第4話 米と木と
【第4話 米と木と】
「久方様が、お見えにございます」
若い家臣がそう告げると、頼政は俺を抱き直した。
ほんのわずかに、腕の力が変わる。
政虎も黙って頷いた。
久方。
その名だけで、頼政の顔つきが変わった。
なるほど。
これが、戦国の領主の顔か。
「屋敷にか」
頼政が問うと、若い家臣は頭を下げた。
「はっ。すでに表座敷へお通ししております」
「そうか」
頼政は短く答えた。
「戻るぞ」
政虎が若い家臣に目を向ける。
「先に立て」
「はっ」
若い家臣は身を返した。
「小徳丸。久方の叔父上に、顔を見せるぞ」
叔父上。
頼政の叔父なら、俺には大叔父か。
頼政は俺を抱いたまま、屋敷へ引き返した。
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やがて、橘の屋敷が見えてきた。
若い家臣が先に立ち、表座敷へ案内する。
そこには、年配の男が座っていた。
後ろに控えているのは、若い供廻りが二人。
腰に刀を差し、旅装のまま静かに膝をそろえている。
「弥三郎殿」
低い声だった。
「叔父上。お待たせいたしました」
頼政は俺を抱いたまま、頭を下げた。
頼政が叔父上と呼んだ男は、久方景近。
通称、又次郎。
山を下りた先にある上田村を預かる領主である。
久方は俺を見ると、穏やかに目を細めた。
「おお。これが小徳丸か」
そして、静かに笑う。
「弥三郎殿に似ておるな。目元がよい」
頼政は、少し照れたように頭を下げた。
「ありがたきお言葉にございます。まだ幼き身なれど、橘の家を継ぐ子にございます」
「うむ。橘の嫡男の顔を見ておくのは、親類の務めよ」
久方はそう言って、俺を見る。
「我らも、その枝に連なる身なればな」
枝。
橘の本家。
そこから分かれた久方の家。
久方家は、橘から分かれた親類筋だ。
本家は朝霧村。
久方は、山を下りた先の上田村。
名目では橘が本家でも、米と人に余裕があるのは久方の方だった。
頼政は久方を上座へ勧めた。
「叔父上に下座に座られては、某の面目が立ちませぬ」
「では、弥三郎殿の顔を立てよう」
久方はそう言って、上座に座った。
茶が出される。
しばらくは、穏やかな話が続いた。
今年の田の水。
山道の崩れた箇所。
多賀へ抜ける荷駄の往来。
六角家中から聞こえてくる沙汰。
頼政はうなずきながら聞いていた。
久方は、ふと俺に目を向けた。
「橘の家も、嫡男が生まれればまずは一安心でござるな」
「ありがたきことにございます」
頼政は俺を抱き直した。
「この子の代まで、家を穏やかに繋げられればよいのですが」
「穏やかに、か」
久方は湯呑を置いた。
「それが、今は一番難しい」
頼政の顔が、少し引き締まった。
話は、三河へ移った。
天文十一年、夏。
東では、小豆坂で戦があったという。
尾張の織田。
駿河の今川。
その間に挟まれた三河。
俺の知る歴史では、いずれこの名は大きく動く。
だが、この座敷に届いているのは、まだ遠い戦の噂にすぎない。
それでも、噂は届く。
「東も騒がしい。北も、静かではあるまい」
「浅井のことでございますか」
「うむ。備前守殿が亡くなられた。小谷の内も、まだ定まりきってはおらぬと聞く」
浅井備前守。
浅井亮政だ。
北近江で浅井の名を押し上げた男。
その柱が抜けた。
家中が揺れないはずもない。
「久政殿が跡を継がれたのでございましょう」
頼政が言った。
久方は小さく頷いた。
「継がれた。だが、跡を継いだだけで家中が締まるなら、誰も苦労はせぬ」
頼政は困ったように笑った。
「我らのような山里には、遠い話にございます」
「遠くはない」
久方の声が、少し低くなった。
「弥三郎殿。北近江と事になれば、我らも六角様の御下知に従わねばなるまい」
