第63話 役目まで失うな
天文二十一年(1552年)、冬。
近江国、愛智郡、朝霧村、橘屋敷。
夏に国友から届いた五十丁に続き、二度目の五十丁も朝霧へ届いた。これで火縄銃は百丁になった。
国友から来た喜平の指図で、鉄砲鍛冶場の普請も進んでいた。銃とともに運び込まれた道具を据え、砂鉄を試す炉を造り、炭を焼く場所も山に増やした。次の五十丁が届くのは、来年の夏だ。
朝から降り続いている雪は、昼を過ぎても止まなかった。屋敷の縁から外を見れば、庭の端へ積んだ材木も、厩の屋根も白く覆われている。それでも、作兵衛の小屋からは、ときおり木槌の音が聞こえてきた。
屋敷の一室では、頼政が新たに扶持を与えた譜代衆の帳面を広げていた。弦十郎と政虎も向かいに座り、頼政が確かめた箇所を順に追っていた。
俺も帳面を覗き込み、並んだ家の名を追った。今井。饗庭。ほかにも、幼い頃から屋敷で顔を見てきた者たちの家名がある。ここ数年で橘へ加わった者とは違い、もっと前から橘と関わってきた家もあるらしい。
「父上。弦十郎や彦九郎の家は、昔から橘に仕えていたんですか」
「ああ。どちらも古い」
「そういえば、うちは佐々木の流れだという話も聞いた覚えがあります。でも、橘が昔どんな家だったのかは、ほとんど知りません。昔から仕えていた家は、ほかにもあったんですか」
頼政は帳面から顔を上げた。
「ある。だが、その辺りはわしより父上に聞いた方がよい。わしが生まれる前のことまで御存じだ」
頼政は帳面を閉じた。
「政所へ行くか」
「はい」
頼政が立ち上がり、弦十郎と政虎にも声をかけた。
「お前たちも来い。家の昔にも関わる話だ」
「承知しました」
「私も御供いたしまする」
* * *
政所へ着く頃には、雪は先ほどより細かくなっていた。道の真ん中は人に踏まれて固まっているが、端へ寄れば足首まで沈む。屋敷の入口で裾の雪を払って中へ入ると、松乃が俺たちを迎えた。
「この雪の中、そろってどうしたのです」
頼政が答えた。
「小徳丸が、橘の昔のことを知りたいと言いまして」
「それで、爺様の話を聞きに来たのですか」
奥から政秀の声が返ってきた。
「昔話で済むなら、いくらでも話してやる」
部屋へ入ると、政秀は文机の脇に座っていた。松乃が火鉢を囲めるよう座を整えてくれたので、俺たちも腰を下ろした。
「それで、何が知りたい」
「橘が、昔どんな家だったのかを知りたいです。弦十郎や彦九郎の家が、昔から仕えていたことも今日初めて知りました」
政秀は頼政へ顔を向けた。
「何も話しておらなんだのか」
「聞かれたこともありませんでしたので」
「まあよい。知らぬままでいるよりは、今からでも知っておいた方がよかろう」
政秀は火鉢へ手をかざした。
「我らの祖は佐々木の一族から分かれ、幾代かを経て朝霧へ根を下ろした。その橘を大きくしたのが、わしの父、隼人正だ」
政秀は文机の脇に置いてあった系図を取り、俺の前へ広げた。橘の祖から代々の名が書き連ねられている。
政秀の父として、そこに一つの名があった。
橘隼人正政景。
俺にとっては曾祖父にあたる人だが、その名を知るのも初めてだった。
「大きくしたというのは、領分を広げたのですか」
「いや。朝霧が本領であったことは、今と変わらぬ。領分だけなら今の橘の方が広い。百済寺郷の五村に加え、この政所を含む小椋谷の四村まで差配しておるからな」
「では、何を大きくしたのですか」
「家中だ。父上の下には、代々橘へ仕える家が今より多かった。扶持を受ける者がおり、兵を預かる者がおり、そうした者たちを束ねる者もおった」
土地の広さと、家中の厚さは同じではないらしい。政景の頃は、領分こそ今より狭くても、橘を支える家臣の層は厚かったということになる。
政秀は続けた。
「父上は大膳大夫様からの御信頼も厚かった。六角の軍に従い、戦へ出ることも多かった」
大膳大夫とは、六角高頼のことだ。曾祖父は、その高頼に仕えていたのだ。
弦十郎が言った。
「隼人正様は、戦だけの方ではなかったと家では伝わっております」
弦十郎の言葉を受け、政秀が続けた。
「人を集め、田を開き、道を直し、商いにも手を出された。何かを始めれば、周りより先に形にしてしまう方でな」
松乃が俺と政秀を見比べた。
「誰かに似ていますね」
「松乃」
政秀はたしなめるように名を呼んだが、否定はしなかった。
俺も返す言葉がなかった。油を搾る仕掛けを造り、酒を造り、商いを広げ、兵を集めている。やっていることだけ並べれば、確かに似ていた。
