第65話 十兵衛と呼ばれる日
天文二十二年(1553年)、春。
近江国、愛智郡、朝霧村、橘屋敷。
朝から客座敷へ膳が運び込まれ、台所では竈に掛けた釜から絶えず湯気が上がっている。人の出入りも多く、廊下へ出ればすぐ誰かと行き合った。
俺は支度に追われる者たちを避けて庭へ出ると、新九郎を呼び止めた。
「新九郎。来年までに兵を四百集めたい。北伊勢へ六百を出した後も、領内を守る兵は残しておかないといけない」
「四百となれば、腕の立つ者だけを選んでいては間に合わぬかと存じます」
「腕は問わなくていい。集めてから鍛える。ただ、素性はよく確かめろ」
「それなら家族持ちにも声を掛けます。家族を残して来いとなれば、応じる者も減りましょう」
「家族ごと連れてこい」
「かしこまりました。家族の数と、それぞれ何ができるかも確かめます。明日から人を出しましょう」
「頼む」
新九郎が去ったところへ、入れ替わるように頼政が庭へ出てきた。
「元服の日まで兵の話か」
「来年まで待ってくれる話でもありません」
「今日くらいは自分のことだけ考えろ」
「終わってから考えます」
「終わった後は祝言だ。兵のことは明日にせよ」
頼政は屋敷の奥を顎で示した。
「春が待っている。さっさと支度をしてこい」
「はい」
今日は俺の元服の日であり、社から戻れば後藤家との祝言も控えている。
本来なら、俺が観音寺へ上がって元服してもおかしくはない。今回は、義賢が朝霧まで来る。六角の当主が橘の本拠へ足を運び、俺の烏帽子親を務め、そのまま後藤との縁まで見届けるのだ。六角家中だけでなく、近隣にも、俺が六角からどういう扱いを受けているかは伝わるだろう。
部屋へ戻ると、春とおせんが待っていた。
「遅いですよ」
「新九郎に話をしていました」
「今日でなくてもよいでしょうに」
「父上にも同じことを言われました」
おせんに座らされ、髪を櫛で梳かれる。烏帽子を戴けるよう髪形を整えた後は、装束を替え、帯を締め直していった。
その間も春がじっとこちらを見ている。
「何かおかしいですか、母上」
「いいえ。殿よりも、私に似ましたね」
戸口から頼政の声が飛んできた。
「それは前からであろう。背は俺に似た」
「まだ十一にございます」
「十一でそれだけあれば十分だ」
おせんが襟元を直してから、俺の肩を少し後ろへ引いた。
「若様、もう少し胸を張ってください」
「これでいいか」
「はい。それなら装束もきれいに見えます」
鏡があるわけでもない。自分では普段とどれほど違うのか分からず、もう一度春に聞いた。
「母上。そんなに変わりましたか」
「昨日までと同じには見えません」
頼政も俺を頭から足元まで見た。
「装束に負けてはいないな」
「それは褒めているのですか」
「褒めている」
戸口の陰から、勘次、平助、虎松、おはつ、おたまが顔を覗かせていた。俺と目が合った途端、何人かの頭が引っ込む。
「隠れたつもりか」
「見てただけだ!」
虎松の声だけが廊下から返ってきた。
ほどなく表から、馬の到着を知らせる声が上がった。
屋敷前へ出ると、頼政、政秀、景近、政澄がすでに出迎えに並んでいた。
義賢の後ろには進藤山城守賢盛、定秀、賢豊が続き、賢豊は妻、嫡男の又三郎、次男の喜三郎、それに娘を伴っている。
馬を降りた義賢は、屋敷前を行き交う人足から、その向こうに並ぶ家々へ目を移した。
「以前に聞いていた山村とは、随分と違うな」
「人も家も増えましたので」
頼政が頭を下げる。
「本日は御足労いただき、ありがとうございます」
「北伊勢へ兵を進める橘の嫡男だ。元服は儂が見届ける」
義賢は俺へ向き直った。
「支度は整っておるか、小徳丸」
「はっ。整っております」
「よい。氏神へ参る」
* * *
社へ上がる頃には、朝の冷えも少しずつ緩んでいた。
朝霧の氏神を祀る社へ上がり、神前に膝をついた。板張りの床にはまだ朝の冷たさが残り、正座した膝の下からじわじわと伝わってくる。
俺の後ろには頼政たち橘家の者が控え、義賢に従ってきた賢盛、定秀、賢豊も席に着いている。広くはない社殿に、これだけの顔ぶれが並ぶと空気まで張り詰める。
