↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
近江の山奥から始める近代国家建設 〜転生田舎領主は戦国そのものを終わらせたい〜  作者: 近江もののふ
第三章 北伊勢戦役

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
78/82

第70話 朝明川の戦い

 天文二十三年てんぶんにじゅうさんねん(1554年)、正月半ば。

 伊勢国(いせのくに)三重郡(みえぐん)杉谷(すぎたに)


 昼前、切畑(きりはた)を発った軍勢は杉谷へ入った。城門は開け放たれたままで、杉谷城には三十人だけを残し、善住坊(ぜんじゅぼう)は九十人を率いてこちらの列に加わっている。


 先頭を進んでいた善住坊が、山際へ延びる細道を指した。

朝明川(あさけがわ)へ出るところまでは、迷うような道ではございません。ただ、川に近づくほど脇道が増えます」

「夜でも通れるか」

「杉谷の者ならば。山へ入る道も、川へ下りる道も承知しております」

「なら甲賀衆(こうかしゅう)と一緒に先導を頼む。九十を街道へ並べて見せるより、その方が使い道がある」


 善住坊が振り返り、俺を見た。

「敵が崩れた後は、追わせますか」

「いや、逃げ道を塞ぐところで止めろ。追撃(ついげき)で兵が散ると、はぐれた者を捜して隊へ戻す手間が増える」

「心得ました。杉谷の者にもそう言い聞かせます。上流側はわしが入りましょう」

「頼む。道を知る者が先にいれば、夜でも動きやすい」


 善住坊は自分の兵のところへ戻っていった。杉谷勢は昨日まで敵に回る可能性を残していた兵だ。それでも、夜の山道を知っているというだけで使い道は大きい。絵図(えず)だけを頼りに何百人もの兵を暗闇の中で動かすより、土地を知る者を先に立てた方がいい。


 ここから千種(ちくさ)方へ姿を見せるのは、俺の直轄三百と切畑勢だけだ。頼政(よりまさ)の三百、賢豊(かたとよ)の二百、善住坊の九十は街道から外し、昼のうちは姿を見せない。


