第69話 千種へ
天文二十三年(1554年)、正月半ば。
伊勢国、三重郡、切畑村、畑屋敷。
切畑を押さえた翌朝、村へ触れを出して男たちを集めさせた。畑家の郎党だった者や、以前に兵役へ出た経験のある者たちだ。与九郎とともに昨日の戦へ出た兵ではない。切畑に残っていた者の中から選ばせた。
屋敷の庭へ集まったのは五十人ほどだった。若い者もいれば、四十を越えていそうな男もいる。家族は皆、この村に残っていた。
政澄には畑一族の血を引く者が混じっていないかを調べてもらい、政虎には戦列へ加えられるかを確かめてもらった。政澄が先に報告する。
「畑の血を引く者はいない」
政虎も続けた。
「以前に役を持っていた者は何人かおりますが」
畑一族として処断すべき者は、昨日のうちに全て処断している。旧畑家で何をしていたかは別として、この五十人まで同じ扱いにする理由はない。
「彦九郎、使えそうか」
「十兵衛様、戦える者は四十五ほどにございます。残る五人も、荷駄や伝令なら務まりましょう」
「なら四十五を九人ずつ五つに分けろ。橘の古参を一人ずつ入れて、その者を分隊長にする」
「すぐに人選いたします」
いきなり橘兵と同じところまで求める気はない。まず分隊の形を作り、古参の下へ入れる。
政虎が声を落とした。
「十兵衛様、以前に畑方で役を持っていた者はいかがなされます」
「当面は兵を預けない。まず一兵として働かせ、その上で決める」
昨日までの役目を橘へ持ち込ませるつもりはない。役が欲しければ、橘の下で改めて取ればいい。
「残る五人は荷駄と伝令へ。五つの分隊は次の戦で先鋒にする。命令どおりに動けるか、そこで判断する」
政虎は五人の古参兵を呼び寄せた。俺も庭へ下りると、こちらを窺っていた男たちの顔が一斉に上がった。
「橘へ加わるなら、橘の軍令に従ってもらう。彦九郎、読ませろ」
「では、五分隊の前に並べて読み上げます」
政虎が軍令書を開き、目を通しやすいよう掲げた。略奪をしないこと、首を取らないこと、命じられない追撃をしないこと、持ち場を勝手に離れないこと――そう記された条項のうち、首取りまで禁じるくだりへ来たところで、何人かの眉が動いた。
「次の戦では先頭を歩いてもらう。ただし、勝手な手柄も討死も要らない。分隊長の命令に従え」
返事はまだ揃わなかった。今はそれで構わない。
政虎が列を五つに分け始め、古参兵がそれぞれの先頭へ入る。
「彦九郎、後は頼む」
「まずは分隊ごとに動かしてみます」
俺はその場を任せ、屋敷へ戻った。
その日のうちに、頼政は朝霧へ残した兵から百人を切畑へ送る手配をした。上田の五十は八風峠に残す。近江へ続く道と荷駄の通り道は空けられない。
* * *
三日後、朝霧から百人が到着した。
率いてきたのは政虎の父だった。以前は兵を預かっていた男だが、腰に古傷を抱えている。今回は百人を切畑まで送り届ける役目だけを頼んでいた。
兵が畑屋敷の前へ入りきると、頼政がすぐに振り分けた。
「五十は城へ入れ。三十はこの屋敷と蔵を守れ。残る二十は街道と田光川を見張らせる」
政虎の父が頭を下げる。
「城までなら、まだ務まりましょう」
切畑城へ新しい五十が入れば、攻略後から置いていた直轄の五十を主力へ戻せる。引き継ぎが済めば、政虎の父も朝霧へ帰す。
兵が荷を解き始めた頃、屋敷の外から慌ただしい足音が近づいた。八風峠から来た上田の伝令だった。
「申し上げます!」
「何だ」
「黄和田側から軍勢が参ります! 旗は後藤!」
「数は」
「二百ほど!」
後藤。
俺は頼政と顔を合わせた。援軍を求める文など出していない。
街道へ人を出して確かめさせると、ほどなく後藤勢が村口へ着いた。先頭にいたのは賢豊だった。
「まずは無事だったようだな、十兵衛殿」
「おかげさまで。ですが、なぜ舅殿が」
「娘から文が来た」
「綾から」
「そなたを無事に帰してほしいとな。兵を出せとは一言も書いておらん」
