第64話 小徳丸と呼ばれる日
天文二十二年(1553年)、春。
近江国、愛智郡、朝霧村、橘屋敷。
正月を過ぎた頃、母の春が、また子を身ごもったことが分かった。
定頼の喪が明ければ観音寺へ上がることになっている。そう考えると、前に観音寺へ向かった時のことを思い出した。あの時も春は惟丸を腹に抱えていた。
また春が身ごもっている時に観音寺へ行くことになるのかと思うと、少し可笑しかった。ただ、今回はまだ腹も目立たず、産まれるまではしばらくある。
その後、定頼の喪が明けると、橘でも観音寺へ上がる支度が始まった。先代の喪中に新しい当主への祝いを持ち込むわけにもいかず、正式な御代替わりの祝儀を上げるのをここまで待っていたのだ。
屋敷前には、そのための荷が並んでいる。
酒は清酒を一樽、ビールを一樽、蒸留酒を一壺。白木の箱には太刀が一腰納められ、その脇には木曾から買い入れた馬の中でも、特に体つきのいい一頭が繋がれている。
木曾から馬を買い始めた時、義康とは、近江で木曾馬を欲しがる者がいれば橘が取り次ぐ話をつけていた。今回は買い入れた馬の中から、義賢へ贈るに足る一頭を選び、朝霧で十分に乗り馴らしておいた。
遠出をさせても騒がず、人の多い場所へ連れ出しても怯えない。武家へ馬を贈る以上、見栄えだけよくても仕方がない。いざ乗ろうとした時に手を焼くような馬では、祝いどころか嫌がらせになってしまう。
最後の箱には、南蛮渡りの火縄銃が収められている。
堺で俺たちが買った三丁とは別に、贈答用として南蛮商人へ頼んでおいた一丁だ。台木にも金具にも目立った傷はなく、火挟みも火蓋も引っ掛かりなく動く。戦で使う銃なら多少の傷など気にしないが、これは御代替わりの祝いだ。
政澄は荷車へ積ませる品を一つずつ確かめていたが、火縄銃の箱まで来たところで手を止めた。
「少し、厚すぎぬか。太刀に馬、酒だけでも相応の祝いにはなろう。それへ南蛮銃まで添えるのか」
「厚くていいと思います、叔父上。先代の御屋形様には、随分と世話になりましたから」
冬に政秀から橘の昔を聞いて、六角との繋がりが俺の思っていた以上に古いことも知った。曾祖父の政景の代から仕え続けてきたのだ。
それだけではない。
初めて定頼の前へ出た時、定頼は朝霧が自分の力で豊かになることを認めてくれた。その隣にいた義賢は、橘が太りすぎれば噛みつくと釘を刺した。
あれから四年余り。
あの頃は朝霧一村だった橘が、今では百済寺郷の五村と小椋谷の四村まで差配している。兵も銭も増え、国友には二百丁もの火縄銃を頼んだ。義賢が昔の言葉を忘れていたとしても、今の橘を見れば警戒するはずだ。
政澄が頼政へ尋ねた。
「兄上。御屋形様は、今の橘をどう見ておられるのでしょうな」
「それを確かめるためにも行くのであろう」
祝いを届けるだけなら、ここまで揃える必要はない。こちらが何を持ち、何をしようとしている家なのか。それを隠さず見せた上で、北伊勢の話をする。
観音寺へ上がる日が決まった時、頼政は上田へも使いを出していた。景近には、橘が北伊勢へ出るための備えを進めていることと、それを義賢の御前で話すことまで伝えてある。
ただし、何を願い出るかまでは知らせていない。そこは義賢の前で初めて明かすつもりだった。
荷の支度がほぼ終わったところで、頼政が俺を呼んだ。
「小徳丸。北伊勢へ出る前に、元服させようと思う」
「元服ですか」
十一歳なら早いとは思う。
「ああ。御屋形様へ烏帽子親をお願いするつもりだ。受けていただけるかは分からぬが、叶うなら偏諱も賜りたい」
だが、これから北伊勢へ兵を出し、向こうの国衆と直接話すことになる。いつまでも小徳丸では都合が悪いのも確かだった。
「分かりました。元服します」
「ならば通称も決めておけ。わしの弥三郎から弥の字を取ってもよいが、何か考えておるか」
「そうですね……」
何にするか。前世で聞き覚えのある通称なら、三郎、新九郎、十兵衛あたりが浮かぶ。
三郎は信長だし、本人とも会っている。わざわざあいつと同じ名にする気にはならないし、新九郎に至っては身近に本人がいる。
