第66話 変わりゆく朝霧
天文二十二年(1553年)、晩秋。
近江国、愛智郡、朝霧村、橘屋敷。
秋に入って間もなく、妹の初音が生まれた。
母の春は産後しばらく部屋で休んでいたが、今では顔色も戻っている。俺が部屋へ入ると、春の横では綾が初音を抱いていた。
「十兵衛様、起きておられますよ」
「いつからだ」
「先ほどからです」
綾の腕の中で初音が小さく口を開いた。泣き出すかと思ったが、声は上げず、そのまま目を閉じてしまった。
春がその様子を見ながら笑った。
「十兵衛も抱いてやってください」
「俺がですか」
「あなたの妹ですよ」
初音を綾から受け取ると、腕の中へ収まった身体は驚くほど軽かった。軽いのに、どう持てばいいのか分からない。兵六百を動かす方が、まだどうすればいいか分かる。
「十兵衛様、首のあたりをもう少し支えてください」
「こうか」
「はい。母上に教えていただきました」
「綾の方が慣れているな」
「十兵衛様が、あまりお抱きにならないからです」
それはそうだ。秋に入ってからは、北伊勢へ出す兵の支度と、朝霧へ残す兵の訓練で、屋敷の外にいる時間の方が長かった。
指先へ何かが触れたと思うと、初音の手が俺の指を握った。
こんな小さいのを残して、年が明ければ俺は朝霧を離れる。
八風を越えた先で何が起こるかは、まだ分からない。六百を連れて出る以上、俺がいない間も朝霧が今まで通り動くようにしておく必要がある。
廊下から足音が近づき、惟丸が部屋へ入ってきた。その半歩後ろには小竹が付いている。惟丸が手にしていた書付を脇へ置いている間に、小竹は空いていた場所へ座布を寄せた。
ここしばらく、惟丸の側にいる時の小竹はいつもこんな調子だった。
俺は初音を綾へ返してから、小竹を呼んだ。
「小竹。今日から正式に惟丸の側へ付け。屋敷の中だけじゃない。外へ出る時も一緒にいろ」
「承知しました」
「兄上。私にも側仕えが要るのですか」
「要る。お前も、そろそろ一人で歩き回らせておくわけにはいかない」
「兄上は今でも一人で歩いております」
「俺には彦九郎や弦十郎がいる」
「それは側仕えではないと思います」
……確かに違うな。
春が口元を押さえた。
「惟丸。兄上を困らせてはいけません」
「困ってはいません」
俺は惟丸へ言った。
「それより小竹を頼む。側に付く者を振り回すなよ」
「はい、兄上」
小竹も惟丸の横で改めて頭を下げた。
秀吉の弟だから付けるわけではない。惟丸が動けば黙って付き、何か必要になれば言われる前に手を出す。逆に、用もないのに前へ出ることはない。ここしばらく見てきた限り、惟丸の側へ置くなら小竹が一番合っていた。
綾が初音を春へ返しながら尋ねた。
「十兵衛様。この後は、どちらへ行かれるのですか」
「村と砦を回ってくる。出陣前に一度、朝霧を見ておきたい」
「私も御一緒してよろしいですか」
「構わない。半年もいるんだ。もう珍しいところも少ないだろう」
「まだ知らないところもございます」
後ろに控えていた綾付きの侍女が、すぐに口を挟んだ。
「奥方様。あまり長く歩いてはなりませぬよ」
「分かっています」
「奥方様は、いつもそう仰います」
「なら、お前も一緒に来ればいいでしょう」
「もちろん、そのつもりでございます」
綾がどこへ行こうと、一人で行かせるつもりはないらしい。
* * *
表へ向かう廊下を歩いていると、俺が小さかった頃にはなかったものが次々と目に入る。
古い母屋そのものは残っている。黒ずんだ柱も昔のままだ。だが、その先へ新しい廊下を継ぎ、座敷を足し、さらに別の棟を増やしてきた。昔は庭だったところにも屋根が張り出し、廊下は途中で何度も曲がる。古い柱の先へ、まだ白い木肌を残した柱が続いている場所もある。
最初から今の形を考えて建てた屋敷ではない。人が増え、役目が増えるたびに必要な部屋を足していった結果だ。
綾が廊下の曲がり角へ差しかかると、少し先を指した。
「私、朝霧へ来たばかりの頃、ここで二度迷いました」
「奥方様。三度にございます」
「……二度です」
「三度目は、その先から台所へ出られました」