「それで二百ですか」
「家臣だけ寄越して、後で娘に何と言えばよい」
俺は額へ手を当てた。これなら賢豊が自分で出てきたのも分かる。
「夕刻に軍議を開きます。そこで今後を決めます」
「分かった」
後藤勢にはまず休んでもらった。こちらも、二百の宿割りを終えなければならない。
* * *
その日の夕刻、畑屋敷の広間に諸将を集めた。頼政や政澄、政虎をはじめ、直轄と後藤家の面々までが顔をそろえ、板敷きはいつになく人で埋まった。床には新九郎が調べた千種周辺の絵図を広げてある。
軍議へ入る前に、賢豊へ軍令書を差し出した。
「但馬守殿。後藤勢にも、橘と同じ軍令を適用させてください。二百の指揮は但馬守殿にお任せしますが、橘とともに戦う間は略奪、首取り、勝手な追撃、持ち場を離れることは認めません」
「違えた者は」
「橘兵と同じように扱います」
賢豊は最後まで書付けを読み、それを脇へ置いた。
「後藤の者だけ軽くはせぬと」
「はい」
「分かった。兵にも読ませよう」
話がまとまると、絵図へ視線を移した。
「次は千種です」
千種家の当主は、千種三郎左衛門忠治だ。
「三郎左衛門は千種城だけでなく、近くの向城と金ヶ原城も押さえています」
新九郎が南東の印を示した。
「さらに離れたところに平尾城がございます。千種城、向城、金ヶ原城の兵を合わせれば、千ほどは集められるかと。兵をまとめるのは萩沢備前守と考えております」
千ほどを三城へ籠もらせれば面倒だ。
「城を一つずつ攻めるつもりはありません。備前守を城から出して叩きます」
三年前から伊勢の市で続けてきた買い付けは、ここで効く。米だけでなく、美濃や尾張から流れ込む大口の荷も押さえてきた。ただし、小さな売買まで止めたことはない。
「城の蓄えが尽きるまで待つ気はありません。大口の米荷はこれまでどおり絞りますが、飢えさせるのが目的ではない。籠城するより、こちらへ出て叩いた方が早いと思わせます」
続けて、切畑から千種へ向かう道筋を示した。
「千種方へ見せるのは直轄三百と切畑勢だけです。父上の三百と但馬守殿の二百は伏せます。直轄だけが先へ進んできたように見せます」
頼政が街道の両脇を指でなぞった。
「伏せる兵を近くへ寄せるな。備前守が出る気なら、先に周囲を探らせるぞ」
「離します。昼のうちは姿を出しません」
八風峠を越え、切畑を落とした兵が、その勢いで千種まで進んできた。千種方にはそう受け取らせればいい。
「直轄は表に陣を張ります。疲れていると踏めば、夜に叩く気にもなるでしょう。備前守が夜襲に出たところを潰します」
賢豊が口を開いた。
「後藤勢は細かく割らぬ方がいい。二百を一手にまとめて使いたい」
「では、後藤勢は但馬守殿の一手として、父上の兵とともに外を押さえてください。備前守が直轄へ食いついた後に入っていただきたい」
「承知した」
二百のまとめ方は賢豊に任せた方が、後藤勢も動きやすい。
政澄が割って入った。
「その前に杉谷だな。背後へ敵を残したまま千種へ入るのはまずい」
「はい。先に降します」
「新九郎、善住坊へ使いに出ろ。城を開けて橘へ降ること。家は残すが、杉谷の仕置きは橘に従わせる。兵も千種攻めへ出させろ」
「今日のうちに発ちます」
「条件は書付けにも残せ。断れば杉谷城を落とし、善住坊は鋸挽きにする。そこまで書け」
「一字も違えず、お伝えいたします」
「頼む」
新九郎は短く頭を下げた。杉谷が降れば、背後が片付くだけではなく、夜道の案内も得られる。
「叔父上、治部殿のところへ行ってもらえますか。千種へ兵を出さないこと、そして田光を通って千種へ向かう兵、兵糧、使者を通さないこと。この二つをお願いします。こちらも約束どおり田光へは入りません」
「断られれば、こちらでは手を出さない。観音寺へ上げよう」
「お願いします。後は御屋形様に御判断いただきます」
「御裁可が下りれば話は別だな」
