第57話 九鬼水軍
天文二十年(1551年)、春。
近江国、愛智郡、朝霧村。
橘酒造の門前には、朝から荷車が列を作っていた。
近江、美濃、尾張だけではない。越前や京、堺から来た商人までいる。桑名でも橘の酒を待つ商人が増え、中には駿河まで持っていこうとする者までいるという。
荷車の脇では、商人たちが車輪へ腰を預け、手拭いで額を拭っている。それだけの車が並んでいるのに、どの荷台にも樽は積まれていない。
蔵へ入れば、その理由は嫌でも分かった。
清酒の仕込み桶の間を蔵人が行き交い、別棟では二人掛かりで麦芽を広げた莚を返している。釜場では蒸留器の火が絶えず、薪を抱えた男が何度も出入りしていた。冷却水を通す樋からも水が流れ続けている。
造る方は止まっていない。それでも、出来上がる端から行き先が決まってしまい、門前の荷車へ回す酒が残らない。
仕込み場の隅では、久助が二冊の帳面を並べ、その間に挟んだ紙片を入れ替えていた。俺が近づくと一枚を抜き、開いていた頁の上へ置く。
「若様、今朝までに朝霧で受けた分です。清酒二十八樽、ビール四十一樽、蒸留酒十二壺。桑名の控えも小六から届いておりますので、朝霧の帳面と店ごとに照らしております」
「前から残ってる注文は?」
「まだかなりございます。こちらで一つ仕上がる間に、朝霧と桑名で二つ三つ増えるようになりました」
品ごとに分けられた頁には、商人の名と店、量、注文を受けた日、それに朝霧と桑名のどちらで受けたかまで書き込まれている。
近江の頁には、百済寺へ出入りしている宿や酒商の名も幾つか混じっていた。久助がそのうち二軒を続けて指す。
「この二軒は、今も百済寺樽を取っております。橘へ替えたわけではございません」
「両方置くのか」
「そのようです。朝霧で三軒、桑名でも同じ商人から注文が入っております」
百済寺の酒が売れなくなったわけではない。だが、宿や酒商が置ける樽の数は無限じゃない。そこへ橘の清酒や蒸留酒が入れば、その分だけ百済寺樽の置き場が減る。
門前で待っている商人の中に、長く百済寺と商ってきた者まで混じり始めた。
久助は朝霧と桑名の帳面を開いたまま、細長い紙を一枚抜いた。
「それと、こちらが厄介です。同じ店から朝霧で清酒五樽、桑名でも五樽頼まれております。来た者の名は違いますが、どちらも同じ店の奉公人でした」
「奉公人を替えれば、何度でも頼めるな」
「店まで照らさねば止められませぬ」
久助は二人の名を線で結び、その脇へ店名を書き足した。
一方、桶の間を行き来していた蔵人の頭は、帳面には加わらず仕込みの方を片付けていた。前掛けには米粒が付き、袖には麦の粉が残っている。やがてこちらまで来ると、空になった桶置き場を指した。
「人を増やされるのでしたら、先に建物を広げていただきとうございます。清酒は麹室も桶も、これ以上置くところがございません」
開け放した戸口の向こうでは、土を盛った氷室から二人の蔵人が藁に包んだ氷を運び出していた。
「ビールも同じか」
「麦を芽吹かせる場所と釜、それに発酵桶が足りませぬ。今の造り方のまま量だけ増やせば、この氷室では夏を越せなくなります。蒸留の方も、釜と蒸留器を増やすだけでは冷やす水が足りませぬ」
「人だけ増やしても仕方ないな」
「今のままでは、増えた者を立たせておくことになります」
足りないから人を雇えば済む段階は、もう過ぎているらしい。
俺は久助の帳面を手前へ寄せた。
「今までに受けた分は、先に名を控えた者から、店ごとの上限まで渡す。上限を越えた分と、これから受ける分は予約に変えよう」
「朝霧と桑名を一つにして、店ごとに順番を付けます。奉公人や家族の名を使っても、同じ店なら一つとして扱いましょう」
「商人司へ届けた店ごとに、清酒五樽、ビール十樽、蒸留酒二壺まで。正式に届けてある出店は別でいい。店を持たない者は本人一人で一枠だ」
