第71話 千種を降す
天文二十三年(1554年)、正月半ば。
伊勢国、三重郡、千種村、朝明川河原。
千種城へ送った使者が戻ったのは、空がすっかり明るくなってからだった。川面には夜の間に張った薄氷が残り、朝霧が河原を這っていた。
使者は息を整える間もなく、俺の前へ膝をついた。
「千種三郎左衛門殿がこちらへ参ります。供は五人。武具は帯びぬとのことにございます」
「分かった。来たら通してくれ」
昨夜、千種勢が渡ってきた浅瀬には、折れた槍や片方だけの草鞋がまだ散らばっている。その脇では負傷者を寝かせ、傷口を洗い、晒で血を止めていた。味方も千種方も分け隔てなく並べてある。敵兵から取り上げた武器だけは、先に一か所へまとめてあった。
少し離れたところでは各隊の点呼が続いている。負傷して下がった者、まだ動ける者、戻っていない者の報告が順に上がってきた。千種城はまだ落ちていない。死者の数を数えるより、今すぐ動かせる兵がどれだけ残っているかを先に知っておきたかった。
そこへ新九郎が来た。
「十兵衛様。捕らえた者の中に、村の者を装っている者がおります」
新九郎の後ろには、十人が縄を掛けられて河原に座らされていた。具足はなく、着ている物だけを見れば村人と変わらない。だが座り方に落ち着きがなく、目だけがせわしなく周りを窺っていた。
俺は新九郎に確かめた。
「千種方の郎党で間違いないのか」
「はい。何人かは、捕らえた別の者が顔を見知っております」
「名乗った村は」
「確かめましたが、話が合いませぬ。どの村へ行っても、そのような者はいないと」
村人のふりをして紛れ込み、後で城へ戻るつもりだったのだろう。軍令に照らせば、これを見逃す理由はない。
「分かった。別にして調べろ。誰が何を名乗ったかも残しておいてくれ」
「承知しました。すぐにかかります」
新九郎が十人を連れて下がっていく。
河原には、ほかにも捕らえた千種方の兵が座らされていた。具足を着けたままの郎党もいれば、槍一本で駆り出されてきただけの村の男もいる。武器を捨てて降った者には水と食事を与え、負傷している者は敵味方を分けず手当てさせていた。
しばらくして、新九郎が戻ってきた。
「十人とも千種方の郎党にございます。名乗った村の者にも確かめましたが、そのような名の者は一人もおりませぬ」
俺は聞いた。
「捕らえた者たちの証言も同じか」
「同じにございます。具足と武器を捨て、村人に紛れて逃げるつもりだったようです」
俺は頷いた。出陣前に決めた軍令に当たる。降兵として扱う余地はない。
「十人とも死罪とする」
「承知しました」
新九郎が頭を下げ、十人は河原から離れた場所へ連れていかれた。
その処置が終わる頃には、昼前になっていた。
そこへ忠治が五人の家臣を連れて河原へ来た。こちらも会談場所の周りから兵を下げさせている。
忠治は俺の前へ来るより先に、筵の上に寝かせてある備前守の遺体へ向かった。しばらく顔を見つめた後、膝をつく。
「備前守にございます」
顔、具足、差料、倒れていた場所。一益から受けた報告とも合っている。
忠治が確かめ終えるのを待って、俺の前へ座り直した。
「昨夜、備前守へ兵を預けたのは私にございます。橘勢が切畑から連戦で疲れているうちに叩くべきと判断し、夜襲を命じました。兵を率いたのは備前守なれど、敗れた責は私にございます」
「分かりました」
死んだ者へ責任を押しつけるつもりはないらしい。
俺は話を進めた。
「早速ですが、三郎左衛門殿。千種城の門を開けてもらえますか」
忠治はすぐには返さなかった。
「千種城を明け渡せと申されるか」
「はい。城兵には武具を置いてもらいます」
「昨夜の敗れは認めます。されど、一度の敗戦で本城まで差し出せというのは受け入れられませぬ」
