい。


鹿を見た場所と、豆を食われた畑と、人が追いにくい沢筋と、雨で崩れた斜面が、少しずつ頭の中でつながっていく。


大人たちが危ないから近づくなと言う場所ほど、獣にとっては人を避けて通りやすい場所でもある。


今の俺には、鹿を追い回す力がない。


できないなら、人を使えばいい。


山を知る者に道を確かめてもらい、俺はその話をつなぎ合わせて、鹿が逃げる先を考える。


俺がやるべきことは、鹿と正面から向き合うことではない。


畑を荒らす獣を、こちらの決めた道へ走らせることだ。


---


朝の食事を終えると、春は空になったわんを重ね、箸を揃えていた。

頼政は囲炉裏いろり端に座ったまま、茶をすすっている。


俺は膳が下げられる前に、頼政の前へ座った。


「父上、話があります」


頼政は茶碗を置いた。


「うむ。申してみよ」


俺は手をつき、頭を下げた。


「人手を貸してください」


頼政は首を傾げた。


「人手を?」


「はい」


「何に使う」


「畑を荒らす獣を、どうにかしたいんです」


囲炉裏の炭が、小さく弾けた。


頼政の顔から、少し笑みが消えた。


「獣を、か」


「はい。畑の豆を食われたと聞きました。沢の上で鹿を見た者もいます。子供たちは、泥に獣の足跡があったと言っていました」


春の手の中で、重ねた椀がかた、と鳴った。


「小徳丸」


「はい」


「山へ行くつもりではありませんね」


「俺が山を走り回るわけではありません」


春の目が、こちらを向く。


「では、何をするのです」


「山を知る者に見てもらいます。俺には、山のことまでは分かりません」


頼政の目が、少し変わった。


「獣とは、鹿か」


「おそらく」


「獲るつもりか」


「追い払うだけでは、また戻ります」


頼政は黙った。

すぐには笑わない。


「では、どうする」


「俺だけでは決められません。どこへ出るのか、山を知る者に見てもらいたいのです」


春の眉が動いた。


「小徳丸」


「山には、危ない場所もあります。だからこそ、知っている者が要ります」


頼政は少し考え、土間に控えていた家人へ目を向けた。


孫兵衛まごべえを呼べ」


孫兵衛。


名だけは聞いたことがある。

山に入る猟師りょうしで、獣の足跡を見分けられる男だという。


顔は知らない。


春が頼政を見る。


「殿」


「話を聞くだけだ。山を知る者なら、孫兵衛であろう」


「話だけで済めばよいのですが」


「だから、人をつける」


頼政は続けた。


弦十郎げんじゅうろうも呼べ」


「弦十郎もでございますか」


「足が速い。小徳丸が山を見るなら、そばに若い者が要る」


春はまだ納得していない顔だったが、それ以上は止めなかった。


頼政は、俺の考えを試そうとしている。

春は、俺が危ない場所へ近づくことを恐れている。


どちらも当然だ。


人を呼び、山を知る者に話を聞かせ、弦十郎までつける。

そこまでしてもらう以上、ただの思いつきでは済まされない。


だが、タダ飯を食っているだけでは何も変わらない。


俺も、できることから始めるしかない。


---


しばらくして、孫兵衛が呼ばれてきた。


思ったより小柄な男だった。

痩せていて、目立つところはない。


だが、足音が軽い。


膝をついて頭を下げるまで、土間の家人が気づくのも遅れたほどだった。


「孫兵衛にございます」


声は低く、乾いていた。

大きくはないのに、囲炉裏端までよく通る声だった。


この男は、獣を走って追い回す者ではない。


気配を消し、風下に回り、獲物が来る場所でじっと待てる者だ。


山の中でこういう男に先に場所を取られたら、獣でも人でも、見つける前に負ける。


孫兵衛は俺を見た。


「若様が、鹿を」


馬鹿にした声ではなかった。

信じた声でもなかった。


ただ、距離を測っている声だった。


頼政は咳払いをした。


「孫兵衛。小徳丸の考えを聞いてやれ」


「承りました」


春がすぐに口を挟む。


「危ないと思えば、すぐに止めてください」


「承りました」


「子供の願いだからと、甘く見ないでください」


孫兵衛は春を見た。


「山で甘く見れば、大人でも死にます」


春は黙った。


孫兵衛の後ろには、弦十郎が控えていた。


背が高く、姿勢のよい若者だった。

まだ若いが、頼政に呼ばれるまで余計な口は利かなかった。


足が速いだけの使い走りではなさそうだった。


「弦十郎」


頼政が呼ぶと、弦十郎は背筋を伸ばした。


「はっ」


「小徳丸が山へ行くことになれば、そばにつけ。危ないと思えば、抱えてでも戻せ」


「承りました」


春の目が細くなる。


「危なくなる前に戻しなさい」


「はっ」


弦十郎の返事は硬かった。


俺は孫兵衛に向き直った。


「孫兵衛」


「はっ」


俺は、それまで集めた鹿の話と畑の被害を、まとめて孫兵衛に伝えた。


孫兵衛は、すぐには答えなかった。


「つながると、お考えで」