義賢が烏帽子を手に取った。黒漆の光沢が、差し込む朝日を鈍く弾く。
「小徳丸」
「はっ」
「今日より幼名を改めよ。通称は十兵衛、諱は賢政とする。橘十兵衛、賢政と名乗れ」
「ありがたく頂戴いたします」
義賢の手で烏帽子を戴き、神前へ頭を下げる。頭上に、これまで感じたことのない重みが乗った。
「顔を上げよ、十兵衛」
顔を上げると、頼政が俺を呼んだ。
「十兵衛」
「はい、父上」
「呼べば返るか、確かめただけだ」
「返事くらいはできます」
政秀が烏帽子姿の俺を眺めた。皺の寄った目元が、わずかに緩む。
「小徳丸と呼ぶのも、今日までか」
「はい、爺様」
「十兵衛。名が変わっても、やることまで変わるわけではないぞ」
「やることは変わりません」
「ならいい」
景近が頼政へ声を掛ける。
「弥三郎殿。名を改めても、返事は変わりませぬな」
「返事まで変わられては困ります」
政澄も俺へ声を掛ける。
「よく似合っているな」
「ありがとうございます、叔父上」
続いて定秀が頼政へ声を掛ける。
「弥三郎殿。よい若武者になられましたな」
「まだ烏帽子を戴いたばかりにございます」
賢盛からも声が掛かった。
「御屋形様より賢の字を賜ったのです。名に追いつくのは、これからでござろう」
「はっ。肝に銘じます」
義賢の賢と、橘で代々用いてきた政。誰から一字を受け、どの家の者として立つのか。賢政という名を聞けば、それだけでも分かる。
賢豊も俺の前へ出た。烏帽子姿の俺をしばらく見てから、口を開く。
「祝言の前に、娘を託す男の顔をよく見ておきたかった」
「何か、不足がございましたか」
「不足があるかどうかは娘に聞けばよい。父親としては、ひとまず安心した」
義賢が賢豊へ返す。
「但馬守が見定めるのも道理であろう」
「娘を託す身にございますので」
拝殿を出ると、日は先ほどより高く昇っていた。石段の下に犬千代、日吉丸、与左衛門が待っていた。三人とも、まだ烏帽子は戴いていない。
日吉丸は俺の装束を見るなり口を開いた。
「十兵衛様は、得でございますな」
「何がだ」
「着る物が変われば、きちんと若武者に見えます」
「お前も今から同じような格好をするんだぞ」
「わしは何を着ても、わしに見えます」
犬千代が横から口を挟んだ。
「次はわしらだがね。御屋形様の前で、いつまでも余計なことを言っとるな」
「犬千代」
「何だ」
「それもだ。今日から公の場では、尾張の言葉を控えろ」
「……分かりました」
「今から直せばいい」
「急には難しいがね――難しいです」
「その調子で直せ」
日吉丸が犬千代へ言う。
「犬千代と呼べるのも、今のうちだな」
「お前も日吉丸でいられるのは今だけだぞ」
与左衛門が二人を拝殿へ促した。
「二人とも先に入れ。御屋形様を待たせるな」
三人を連れて戻ると、義賢が俺へ告げた。
「十兵衛。続いて三人の烏帽子親を務めよ」
「はっ。三人とも、某が朝霧へ連れてきた者にございます」
「よい。名を与えよ」
まず犬千代を神前へ座らせ、用意された烏帽子を手に取った。気負った顔で背筋を伸ばしている。
「犬千代。今日より前田又左衛門。諱は利家とせよ」
「はっ。ありがたく頂戴いたします」
犬千代に烏帽子を戴かせ、次に日吉丸を座らせた。落ち着かなげに、何度も手を組み替えている。
「日吉丸。姓は木下。通称を藤吉郎、諱を秀吉とする」
「木下藤吉郎、秀吉……ありがたく頂戴いたします」
日吉丸にも烏帽子を戴かせ、最後に与左衛門を座らせた。三人の中では、一番硬い顔をしている。
「与左衛門。今日より佐々内蔵助。諱は成政とせよ」
「はっ。ありがたく頂戴いたします」
与左衛門にも烏帽子を戴かせた。三人が並ぶと、頼政が新しい通称で呼んだ。
「又左衛門、藤吉郎、内蔵助。今日からは、その名で橘へ仕えよ」
「承知いたしました」
三人の声が揃った。
義賢は、その中から利家へ目を留めた。
「そなたは尾張の言葉を改めておるのか」
「三左殿に直され続けております」
「まだ身についておらぬようだな」
「面目ございません」
