第6話 外を知り、内を知る
【第6話 外を知り、内を知る】
天文十三年、春。
百済寺へ連れて行かれてから、一年が過ぎた。
囲炉裏の灰を、春が火箸でならしていた。
ぱち、と小さく炭が鳴る。
俺はその音を聞きながら、椀の中の飯を見下ろしていた。
白い米ばかりではない。
粟も混じっている。
もう慣れた味だ。
川魚が出ることはある。
干したものや、小さな魚を煮たものなら、食卓に上がる。
だが、獣の肉は違う。
この村では、口にすることへの忌避が強い。
食えるものだと分かっていても、誰もが平気で箸を伸ばすわけではない。
「小徳丸、こぼさぬように」
「はい」
椀を両手で抱え直すと、頼政が笑った。
「返事もようなった」
「はい」
「殿は、そればかりですね」
春が少し呆れた顔をする。
俺は飯を食いながら、聞こえなかったふりをした。
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この一年で、俺は少し大きくなった。
言葉も増え、頼政や春とのやり取りにも慣れてきた。
最初は、親と呼ぶにも妙な距離があった。
中身が前世のままなのだから、当然といえば当然だ。
だが、一年も同じ屋根の下で飯を食い、寝起きし、叱られ、笑いかけられていれば、少しずつ馴染む。
頼政は甘い。
春はよく見ている。
どちらも、俺を小徳丸として扱う。
いや、正確には、普通の子供としてだけ見ているわけではない。
一歳そこらの子供にしては、言葉が早い。
大人の話を聞きすぎる。
物を見て、何かを考え込むことが多い。
それを春は心配し、頼政は面白がった。
「この子は、ただ賢いだけなのでしょうか」
春がそう漏らしたこともある。
頼政は笑っていた。
「神仏が、何ぞ授けてくだされたのやもしれぬ」
「また、そのようなことを」
「あるいは、昔の偉い者の生まれ変わりかもしれぬぞ」
俺はその横で、黙って飯を食っていた。
半分ほど当たっている。
だからこそ、何も言えなかった。
それでも、二人は俺を遠ざけなかった。
頼政は面白がり、春は心配しながらも、俺を小徳丸として抱いた。
ならば俺も、二人を父と母として見ればいい。
そう思えるくらいには、この家に慣れた。
前世より充実しているのかもしれない。
朝になれば飯がある。
頼政がいて、春がいる。
村には人の声がある。
不便で、貧しく、危うい時代ではある。
それでも、俺一人で全てを抱えていた前世より、今の方が生きている実感は強かった。
ただし、それはこの時代が楽という意味ではない。
俺は粟混じりの飯を噛みながら、椀の中を見た。
「この村は、貧しいですね」
春の手が止まった。
「小徳丸」
「はい」
「飯の前で、そういうことを言うものではありません」
「ですが、お世辞抜きでどう見ても寒村です」
春が眉を寄せた。
頼政は笑いかけたが、俺の顔を見て口を閉じた。
「……そこまで考えて言うておるのか」
「はい」
「では、一番足りぬものは何だ」
「人です」
頼政の目が、少し細くなった。
「米でも銭でもなく、か」
「米を増やすにも、銭を稼ぐにも、人が要ります。兵も同じです」
春が困ったように眉を寄せた。
「この子はまた、どこでそのようなことを覚えたのです」
「寺で聞きました」
「寺で?」
「人には、それぞれ立つ場所があると聞きました。武士には武士の一隅があり、僧には僧の一隅があり、百姓には百姓の一隅がある、と」
頼政は黙った。
たぶん、貫主が言いたかったのは、こういうことではない。
一隅を照らす。
己の立つ場所で務めを果たす。
あれは、人を集めて使う話ではなかったはずだ。
だが、俺には別の意味にも聞こえた。
人には、それぞれ立つ場所がある。
なら、その場所を見つけなければならない。
誰が何に向くのか。
誰がどこで役に立つのか。
それを知らなければ、村は動かない。
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とはいえ、寺で聞いた言葉だけで生き残れるほど、この時代は甘くない。
天文十三年。
西暦でいえば、1544年。