なら、十兵衛か。
柳生十兵衛。まだ生まれてもいないが、前世では好きだった人物の一人だ。
「十兵衛にします」
「十兵衛か。弥の字は要らぬか」
「嫌というわけではありません。ただ、選べるなら十兵衛がいいです」
「そこまで決めておるなら好きにせよ。お前がこれから名乗る名だ」
話が決まったところへ、供を連れた景近が屋敷前に姿を見せた。俺たちが迎えると、景近は挨拶もそこそこに荷車へ目を向けた。
「随分と積まれましたな」
「叔父上、御代替わりの御祝いにございます」
頼政が答えると、景近は太刀の箱から酒樽、繋がれた馬へと順に目を移した。
「此度は祝いだけではござるまい。小徳丸殿、北伊勢のことを御前で話されると聞いております。されど、使いは何を願われるかまでは申さなんだ」
「そこは御屋形様の前で初めて申し上げようと思っています」
「なるほど。某にも伏せられるのでござるな」
「申し訳ありません」
「いや、よい。そこまで決めておられるなら、御前で聞くことにいたしましょう」
景近にまで伏せていることを気にした様子はなかった。そこで頼政が、もう一つの話を切り出した。
「叔父上。小徳丸を元服させようと思っております」
「もう元服でござるか」
「北伊勢へ出る前に済ませておきたいと思いましてな」
「なるほど。それで某まで呼んでくだされたか」
景近が俺へ向き直った。
「小徳丸殿、通称はもう決められたのでござるか」
「十兵衛にします」
「十兵衛。橘十兵衛でござるか」
「はい」
「よい名ですな。北伊勢へ出る頃には、小徳丸殿と呼ぶこともなくなりそうでござる」
やがて支度が整い、頼政が家臣へ出立を命じた。
荷車が門を出ていき、俺たちもその後に続いて観音寺へ向かった。
* * *
御殿へ通されると、上段には義賢が座っていた。
以前のように、定頼の隣に控える嫡男ではない。
六角家の当主だ。
それだけで、同じ御殿の景色まで少し違って見える。
頼政が一歩進み、俺たちを代表して頭を下げた。
「橘弥三郎、嫡子小徳丸、久方又次郎、橘兵庫助。御代替わりの御祝いに参上いたしました」
俺たちも揃って頭を下げた。
まず運び込まれたのは太刀だった。続いて清酒、ビール、蒸留酒が義賢の前へ並べられる。清酒を見た義賢は、すぐに何の酒か分かったらしい。
「父上へ納めていたのは、この清酒であったな」
「左様にございます。ビールと蒸留酒は、その後に造り始めた物にございます」
「ならば、この二つは初めてか。後で改めよう」
次に庭へ木曾馬が引き出されると、義賢は座敷からその姿を眺めた。
「木曾馬か」
「木曾の中務大輔殿から入れた馬にございます。此度は新たに届いた馬の中から特によい一頭を選びました。朝霧で乗り馴らしてありますゆえ、遠出にも人混みにも怯えませぬ」
「そこまで済ませてあるなら、後で乗ってみよう」
最後に、火縄銃の箱が開けられた。
義賢は家臣が差し出した一丁を手に取った。台木を確かめ、火挟みを起こし、火蓋を開閉した。
「国友の物ではないな」
「はい。南蛮商人へ頼み、堺から取り寄せた一丁です」
「国友からも買っておると聞いたぞ」
「二年で二百丁を頼んでいます」
「半年ごとに五十丁であったな」
「そこまでご存じでしたか」
「橘ほど銭を使えば、嫌でも話は入ってくる」
義賢はそう言って火縄銃を脇へ置いた。
やはり知られている。
二百丁もの火縄銃を買えば隠しようがないし、隠すつもりもなかった。それでも、半年ごとの数まで把握されているとなれば、こちらが考えている以上に橘の動きは見られている。
義賢の目が並べられた祝いの品へ戻った。
「太刀、馬、酒に南蛮銃。ずいぶん厚い祝いだな」
「先代の御屋形様には随分とお世話になりました。御代替わりの御祝いでもありますので、今の橘から出せる物を揃えました」
「それだけではあるまい」
ここからだ。
俺は姿勢を正した。
「もう一つ、御耳に入れておきたいことがございます。その前に、人払いをお願いできますでしょうか」