頼政は黙った。
「戦となれば、兵が動く。荷駄も増える。道は荒れ、橋も傷む」
久方は、そこで少し間を置いた。
「橋を直すにも、柵を組むにも、木は要る」
頼政は庭先へ目を向けた。
庭の向こうには、鈴鹿の山が広がっている。
「……朝霧の木でございますか」
「うむ」
久方は短く頷いた。
「朝霧は山里でござる。田は広くない。だが、山はある」
そこで久方は、頼政をまっすぐ見た。
「持っておるものを、安く見てはならぬ」
「弥三郎殿」
久方が言った。
「木材を少し、上田へ回せぬか」
「木材でございますか」
「うむ。橋を直すにも、柵を組むにも、家を繕うにも木は要る。これから人と荷が動けば、なおさらでござる」
頼政は少し考えた。
「どれほど、ご入用にございますか」
「まずは多くは望まぬ。出せる分でよい」
久方はそこで、言葉を切った。
「代わりに、米はこちらで用立てる」
米。
その一言に、俺は反応した。
頼政も、わずかに目を見開く。
「米を、でございますか」
「ただでもらおうという話ではない。木と米を替える。それだけでござる」
木と米。
朝霧には木がある。
だが、米が足りない。
久方は、そこを分かったうえで米を出すと言った。
施しではない。
取引として。
頼政はしばらく黙っていた。
そして、困ったように笑う。
「叔父上」
「何かな」
「木材はお回しいたします。ですが、米のことは、どうかお気になさらず」
久方の目が、わずかに細くなった。
「弥三郎殿。米は礼ではない」
「承知しております」
頼政は、穏やかに答えた。
「されど、叔父上にはこれまで幾度もお世話になっております。木材でお役に立てるなら、某にとってもありがたきことにございます」
久方は、すぐには返さなかった。
頼政も、木と米を替える意味は分かっている。
分かっていて、受け取れないのだ。
ここで米を受け取れば、また久方に助けられた形になる。
礼ではない。
取引だ。
そう言われても、頼政の顔には、そう割り切れない色が残っていた。
これが、武士の面子というものか。
厄介だな。
村の蔵は、面子では満たされない。
「では、木のことは後ほど改めて詰めよう」
久方が言った。
「はい。こちらで用意できる分を、彦九郎に調べさせます」
政虎が静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
話は、そこで一度まとまりかけた。
だが、久方は湯呑を手にしたまま、ふと声を落とした。
「ただし、弥三郎殿」
「はい」
「用材を出すなら、百済寺の山林には気をつけられよ」
百済寺。
その名が出た。
頼政の顔が、少しだけ改まる。
「百済寺の山でございますか」
「山の境は、田の畦ほどはっきりしておらぬ」
久方は静かに言った。
「こちらの山と思うて伐った木でも、寺方が百済寺の山林を侵したと言えば、それだけで揉める」
頼政は黙って聞いていた。
「百済寺は、ただ経を読む寺ではござらぬ」
久方の声が低くなる。
「山を持ち、人を抱え、僧兵もおる。まして用材となれば、貫主も黙ってはおるまい」
寺というより、一つの勢力だ。
そんな相手に、山林を侵したと言われれば、それだけで厄介だ。
「心得ました」
頼政は深く頷いた。
「百済寺には、こちらから話を入れておきます」
「それがよい」
久方は短く言って、ようやく茶を口にした。
それで話は終わった。
少なくとも、座敷の上では。
頼政は安堵したように息を吐いた。
久方も、もうそれ以上は言わなかった。
だが、俺の耳には、百済寺という名だけが残っていた。
百済寺。
その名を聞いたとき、ひとつ思い出したことがある。
だが、それはまだ先の話だ。
今はただ、この名を覚えておけばいい。