「手付も取りましょう。頼むだけ頼んで取りに来ぬ者が増えれば、その分をほかへ渡せなくなります」
「少額でいい。酒が出来れば順番に知らせるが、渡す日は約束しない。こちらの都合で渡せなくなった時は返す。向こうから断った時は返さない。そのまま買うなら代金へ入れてくれ」
「桑名へも同じ定めを送ります」
久助は二冊の帳面を寄せ、店名を照らす紙を間へ挟み直した。
そこへ、注文の紙を握った近江の商人が、人の間を縫って仕込み場まで入ってきた。
「若様。十樽お願いしておりました清酒は、どうなりましょう。京へ持っていく分でございます」
「今回は五樽までだ」
「五樽では足りませぬ」
「後ろには何度来ても一樽も受け取れてない者がいる。一つの店へ十樽渡して、ほかを空手で帰すわけにはいかない」
「では、残りの五樽はいつ頃いただけます」
「新しい予約へ入れる。仕込み次第だから日は決められないが、手付を置けば順番は取れる」
「若様方の都合で渡せぬ時は、手付を返していただけるので?」
「ああ。そっちから断った時だけ返さない」
商人は手元の紙を折り直し、門前の列へ目をやった。それから腰の銭入れを外す。
「それでしたら、残り五樽も頼みます」
久助がその場で店と名を書き直す。それを見ていたほかの商人も、自分の注文の紙を手に帳面の前へ寄ってきた。
後は任せて、俺は蔵人の頭と外へ出た。
清酒蔵の東には薪が積まれ、その向こうにはまだ空いた土地が残っている。蔵人の頭は清酒蔵から水路まで歩き、建物の間隔と地面の傾きを確かめながら戻ってきた。
「清酒はこちらへ広げられます。今の蔵へ続けて麹室と仕込み場を建てれば、酒を運ぶにも困りませぬ。ビールの釜場は火を使いますので、少し離した方がよろしいでしょう」
「建て方は任せる。氷室は冬までに増やして、次の氷を入れられるようにしてくれ。蒸留の釜場は水路へ寄せよう」
「それなら冷やす水は取りやすくなります。ただ、桶、甕、釜、蒸留器も今の数では足りませぬ。薪割りと水運びも増やさねば、釜だけ並べても仕込みは増えません」
「必要な道具と人数を分けて書き出してくれ。桶と甕は桶師と陶工、釜と蒸留器は作兵衛へ頼む」
「今日の仕込みが終われば、必要な数を出します」
蔵人の頭はそのまま空き地を歩き、建物を置く場所を確かめ始めた。
俺が中へ戻ると、久助は伊勢向けの頁を開いていた。
「伊勢へ出す分ですが、こちらは今までどおりでよろしいですか」
「清酒と蒸留酒は、仕込みが上がるたびに伊勢向けを先に取り置いてくれ。残りを予約順に渡す」
「すでに割り振った分には触れず、次に仕上がる分から分けます。ビールはどうなさいます。これから暑くなれば、京や堺まで運ばせるのは厄介になります」
「朝霧と桑名、それに越前や美濃の山側を先にしよう。暑い時期の遠出は減らしていい」
「では、京と堺で受ける数をその分だけ絞ります」
久助は伊勢向けの欄へ印を付け、その下から一通の文を引き出した。
「酒を増やす話とは別に、桑名からも人を増やしてほしいと来ております」
正勝からの文だった。
油、漆器、革も扱う量が増え、桑名では荷を下ろして蔵へ運ぶ者と、商人へ渡す者が足りない。その先を担う馬借や人足まで取り合いになっているらしい。
文の末には、太い字で一言だけ書いてあった。
こちらも手が足りん。
酒造だけ増やしても、その先で荷が止まれば意味がない。
俺は壁に掛けてあった近江と伊勢の絵図を外し、台の上へ広げた。朝霧から八風峠へ続く道、その北の鞍掛峠と千種越え、さらに美濃へ通じる東山道まで辿る。
造る者も足りない。運ぶ者も足りない。酒造だけへ人を入れても、増えた酒を桑名から先へ運べない。
「新九郎を呼んでくれ」
* * *
半刻ほどして、新九郎が酒造へ来た。
蔵脇の板間へ移ると、新九郎は久助から正勝の文と帳面を受け取り、人が足りなくなっている仕事を自分の帳面へ書き分けていった。