野戦の兵は失った。それでも千種城は残っている。ここで簡単に折れるつもりはないようだった。
俺はさらに条件を重ねた。
「向城、金ヶ原城、平尾城にも開城を命じてもらいます」
忠治の返事が一拍遅れた。
「四城すべてを取るおつもりか」
「そうです」
「それでは和議ではない。千種家に降れと申しておられる」
「はい。降れと申しているのです」
忠治は黙ったまま俺を見る。ここで退くつもりはないと目が語っていた。
「畑は最後まで抵抗したので滅ぼしました。ですが、杉谷は既に橘に従っています。善住坊も、その兵も殺してはいません」
「我らにも降れと」
「降伏を受け入れるなら、三郎左衛門殿も、武器を置いて従う者も助命します。橘に従った後は働きを見ます。使える者には役目も与えます」
忠治の表情は変わらない。
「されど、千種の城と兵は取り上げると」
「はい。今までどおり千種家が城と兵を持ったまま、という形は認めません」
俺はそこで言葉を切った。降伏の形だけを整えて、実の兵力を残されては意味がない。
「降った後と、抵抗した後。どちらが利になるかを選んでください」
忠治はしばらく黙っていた。
「兵を退かせ、今後橘家へ敵対せぬと誓う。それでも足りませぬか」
「足りません。城も兵も残れば、こちらから見れば昨夜と同じです」
「備前守は討たれ、こちらも兵を失っております」
「それでもです」
忠治がこちらを見たまま口を閉じる。
俺はさらに続けた。
「千種の地も橘の支配へ入れてもらいます」
今度は返事が早かった。
「城だけでなく、所領までか」
「はい」
「それを受ければ、千種家は名だけ残して何も持たぬことになる」
「何も残らないということはないと思いますが」
忠治は何も返さなかった。
俺はもう一つ付け加えた。
「それと、近親から一人、人質を出してもらいます」
「城を渡し、所領を渡し、そのうえ人質まで出せと」
「そうです」
忠治は首を横に振った。
「受けられませぬ。千種家は昨夜敗れた。されど、まだ城はある。そこまですべて差し出すことはできませぬ」
これ以上は動かないか。ならば、こちらも言葉を重ねる意味はない。
「分かりました。では、城へ戻ってください」
忠治が僅かに眉を動かした。
「このまま話を終えると申されるか」
「こちらは条件を変えません。三郎左衛門殿も受けない。なら、続きは城の前でやります」
忠治はしばらく俺を見ていた。
「承知した」
一礼すると、五人の家臣を連れて千種城へ戻っていった。
* * *
昼を過ぎる頃、千種城の正面に二百丁の火縄銃を並べた。
昨夜は成政の五十丁だけを使い、残りは槍へ持ち替えさせていた。今は火縄銃を戻し、射手も各隊から組み直している。負傷者は救護所から動かさない。六個小隊すべてが五十人揃っているわけではないが、それでも二百丁は撃てる。
千種城は山城だ。火縄銃で土塁や曲輪を吹き飛ばせるわけではない。狙うのは門、柵、櫓、塀際。守る側が顔を出せる場所を減らす。それより重要なのは、一度撃って終わりではないと分からせることだ。
俺は手を上げた。
「撃て!」
二百丁が一斉に火を噴いた。腹へ響く音が山へぶつかり、遅れて返ってくる。白煙が列を覆い、城門や柵の周りで木屑と土煙が跳ねた。塀の上に出ていた人影が消える。
すぐに装填が始まった。火薬を入れ、弾を落とし、突き固める。次の準備が整う。
「撃て!」
また山が鳴った。城から矢が返ってくるが、こちらの列は崩れない。射撃を繰り返すうち、煙が斜面へ溜まり、城門の板には弾痕が増えていった。櫓の板も割れているが、それで山城を崩せるわけではない。
可成が次の射撃準備を見てこちらを向いた。
「十兵衛様、続けますか」
「三左衛門、向こうが根を上げるまで撃ち続けろ」