「弥三郎も承知しておるのだな」
「はっ」
頼政が答えると、義賢はすぐに人払いを命じた。
家臣たちが座敷から下がり、襖が閉じられていく。義賢の家臣で残ったのは、賢豊と賢盛だけだった。二人を残したということは、聞いて終わりにする話にはしないつもりなのだろう。
義賢が俺を見た。
「申せ」
「橘は、北伊勢へ兵を出す備えを進めています。八風を越えた先、北方一揆の諸家を切り取るつもりです。ただし、六角へ臣従している梅戸へ手を出すつもりはありません」
義賢の表情は変わらなかった。
「いつから考えておった」
「以前からです。八風を越える道は確かめました。兵と馬も、そのために整えています」
義賢は脇へ置いた南蛮銃へ手を伸ばし、火挟みを軽く動かした。
「では、国友へ頼んだ鉄砲もこれに使うのだな」
「そのつもりです。伊勢へ入った後の荷も、陸路だけに頼らぬよう船を使う備えをしています」
「父上には」
「申し上げていません。形になる前に申し上げても、大言になるだけだと考えました」
少し間を置いて、義賢が問いを続けた。
「六角の兵は要らぬのか。銭も兵糧も」
「求めません。兵も銭も兵糧も、橘で賄います」
「それで、わしには何を求める」
俺は頭を下げた。
ここを曖昧にするつもりはない。
「梅戸を除く北方一揆の諸家について、橘一手の切取次第をお願いいたします」
頼政が持参した絵図を広げた。
八風越えから北伊勢へ下る道。その先に梅戸があり、さらに北方一揆の城々が書き込まれていた。
義賢はすぐには答えず、絵図へ目を落とした。
「父上は、いずれそちを使うことがあるやもしれぬと申しておられたな」
「はい」
「まさか、そちの方から役目を取りに来るとは思わなんだ」
義賢の視線が俺から頼政へ移った。
「弥三郎。童一人の思いつきに、家中を付き合わせておるのではあるまいな」
「無論にございます。北伊勢へ出ることは家中でも承知しております」
続いて景近へ目が向いた。
「又次郎。そなたもか」
「北伊勢へ出られることは聞いております。ただ、切取次第を願われるとは、ただ今初めて知りました」
「それでも止めぬか」
「一門として異存はござらぬ」
義賢はそれを聞くと、再び絵図へ向き直った。指先が八風越えをなぞり、北伊勢側へ入った。
「北伊勢へ兵を出すことは、こちらでも考えておった。梅戸だけに任せておけばよいとは思っておらぬ」
「御屋形様も、ですか」
「ああ。そこへ橘が先に出るというのであれば、話は違ってくる」
やはりか。
前世の記憶では、義賢自身もいずれ北伊勢へ兵を出す。時期まで俺の記憶どおりになる保証はないが、少なくとも今の六角も伊勢を見ている。
なら、先に話を持ち込んだ意味はあった。
義賢の指が、絵図に書かれた城々を順に追った。
「橘だけで、どこまで取れる」
「やってみなければ分かりません。ただ、勝てる見込みが立つまでは動きません。来年を目途にしていますが、備えが足りなければ延ばします」
「急いで敗れるよりはよい」
そこでようやく、義賢の指が止まった。
梅戸の名が書かれた場所だった。
「よかろう。梅戸へ手を出さぬことを条件に、北方一揆の切取次第を許す」
「ありがとうございます」
「ただし、六角の兵も銭も当てにするな。敗れた後で助力を求めても応じぬ。それと、切り取った地からは相応の上納をせよ」
「異存ありません」
これで、六角に背かず北伊勢へ動ける。
切取次第は得た。実際に土地を手にできるかどうかは、ここから先は橘の仕事だ。
だが、義賢の話はそこで終わらなかった。
絵図の上を動いていた指が、さらに南へ滑っていった。
「北方一揆を切り取れば、それで伊勢が終わるわけではない。関もおる。長野も神戸もおる。その先には北畠がおるぞ」
「承知しています」
「北方一揆を切り取った後、そのまま南へ兵を進めるつもりか」
「今のところ、そのつもりはありません。まず取った土地を固めます」
「向こうが黙って見ているとは限らぬ」
