第60.5話 閑話 日吉丸の一日
天文二十一年(1552年)、春。
近江国、愛智郡、朝霧村、日吉丸の家。
ある一日――日吉丸
一番鶏の声で目が覚めた。
まだ薄暗い。わしは布の中で目を閉じたまま、次に鶏が鳴くのを待った。起きなければならんのは分かっとる。それでも、身体を起こす気にはなれん。
若様は今、朝霧におらん。今日一日くらい朝の日課を抜いても、すぐには分からんだろう。
……いや、駄目だがや。帰ってきてから何をしていたと聞かれた時の方が面倒だ。
諦めて布を押しのける。隣では小竹が壁を向いたまま寝ており、旭は仲の横まで転がって、片足だけ布から出していた。誰も起きる気配はない。
外へ出ると、桶の水を両手ですくって顔へ掛けた。
「冷たっ」
思わず声が出た。眠気だけは一気に飛んだので、もう一度顔を洗い、口へ塩を少し含む。先を噛んで柔らかくした楊枝で歯をこすり、水で口をすすいでいると、背後で戸が開いた。
「日吉、もう起きとったんか」
智が眠そうな顔を出した。
「今起きたとこだがや」
「屋敷へ行くんだろ。なら早う行きゃあ。おっかあが起きたら、行く前に何か言いつけられるよ」
「もう起きとるわ」
家の中から仲の声が飛んできた。
「日吉。帰ってきたら、昨日の控え持って鶏んとこ行くんだよ」
「ほら」
「智姉が余計なこと言うでだわ」
「何も言っとらんがね」
「二人とも聞こえとるよ。日吉、返事は」
「分かっとるがや!」
起きてから幾らも経っとらんのに、もう仕事が一つ決まった。わしは草履を履いて家を出る。せめて屋敷へ行っとる間くらいは、何も増えんでほしい。
* * *
橘屋敷へ着く頃には、東の空もすっかり明るくなっていた。
朝餉はもう用意されていた。腹が減っとったわしは麦飯を汁で流し込み、一杯目をすぐに空ける。そのまま二杯目へ手を伸ばしたところで、膳を運んできた女中と目が合った。
「日吉丸殿。そんなに急がずとも、飯は逃げませぬよ」
「急いではおりませぬ」
「左様にございますか」
女中の目が空になった椀へ落ちた。見られとった。わしは二杯目から、少しだけゆっくり食べることにした。
朝餉を終えると、そのまま庭へ出た。若様から毎日欠かすなと言われている日課がある。屋敷の外へ出て、決められたところまで走って戻る。それを繰り返しているうちに、最初は軽かった足がだんだん重くなり、最後に庭へ戻った時には着物の内側へ汗が滲んでいた。
少しくらい座りたい。だが、一度座ったら今度は立ち上がりたくなくなる。
息を整えながら木槍を取り、足を開いて腰を落とした。丸めた先を前へ突き出し、すぐに引く。腕だけで突くと身体が浮く。それは政虎に何度も直された。足から前へ出るつもりでも、疲れてくると腕だけが先へ伸びる。もう一度やると、今度はさっきよりましだった。
何度か繰り返していると、庭の端から政虎の声が飛んできた。
「今日は犬千代がおらぬな」
「兵の方へ行っております」
「ならば静かでよかろう」
「静かではございますが、あれがおる方が早く終わります」
「なぜだ」
「負けたくありませぬので」
「お前たちは何でも勝負にするな」
「犬千代が始めるのでございます」
「向こうへ聞けば、お前が始めたと言うだろう」
「嘘でございます」
「そういうことにしておこう」
全く信じとらん。犬千代がおれば、ここで絶対に何か言い返してくる。おらんと静かではあるが、そのぶん張り合いもない。
「もう一度やります」
木槍を握り直して構えへ戻る。明日、犬千代が来た時に負けるのは嫌だ。それなら、今日一人でやる分も無駄にはできん。
* * *
家へ戻ると、智と小竹が籠を持って待っていた。旭まで小さな籠を両手で抱えている。
「旭も来るんか」
「行く」
「なら卵落とすなよ。昨日も言っとったがや」
「昨日落としたの俺だわ」
横から小竹が口を挟んできた。
「威張ることじゃないだろ」
「割れとらん」
「籠ごと傾けただろうが」
「割れとらんでええがや」
言い合っているところへ、仲が帳面を差し出してきた。
「喧嘩しとらんで行ってきゃあ。昨日の数は書いてあるで、戻ったら今日の分を合わせるんだよ」
「分かったがや」