 先頭では、橘の古参兵五人がそれぞれ九人ずつを率いる五分隊が進んでいた。ところが一つの分隊だけ、前との間が開きかけている。分隊長(ぶんたいちょう)が振り返った。

「間を空けるな。後ろも見ろ」


 その声に後ろの兵が歩調を上げ、残りの分隊もそれへ合わせて列を詰め直す。政虎(まさとら)は少し後ろからそれを眺めていたが、口は出さなかった。


 俺が並んで歩くと、政虎がぽつりと言った。

「あの分隊長、畑屋敷(はたやしき)では名も覚えておりませんでした」

「今は覚えたか」

「はい。声の掛け方だけは、他の四人より頭一つ抜けております」

「なら次からは、あいつに小隊(しょうたい)を預けてみるか」

「まだ早うございます。ただ、見ておく価値はございましょう」


 畑屋敷で兵を集めた時には、返事すら揃わなかった連中だ。それが今は、遅れれば分隊長の声だけで列を戻している。次の戦で見るべきなのは、槍の腕よりこちらだろう。


 * * *


 朝明川へ着いた頃には、日が西へ傾いていた。冬の水を流す川の向こうに、千種へ続く道が伸びている。上流は木立が岸近くまで迫り、下流には低い草地が広がっていた。


 兵が河原(かわら)へ入り、荷を下ろす。槍が立ち、俵が積まれ、篝火(かがりび)の支度が始まった。対岸から見れば、急ごしらえの小さな陣にしか映らないはずだ。


 柵を立てていた兵を、可成(よしなり)が止めた。

「そこまででよい。残りは寝かせておけ」

「低すぎないか」


 俺が並んだ柵を見て聞くと、可成は首を横に振った。

「本気で防ぐつもりなら低うございます。ただ、今夜はこれで十分でしょう。越える時に足さえ止まれば、それで用は足ります」

「足が止まれば、後ろが詰まって内蔵助(くらのすけ)が撃ちやすくなるか」

「はい。そのつもりで組んでおります。低い柵ほど、越える者は油断して勢いをつけます」

「その勢いのまま、内蔵助の前へ詰め込ませるわけだ」

「はい。柵を高くして手前で足止めするより、こちらの狙いには合いましょう」

「じゃあ、それでいこう」


 柵で守り切るつもりはない。敵が越えられると信じなければ、そもそも河原へは踏み込んでこない。


 俺は積まれた俵を指した。

「俵は二山だけ残して、あとは奥へ下げてくれ。火薬箱(かやくばこ)も見えるところには置くな」

「八風から休まず来た体で見せますか」

「実際そう疲れてる。芝居をさせる必要はない。今の姿のままでいい」


 言われるまでもなく、兵の具足(ぐそく)には泥がこびりつき、座り込めばそのまま足を伸ばす者もいた。わざわざ疲れた振りをさせずとも、河原の陣は十分に本物めいて見えるはずだ。


 利家(としいえ)が馬を陣の奥へ下げていた。

「又左衛門、日が落ちたら馬は使わない」

「承知しております。徒歩へ切り替え、槍を持たせます」

「できるだけ陣から離してくれ。鳴かれると困る」

「離しておきますが、そこばかりは馬次第です」

「分かってる。頼む」


 上流では一益(かずます)が、土手(どて)と木立の間を歩いて確かめていた。俺もそこまで足を運ぶ。道は狭く、木立と川に挟まれて一度に大勢は並べない。

「久助、ここから千種城へ戻れる道はここだけか」

「はい。この先で城へ続く道へ出ます」

「五十で止められるか」

「まとまって来るならば。散って山へ逃げられれば、さすがに全部は止められませぬ」

「全部止めなくていい。備前守(びぜんのかみ)が戻れなければそれでいい」

「五十のうち十は木立の中へ伏せます。道の両側から挟めば、まとまって来る敵ほど崩れやすうございます」

「頼む。ただし、深追いはさせるな。閉じるだけでいい」

「心得ました」


 政基(まさもと)が川際から戻ってきた。

「川向こうに物見(ものみ)が二人。一人は渡り口の先、もう一人は下流に出ております。先ほどより寄っております」

「山へ回った奴は」

「今のところ見えませぬ」

「追わなくていい。こっちは見せるためにいるんだ」


 その後も千種方の物見は何度か対岸に姿を見せた。馬に乗った男が柵と荷、座り込んでいる兵を眺めては引き返し、下流から来た男はさらに近くまで寄ってから戻っていく。何を考えたかまでは分からないが、慌てて城へ駆け戻る様子もなかった。


 日が落ちると、篝火が二つ、河原の闇に浮かび上がった。火の周囲には兵、その奥は暗い。伏せた兵には火を使わせていない。川向こうから見えるのは、疲れて固まった小さな陣だけのはずだ。あとは向こうが乗るかどうかだった。