「また人を集めるのでございますな」
「ああ。ただし今度は兵じゃない。百姓も職人も人足も要る。家族ごと伊勢から来てもらいたい」
「仕事があると触れるだけでは、家族までは動きますまい。こちらへ移れば家を持てて、田畑を耕して暮らせるところまで伝えます」
新九郎は絵図を引き寄せ、伊勢側の街道と市を書き留めていった。
その横では、久助がもう一冊の帳面を開いている。俺は伊勢の市が記された辺りへ指を置いた。
「米と大麦の買い付けも増やそう。酒造だけじゃない。移ってきた者へ渡す分と、兵や人足へ出す兵糧も要る」
「今から増やしますか」
「必要な分は買ってくれ。本格的に集めるのは秋だ。新米が出て値が下がる頃に増やす」
久助はすぐに買い付け用の頁を開いた。
「朝霧の近くだけでは集めませぬな」
「ああ。近江、美濃、尾張から伊勢へ向かう米も、向こうへ入る前に買う。橘へ持ってくれば、まとまった数でも引き取ると商人へ伝えてくれ」
「伊勢まで運ばずに銭へ替えられるなら、こちらへ寄る商人も出るでしょう。遠くまで運ぶには人足も馬も要ります」
「一つの市から取りすぎるな。市も商人も分けて買ってくれ」
「買った場所と数、その日の値は全部残します。秋になってどこから幾ら集めたか分からなくなれば、次の年に使えませぬ」
必要な米だけを買うわけじゃない。
酒造、移住してきた家族、兵と人足へ出す分を蔵へ残しても余るだけの量を集める。その分まで積んだままにすれば、先に蔵と銭が尽きる。
久助もそこは同じことを考えていた。
「買う方だけを増やせば、いずれ銭が続きませぬ。使わぬ分はどうなさいます」
「すぐには売らない。安い時に買って、値が上がったところで西へ出す。桑名から船へ載せられるようになれば、堺まで運んで売ればいい」
「でしたら、酒造や兵糧へ入れる米と、売る米は蔵でも帳面でも分けます。売る時には買値だけでなく、桑名までの運賃と船賃も付けねば利が分かりません」
「そこは任せる。売った銭は次の買い付けへ戻してくれ」
久助は新しい欄を引き、買った場所、値、蔵へ入れた数、売り先を書き分けていく。
筆を動かしていた久助が顔を上げた。
「毎年続ければ、伊勢でも橘が米を集めていることには気づきましょうな」
「構わない。酒造も人も増えてる。米を買って、使わない分を売っているだけなら商いとしておかしくない」
新九郎が絵図の伊勢側を指で叩いた。
「向こうの領主が商人へ橘には売るなと触れたり、自分たちで先に買い集めたりした時は?」
「値を競ってまで買う必要はない。高くなった市は捨てて、別の市と商人から買え。向こうが自分で高値を付けるなら、その分だけ銭を使わせればいい」
「なら、一つの市や一本の道へ頼らぬよう、買い付ける者へ最初から言い含めておきます」
久助は買い付け帳を脇へ寄せ、伊勢向けの酒を記した頁へ戻った。
「伊勢へ入る米が減れば、向こうの米値も上がりましょう。米が上がれば、地元で造る酒も今の値では出せなくなります」
「伊勢へ出す清酒と蒸留酒は、向こうの酒値に合わせて上げていい。ただし、商人の取り分まで削るな」
「橘だけ今の値へ据え置く必要はないということですな」
「ああ。橘の酒を売っても、商人に口銭が残るようにしてくれ」
「米を橘へ売っても銭になる。橘の酒を売っても銭になる。それなら、向こうの商人も簡単には手を引きますまい」
新九郎がそこで口を挟んだ。
「領主から橘との商いを止めろと言われても、手放す方が惜しい商いにしておくのでございますな」
「そこまで持っていきたい」
新九郎は自分の帳面へ、米を売る者と蔵を記す欄を加えた。
「伊勢や美濃の商人へ、米を売りたい者がいれば朝霧へ知らせるよう話を入れます。こちらから市を一つずつ探すより、売り手の方から話を持ってこさせた方が早うございます」
「頼む」
久助も買い付け、伊勢向けの酒値、商人へ渡す口銭を別々に書き分けていった。
