第5話 地上の楽園
天文十二年、春。
雪が消えた。
山の斜面に残っていた白い筋は、春の日差しに削られるように細くなり、沢の水だけが勢いを増していた。
俺は頼政に連れられて、百済寺へ向かうことになった。
この頃の俺は、ようやく自分の足で立てるようになっていた。支えがあれば、数歩くらいは進める。
だが、それだけだ。
屋敷の庭先ならともかく、外へ出るには頼政の腕に頼るしかない。
情けないが、仕方ない。中身がどうであれ、身体はまだ幼い。
百済寺は、朝霧村から見れば隣の大寺である。
近いとはいえ、気軽に入れる場所ではないらしい。
屋敷を出る前から、頼政の顔つきが少し固かった。
「今日は、おとなしくしておるのだぞ」
頼政はそう言って、俺を抱き上げた。
「あい」
舌足らずな声が出た。
自分では「はい」と言ったつもりだったが、どう聞いても幼い声でしかない。頼政の目元が、少しだけ緩んだ。
だが、その顔はすぐに引き締まる。
村を見回るときの顔ではなかった。
俺はそのまま、頼政の袖を握った。
百済寺へ向かう話は、急に決まったものではない。
朝霧村の山で、どのあたりの木を伐るのか。それを先に百済寺へ知らせておくため、冬の間にも何度か使いが行き来していた。
山境は、あとで揉めやすい。
近い寺だからこそ、黙って手をつけるわけにはいかなかった。
今日は、その話を頼政が直に通しに行く日だった。
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道は、険しくはなかった。
だが、短くもなかった。
山裾に沿って、細い道が続いている。片側には杉の木立が並び、反対側は山肌が迫っていた。
道はまっすぐではない。少し進んでは曲がり、また木立の間へ入っていく。
踏み固められた道ではある。寺の使いも、商いの者も、日頃からここを通っているのだろう。
それでも、頼政の腕の中にいてさえ、身体は歩みに合わせて小さく揺れた。
「もう少しで見える」
頼政が言った。
俺は頼政の袖を握ったまま、道の先を見た。
「ひゃくしゃいじ?」
「百済寺だ」
頼政の目元が、少しだけ緩む。
「ひゃくさいじ」
「うむ。騒ぐでないぞ」
「さわがぬ」
普通に答えたつもりだった。
だが、幼い声で言うと、どうにも妙に聞こえたらしい。
頼政は小さく息を漏らした。
「……騒がぬ、か」
それでも、顔つきはすぐに固くなった。
朝霧の中を回るのとは違う。
村を離れるほど、道の先に百済寺があるのだと分かってくる。
百済寺の名は、もちろん知っていた。
前世でも、湖東三山の一つとして知られる寺だ。
だが、俺が知っているのは、後の時代に名所として知られる百済寺の姿だった。
今、頼政の腕の中から見えている百済寺は、それとは少し違う。
人が多い。荷が動いている。門前へ向かう者もいれば、用を済ませて戻ってくる者もいる。
天文十二年の百済寺は、思っていたよりもずっと栄えていた。
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やがて、門が見えた。
大きい。
朝霧村にも寺はある。だが、目の前の百済寺は、それとはまるで違った。
門が一つあるだけではない。その奥にも屋根が見え、さらに奥にも別の屋根が重なっている。
塀の内側に、いくつもの堂と坊が抱え込まれているのが分かった。
僧だけではない。荷を担ぐ男がいる。炊事の煙が上がっている。どこかで木を打つ音がして、庭先を掃く者の姿も見えた。
寺というより、一つの町に近い。
古い木と土の匂い。
炊煙に、香の気配。
人が集まり、食い、働き、祈る場所の匂いがした。
前世で見聞きした百済寺とは、かなり印象が違う。
後の世に、千近い坊を抱えた寺だったと語られるのも、過言ではなさそうだった。
頼政の腕に、少し力が入った。
緊張している。
それが分かるくらいには、俺もこの身体に慣れてきた。
門の前では、寺の者が待っていた。衣を整えた中年の僧だった。
「橘様。ようお越しくださいました」
「このたびは、御目通り《おめどおり》をお許しいただき、かたじけのうございます」
頼政が、いつもより深く頭を下げる。
村で見る頼政とは、少し違っていた。
俺も抱かれたまま、自然と口を閉じた。
頼政がここまで頭を低くする。それだけで、ここが朝霧村の内側ではないことは分かった。
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通されたのは、庭の見える一室だった。
白い砂が薄く敷かれ、石が据えられている。低い木の枝は整えられ、庭の隅には苔が広がっていた。
水の音はない。
だが、砂の筋と石の並びを見ていると、そこに流れがあるようにも思える。
派手ではない。
それなのに、目を離しにくい。
朝霧村の屋敷や小さな寺とは、比べるものではなかった。
前世で見た京都の寺を思い出した。
静かな庭。
古い柱。
板張りの広い廊下。
あのときも、たぶん同じような荘厳さはあったのだろう。
ただ、あの頃の俺は、それを退屈な場所の一つとしか見ていなかった。
今は違う。
目の前の庭には、幼い俺でも息をのむようなものがあった。
広さだけではない。古さだけでもない。
人の手が長く入り続けた場所だけが持つ、重さのようなものだ。
俺は頼政の腕の中で、しばらく庭を見ていた。
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しばらくして、奥から年老いた僧が現れた。
その場の者の動きで、ただの僧ではないことは分かった。
貫主だ。