 * * *


 完全に日が落ちてから、隠していた兵が動き始めた。最初に戻ったのは新九郎(しんくろう)だった。


 陣へ入る手前で見張りの兵が声を掛ける。

「ニイタカヤマノボレ」

「トラトラトラ」


 合言葉(あいことば)が返り、槍が下がった。


 新九郎が俺の前へ来る。

「甲賀衆と杉谷の者を上流と下流へ入れました。善住坊殿は上流の脇道に。彦九郎殿(ひこくろうどの)のところにも道を知る者を付けております」

「道の様子は」

「まだ開けたままです。横木(よこぎ)も柵も寝かせております」

「そのままでいい。敵が入ってから閉じる」


 少し遅れて秀吉(ひでよし)も戻ってきた。

「十兵衛様、殿の隊も位置へ入りました。彦九郎殿には五十が付き、但馬守殿(たじまのかみどの)一手(ひとて)のまま外を固めております」

伝令(でんれい)は」

「途中に置いております。彦九郎殿のところにも一人」

「合図までは動かすな。そこも伝わっているな」

「はい、念を押しております」

「では、藤吉郎はここに残ってくれ。入ってくる報告をまとめる役だ」

「承知しました」


 やがて頼政が供を数人だけ連れて陣へ入ってきた。

「外は整った。だが、まだ閉じんぞ」

「分かってます」

「槍が入った後は、わしが全体を見る。お前はそっちだけ考えろ」

「お願いします」


 正面では成政(なりまさ)の五十が篝火の奥へ伏せていた。火縄(ひなわ)の赤い点が横一列に並び、その前で低い柵が黒く沈んでいる。


 一益が成政へ声を掛けた。

「内蔵助、一度撃ったらその場を動くな。敵味方が混じってからは撃つな」

「五十はここを離れませぬ。混じれば槍へ切り替えます」

「暗がりで動けば、こちらからも分からなくなる」

「心得ております」


 一益は自分の五十を率いて上流へ消え、利家も馬を残して槍兵とともに下流へ入っていった。俺と政基は中央、可成はその後ろで槍兵全体を見る。


 川の音だけが残った。しばらくして、対岸の松明(たいまつ)が一つ消えた。続いて二つ、三つ。政基が顔を上げる。

「来ます」


 浅瀬(あさせ)で石を踏む音がした。水を蹴る音が重なり、具足が擦れ、槍の柄が石に当たる。姿は見えないのに、川向こうから大勢が近づいているのだけは分かった。


 篝火のそばの見張りが一人ずつ下がってくる。

「走るな。そのまま戻れ」


 可成の声に従い、最後の兵が柵の内側へ入った。その直後、篝火の明かりへ人影が飛び込んだ。一人ではない。黒い塊が河原いっぱいに広がる。先頭が柵へ当たり、後ろから来た兵がその背にぶつかった。槍先が乱れても、後続がなお押してくる。


 可成が俺を見た。

「十兵衛様」

「もう少し引きつける」

「承知」


 篝火の前が人で埋まった。

「今だ」


 可成が腕を振り下ろす。

「撃て!」


 五十丁の火縄銃(ひなわじゅう)が一斉に火を噴いた。夜が白く光り、轟音(ごうおん)が川と山にぶつかっては何度も跳ね返る。篝火の前へ白煙(はくえん)が広がり、先頭の兵がまとめて崩れた。


 後ろから押していた兵が倒れた者へ乗り上げ、槍先が空へ向く。怒号(どごう)が一度に重なった。五十丁で敵を倒し切れるわけではないが、先頭さえ止まれば後ろまで崩れる。


「鉄砲は次を撃つな!槍、前へ!」


 槍兵が一斉に立ち上がった。何百本もの穂先(ほさき)が篝火を受けて揺れる。成政の五十はその場に残り、煙の向こうから敵がなお押し寄せてきた。


 俺も槍を取る。頼政が腕を掴んだ。

「まだだ」

「父上」

「川の音を聞け。まだ渡っている音がする」


 耳を澄ますと、確かに浅瀬の水音は途切れていない。ここで退路(たいろ)を閉じれば、渡り切っていない兵はそのまま城へ戻ってしまう。

「まだ閉じません」

「ああ、それでいい。半端に閉じれば、閉じ損ねた場所から誰かが逃げる。焦って早めるな」

「渡り切るまで、こちらは押し込むだけですか」

「押し込めばいい。逃げ場を作ってやる必要はないが、急いで塞ぐ必要もない」


 河原ではもう槍がぶつかり合っている。水音は次第に細くなり、最後の一団が岸へ上がると、その後ろからまとまった足音が消えた。土手の陰で笛が鳴る。


 頼政が秀吉を見た。

「藤吉郎、彦九郎へ」

「はい、出します!」


 伝令が闇へ走った。少し遅れて、浅瀬の方から政虎の声が響く。

「出ろ!道を塞げ!」


 暗闇の中に槍列(そうれつ)が現れた。政虎の五十、その左右へ切畑の五分隊。上流でも杉谷勢と甲賀衆が動き、寝かせてあった横木が起こされる。昼まで開いていた道が、次々と塞がれていった。


 さらに外では頼政勢が動き、その向こうで賢豊の二百が一手のまま外を押さえる。夜の河原を中心に、兵の輪が閉じ始めていた。


 頼政が俺の腕を放す。

「行け」

「はい」


 ここから先、全体を見るのは頼政の仕事だ。俺は政基と共に中央へ入った。


 白煙の向こうから槍が来る。一本目を柄で払うと、脇にいた兵がすかさず穂先を継ぎ、崩れた敵の後ろへ突き込んだ。俺は横から来た二人目へ向き直る。右から突き込まれた槍を半歩ずらして外すと、隣の兵がその隙へ割り込み、敵を押し戻していく。