百済寺へ行き、頼政や家の者たちの話を聞くうちに、この村の置かれた場所も少しずつ見えてきた。
近江。
山があり、街道があり、寺があり、下れば琵琶湖へ出る。
朝霧村は、その中にある小さな村だった。
織田信長が、このあたりへ手を伸ばすのはまだ先だ。
百済寺が焼けるのも、今ではない。
今すぐ大きな戦に巻き込まれる段階ではない。
だが、それは猶予があるというだけだ。
安全だという意味ではない。
俺が知っているのは、後世でよく語られる戦国の流れだ。
織田、徳川、武田、上杉、毛利、北条、伊達。
信長の草履取りから太閤へ上り詰める秀吉のことも知っている。
歴史ゲームで何度も触った大名家や、有名な合戦も頭にはある。
大筋なら分かる。
だが、それは大名たちの流れだ。
ゲームの勢力図なら、近江の大まかな形は分かる。
俺がいる朝霧村は、六角の勢力下にある。
北近江には浅井。
越前には朝倉。
東の美濃には斎藤。
どの家が誰と結び、どこに押されているか。
そのくらいなら、画面の上でも見える。
だが、朝霧村の隣にどんな村があり、どの街道がどこへ通じているのか。
誰が何を運び、どこで人と物が行き来するのか。
そこまでは分からない。
大名の色分けと、村の暮らしは別物だ。
「父上」
「何だ」
「六角の内といっても、六角だけを見ていればよいのですか」
頼政の顔から、少し笑みが引いた。
「急に難しいことを聞くな」
「大事なことです」
「大事ではある」
頼政は椀を置いた。
「六角の下には、いくつも家がある。蒲生、後藤、進藤、平井。ほかにも名のある家は多い」
「その家は、六角に従っているのですか」
「従ってはいる。だが、ただ命じられるだけの家ではない」
「力を持っている」
「そうだ。土地も、人も、縁もある。寺も、山も、街道も、それぞれの家と無縁ではない。中には、主家を凌ぐほど力を持つ家もある」
「主家よりも、ですか」
「珍しい話ではない。他国では、守護を国から追った家もあると聞く」
頼政は、少し声を低めた。
「六角の内におるからといって、六角だけを見ていればよいわけではない」
俺は黙って聞いた。
六角領。
そう一言で片づけるには、この土地は細かすぎる。
上には六角がいる。
その下には有力な家があり、寺があり、村があり、街道を使う者がいる。
地図を塗るだけでは、何も分からない。
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「彦九郎を呼んでください」
食後、俺がそう言うと、春が少し目を細めた。
「また何を考えているのです」
「この村の周りを知りたいのです」
「父上に聞いたことでは足りませぬか」
「父上からは、大きな話を聞きました。ですが、道や人の行き来は、実際に動く者に聞かねば分かりません」
頼政が笑った。
「それで彦九郎か」
「はい。彦九郎は古くから橘家に仕える者です。家のことも、村のことも、外へ出る者のことも知っているでしょう」
しばらくして、政虎が呼ばれてきた。
「若様、お呼びで」
「朝霧村の周りを知りたい」
「周り、でございますか」
「人が通る所。物が入る所。それと、近くの村」
政虎は少し困ったような顔をした。
「若様は、また妙なことを聞かれますな」
「大事なことだ」
「まあ、大事ではございます」
政虎は膝を寄せ、指で床をなぞった。
「この村から下れば、小倉、永源寺の方へ出ます。その先は鈴鹿越えでございますな。八風峠、千種越など、伊勢へ向かう街道がございます」
「近いのか」
「近くはございませぬ。荷を運ぶにも、越える場所を知る者が要ります」
「北は」
「多賀の方へ通じます。多賀社もございますし、鞍掛峠を越えれば、こちらも伊勢へ向かえます。そのまま北近江へ出る道にもなりましょう」
政虎は、指を少し横へ動かした。
「谷を一つ越えれば、木地師の者らもおります。椀や盆を挽く職人でございますな」
「村の者とは違うのか」
「違います。百姓とは暮らし方が違いますし、木を見る目も違います」
「ほかには」
「猟に出る者もおります。畑を荒らす獣もおりますゆえ、そうしたものに詳しい者は村にもおります」