ただ、それほどの家中があったのなら、なぜ今は残っていないのかが気になった。
「曾祖父の頃にいた家臣たちは、どうなったのですか」
「戦だ。父上の若い頃には応仁の乱があった。大膳大夫様に従って京へも出られたそうだ。それが終わっても、近江が静かになったわけではない。今度は幕府が六角を攻めてきた」
政秀が幼かった頃には、政景が朝霧を留守にすることは珍しくなかったという。戦が収まれば戻り、幕府軍が動けば六角に従ってまた兵を率いる。それでも、ひとたび政景が戻れば屋敷へ人が集まり、その命を受けて家中が動いた。
火鉢の中で炭が崩れた。
「延徳四年の春、簗瀬河原で幕府軍とぶつかった。六角方は敗れ、父上はその戦で討たれた」
簗瀬河原なら、朝霧からそう遠くない。曾祖父が討たれた場所は、遠い戦場ではなく、同じ近江の内にあった。
「それで、家中まで弱ったのですか」
「父上一人なら、まだ違ったかもしれぬ。神崎、早川、倉梨。父上を支えていた三家の当主も、同じ簗瀬河原で討死した」
「三家とも、ですか」
「ああ。三家にもそれぞれ家人がおり、兵を預かっていた。父上が命じれば、その三家を通じて家中の者が動いた」
政景と、その下で家中を束ねていた三家の当主。四人が同じ戦で消えたことになる。
「兵が一人残らず死んだわけではない。家も残った。だが、誰へ命を下し、誰が兵を預かり、誰が家々をまとめるのか。それまで家中を動かしていた者たちが、一度にいなくなったのだ。兵や家が残っていても、前と同じように動かせるというものではない」
政秀は淡々と続けた。
「父上が討たれたとの報せが届き、わしはまだ十五にもならぬうちに橘の当主として人前へ出された。家督を継いだからといって、父上がしていたことまで、その日からできるようになるわけではない」
十五にもならない子供が、政景と三家の当主を失った後で、橘の当主に立たされた。
今の俺には頼政がいる。政秀もいる。弦十郎も政虎もいる。俺一人で橘の家中を背負えと言われたことなどない。だが、政秀が家督を継いだ時には、当主を支えるはずの家中の中心まで、一度に失われていた。
「残った者たちは、そのまま爺様に従ったのですか」
「そう簡単ではなかった。父上に従っていた者が、そのまま幼いわしにも同じように従うとは限らぬ。神崎も、早川も、倉梨も、すぐに家が絶えたわけではないが、当主を失った三家へ以前と同じように兵を預けることもできなんだ。わし自身、残った家中をまとめるだけで精一杯だった」
三家は少しずつ橘の家臣ではなくなっていった。政秀の知る限り、今では神崎、早川、倉梨の名を継いで橘へ仕える者はいないという。
三家だけではなかった。政景の頃に仕えていた家の中には、田へ戻った者もあれば、橘との縁だけを残した家もあり、そのまま離れていった者もいた。
「わしも家を立て直そうとはした。だが、父上と同じ形へ戻そうとして、残った者まで離れれば何も残らぬ。まずは朝霧と、今いる家中を守る方を選んだ」
「昔と同じ形へ戻すより、今いる者を残す方を先にしたんですね」
「ああ。まず橘そのものを残さねばならなんだからな」
諦めたから小さくなったわけではない。
政秀が継いだのは、政景の時と同じ橘ではなかった。人が抜け、家中を動かしていた繋がりまで切れたところから、残せるものを選び直したのだ。
「今井家は、その時どうしていたのですか」
政秀は弦十郎へ目を向けた。
「弦十郎の祖父は、父上から朝霧に残るよう命じられておった。わしを守り、橘の家を絶やさぬためにな」
弦十郎が答えた。
「家では、簗瀬へ加われなかったことを悔いたと伝わっております。ですが、隼人正様から賜った役目は、若い御当主と朝霧を守ることだったと」
「今井がおらねば、わしは家督を継ぐ前に朝霧を追われていたかもしれぬ」
弦十郎は深く頭を下げた。
簗瀬へ出られなかったことを悔いたというが、今井の祖父まで戦場へ出ていたら、政秀と朝霧を守るという役目まで失われるところだった。
「饗庭はどうだったのですか」
今度は政虎が答えた。
「祖父が、隼人正様とともに簗瀬へ出ておりまする」
政秀が続けた。
「傷を負いながら朝霧まで戻り、父上と三家の最期を伝えたのが、彦九郎の祖父だ」
政虎は政秀の言葉を受けて続けた。
「饗庭では、生きて戻ったことを手柄とは伝えておりませぬ。隼人正様をお連れして戻ることができず、御最期を伝えるためだけに帰った。ゆえに、その後も橘の家から離れてはならぬと、代々申し伝えておりまする」
「彦九郎も、そのつもりなのか」