「中央、詰めろ!」


 声を上げると前列が動いた。政基も左で一人の槍を弾き、後ろの兵へ隙を繋ぐ。

「左、押します!」

「合わせる!こっちも詰める!」


 槍列が一歩出る。敵も押し返し、槍と槍がぶつかって柄が(きし)んだ。後ろから兵の怒鳴り声が響く。


 正面から三人がまとまって来た。一人目の槍を外へ払うと、脇の兵がすぐに穂先を継いで押し込む。二人目が俺へ向けた槍を、政基が横から叩き落とす。三人目が踏み込んできた瞬間、俺は槍を引き、次には突き返していたが、そこへ後列の穂先も重なって男を押し倒した。男が後ろへ崩れ、その後ろからまた別の兵が出てくる。切れ目がない。


 それでも、こちらも一人ではなかった。右も左も槍が並び、その後ろから次の列が押している。さらに後方から可成の声が飛ぶ。

「前へ!」


 槍列がまた一歩進んだ。河原全体が動いているように見えた。


 下流から利家の声が響く。

「押し返せ!追うな!」


 上流では一益の五十が、城側へ抜けようとする敵とぶつかっていた。正面、上流、下流、浅瀬。暗闇のあちこちで怒号が上がり、篝火の明かりを槍先が横切る。


 俺の周りでも槍がひしめいていた。飛び込んできた一人の敵は、槍を短く持っている。突きを外へ流し、石突(いしづき)きを返して腕を打つと、体勢が崩れたところへ穂先を入れた。続けて横から回り込んできたもう一人は、脇の兵の穂先に阻まれてわずかに(ひる)む。そこへ俺も槍を払い、一歩踏み込んで突いた。男が崩れた。


「十兵衛様、右!」


 政基の声に右を見ると、槍列の一角へ敵がまとまって押し込んでいた。

「右へ寄せろ!穴を作るな!」


 後列から兵が回り、開きかけた場所を埋める。可成の声も重なった。

「第二列、右へ!中央はその場を守れ!」


 槍の壁が形を戻す。何年も繰り返してきたことだ。誰か一人が強ければいいわけじゃない。押された場所へ寄り、前が崩れれば後ろが埋める。その動きが暗闇の中でもまだ続いていた。


 敵の奥から声が上がった。

「城へ戻れ!」


 人の流れが変わる。前へ押していた兵が後ろを向き、浅瀬へ走り出した。その先には政虎がいる。敵が切畑勢へぶつかり、一つの分隊が押されて膨らんだ。先頭の古参兵が、前へ出かけた男の肩を掴む。

「戻れ!槍を揃えろ!」

「抜かれます!」

「追うな!ここで止めろ!」


 男が列へ戻ると、隣も続いた。槍先がもう一度揃う。


 政虎の声が響いた。

「柵から離れるな!戻ってくる者だけ押し返せ!」


 五つの分隊がその場に残る。畑屋敷で試すと言ったのはこれだった。何人討ったかではない。押されても逃げず、逃げる敵を勝手に追わず、命じられた場所に残れるか。その一点で見れば、今のところ問題はない。