隣で秀吉が吹き出す。
「人のことを笑うな」
「笑ってないぞ、又左衛門」
「顔が笑っている」
社を出ると、朝の冷えはいくらか和らいでいた。政虎、弦十郎、久助、可成が待っていた。
政虎が俺の前へ出た。
「十兵衛様。御元服、まことにおめでとうございまする」
「ありがとう、彦九郎」
「これより先は、今まで以上に御身を大切になされませ」
「そこなのか」
「兵を率いる御方が先に倒れては困りまする」
可成は俺の後ろに並ぶ三人を順に見た。
「又左衛門、藤吉郎、内蔵助か。三人とも、これで幼名は終わりだな」
「三左殿まで、新しい名で呼ぶのですか」
「今日からその名だ。早く慣れろ、又左衛門」
「……分かりました」
秀吉は自分の烏帽子に触れる。慣れない重みを確かめるような手つきだった。
「わしは、もう慣れました」
「つい先ほど名を貰ったばかりだろう」
「呼ばれれば返事はできます」
可成は成政にも声を掛けた。
「内蔵助はどうだ」
「某も問題ありません」
「ならいい」
利家、秀吉、成政も加わり、一緒に石段を下り始めた。
三人とも、さっきまでとは呼び名が違う。俺自身も小徳丸から十兵衛になった。それで思い出したことがあった。
「弦十郎」
「はい」
「お前の諱を、まだ聞いた覚えがない」
「政基にございます。殿より一字を賜りました」
今井政基か。
頼政が目を掛けてきた男だ。自分の一字を与えていたのも納得できる。
「久助は」
「某は一益にございます。滝川一益」
やっぱりか。
目の前の男が、前世で知る滝川一益で間違いないようだ。
普段の呼び方まで変えるつもりはないが、政基と一益という諱は覚えておこう。知らないままより、その方が何かと困らない。
今日だけで、覚える名前が随分増えた。
* * *
屋敷へ戻ると、祝言の席が整っていた。
義賢が上座へ座り、その近くに定秀、賢盛、賢豊が並んだ。頼政も席へ着き、春と松乃、惟丸、おせんは後藤家の者たちを迎えていた。
広間の一角には後藤家から運ばれた婚礼の品が並び、橘から返す品も揃えてある。祝いの品というだけではない。これだけの物を双方で用意すること自体が、この縁をどう扱っているかを示していた。
後藤の娘を正室に迎えれば、賢豊とは親類になる。だからといって、後藤が橘の都合だけで動くようになるわけではない。それでも、今までのような他家同士ではなくなる。
それは大きい。
ただ、俺にとっては家同士の話だけでもない。これから同じ屋敷で暮らす相手だ。後藤の娘だからというだけで、何も知らずに今日を迎えるつもりはなかった。
縁組が決まってから今日まで、相手のことは新九郎にも調べさせていた。大人しく、自分から前へ出る方ではない。家中での評判も悪くなく、病がちという話もなかった。
やがて、賢豊の娘が侍女に伴われて広間へ入ってきた。淡い色の小袖を重ね、俺の向かいへ座った。
座るまでの間も、綾はほとんど周囲へ顔を向けず、俺の方を見ることもなかった。
少なくとも、新九郎から聞いていた話と食い違うところはなさそうだ。
だが、それだけでどんな相手か分かったことにはならない。これからは人に調べさせるのではなく、俺自身が知っていくしかない。
先に俺から頭を下げた。
「橘十兵衛と申します。これより、よろしく頼みます」
「綾にございます。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
綾は頭を上げた時に一度こちらを見たが、すぐに目を伏せた。
それを見ていた喜三郎が姉へ声を掛けた。
「姉上、顔を上げねば相手が見えませぬ」
「見えております」
「一度しか見ておりませぬ」
又三郎が弟を止めた。
「喜三郎」
義賢は俺たち二人を見渡した。
「橘と後藤の縁、儂が確かに見届ける」
頼政と賢豊が揃って頭を下げた後、賢豊が俺へ向き直った。
「十兵衛殿。娘は、自分から多くを申す方ではない。何も言わぬ時ほど、そちらから声を掛けてやってほしい」
新九郎から聞いていた話とも重なる。父親の賢豊がわざわざ口にするくらいだ。覚えておいた方がいいだろう。