「覚えていなくてよいことまで覚えていますね」
半年も暮らせば、さすがに綾もこの屋敷へ慣れたらしい。嫁いできたばかりの頃は、誰かに声を掛けられるたびに背筋を伸ばしていたが、今では春のところへ自分から顔を出し、廊下で屋敷の者に呼び止められれば、足を止めて普通に話している。
後ろを歩く侍女が、また綾へ声を掛けた。
「奥方様。昨日も御自分で水を運ばれたでしょう」
「あれくらいは運べます」
「運べるかどうかではございませぬ。人がおります」
「朝霧では皆が動いております」
「奥方様まで御自分でなさる必要はございませぬ」
この半年で何度聞いたか分からない話を横で聞きながら、屋敷の裏手へ回った。
厩から馬の鼻を鳴らす音が聞こえる。馬房の前では、木曾から来た馬飼が一頭の前脚を持ち上げ、蹄の裏を確かめていた。普段は妻子や弟夫婦と笠松の牧場にいるが、時折朝霧まで来て、こちらに置いた馬も一頭ずつ見ている。
隣の馬房から芦毛が首を伸ばした。
「金船」
呼ぶとこちらへ鼻面を寄せてきたので、額を撫でた。金船はしばらく俺の手を嗅いだ後、そのまま肩へ鼻先を押しつけてきた。
綾も近くまで来て足を止めた。
「この馬が、十兵衛様のお馬ですか」
「ああ。金船だ」
「変わったお名前ですね」
「気に入っている」
馬飼は確かめていた脚をゆっくり地面へ戻した。
「十兵衛様。こいつは脚も蹄も悪くねえ。ただ、冬場に無茶はさせんでもらいてえずら」
「年が明ければ八風を越えるぞ」
「だから今のうちに整えとるんだでな。三左衛門殿にも、走らせすぎるなと言ってある。戦で乗る方は、すぐ走らせたがるでな。毎日見とるのは俺だって言っておいたずら」
「それでいい。馬のことは任せる」
可成が軍馬としてどこまで使えるかを見るなら、この男は一頭ずつ、何を食い、どう歩き、どこを痛めているかを確かめる。戦で使う側と、馬そのものを預かる側では見るところが違う。片方だけに任せるより、その方が馬を潰さずに済む。
綾がおそるおそる手を伸ばすと、金船は一度その手を嗅いでから、そのまま額を寄せた。
「触らせてくれました」
「俺の妻だと分かったのかもしれないな」
「馬に、そのようなことが分かるのですか?」
「分からない」
適当に言っただけだ。
侍女も横から手を出しかけたが、金船が鼻を鳴らした途端に引っ込めた。
「私は結構にございます」
「まだ何もしていないぞ」
「馬は大きすぎます」
厩を出た後は、そのまま社へ向かった。
元服の日に上った石段を、もう一度上がった。あの日、俺はここで小徳丸から十兵衛になり、利家、秀吉、成政の三人にも名を与えた。
綾は拝殿の前まで来ると、その屋根を見上げた。
「ここへ来ると、あの日を思い出します」
「俺は元服の方だな」
「私は、その後の祝言の方で頭がいっぱいでした」
後ろから侍女の声が飛んできた。
「奥方様は、朝からほとんど箸もお付けにならず」
「それは言わなくてよいです」
「十兵衛様には知っていただいた方がよろしいかと」
「今初めて知った」
あの日の綾は、俺から見ても随分固かった。何を話しても一度考えてから返していたのに、今では侍女と言い合いながら朝霧を歩いている。
社を下り、次に瑞照寺へ回った。
寺の門には朝から人の出入りがあり、老人だけでなく、子供を連れた女や仕事の途中らしい男の姿もあった。
「ここは、いつ来ても誰かがおりますね」
「昔はもう少し静かだった」
「朝霧に人が増えたからですか」
「それもある。家が増えれば、祝いも弔いも増えるからな」
門の脇を走っていた子供の一人が俺たちに気づき、慌てて立ち止まって頭を下げた。綾もその子へ頭を下げ返した。
昔から朝霧にいる家の子なのか、ここ数年で移ってきた家の子なのか、もう俺にも見ただけでは分からない。
寺を出て村の中へ入ると、道沿いには以前なかった家が続き、その合間には倉も建っている。酒や油、木の品を受け取りに来た荷車が倉の前へ並び、荷を受け取った商人は積み方を確かめながら縄を締め直していた。
綾は何台かの荷車を見送ってから尋ねた。
「十兵衛様。朝霧には、市はないのですか」