「はい。私も橘を離れるつもりはございませぬ」
同じ簗瀬を境にしても、今井は朝霧に残り、饗庭は傷を負って戻り、神崎、早川、倉梨はやがて橘から離れていった。橘の家臣として残るかどうかは、戦場で誰が生き残ったかだけでは決まらないらしい。
「では、ほかの家は?」
政秀は、頼政が持ってきた帳面へ目を向けた。
「今井や饗庭のように、家の名を保ったまま仕え続けた家ばかりではない。田を耕しながら、触れがあれば屋敷へ出る者もおった。自分の家が昔は橘へ仕えていたと、それだけを子へ伝えた者もおる」
頼政が帳面を開き、俺が先ほど見ていた辺りへ指を置いた。
「その中から、今も役目を果たせる者を家中へ戻してきた。全部ではない。家そのものが絶えたところもあるし、昔仕えていたというだけで扶持を出したわけでもない。そのうえで、昔から縁のある家なら声をかけた。それだけだ」
「俺が油を売り始めるより前から?」
「その前からだ」
ここ数年で屋敷に出入りする人間が急に増えたから、今いる家臣の大半も、最近になって橘へ加わった者なのだと思っていた。だが、俺が商いを始める前から、頼政は田へ戻っていた家や、縁だけを残していた家の中から、今も役目を果たせる者を家中へ戻していたのだ。
松乃が帳面へ目を落とした。
「昔からの縁が、こうして今まで残ってきたのでしょう」
政秀は帳面を見たまま、何も言わなかった。
帳面に並ぶ家の名が、さっきまでとは少し違って見えた。頼政が扶持を与えた家の中には、一度は橘から遠ざかったものの、再び家中へ戻った家もある。そこへ、この数年で新しく加わった者たちが重なっている。
今の橘は、俺が物心ついてから急にできた家中ではなかった。
「曾祖父の代からの六角との繋がりも、今まで残っているのですか」
「ああ。残っている」
頼政は帳面を閉じ、俺の方へ身体を向けた。
「先代の御屋形様がお前を初めから相手にされたのも、お前が妙な童だったからだけではない。隼人正様の代から橘が六角へ仕え、その後も背かずにきたことを御存じだったからだ」
定頼の前へ初めて出た時のことを思い出した。俺の話を聞くだけでなく、最後には一筆と太刀まで与えてくれた。
あの時は、自分が何を話すか、それに定頼がどう答えるかばかり考えていた。
「あれも、俺だけで得たものではないのですね」
「お前自身が得た御信頼もある。だが、何もないところから始めたと思うな。先に積み上げた者がおったからこそ、お前の話を聞いていただけた部分もある」
頼政の言葉が切れたところで、政秀が口を開いた。
「それだけではない」
先ほどまでより声が低かった。
「父上は大膳大夫様の御信頼を受け、人を集め、家中を大きくされた。今のお前と、よく似ておる」
さっきまでは、政景と俺のやっていることが似ているという話だと思っていた。だが、政秀が言っているのは、それだけではないらしい。頼政が当主として橘を率いる一方で、俺は油を売り、人を集め、兵を増やしてきた。そのぶん、俺が決めなければ動かないことも増えている。そして次に伊勢へ出ようとしているのも俺だ。
政秀は俺から目を外さなかった。
「父上は近江の内を知り、六角の軍に従って幾度も戦われた。それでも簗瀬から戻らなんだ」
障子へ細かな雪が当たっていた。政秀は少し間を置いて、火鉢の向こうから続けた。
「父上の頃は、家中を動かす役目の多くを、父上と三家の当主が担っておった。その四人が一度に討たれ、残った者だけでは以前と同じように家を動かせなんだ」
「では、俺が伊勢へ出る時は」
「誰か一人が討たれても、その者と一緒に役目まで失われぬようにしておけ。お前自身も同じだ」
誰かが死ぬことを前提にしたくはない。だが、誰も欠けないことを前提にして家中や軍を動かすわけにもいかない。
俺がいなければ決められないこと。弦十郎でなければ分からないこと。政虎でなければ動かせないもの。そうした役目や知識を、その人間が倒れた瞬間に丸ごと失う形にはしておけない。
政景と三家の当主が一度に討たれた後、政秀が失ったのは四人だけではなかった。四人が担っていた役目まで、一緒に失われたのだ。今日聞いた話は、そのまま答えになっていた。
話を終えて政所を出る頃には、雪はほとんど止んでいた。弦十郎が先に道へ出て、政虎が続いた。頼政は一度振り返り、政秀と松乃へ頭を下げてから俺とともに帰路についた。
朝霧へ戻り、屋敷が見えるところまで来ると、鍛冶場の方から鉄を打つ音が響いてきた。
雪が止んでも、槌の音は止まっていなかった。