「心得ました」
「娘を、頼みますぞ」
「はい。某の妻として、大切にいたします」
侍女が三つ重ねの盃と銚子を載せた三方を置き、式三献が始まった。小、中、大と盃が替わり、俺と綾の間を順に巡っていく。
最後の盃が三方へ戻ると、義賢が告げた。
「これで、橘と後藤は縁を結んだ」
「ありがたく存じます」
俺が頭を下げると、綾も隣で頭を下げた。
これで祝言は済んだ。さっき初めて言葉を交わしたばかりの綾が、今日から俺の妻になる。
家同士の話はこれで一区切りついても、俺と綾の方はこれからだ。
松乃が綾へ声を掛けた。
「慣れない家へ移るのです。着る物や食べる物で困ったことがあれば、春か私に言いなさい」
「はい」
「具合が悪い時も同じです。黙って寝込まれる方が困りますからね」
「ありがとうございます」
その話が終わるのを待っていた惟丸が、俺たちの前へ来た。
「兄上。御元服、おめでとうございます」
「ありがとう、惟丸」
「これからも兄上とお呼びしてよいのですか」
「家では今までどおりでいい」
惟丸はそのまま綾へ向き直った。
「姉上。惟丸にございます。よろしくお願いいたします」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
姉上、か。
俺にとっては妻でも、惟丸にとっては姉になる。さっきまで考えていたのは俺と綾のことばかりだったが、綾がこの屋敷で暮らすというのは、それだけじゃない。
松乃が横から釘を刺した。
「姉上ができたからといって、最初から困らせてはいけませんよ」
「困らせません」
その後ろから勘次、平助、虎松、おはつ、おたまが寄ってきた。旭も一緒だった。
おたまは綾の小袖が気になるらしい。
「奥方様、その小袖は観音寺から持ってこられたのですか?」
「はい。母が選んでくれたものです」
「きれいですね」
虎松は少し離れたところにいた利家を見つけるなり声を上げた。
「又左衛門!」
「何だ、虎松」
「犬千代より長くなったな!」
「名前の長さを比べるな」
それを聞いた勘次も秀吉へ向いた。
「藤吉郎は、日吉丸とあんまり変わらんな」
「覚えやすいなら結構なことだ。名は覚えてもらわねば始まらん」
平助は成政の方を見る。
「内蔵助は前とずいぶん違うな」
利家が三人を睨んだ。
「お前ら、名前ばかり比べるな」
虎松たちは笑いながら広間の端へ逃げていった。
綾はその様子を見送った。
「いつも、あのようなのでございますか?」
「大体あんなものです」
「賑やかなのですね」
「静かな日は、あまりありません」
皆が下がった後、おはつが一人で俺たちの前へ戻ってきた。
「御婚姻、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「十兵衛様も、おめでとうございます」
「ありがとう」
おはつは俺と綾を見比べた。
「よく、お似合いです」
そう言って一礼すると、今度こそ子供たちの中へ戻っていった。
* * *
祝宴が始まると、清酒、ビール、蒸留酒が広間へ次々と運び込まれた。
こうして三つを同じ膳に並べると、好みがはっきり分かれる。清酒には慣れていても、ビールと蒸留酒はまだ珍しい者が多い。
定秀がビールを一口飲んだ。
「酒というより、別の飲み物ですな」
「下野守殿がお嫌なら、某がいただきますぞ」
「誰が嫌と申しました。山城守殿は御自分の杯をお飲みくだされ」
賢盛から杯を守るようにして、定秀がもう一口飲んだ。
義賢は蒸留酒を口にした後、杯を膳へ戻した。
「こちらは清酒と同じつもりで飲むな。杯を重ねれば、立てなくなるぞ」
さすがに一口で強さは分かったらしい。誰かが酔い潰れて祝宴を台無しにするのは勘弁してほしいので、そのくらい警戒してくれる方がありがたい。
酒と膳が行き渡ると、今度は家中の者たちが順に俺たちのところへ祝いに来た。
高晴は重尚と政忠を伴い、三人揃って頭を下げた。
「十兵衛様、御元服と御婚姻、重ねてお祝い申し上げます」
三人の声まできれいに揃った。
「言うことまで決めてきたのか」