「その時は容赦しません。田光ごと踏み潰します」
梅戸は千種とは立場が違う。六角の下にいる以上、こちらだけの判断で敵に回すわけにはいかない。
「平尾には手を出しません。三郎左衛門が降れば開城を命じます。千種城と平尾城は残し、向城と金ヶ原城は潰します。平尾は東へ出る時の足場にします」
平尾は三城から離れている。今ここで兵を散らす価値はない。
続いて、備前守が出てきた後の配置を詰める。
「鉄砲を使うのは内蔵助の五十だけにする。残りの直轄は槍へ持ち替えさせる。又左衛門の五十も馬は後ろへ下げ、徒歩で槍を持たせる」
暗闇で四方から撃たせれば射線が交錯して危うい。馬の嘶きや蹄、馬具の音も、夜には思いのほか遠くまで響き、伏兵には向かない。
「弦十郎は俺と中央へ。三左衛門は槍兵全体をまとめてくれ。久助は五十を率いて千種城側へ寄れ。備前守が城へ抜けようとしたら止めろ。藤吉郎の分隊は本部伝令だ」
可成が口を挟んだ。
「内蔵助の鉄砲も、敵味方が混じれば使えませぬ」
「混じる前までだ。そこから先は撃たせない」
「なら、合図が出るまで狙いだけ定めさせておきます」
成政の五十は射撃位置を離れさせない。暗がりで銃列まで崩す必要はない。
「彦九郎、切畑勢は引き続き預ける。千種へ戻る道を押さえてくれ」
「切畑勢にも、道筋を先に頭へ入れさせておきます」
「父上の兵から五十、彦九郎につけてもらえますか」
「兵は出す。だが十兵衛、最初から道を塞ぐな。備前守が道を探らせれば気取られるぞ」
しまった。退路を断つことばかり考えていた。出る前から道の様子が変わっていれば、備前守も警戒する。
「分かりました。入るまでは開けておきます。夜襲が始まってから彦九郎に閉じてもらいます」
政虎が続けた。
「十兵衛様、閉じる合図だけは決めてくだされ。暗闇では、早すぎても遅すぎてもなりませぬ」
「そうだな。敵が直轄へ当たったのを確認してからだ。藤吉郎の伝令を一人、彦九郎のところへ置く」
「伝令が来るまでは、道を開けたまま待たせます」
「父上、俺が槍へ入った後は、全体をお願いします」
「分かった。十兵衛が槍へ出た後は、わしが全体を見る」
頼政の返事を受け、全員へ声を掛けた。
「異論があるなら、今のうちに言え」
しばらく声は上がらなかった。可成も一益も、それぞれの持ち場を確かめている。
最後に、夜戦で必要な決め事を残していた。
「夜は合言葉を使う。問いは、ニイタカヤマノボレ。返しは、トラトラトラだ」
一拍、妙な沈黙が落ちた。頼政が眉を寄せた。
「十兵衛。それは何の言葉だ」
「意味は気にしなくていいです。敵が知らず、味方だけが覚えていれば使えます」
前世で知っていた言葉を、そのまま借りた。この時代の人間が偶然言い当てるとは思えない。
「彦九郎、切畑の者へ通してくれ。直轄は三左衛門に任せる。返せない者がいても、それだけで槍を入れるな。まず止めて確かめろ」
「五分隊の分隊長から、順に伝えさせます」
「直轄にも、同じように徹底させます」
賢豊へ向き直る。
「但馬守殿、後藤勢にも同じ合言葉を使っていただきます。返せない者がいても、まず止めて確かめてください」
「分かった。こちらにも通しておこう」
杉谷と田光の返事が揃えば、配置を詰められる。
軍議はそこで終えた。
* * *
その後、杉谷城にて――新九郎。
善住坊は座敷で私を待っていた。脇には二人の男が控えているが、どちらも口を挟もうとはしない。
私は賢政から預かった書付けを善住坊の前へ置いた。
「十兵衛様からでございます」
「読めということか」
「いえ。私からも申し上げます」
善住坊が書付けへ手を伸ばす。
「城を開けて橘へ降ること。家は残しますが、杉谷の仕置きは橘に従っていただきます。兵も千種攻めへ出していただく」
「今までどおり、わしが杉谷を治めるわけではないか」
「そこまでは認めぬ、と申されております」
善住坊の指が、書付けの端で止まった。