「ない」
「これだけ人も荷も集まっているのに?」
「作ろうかと考えたことはある」
市を立てれば、商いをする場所そのものは作れる。ただ、朝霧は山の中だ。前世で言えば、人の少ない山の中へ立派なスーパーだけ建てるようなものだった。店を用意したからといって、それだけで客が山を登ってくるわけじゃない。
「ここまで来る商人は、朝霧で作った物を買い付けに来ている。村の中で売る場所を増やすより、ああやって外へ持っていってもらった方が早い」
「市を立てれば、ほかの物を売りに来る者も増えませぬか」
「少しは来るだろうな。ただ、市だけを目当てに山まで人を呼べるほど、いろいろな物が並ぶわけじゃない。日々の買い物なら、もっと近い場所で済ませる。必要になったら作るが、今はまだその時じゃない」
綾は返事をせず、倉の前に並ぶ荷車をもう一度見た。
朝霧は大きくなった。それでも町になったわけじゃない。物を作る場所が先に増え、そこで働く人間と家が後から増えてきた山村だ。今のところ、それで回っているなら、無理に市を作って町らしくする必要はない。
さらに道を進んだところで、綾が足を止めた。
練兵場の手前に、同じ形をした細長い建物が何棟も並んでいる。屋根はいずれも丸く弧を描き、端から端まで同じ形で揃えてあった。
「……あれは、何でございますか」
「兵舎だ」
「あちらで、兵が暮らしているのですか」
「ああ」
侍女も並んだ屋根を眺めた。
「大きな蒲鉾のようにございます」
「俺もそう思っている」
「なぜ、あのような形に?」
「同じ物を続けて建てやすいからだ。兵を村の家へばらばらに置くより、一所へ集めた方が飯も訓練も楽になる」
今年の春から新九郎に集めさせている者たちも、朝霧へ着いた者からここへ入っていた。
兵舎の前では新顔らしい男たちが草鞋を直し、その向こうでは古参兵が槍の構えから教えている。
腕を問わず集めた以上、最初から形になっている方がおかしい。年明けまでに、隊列の中で動けるところまで持っていければいい。
練兵場へ入ると、成政の小隊では、分隊長が兵の隊列を動かしていた。
俺に気づいた分隊長が声を張った。
「大隊長殿!」
兵たちが足を止め、こちらへ向き直って一斉に敬礼した。俺も返す。
「そのまま続けろ」
「はっ!」
分隊長の指示で、止まっていた隊列が再び動き出した。
その中に、見覚えのある連中が混じっている。八風で出会った元山賊たちだ。
初めて会った頃は、着物も武器も寄せ集めで、頬はこけ、腕も細かった。今でも顔つきの悪さだけは大して変わっていないが、頬のこけは消え、肩も腕も脚も太くなっている。毎日食わせ、走らせ、槍を振らせてきた分は、ちゃんと身体に出ていた。
休止の号令が掛かると、そのうちの一人が俺のところまで歩いてきた。数歩手前できちんと足を止め、背筋を伸ばした。
「大隊長殿!」
敬礼を返してから、男の身体を上から下まで見た。
「楽にしろ。お前たち、随分変わったな」
「顔を見るなり、それですかい」
「顔は変わっていない。身体の話だ」
「毎日飯を食わせてもらって、毎日走らされてりゃ、嫌でもこうなりますぜ」
口の利き方は昔のままだ。それでも、数歩手前で足を止めるところも、敬礼も、八風で道を塞いでいた頃とは違う。
そこへ成政が寄ってきた。
「十兵衛様。こいつらは山道なら古参にも負けません。八風を越える時には、道を探らせる役にも使えます」
「元の稼ぎ場だからな」
「今は荷を襲う側ではなく、襲う奴を見つける側ですが」
綾の後ろにいた侍女が、俺と元山賊を交互に見た。
「十兵衛様」
「何だ」
「あの、なんとも卑しい風貌の方々は……本当に橘の兵なのでございますか」
「元山賊だ」
「……山賊?」
「八風で荷を襲っていた」
「それは山賊そのものではございませんか」
男が侍女の方を向いた。
「侍女殿。聞こえておりますぜ」
「聞こえるように申しました」
「そりゃひでえ」
綾がすぐに侍女をたしなめた。
「あまり、そのような言い方をしてはいけません」
「ですが奥方様、十兵衛様ご自身が元山賊と仰いました」
「元、です」