「攻めてくるなら受けます。ただ、こちらから一度に敵を増やすつもりはありません。関、長野、神戸を一度に相手にして、その上で北畠まで敵に回せば、取った土地を治めるどころではなくなります」
「では、その先は情勢次第か」
「はい。その時になってから決めます」
北方一揆を切り取れたとしても、その時には周囲の動きも変わっている。今ここで、その先まで決め打ちする必要はない。
義賢もそれ以上は問わず、指を八風越えまで戻した。
「弥三郎」
「はっ」
「北伊勢へ出る以上、取るだけでは済まぬ。今後、八風口から伊勢への備えは橘に任せる。伊勢側で何かあれば、まずそなたが受けよ」
「謹んで承ります」
頼政が深く頭を下げた。
切取次第を得て、それで終わりではなかった。
これまで橘が自分のために見張っていた八風口を、今後は六角の命で守ることになる。負う責任は重くなったが、こちらから北伊勢へ出ると願った以上、それだけ都合よく権利だけを受け取れるはずもない。
義賢は絵図から手を離した。
「では、言葉どおり治めてみせよ。父上がそちを使えと申した意味は、それから見よう」
「必ず結果をお見せします」
「北伊勢の国衆と渡り合うのであれば、いつまでも小徳丸というわけにもいくまいな」
その言葉を待っていたように、頼政が頭を下げた。
「御屋形様。まさに、そのことでお願いがございます。北伊勢へ出る前に、小徳丸を元服させたく存じます」
「十一であったな」
「左様にございます」
義賢が今度は俺へ問いかけた。
「そち自身は、早いとは思わぬか」
「思います。ですが、北伊勢へ出る前に幼名を改めておきたいです」
「元服すれば、童ゆえでは済まされぬ。勝っても負けても、己の名で受けることになるぞ」
「その覚悟です」
俺が答えると、頼政が続けた。
「叶いますならば、御屋形様に烏帽子親をお願いしたく存じます。あわせて、偏諱を賜りたく」
「欲張るな、弥三郎」
「小徳丸に比べれば、まだ控えたつもりにございます」
「違いない」
義賢の口元が僅かに緩んだ。
「通称は決めておるのか」
「十兵衛と決めております。本人が選びました」
「弥三郎の子が十兵衛か。そちも、それでよいのだな」
「はい。十兵衛でお願いします」
「よかろう。元服の折には、わしが烏帽子親を務める。一字は賢を与えよう」
思わず背筋が伸びた。
烏帽子親と偏諱を願うことまでは、頼政から聞いていた。だが、本当に六角の当主から一字をもらえるとなると、感じる重みが違う。
義賢は頼政に確かめた。
「橘は政の字を用いておったな」
「はい」
「ならば、賢政とせよ」
賢政。
その二文字を頭の中で繰り返した。
史実なら、浅井長政が最初に名乗るはずだった名だ。
悪いが、俺がもらう。
「ありがたく頂戴いたします」
これで終わりだと思ったところで、頼政が再び口を開いた。
「御屋形様。もう一つ、お願いがございます」
「まだあるのか」
「小徳丸の縁組につきましても、御家中よりお取り計らいいただきたく存じます」
俺は思わず頼政を見た。
聞いていない。
元服の話も、烏帽子親を義賢へ頼むことも聞いていた。偏諱まで求めることも分かっていた。
だが、縁組まで今日ここで持ち出すとは思ってもいなかった。
義賢も少し呆れたようだった。
「元服と一緒に縁まで求めるか」
「北伊勢へ出るのであれば、家を継ぐ先のことも決めておきたく存じます」
義賢はすぐに賢豊へ顔を向けた。
「但馬守。そなたの娘は、小徳丸と同じほどであったな」
「左様にございます」
「橘へ嫁がせてはどうだ」
「御屋形様のお望みとあらば、異存はございませぬ」
早い。
頼政だけでなく、義賢までその場で相手を決めにかかるとは思わなかった。
俺が口を挟む隙もなく、今度は頼政へ話が戻った。
「弥三郎」
「橘にも異存はございません」
「ならば、元服の折に改めて取り決める」
そこで縁組の話まで決まった。
しかも相手は賢豊の娘だ。厄介な相手が今度は舅になるのかと思うと複雑だが、敵に回すよりはずっといい。
元服を終えれば、俺はもう小徳丸ではない。
橘十兵衛賢政。
その名で、北伊勢へ出る。