「つながるかどうかを知りたい。俺では山のことまでは分からん」


孫兵衛の目が、わずかに動いた。


「……沢の東に、古い崩れがございます。雨で土が抜け、下が柔らかい。獣道けものみちも近い」


「そこへ出るのか」


「出ることはございます。ただ、そこへ追えばよい、というものではありませぬ」


「なぜだ」


「鹿は、危うい所を嫌います。人の匂いが濃ければ戻る。塞ぎすぎても戻る」


俺は頷いた。


それが欲しかった。


山を知る者の言葉だ。


「なら、塞がなければいい」


孫兵衛の眉が、わずかに動いた。


「塞がぬ、でございますか」


「鹿が嫌がる場所だけを作る。戻りたくなるほどではなく、走りにくいと思う程度にする」


頼政が目を細めた。


「小徳丸。何を考えておる」


「鹿に、道を選ばせます」


囲炉裏端が静かになった。


俺は囲炉裏のそばへ移り、小枝を拾った。

灰の上に、沢と斜面の線を引く。


「ここが沢だ。こっちが斜面。俺には山の癖までは分からん。孫兵衛、鹿の道はそちらで見てくれ」


孫兵衛は灰の線を見下ろした。


「分からぬ、と申されますか」


「分からん。だから、山を知る者の目が要る」


俺は灰の上に、短い印を足した。


「ただし、逃げるものが嫌がる場所なら読める」


弦十郎も、灰の線を見ていた。


俺は小枝で、線の横を叩いた。


「枝やしばで、通りにくい場所を作る。頑丈な柵はいらん。鹿が、そっちは嫌だと思えばいい」


「止めるのではなく、嫌がらせるのでございますか」


弦十郎が言った。


一度で、そこに気づくか。


「そうだ。無理に止める必要はない」


俺は灰の上に、一本だけ空いた道を残した。


「鹿は走りやすい方へ逃げる。逃げられると思った方へ走る」


小枝の先で、その道の先に小さな丸を描く。


「そこに穴を掘る」


春の眉が、はっきりと動いた。


「穴、ですか」


「はい」


頼政は、灰の上の丸を見ていた。


「穴を掘って、鹿が落ちるのを待つのか」


「待つだけでは、いつ来るか分かりません」


俺は灰の上の細い道を小枝で叩いた。


「鹿には、逃げられると思わせます。ですが、残す道はこちらで選びます」


頼政の目が、細くなった。


「選ばせる、ということか」


「はい」


弦十郎が、灰の線を見たまま低く言った。


「山狩りではなく、戦の話のように聞こえます」


「同じだ。逃げる相手の道を決めるなら、山も戦も変わらん」


孫兵衛の目が、わずかに細くなった。


いい顔だ。


笑わない。

なら、通じている。


「追うな。逃がせ」


俺は言った。


「逃がした先に、穴を置く」


灰の上に引いたのは、沢と斜面、枝と柴、穴の位置を示すだけの拙い線だった。


だが俺の目には、そこが盤面に見えていた。


正々堂々、弓で射る。

そんなことができるなら、それでいい。


だが俺には、まだその腕がない。


相手は鹿だ。

正々堂々など通じない。


追えば逃げる。

なら、逃げる先を作って、そこへ落とす。


きれいなやり方ではない。

だが、今の俺にできるのはそれだった。


孫兵衛だけが、表情を変えなかった。

ただ、灰の線を長く見ていた。


「若様。山で、これを見たことが?」


「ない」


「誰に習いました」


「誰にも」


「考えただけで」


「そうだ」


孫兵衛は小さく息を吐いた。


「使えるかは、山で見ねば分かりませぬ。ただ」


孫兵衛の目が、灰の上の細い道に止まる。


「ただの子供の思いつきにしては、嫌なところを突いておりますな」


「畑が守れるなら、それでいい」


孫兵衛が、初めて俺を正面から見た。


頼政が、息を呑んだ。

春の目が、わずかに険しくなる。


孫兵衛は、しばらく黙ってから言った。


「山で見ねば、分かりませぬ。灰の上ほど、山は素直ではございません」


春が小さく頷いた。


「その通りです」


「分かっている」


俺は小枝を置いた。


「だから、明日見る。孫兵衛、沢の東を案内しろ。鹿の道と、掘れる場所を見る」


「承りました」


「弦十郎」


「はっ」


「俺が先走りそうなら止めろ。だが、危なくない所までは見せてくれ」


弦十郎は一瞬だけ迷い、それから頭を下げた。


「承りました」


頼政が頷く。


人足にんそくは二人つける。沢の東を見て、孫兵衛がよいと申すなら、その場で掘れ。ただし、小徳丸は離れた所から見せよ」


俺は頷いた。


「はい」


春はまだ納得していない顔だった。

だが、それ以上は止めなかった。


俺は灰の上の線を見下ろした。


山が、この通りになるとは限らない。

だが、沢の東に鹿の道があるなら、試す価値はある。


孫兵衛は灰の線を一度だけ見て、静かに頭を下げた。


「では、明朝。沢の東を見に参りましょう」


俺は頷いた。


「頼んだぞ、孫兵衛」


山へ向かう細い道は、まだ開いたばかりだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