帳面を受け取って鶏のいる小屋へ向かう。中へ入った途端、旭が真っ先に奥へ行こうとした。
「走るな、旭」
「走っとらん。兄ちゃんが遅いんだわ」
「兄者、旭に負けとる」
「なら小竹、奥を見ろ」
「俺はこっち見るで」
「逃げるな」
智が籠を持ったまま、わしら二人へ目を向けた。
「二人とも、鶏を驚かせんで」
わしと小竹は揃って黙り、そのまま手前から順に巣を見ていった。智には逆らわん方がいい。
智が見つけた卵を籠へ収め、小竹が数を確かめる。わしは二人の後ろから藁の陰まで覗いていった。
しばらくして奥から戻ってきた旭が、両手を前へ突き出した。その中に卵が一つ載っている。
「兄ちゃん、あった」
「落とすなよ」
「落とさん」
旭は籠の前でしゃがむと、卵をそっと置いた。
「旭の」
「旭のじゃないがや。産んだのは鶏だわ」
「でも旭が見つけた」
言っても譲る気はなさそうだ。まあ、好きにさせとこう。
一通り見終わり、出口へ戻りながら念のため巣をもう一度覗く。藁の奥に白いものが見えたので、手を伸ばして取り出した。
「小竹。ここ見たんじゃなかったんか」
「見たわ」
「卵あるがや」
「見えんかっただけだわ」
「それを見落としたって言うんだがや」
「兄者も最初は見つけとらんだろ。俺だってもう一度見れば見つけたわ」
「なら見てから言え」
まだ何か言い返そうとしていた小竹を、智が籠を持ち上げて遮った。
「二人とも、帰るよ」
家へ戻ると、仲が籠を受け取り、卵を一つずつ確かめ始めた。そのうちの一つを手にすると、殻を指でなぞる。
「これは小さいね」
似たような卵が幾つか横へ避けられていく。わしは昨日の控えを開き、今日の分を書き足した。小竹が横から数を読み上げる。昨日より少し増えとる。それよりも、仲が避けた小さな卵の方が気になった。
「小さいの、奥の小屋に多かったがや」
仲の手が止まった。
「そうかね。智、あとで餌が残っとらんか見てきてちょう」
「分かった」
わしが帳面へ目を戻すと、小竹がすぐ横から覗き込んできた。
「兄者、昨日のと今日の、終わったら見せてくれ」
「何見るんだ」
「どれだけ違うかだわ」
最近の小竹は、数を書いたものがあるとすぐ見たがる。
「なら後で自分で見ろ。分からんかったら、おっかあに聞け」
「兄者には聞かんでええのか」
「何でだがや」
「兄者も間違えるで」
言い返そうとしたところで、仲がわしの手元から帳面を取って閉じた。
「喧嘩するなら飯食ってからにしやあ」
いつの間にか昼餉の時間になっとった。
* * *
昼過ぎ、わしはまた橘屋敷へ来ていた。
若様たちはまだ堺から戻っていない。久助がおらん間も帳面は溜まるらしく、表座敷では頼政と政虎が紙を広げていた。
呼ばれて座ると、頼政が帳面を一冊こちらへ寄せた。
「日吉丸。印のあるところだけ、別の紙へ写せ。久助の代わりをせよとは言わん。間違えずにやればよい」
「承知しました」
帳面を開く。似たような行が並んでいる中から印を探し、別の紙へ写していく。一つ終われば次の印を探すのだが、少し目を離しただけで、どこまで見たのか分からなくなった。
槍より面倒だ。槍なら目の前の相手を見とればいい。帳面は、さっきまで見ていた場所まで自分で覚えておかんといかん。
一つ写し終えて次へ進もうとした時、政虎の指が帳面の一行を押さえた。
「日吉丸、ここを飛ばしておる」
「……本当でございますな」
「急いだか」
「少し」
「ならば戻れ。伝令でも同じだ。早く走ることばかり考えて、聞いた話を落としては意味がない」
「心得ました」
それを言われると返せん。
飛ばした行まで戻り、今度は印の横へ指を置いてから筆を動かした。一つ写したら、指も次へずらす。面倒ではあるが、これならどこまで終わったのか見失わん。
そのまま何枚か進めていると、頼政が書き終えた紙を取り、上から目を通した。
「そこまででよい」
ようやく筆を置いた。握り続けていた指が痛い。
久助はよく毎日こんなものを相手にできる。わしなら、走る方がまだええ。
* * *
表座敷を出て縁側へ回ると、庭を惟丸が走っていた。