「承知しました」
また一斉射が響いた。二百丁が同じ合図で撃ち、また装填して次を撃つ。弾薬も後ろから運ばれてくる。城兵が塀へ戻れば、また撃てる。それだけのことだ。
何度目かの射撃を終えたところで、俺は秀吉を呼んだ。
「藤吉郎。使者を一人出してくれ」
「はっ」
「三郎左衛門殿へ、これが最後だと伝えてくれ。門を開けば、さっき話した条件は守る。拒むなら次の使者は出さない」
「承知しました」
「総攻めにする。城内は一人残らず撫で斬りにする。それも伝えてくれ」
使者が白布を持って城へ向かった。これで次はない。
しばらくして、城門脇に白い布が上がった。門が開く。
忠治は今度、自分から坂を下りてきた。
「門を開きます。向城、金ヶ原城、平尾城にも開城を命じます」
「分かりました。三通、ここで書いてください」
忠治は向城、金ヶ原城、平尾城へ宛てて文を書いた。抵抗をやめ、門を開き、武具を置くよう命じる内容だ。筆を持つ手は落ち着いていたが、花押を据える一筆だけ、僅かに震えた。
三通に花押が据えられる。
俺は三通を分けながら命じた。
「但馬守殿、向城をお願いします。二百はそのまま一手で動かしてください」
「承知した」
賢豊が一通を受け取った。続けて、頼政へ一通を渡す。
「父上は金ヶ原城をお願いします」
「よかろう」
平尾城には第二中隊と第三中隊から、まだ動ける兵を分けて向かわせる。千種城は俺が見る。
城へ入ると、千種方の兵は武具を一か所へ積み始めていた。忠治の旧臣も武装を解かせ、勝手に散らないよう留めた。忠治からは近親の者を一人、人質として出させた。
* * *
夕刻までに、三方から開城の報告が戻った。
賢豊は二百を率いたまま向城へ入り、頼政も金ヶ原城を受け取った。平尾城も忠治の文を見て抵抗をやめ、第二中隊と第三中隊から送った兵が入っている。これで千種方の城はすべて押さえた。
俺は政澄を呼んだ。
「叔父上。向城と金ヶ原城は潰します。兵糧と武具を運び出して、使える材木も外してください」
「城として使えぬところまでか」
「はい。平尾は残します。杉谷もです」
「承知した。向城には但馬守殿、金ヶ原には兄上がおる。こちらから人を出そう」
千種城では、城兵から取り上げた武具が庭へ積まれていた。槍や刀に混じって、傷んだ具足や弓もある。
俺はその前で足を止めた。
「使える物と直せる物を分けてくれ。鉄砲は別にまとめてくれ」
「承知しました」
使える物は使えばいい。
翌日、金ヶ原城から頼政が戻った。
「十兵衛。金ヶ原は受け取った。城を潰す方も始めさせた」
「ありがとうございます」
頼政が城内を見回した。
「ここへ残るのか」
「はい。俺はしばらく千種に残ります。父上には朝霧をお願いしたいです」
少し考えてから続ける。
「それと、杉谷と平尾へ置く者を朝霧から出してください」
「善住坊は杉谷へ戻さぬのだな」
「はい。善住坊は千種に残します。杉谷城と蔵、武具、残った兵は、こちらから出す者に引き継がせます」
「分かった。人を選んで送ろう」
その日のうちに、俺は綾へ短い文を書いた。千種を開かせたこと、俺も賢豊も無事であること。それだけを記せば十分だった。
頼政は翌朝、忠治から出させた人質を連れて千種を発った。
* * *
数日後、橘譜代の大野飛騨守が杉谷城へ入ったとの報告が届き、城の蔵と武具、残っていた兵の引き継ぎも済んだという。
平尾城には政基の父・今井安三郎政貞が入り、第二中隊と第三中隊から出していた兵との引き継ぎが始まった。
そこへ朝霧から伝令が来た。頼政からのもので、人員と道具をこちらへ送り始めたこと、兵糧もすでに八風を越えていることを知らせる内容だった。
戦は終わった。
ここからは、取った土地を橘の土地に変えていく。