「元でも、山賊は山賊にございます」
成政は笑いを堪えたまま、男へ手を振った。男は口を開きかけたが、結局何も言わずに隊列へ戻っていった。
入れ替わるように、練兵場の反対側から政基が歩いてきた。こちらへ向かいながら、兵の列を見ては道の端の土を確かめている。
「十兵衛様。こちらにおられましたか」
俺が返事をするより早く、後ろから声が飛んだ。
「弦十郎様!」
さっき元山賊へ声を掛けた時とは、明らかに調子が違う。
呼び止められた政基が足を止めた。
「……何かございましたか」
「いいえ。本日もお役目、御苦労様でございます」
「ありがとうございます」
綾が俺の隣で言った。
「声が違いますね」
「分かりやすいな」
「いつも通りにございます」
当の侍女だけは真顔だった。
「弦十郎様は、本日も兵をご覧になっておられたのでございますか」
「今日は馬と、砦へ上がる道を確かめておりました」
「左様でございましたか。先日も――」
「お前、なぜそんなに弦十郎の仕事を知っているんだ」
「人から聞いただけにございます」
「誰から」
「……皆から聞いております」
怪しい。
政基は俺たちのやり取りには触れず、砦へ続く道へ目を向けた。
「十兵衛様。この後は砦へ上がられますか」
「ああ。そのつもりだ」
「では、私も参ります。昨日の雨で道の端が緩んだところがあります。馬は通せますが、歩かれるなら端へ寄らぬ方がよろしいかと」
「分かった」
侍女が一歩前へ出た。
「弦十郎様も御一緒なのですね」
「私は十兵衛様の護衛にございますので」
「もちろん存じております」
やはり、政基のことだけは妙に詳しい。
練兵場を離れて砦へ向かうと、道沿いでは出陣用の荷をまとめる作業が続いていた。
倉の前には俵が積まれ、その横へ縄や草鞋、鍋、替えの柄が分けて置かれている。馬へ載せる荷も別にまとめられ、荷車の脇では車輪を外して軸を確かめていた。六百人を八風の向こうへ出すとなれば、兵だけ揃えても動けない。
綾は積み上げられた俵の前で足を緩めた。
「これを、すべて北伊勢へ?」
「全部じゃない。朝霧へ残す分は別にしてある」
「残る兵の分も、ここで用意するのですね」
「ああ。出る方だけ揃えて、留守の方を足りなくするわけにはいかない」
道の脇では、まとめ終えた荷へ縄が掛けられていく。新兵の訓練も、倉に積まれた荷の準備も、まだ途中だ。
年明けまでは、もうそれほど時間がない。
* * *
日が傾く前に、朝霧砦へ上がった。
ここも昔の形を残しながら、その外側へ少しずつ広がっている。古い柵の外へ新しい柵を足し、兵が詰める場所を広げ、倉も増やした。色の褪せた材の隣へ新しい材が並んでいるところまで、橘屋敷とよく似ている。
砦の一番高いところまで上がると、朝霧村の大半が見渡せた。
増築を重ねた橘屋敷、その先に連なる兵舎。倉の前には荷車が並び、少し離れた工房からは煙が上がっている。社と瑞照寺の間を通る道に沿って家々が続いている。
市はない。それでも、人も物も兵も、俺が小さかった頃とは比べものにならないほど集まった。
綾が隣へ来て、しばらく眼下の村を眺めた。
「朝霧は、まだ大きくなるのでしょうか」
「北伊勢で負けなければな」
「では、勝ってお戻りください」
「そのつもりだ」
綾の口から「戻る」という言葉が出た。
半年前、綾にとって朝霧は嫁いできた先だった。それが今では、自分が戻ってくる場所として口に出るようになっている。
俺も改めて朝霧を見下ろした。
この世界で目を開けた頃、ここは本当に小さな山村だった。それが今では、俺一人では把握しきれないほど人が増え、それぞれが自分の持ち場で動いている。頼政や春、家臣、昔からいる村の者、途中から移ってきた者。その積み重ねで、今の朝霧がある。
だからこそ、俺が六百を連れて外へ出ても、朝霧まで止めるわけにはいかない。俺がいなくても、それぞれが自分の持ち場で動き続けられるようにしておく。
その上で、俺は八風を越える。
年が明けるまでに、朝霧へ残す新兵を仕上げ、出陣する六百の荷を整える。
年が明ければ、いよいよ北伊勢だ。