「城を渡し、杉谷の仕置きは橘に従えということか」
「その通りです」
「断れば」
「杉谷城を落とし、善住坊殿は鋸挽きにすると。書付けにもそのようにございます」
「……そこまで書いたか」
「はい」
しばらく返事はなかった。
善住坊は書付けを畳み、膝の前へ置いた。
「切畑は」
「落ちました。与九郎も討たれております」
「橘の損害は」
「ございません」
「脅しだけではなさそうだな」
「試されますか」
「いや。試して首を差し出すほど若くはない」
善住坊が脇の男へ声を掛けた。
「城へ三十残せば」
「九十ほど出せます」
「なら九十出す。わしも行く」
私は書付けへ目を落とした。
「では、明朝の出立までにお支度をお願いいたします」
善住坊はすぐには返さず、こちらを見た。
「その九十は、千種で何をさせる」
「正面から城へ取り付かせるためではございません。十兵衛様は千種方を城外へ誘い出すおつもりです」
「では、野戦か」
「それだけではございません。杉谷の者には、この辺りの夜道や細道を案内していただきたいと考えておられます」
善住坊が少し考えた。
「杉谷から朝明川へ抜ける道なら、夜でも動ける者は多い」
「それは助かります。甲賀衆だけで大勢をいくつもの道へ通すより、杉谷の者にも道を分けてもらう方が確かです」
善住坊は脇に控える二人を見た。
「九十は出す。だが、無駄死にはさせたくない」
「十兵衛様も、降った兵を捨て駒にするおつもりはございません。勝手な討死も軍令で禁じております」
「ならよい」
少し間を置いてから、私は明朝のことを確かめた。
「明朝、城を開けていただけますか」
「分かった。三十を残し、九十を連れて切畑へ向かう」
「十兵衛様へそのように伝えます」
「頼む」
城と家は残る。それでも、これまでどおり杉谷を治められるわけではない。善住坊はその条件を承知した上で、兵を出すと決めた。
* * *
日が暮れる前に政澄が切畑へ戻ってきた。そのまま畑屋敷へ入り、俺の前へ座る。
「叔父上、治部殿は」
「応じた。千種へ兵は出さない。田光を通って千種へ向かう兵や兵糧、使者も通さないとのことだ」
「こちらが田光へ入らないことも」
「改めて伝えてある」
「これで田光の返事は確かめられました」
新九郎が帰ったのは、その日の夜だった。草鞋には泥がついたままだ。
「善住坊は」
「降ります。明朝、杉谷城を開け、九十を率いて千種攻めへ加わるとのことです」
「城には」
「三十を残します」
「分かった」
二つの返事が揃った。
藤吉郎を呼び、各隊へ明朝の支度を進めるよう伝えさせた。
翌朝、約束どおり杉谷城は開いた。
善住坊は九十を率いて切畑へ入り、畑屋敷の前で兵を止めた。
俺は軍令書を差し出す。
「橘の下で戦う間は、これに従ってもらう」
「後藤にも同じ物を渡したと聞いた」
「渡した。切畑の者にも通してある」
「なら異存はない」
善住坊は書付けに目を通すと、後ろに控えていた者へ渡した。出発までに杉谷勢へも内容を伝えさせるという。新九郎と杉谷の者には夜道の先導を任せることにした。兵が九十増えたことより、知らない細道で隊列を止めずに済む方が大きい。合言葉を各隊へ伝え終え、出発前には兵へ飯を食わせて温かい汁を回した。日が落ちれば表の陣には篝火を残すが、伏兵へ回る者には火を使わせない。
荷を整える声が村のあちこちから聞こえる中、政虎が切畑の五分隊を街道脇へ並べた。五人の橘古参兵が、それぞれ分隊の先頭へ立っている。
政虎は列の端から歩き、開きすぎた間隔を手で直していった。
「分隊長から離れるな。遅れた者を置いていくな。先へ出よと命じるまでは、勝手に駆けるな」
集めた時より返事は揃っていた。
政虎が街道の先へ向き直る。
「先鋒、進め!」
五つの分隊が歩き出した。
足音はまだ完全には揃わない。それでも、列から外れる者はいなかった。
俺たちも、その後へ続いた。