痩せた老僧である。だが、弱々しさはなかった。
貫主は静かに座った。
ただ、それだけで部屋の空気が少し変わる。
控えていた僧の背筋が伸び、頼政の頭も自然と低くなった。
この寺の奥に長く座り、多くの者を迎えてきた者の重さがあった。
頼政が座り直し、頭を下げる。
「本日は、お目通りを賜り恐悦に存じます」
「よい。隣り合う山のことじゃ。後に揉めぬよう、先に話すのは悪いことではない」
頼政はもう一度、頭を下げた。
俺は頼政の膝に抱かれたまま、じっと貫主を見ていた。
この場の空気を決めているのは、頼政ではなく、この老僧だった。
幼子の身体でなければ、自然と背筋を伸ばしていただろう。
頼政は、持ってきた書付を差し出した。
「伐るのは、朝霧の山のこちら側にございます」
頼政が書付の一点を指した。
「百済寺との境からは離してございます。目印は、沢沿いの大岩と、その先の松に」
貫主は書付に目を通し、そばに控えていた僧へ渡した。
控えの僧は、すぐには頷かなかった。
書付の印を指で追い、沢と大岩の位置を確かめてから、ようやく小さく頷いた。
「その印ならば、境を違えることはありますまい」
「沢は越えぬな」
貫主が言った。
「越えませぬ」
頼政は即座に答えた。
「伐るのは朝霧の側のみ。百済寺の山へ手を入れることはございませぬ」
「木を運ぶ道は」
「朝霧へ戻します。寺へ通う道を荒らすこともいたしませぬ」
貫主はしばらく書付を見ていた。
部屋の中が、静かになる。
山の木は、山に生えているからといって、勝手に伐れるものではない。境を越えたと言われれば、こちらに非が残る。
頼政がわざわざ出向いた理由は、そこにある。
やがて、貫主は書付を置いた。
「境を越えぬなら、差し支えあるまい」
貫主はそう言った。
「ただし、印を違えぬこと。伐り終えたなら、後で使いを寄こすがよい」
「承知いたしました」
頼政の声には、安堵が混じっていた。
話は済んだ。
そう思ったところで、貫主の目が俺に向いた。
「幼子を連れて寺へ参るのも、また縁じゃ」
頼政が姿勢を正した。
「人は皆、己の立つ場所を持つ。武士には武士の一隅があり、僧には僧の一隅があり、百姓には百姓の一隅がある」
貫主の声は穏やかだった。
「伝教大師は、一隅を照らす者こそ国の宝と説かれた。大きな堂を建てることばかりが功徳ではない。庭を掃くことも、灯明を守ることも、飢えた者に粥を分けることも、また功徳じゃ」
頼政は真面目な顔で聞いている。
「幼子にも、仏縁はある。今は分からずとも、よきものを見せておけば、いつか心の底に残ることもあろう」
「肝に銘じます」
頼政が、また深く頭を下げた。
だが、話はそこで終わらなかった。
貫主の声は穏やかだった。
穏やかなまま、話は延々と続いた。
頼政は真面目な顔で頷いている。
俺は頼政の膝の上で、だんだん頭が重くなってきた。
幼い身体のせいなのか。
抹香臭い話のせいなのか。
たぶん、両方だ。
ようやく終わったか。
そう思ったところで、貫主は俺を見た。
「せっかく来たのだ。その子にも、堂を見せてやるがよい」
頼政が少し戸惑う。
「よろしいのでございますか」
「何か残るであろう」
そう言われて、断れるはずもない。
俺は頼政に抱かれたまま、若い僧に案内されて、廊下を進んだ。
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堂の中は、外よりも暗かった。
「足元にお気をつけください」
若い僧が、声を落として言った。
太い柱が立ち、梁は高い。古い木の匂いに、香の匂いが混じっている。
奥には本尊がある。
「こちらが本尊にございます」
若い僧はそう言って、静かに頭を下げた。
頼政も、俺を抱いたまま頭を下げる。
俺もつられて黙った。
じろじろ見るような空気ではなかった。
若い僧は、少し横へ回った。
「こちらも、古くより伝わるものにございます」
そう言って、一幅の絵を示した。
「如意輪観音の絵像です」
絹に描かれた観音は、薄暗い堂の中で、かすかに色を残していた。
金や朱の名残。
やわらかな線。
静かにこちらを見下ろすような顔。
俺は頼政の腕の中で、息をのんだ。
前世で見た文化財は、だいたいガラス越しか、写真か、案内板の向こうにあった。
だが、今ここにあるものは違う。
後の世なら、札を付けられ、守られる側に置かれるものだ。
それが今は、寺の中で当たり前のように掛けられている。
古いものを見た、というだけではない。
その時代の中にあるものを、直接見ている。
その感覚が、妙に胸に残った。
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帰り際、貫主は頼政に言った。
「山は、荒らせば戻すのに時がかかる。必要な木を伐るのはよい。だが、次に残すことも考えよ」
「肝に銘じます」
頼政は深く頭を下げた。
俺はその言葉を聞いていた。
次に残すこと。
頼政がしに来たのは、木を伐るための筋を通す話だった。
だが、百済寺で見たものを思い返すと、貫主の言葉は木のことだけを言っているのではないように聞こえた。
伐るだけではない。
使うだけでもない。
何を残し、どう守るのか。
この寺にあるものは、そうして積み重ねられてきたものなのだろう。
俺は頼政の腕の中で、もう一度門を見上げた。
地上の楽園。
後の世で、ルイス・フロイスがそう書いたという話を思い出した。
なるほど。
この百済寺を見れば、そう言いたくなるのも分かる。
だが、それは天から降ってきた楽園ではない。
人が作り、人が守り、武器を取ってでも残そうとしてきた場所だった。




