第7話 小徳丸、狩りに出る・前
天文十四年、春の終わり。
畑を荒らす獣を、どうにかしたい。
そう言い出すために、また一年が過ぎた。
本音を言えば、肉が欲しい。
だが、それを正面から言う気はなかった。
この家でその話を持ち出すには、順番が要る。
畑の損を減らす話にすれば、頼政も春も最初から否定しにくい。
そのうえ、山に詳しい者の話を聞く口実にもなる。
この一年、俺がしたのは山歩きではない。
屋敷に出入りする者から、鹿の出る場所や畑の被害を聞いて回ることだった。
「沢の上で鹿を見ました。二頭、いや三頭かもしれませぬ」
薪を背負って戻った男が、そう言った。
「畑の豆を食われました。夜のうちでございましょうな」
畑番の老人が、苦い顔でぼやいた。
「若様、泥に獣の足跡がありました! 細いやつです!」
子供たちは、見つけたものを競うように話した。
その足跡は、どうやら鹿のものらしい。
鹿を見た場所と、豆を食われた畑と、人が追いにくい沢筋と、雨で崩れた斜面が、少しずつ頭の中でつながっていく。
大人たちが危ないから近づくなと言う場所ほど、獣にとっては人を避けて通りやすい場所でもある。
今の俺には、鹿を追い回す力がない。
できないなら、人を使えばいい。
山を知る者に道を確かめてもらい、俺はその話をつなぎ合わせて、鹿が逃げる先を考える。
俺がやるべきことは、鹿と正面から向き合うことではない。
畑を荒らす獣を、こちらの決めた道へ走らせることだ。
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朝の食事を終えると、春は空になった椀を重ね、箸を揃えていた。
頼政は囲炉裏端に座ったまま、茶をすすっている。
俺は膳が下げられる前に、頼政の前へ座った。
「父上、話があります」
頼政は茶碗を置いた。
「うむ。申してみよ」
俺は手をつき、頭を下げた。
「人手を貸してください」
頼政は首を傾げた。
「人手を?」
「はい」
「何に使う」
「畑を荒らす獣を、どうにかしたいんです」
囲炉裏の炭が、小さく弾けた。
頼政の顔から、少し笑みが消えた。
「獣を、か」
「はい。畑の豆を食われたと聞きました。沢の上で鹿を見た者もいます。子供たちは、泥に獣の足跡があったと言っていました」
春の手の中で、重ねた椀がかた、と鳴った。
「小徳丸」
「はい」
「山へ行くつもりではありませんね」
「俺が山を走り回るわけではありません」
春の目が、こちらを向く。
「では、何をするのです」
「山を知る者に見てもらいます。俺には、山のことまでは分かりません」
頼政の目が、少し変わった。
「獣とは、鹿か」
「おそらく」
「獲るつもりか」
「追い払うだけでは、また戻ります」
頼政は黙った。
すぐには笑わない。
「では、どうする」
「俺だけでは決められません。どこへ出るのか、山を知る者に見てもらいたいのです」
春の眉が動いた。
「小徳丸」
「山には、危ない場所もあります。だからこそ、知っている者が要ります」
頼政は少し考え、土間に控えていた家人へ目を向けた。
「孫兵衛を呼べ」
孫兵衛。
名だけは聞いたことがある。
山に入る猟師で、獣の足跡を見分けられる男だという。
顔は知らない。
春が頼政を見る。
「殿」
「話を聞くだけだ。山を知る者なら、孫兵衛であろう」
「話だけで済めばよいのですが」
「だから、人をつける」
頼政は続けた。
「弦十郎も呼べ」
「弦十郎もでございますか」
「足が速い。小徳丸が山を見るなら、そばに若い者が要る」
春はまだ納得していない顔だったが、それ以上は止めなかった。
頼政は、俺の考えを試そうとしている。
春は、俺が危ない場所へ近づくことを恐れている。
どちらも当然だ。
人を呼び、山を知る者に話を聞かせ、弦十郎までつける。
そこまでしてもらう以上、ただの思いつきでは済まされない。
だが、タダ飯を食っているだけでは何も変わらない。
俺も、できることから始めるしかない。
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しばらくして、孫兵衛が呼ばれてきた。
思ったより小柄な男だった。
痩せていて、目立つところはない。
だが、足音が軽い。
膝をついて頭を下げるまで、土間の家人が気づくのも遅れたほどだった。
「孫兵衛にございます」
声は低く、乾いていた。
大きくはないのに、囲炉裏端までよく通る声だった。
この男は、獣を走って追い回す者ではない。
気配を消し、風下に回り、獲物が来る場所でじっと待てる者だ。
山の中でこういう男に先に場所を取られたら、獣でも人でも、見つける前に負ける。
孫兵衛は俺を見た。
「若様が、鹿を」
馬鹿にした声ではなかった。
信じた声でもなかった。
ただ、距離を測っている声だった。
頼政は咳払いをした。
「孫兵衛。小徳丸の考えを聞いてやれ」
「承りました」
春がすぐに口を挟む。
「危ないと思えば、すぐに止めてください」
「承りました」
「子供の願いだからと、甘く見ないでください」
孫兵衛は春を見た。
「山で甘く見れば、大人でも死にます」
春は黙った。
孫兵衛の後ろには、弦十郎が控えていた。
背が高く、姿勢のよい若者だった。