「右近殿が、一人だけ違うことを申すなと」
「茂兵衛殿に任せると、余計なことまで申されますので」
「左近は」
「巻き込まれぬよう、黙っておりました」
高晴が揃え、重尚が余計なことを言わないようにされ、政忠は最初から巻き込まれないよう黙っていたらしい。三人らしいと言えば、三人らしい。
次に可成が利家、秀吉、成政を連れてきた。
三人とも先ほど社で烏帽子を戴いたばかりだが、並んで歩いてくる様子は今までと大して変わらない。利家だけは、可成に連れてこられたのが少し不満そうだった。
「十兵衛様。三人が改めて御祝いを申し上げたいそうです」
「三左殿に行けと言われました」
「又左衛門。嫌なら戻ってもいいぞ」
「誰も嫌とは言っておりません」
そう言い返す利家の横で、秀吉は何食わぬ顔をしている。成政は利家をしばらく眺め、新しい名を口の中で確かめるように呼んだ。
「又左衛門か。ずいぶん立派な名になったな」
「お前も内蔵助だろう」
「名が変わっても、槍の腕は変わらん」
「なら、後で確かめるか」
名前の話をしていたはずが、二言三言で槍の勝負になった。
元服したところで、この二人まで急に大人しくなるわけではないらしい。
可成が利家と成政の間へ一歩入った。
「本日は十兵衛様の祝言だ。勝負なら明日にせよ」
利家はまだ何か言いたそうだったが、可成を見て口を閉じた。成政もそれ以上は続けず、先に姿勢を正す。二人の間で黙っていた秀吉も、それに合わせた。
三人が揃って頭を下げた。
「十兵衛様、御元服と御婚姻、おめでとうございます」
「ありがとう」
広間の端では、作兵衛、孫兵衛、茂七、源蔵、喜平が固まっていた。
五人がこちらへ来ると、作兵衛がいつものように口を開いた。
「若様――」
そこで言葉が止まった。
「……十兵衛様、でございますな」
「今日からはな」
「長く若様とお呼びしてきましたから、すぐには慣れませぬな」
孫兵衛も隣で俺を見た。
「私も、つい若様とお呼びしてしまいそうでございます」
作兵衛も孫兵衛も、ずっと俺を若様と呼んできた。今日から十兵衛になったとはいえ、すぐには口から抜けないのだろう。
「今日は仕方ない。次から直してくれ」
「承知しました」
作兵衛は改めて口を開いた。
「十兵衛様。御元服と御婚姻、おめでとうございます」
「ありがとう」
孫兵衛も続いて祝いを述べ、茂七、源蔵、喜平がその後に続いた。
* * *
日が傾き始めると、義賢が席を立った。
「よい元服と祝言であった」
「本日は御臨席を賜り、ありがたく存じます」
義賢は帰り際、改めて俺へ向いた。
「十兵衛。今日より、その名で橘の嫡男としての責を負え。北伊勢へも、その名で出ることになる。忘れるな」
「はっ。肝に銘じます」
義賢と定秀、賢盛を見送った後、後藤家も帰り支度を始めた。
綾の母は娘の手を取った。
「分からぬことがあれば、春殿や松乃殿へお尋ねなさい」
「はい、母上」
「何も言わずに我慢してはなりません」
「父上にも、同じことを言われました」
「ならば、二度言われたと思いなさい」
又三郎も綾へ声を掛けた。
「何かあれば、こちらにも文を寄越せ」
「はい、兄上」
その横から喜三郎が口を挟んだ。
「姉上は怪談だけは駄目ですので」
「喜三郎」
「朝霧は山の中です。先に申しておいた方がよいでしょう」
「余計なことを申さないでください」
賢豊が息子の話をそこで切った。
「十兵衛殿」
「はい」
「綾を、頼みましたぞ」
「はい。お任せください」
やがて後藤家の列が門を出ていった。
綾はその場を動かず、家族の姿を追っていた。俺も隣に立ったまま見送る。
俺にとって今日は、元服して妻を迎えた日だ。だが綾にとっては、それだけではない。昨日まで暮らしていた家を離れ、家族を残して、この朝霧で暮らし始める日でもある。
そう考えれば、賢豊や母親が何度も同じようなことを言った理由も分かる。
最後の人影が道の向こうへ消えた。
「綾」
「はい」
「今日から、ここが綾の家だ」
「はい、十兵衛様」
綾はもう一度だけ家族が去った道へ目を向け、それから俺の隣を歩き始めた。