もっとも、自分の足だけで走っとるわけではない。跨がっているのは、下に木の車輪を付けた馬だ。地面を足で蹴るたびに前へ進み、庭をぐるりと回ってくる。若様が形を考えて、職人に作らせたものらしい。
惟丸はわしの前まで来ると、両足を地面へついた。
「日吉丸」
「はい、惟丸様」
「兄上は、まだお戻りにならないのですか」
「まだ堺にございます。船次第ですので、もう少し掛かるかと存じます」
「火縄銃を三つ、持って帰られるのですよね」
「はい。若様から、そのように聞いております」
惟丸は木馬に跨がったまま、少し身を乗り出した。
「日吉丸も撃つのですか」
「わしはまだ撃たせてもらっておりませぬ」
「犬千代もですか」
「あれもまだでしょう」
犬千代より先に撃てたら面白い。あいつのことだから、絶対に悔しがる。
そう思ったところで、惟丸がこちらの顔をじっと見た。
「日吉丸、笑っていますよ」
「何でもございませぬ」
「犬千代のことですか」
「違います」
何で分かったんだ。
そこへ春の声が掛かった。
「惟丸、こちらへ来なさい」
「はい、母上」
惟丸は足を使って木馬の向きを変えると、そのまま春の方へ走っていった。
わしも戻らんといかん。まだ夕方の見回りが残っとる。
* * *
日が傾き始めた頃、朝霧の道を歩いた。
毎日、何か悪いものを探して回っとるわけではない。いつもと違うところがあれば足を止めろ。それで十分だと若様から言われている。
社へ続く道まで来ると、向こうから勘次が歩いてきた。
「日吉丸、社の裏は見たか」
「まだだがや。何かあったんか」
「板が外れかけてる。昼に見つけた時より開いてきた」
二人で社へ向かい、裏側へ回る。壁板の下端が浮き、風が吹くたびに僅かに動いていた。
勘次がしゃがんで下から覗き込む。
「木釘が抜けかけてるんじゃないか。押し込めば戻りそうだけどな」
手を伸ばしかけたところで、勘次は止めた。
「いや、やめとくか。割ったら余計に面倒だ」
「彦九郎殿に知らせた方がええな」
「ああ。俺がここにいる。お前、屋敷へ行ってこい」
「勘次が行ってもええだろ」
「見回りの途中なんだろ。ついでに行ってこい。俺はここにいる」
「……分かったがや」
社を離れ、そのまま屋敷へ向かう。政虎を見つけて板のことを伝えた。
「彦九郎殿。社の裏板が外れかけております。まだ落ちてはおりませぬが、風が吹くと動いております」
「分かった。明朝、人を見にやる」
社へ戻ると、勘次はまだ壁板の前にいた。
「どうだった」
「明日の朝、人をやるそうだがや」
「ならいい。俺も戻る」
「待たせたな」
「別に。何も起きなかったなら、それでいい」
勘次は浮いた板を一度確かめ、そのまま道を下っていった。わしも見回りへ戻る。歩き始めた頃には、空はもう赤くなっていた。
* * *
家へ着くと、夕餉ができていた。
草履を脱ぎながら仲へ社の裏板のことを話すと、旭がすぐに寄ってきた。
「兄ちゃん、社なおした?」
「まだだがや。明日、直してもらう」
「兄ちゃん直せんの?」
「何でも直せるわけないだろ」
飯を食っていた小竹が、すぐに口を挟んだ。
「若様なら、直せる者を呼ぶわ」
「わしも似たようなもんだがや。彦九郎殿に言ったで」
「兄者は彦九郎様に言っただけだろ。誰を呼ぶか決めるのは彦九郎様だがや」
「だから似たようなもんだと言っとる」
「じゃあ違うがや」
「細かいこと言うな」
仲は何も言わず、わしの前へ飯を置いた。
その顔を見て、嫌な予感がした。
「日吉。明日の朝は、言われる前に今日の控え持っていきゃあよ」
「……分かっとる」
やっぱりそれか。
旭まで飯の向こうから顔を出した。
「今日もおっかあに言われたもんね」
「忘れとらんがや」
「言われた」
「旭は飯食え」
皆が笑った。
夕餉を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
寝床へ入ると、旭はもう仲の横で目を閉じている。小竹もさっきまで何か喋っとったくせに、いつの間にか返事がなくなっていた。
わしも布を被る。
明日の朝、仲にまた先を越されるのは癪だ。今日の控えは、起きたら真っ先に持っていこう。
それだけ決めたところで、すぐに眠気がやってきた。