まだ若いが、頼政に呼ばれるまで余計な口は利かなかった。
足が速いだけの使い走りではなさそうだった。
「弦十郎」
頼政が呼ぶと、弦十郎は背筋を伸ばした。
「はっ」
「小徳丸が山へ行くことになれば、そばにつけ。危ないと思えば、抱えてでも戻せ」
「承りました」
春の目が細くなる。
「危なくなる前に戻しなさい」
「はっ」
弦十郎の返事は硬かった。
俺は孫兵衛に向き直った。
「孫兵衛」
「はっ」
俺は、それまで集めた鹿の話と畑の被害を、まとめて孫兵衛に伝えた。
孫兵衛は、すぐには答えなかった。
「つながると、お考えで」
「つながるかどうかを知りたい。俺では山のことまでは分からん」
孫兵衛の目が、わずかに動いた。
「……沢の東に、古い崩れがございます。雨で土が抜け、下が柔らかい。獣道も近い」
「そこへ出るのか」
「出ることはございます。ただ、そこへ追えばよい、というものではありませぬ」
「なぜだ」
「鹿は、危うい所を嫌います。人の匂いが濃ければ戻る。塞ぎすぎても戻る」
俺は頷いた。
それが欲しかった。
山を知る者の言葉だ。
「なら、塞がなければいい」
孫兵衛の眉が、わずかに動いた。
「塞がぬ、でございますか」
「鹿が嫌がる場所だけを作る。戻りたくなるほどではなく、走りにくいと思う程度にする」
頼政が目を細めた。
「小徳丸。何を考えておる」
「鹿に、道を選ばせます」
囲炉裏端が静かになった。
俺は囲炉裏のそばへ移り、小枝を拾った。
灰の上に、沢と斜面の線を引く。
「ここが沢だ。こっちが斜面。俺には山の癖までは分からん。孫兵衛、鹿の道はそちらで見てくれ」
孫兵衛は灰の線を見下ろした。
「分からぬ、と申されますか」
「分からん。だから、山を知る者の目が要る」
俺は灰の上に、短い印を足した。
「ただし、逃げるものが嫌がる場所なら読める」
弦十郎も、灰の線を見ていた。
俺は小枝で、線の横を叩いた。
「枝や柴で、通りにくい場所を作る。頑丈な柵はいらん。鹿が、そっちは嫌だと思えばいい」
「止めるのではなく、嫌がらせるのでございますか」
弦十郎が言った。
一度で、そこに気づくか。
「そうだ。無理に止める必要はない」
俺は灰の上に、一本だけ空いた道を残した。
「鹿は走りやすい方へ逃げる。逃げられると思った方へ走る」
小枝の先で、その道の先に小さな丸を描く。
「そこに穴を掘る」
春の眉が、はっきりと動いた。
「穴、ですか」
「はい」
頼政は、灰の上の丸を見ていた。
「穴を掘って、鹿が落ちるのを待つのか」
「待つだけでは、いつ来るか分かりません」
俺は灰の上の細い道を小枝で叩いた。
「鹿には、逃げられると思わせます。ですが、残す道はこちらで選びます」
頼政の目が、細くなった。
「選ばせる、ということか」
「はい」
弦十郎が、灰の線を見たまま低く言った。
「山狩りではなく、戦の話のように聞こえます」
「同じだ。逃げる相手の道を決めるなら、山も戦も変わらん」
孫兵衛の目が、わずかに細くなった。
いい顔だ。
笑わない。
なら、通じている。
「追うな。逃がせ」
俺は言った。
「逃がした先に、穴を置く」
灰の上に引いたのは、沢と斜面、枝と柴、穴の位置を示すだけの拙い線だった。
だが俺の目には、そこが盤面に見えていた。
正々堂々、弓で射る。
そんなことができるなら、それでいい。
だが俺には、まだその腕がない。
相手は鹿だ。
正々堂々など通じない。
追えば逃げる。
なら、逃げる先を作って、そこへ落とす。
きれいなやり方ではない。
だが、今の俺にできるのはそれだった。
孫兵衛だけが、表情を変えなかった。
ただ、灰の線を長く見ていた。
「若様。山で、これを見たことが?」
「ない」
「誰に習いました」
「誰にも」
「考えただけで」
「そうだ」
孫兵衛は小さく息を吐いた。
「使えるかは、山で見ねば分かりませぬ。ただ」
孫兵衛の目が、灰の上の細い道に止まる。
「ただの子供の思いつきにしては、嫌なところを突いておりますな」
「畑が守れるなら、それでいい」
孫兵衛が、初めて俺を正面から見た。
頼政が、息を呑んだ。
春の目が、わずかに険しくなる。
孫兵衛は、しばらく黙ってから言った。
「山で見ねば、分かりませぬ。灰の上ほど、山は素直ではございません」
春が小さく頷いた。
「その通りです」
「分かっている」
俺は小枝を置いた。
「だから、明日見る。孫兵衛、沢の東を案内しろ。鹿の道と、掘れる場所を見る」
「承りました」
「弦十郎」
「はっ」
「俺が先走りそうなら止めろ。だが、危なくない所までは見せてくれ」
弦十郎は一瞬だけ迷い、それから頭を下げた。
「承りました」
頼政が頷く。
「人足は二人つける。沢の東を見て、孫兵衛がよいと申すなら、その場で掘れ。ただし、小徳丸は離れた所から見せよ」
俺は頷いた。
「はい」
春はまだ納得していない顔だった。
だが、それ以上は止めなかった。
俺は灰の上の線を見下ろした。
山が、この通りになるとは限らない。
だが、沢の東に鹿の道があるなら、試す価値はある。
孫兵衛は灰の線を一度だけ見て、静かに頭を下げた。
「では、明朝。沢の東を見に参りましょう」
俺は頷いた。
「頼んだぞ、孫兵衛」
山へ向かう細い道は、まだ開いたばかりだった。