 暗がりから伝令が走ってきた。

「ニイタカヤマノボレ」

「トラトラトラ」


 兵が道を空ける。秀吉の分隊の者だった。

「大隊長殿、殿と但馬守殿の兵が外を押さえております。こちらへ回る援軍はございません!」

「但馬守殿は隊を割らずにいるか」

「一手のまま外を固めておられます!」

「分かった、父上にも伝えろ」

「はっ」


 これで外はいい。俺は正面へ向き直った。上流側では、具足の目立つ男を囲むように兵が固まり、周囲の者が必死に城側へ押し戻そうとしている。


「久助!具足の男がそっちへ行くぞ!」

「見えております!」


 一益の声が返った。城側へ走った一団が、一益の五十へ正面からぶつかる。槍が重なり合い、押し合う人波がそこで止まった。


 具足の男が後ろから叫ぶ。

「道を開けよ!」


 一益が前へ出た。敵の槍を受け、横へ流す。隣の兵がもう一本を叩き落とす。一益の槍が伸び、具足の男の脇へ入った。男が膝をつく。


 周囲の兵が振り返った。そこで敵の勢いが落ちる。一人が槍を捨て、次に刀が落ちる。さらに別の兵が武器を投げた。


 可成が声を張る。

「武器を捨てた者を突くな!右へ寄せろ!」


 俺も槍を上げた。

「槍と刀を捨てろ!伏せた者は殺さない!」


 河原のあちこちで武器が落ち始めた。それでも最後まで抵抗する者はいる。利家の方ではまだ槍がぶつかり、一益の前でも数人が押し返そうとしていた。


 俺の正面にも一人残っている。男が槍を構え、こちらも構えた。先に向こうが出る。穂先を外へ払い、そのまま踏み込む。一突き。男が倒れた。


 顔を上げると、もう槍をこちらへ向けている者はいなかった。


 頼政の声が河原へ響く。

「深追いするな!味方を集めろ!」


 可成も続けた。

「分隊ごとに人数を確かめろ!負傷者を後ろへ!暗いうちは河原へ下りるな!」


 怒号が消えていく。代わりに負傷者を呼ぶ声と、兵を数える声が広がった。篝火の周りには捕らえた兵が集められ、槍や刀は別の場所へ積まれていく。ついさっきまで人で埋まっていた河原が、急に広く見えた。


 政虎のところでは、切畑勢が五つの分隊へ戻っていた。俺は列を見てから声を掛ける。

「彦九郎、どうだ」

「負傷者はおります。人数は今、確かめさせております」

「持ち場は」

「誰も勝手には離れておりませぬ。追撃もしておりません」

「なら十分だ」


 政虎が五つの分隊を見渡した。

「まだ橘の古参兵と同じとは申せませぬ。ただ、命令には従えまする」

「今夜、追いかけたがった者は」

「二人。分隊長がその場で止めております」

「止めた分だけ、前より使える」

「次も彦九郎に預ける」

「心得ました」


 空が白み始めた。一益が上流から戻ってくる。

「久助、さっきの男は」

「名は分かりませぬ。ただ、周囲の者が城へ逃がそうと必死になっておりました」

遺体(いたい)は」

「そのまま兵を残しております。明るくなってから確かめましょう」


 顔が見えるようになってから、降った千種方の郎党(ろうとう)を何人か連れていった。一益が倒した男の前で、一人が足を止め、顔と具足を確かめて膝をついた。

「備前守様……」


 別の男にも確認させると、うなずきが返る。

「間違いございませぬ。萩沢備前守(はぎさわびぜんのかみ)様にございます」


 一益が俺の前へ出た。

「備前守は、某が討ちました」

「討った時の様子は」

「槍を横へ流し、脇を突きました。周りの者が(かば)おうとしましたが、間に合いませんでした」

「分かった。顔と具足、差料(さしりょう)、倒れていた場所を記録してくれ。確認した者の名も残す」

「使者に見せる証にございますか」

「そうだ。備前守が死んだと言葉だけで伝えても、向こうは信じきれない。記録があれば話が早い」

「心得ました」


 備前守は死んだ。だが、これで千種が終わったわけではない。城には忠治(ただはる)がいる。向城(むかいじょう)金ヶ原城(かながはらじょう)も残っている。


 頼政が川向こうを見た。

「十兵衛」

「はい」

「使者を出せ。備前守は討たれた。次は三郎左衛門殿(さぶろうざえもんどの)の返事を聞け」

「千種城ですね」

「ああ」


 俺は政基を呼んだ。

「弦十郎、馬を一頭と供を二人つけてくれ。旗も持たせる」

開城(かいじょう)を求めますか」

「千種城、向城、金ヶ原城を開けさせる。平尾(ひらお)は今は触らなくていい」

「三郎左衛門殿が拒めば」

「その時は改めて考える。今はまず、備前守が討たれたことだけ、こちらの言葉で伝えたい」

「承知しました。日が高くなる前に出しましょう」


 朝明川の向こうには、千種へ続く道が伸びていた。夜の間に何百人もの兵が渡った浅瀬では、朝の水が血を引きながら流れている。河原には折れた槍や踏み荒らされた草鞋(わらじ)が散り、篝火の煙だけがまだ低く残っていた。その岸辺で、千種城へ向かう使者の支度が始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。