「猟か」
その言葉に、俺は少しだけ考えた。
畑を荒らす獣を知る。
村の中で、誰が危ないことを任せられる人間なのかを探る。
悪くない。
「その者たちの話を聞きたい」
政虎は、しばらく俺を見ていた。
「若様は、獣より人を見たいのでございますな」
「そうだ」
政虎の話を聞くほど、朝霧村の外側が形を持っていく。
小倉。
永源寺。
伊勢。
多賀。
北近江。
名だけなら、いくつか聞いたことがある。
だが、地図の上の名前と、村から実際に出ていく先は違う。
人が行き来すれば、荷も動く。
荷が動けば、噂も命令も伝わる。
朝霧村は小さい。
だが、閉じているわけではなかった。
「周りで、よく聞く家の名はあるか」
「蒲生の名は聞きます。日野の方へ出る者なら、なおさらでございましょう。甲賀の方では、三雲の家の名も聞きますな」
蒲生。
知らない名ではない。
後に氏郷が出る家だ。
もっとも、それはまだ先の話である。
今ここで聞いているのは、未来の名将ではなく、この土地で力を持つ家の名だった。
三雲も同じだ。
名前に覚えはあっても、この村からどう行けばそこへ辿り着くのか。
その家の力が、この村にどれほど届くのか。
そこまでは分からない。
「若様」
政虎が俺を見た。
「村だけ見ていても足りませぬ。ですが、外だけ見ていても足元を失います」
「足元」
「はい。人の行き来を知る者、田畑を知る者、物の扱いを知る者。そういう者を見落とせば、村は動きませぬ」
頼政が頷いた。
「彦九郎の言う通りだ。小徳丸、村を強くしたいなら、まず村の者を見よ」
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村の者を見る。
それは、前世のゲームでいうところの人材探しだ。
歴史ゲームで弱小勢力を選んだ時、最初に欲しくなるものがある。
武将だ。
人材がいなければ、何も始まらない。
とはいえ、誰でもいいわけではない。
狙うなら、まだ名が上がりきっていない者。
身分が低い者。
主家に縛られていない者。
どこかで拾えるかもしれない者だ。
木下藤吉郎。
蜂須賀小六。
滝川一益。
前野長康。
明智光秀。
名前だけなら、いくつか浮かぶ。
特に藤吉郎。
あれを拾えるなら、何を置いても拾いたい。
だが、名前を知っているだけだ。
今どこにいるのか。
会えたとして、どうやって連れてくるのか。
そもそも、朝霧村の子供が声をかけて相手にされるのか。
そこが分からない。
行こうと思えば、どこへでも道はある。
だが、俺一人で行けるわけではない。
供も要る。
旅費も要る。
口実も要る。
有名人を拾う前に、俺には足元がない。
ならば、最初に見るべきは外ではない。
村の中だ。
もちろん、戦国の世では家柄が重い。
どこの家に生まれたか。
誰に仕えているか。
誰の縁者か。
それだけで、立てる場所はだいたい決まる。
だが、能力値という考え方で見れば話は別だ。
村人だからといって、全員が低能力とは限らない。
力の強い者。
頭の回る者。
足の速い者。
手先の器用な者。
人をまとめるのがうまい者。
数や段取りに強い者。
そういう人間は、きっと村の中にもいる。
歴史ゲームなら、武勇、知略、政治、統率といった数字で見える。
だが、ここに画面はない。
誰が武勇に秀でているのか。
誰が知略に向いているのか。
誰が人をまとめられるのか。
誰が細かな仕事や段取りに強いのか。
見なければ分からない。
そして、見つけなければ使えない。
猟に出る者の話を聞く。
最初の口実としては、悪くない。
村の人材を見る。
畑を荒らす獣のことを知る。
猟に出る者の話を聞く。
どれも必要なことだ。
ただ、俺の腹の底には、別の理由もあった。
川魚は食える。
だが、それだけでは足りない。
この小さな身体を大きくするには、もっと力になるものが要る。
この村では、獣の肉を口にすることへの忌避が強い。
軽々しく言えば、春に止められる。
頼政も、よい顔はしないだろう。
だから口には出さない。
だが、何より。
肉が食いたい。
本音は、そこだった。