新九郎はそのまま絵図の坂の頭関所へ指を移す。
「橘で買った俵には、印を付けておいた方がよろしゅうございます」
「ああ。橘印を付けよう。どこへ出した米か分からなくなるのは困る」
「でしたら、ここを通った荷も控えておきたいところです。小倉西家の持ち場ですが」
「父上から話を通してもらう。米荷を止める必要はない。橘印の俵が通った時だけ、荷主と数、行き先を控えてもらおう」
「鞍掛と千種越えには甲賀の者を置きます。西へ売った米が伊勢へ戻ってくれば、どの道を通ったか分かります」
「橘印の俵は買い付けから外してくれ。一度売った米を、またこっちで買う必要はない」
「買い付けを任せる者へ、印まで覚えさせておきます」
米の話を終えると、新九郎は絵図の上を朝霧から小椋谷へ移した。
「人集めの方ですが、空き家のある村へ少人数ずつ入れるだけでは、家族ごと受け入れていくには足りませぬ。小椋谷の山中で、水が取れて畑を開ける平場を探させます」
「まとまって住める場所を探すのか」
「はい。道を通せる平場が見つかれば、先に家を建てて一か所へ入れた方が、家族をばらばらにせずに済みます。小椋谷の者は山仕事で谷の奥まで入っておりますから、水場と平場を知っている者にも聞かせます」
今ある村を削って場所を作る必要はない。
朝霧で受け付けた後、空き家と仕事の両方がある村へ入れる者はそこへ住ませる。それでも収まらない家族は、小椋谷の山中にまとまって暮らせる場所を作ればいい。
「各村の区長には、空き家の数と足りない働き手を出させよう。小椋谷では平場と水場、それに道を通せる場所を探してくれ」
「場所が決まれば、先に荷を入れられる道を付けます。その後に家を建て、周りへ畑を開く。田にできそうな土地があれば、水を引けるかも確かめさせましょう」
「家族は離すな」
「そこは崩しませぬ。木を伐れる者と土を動かせる者は早めに入れます。伐った木も家材と薪に使えます」
「住む者にも普請へ出てもらおう。家から何から全部こちらで用意する必要はない」
「先に入った者へ銭になる仕事を渡せば、その者たちも次の家造りへ加われます」
受け入れ方も、その場で決まった。
新九郎は朝霧へ来た家族について、人数と年、これまで何をしていたか、持ってきた道具まで控えることにした。
「百姓は田畑を開くところへ、木を扱える者は新しい村造りへ、荷を担げる者や馬を扱える者は街道沿いへ入れます。酒造で働けそうな者がいれば、住まわせる先を決める前に蔵人へ会わせましょう」
「それで頼む」
新九郎は行き先ごとに必要な書付を分け始めた。
一方で、久助の前には帳面が積み上がっている。酒の予約、米の買い付け、蔵入れと売却、伊勢向けの酒値、商人の口銭。しばらく頁を行き来していた久助が、二冊を手元から外した。
「若様。これを全部某が毎日照らしておりますと、商いの方へ手が回らなくなります」
「書ける者を二人つける」
「日々の記録と帳面同士の照合は、その二人へ渡します。某は数が合わぬところと、荷が止まった時だけ確かめましょう」
「それでいい」
久助は自分で扱う帳面だけを残し、正勝の文をその横へ置いた。
桑名の人手不足だけは、まだ帳面を分けても解決しない。
「桑名から先へ出す荷は、今はどこで船へ積み替えてる?」
「堺や駿河へ向かう物は、尾張や三河などの湊まで陸で運び、そこで船へ載せております」
「そこまで運ぶ人足と馬が要るわけか」
「はい。桑名へ運び込む荷が増えた上に、その先まで陸で引いておりますので」
「なら、その陸運を減らそう。桑名から直接、船へ載せる」
「桑名へ入れる船持ちを決めるのでございますか」
「ああ。九鬼へ話を持っていく」
久助は桑名から海へ線を延ばした。
「九鬼には、桑名から西と東へ出す最初の区間を任せる形がよろしいでしょう。先の湊で別の船へ渡せるなら、最初から九鬼だけで堺や駿河まで運ばせる必要はございません」
「そのつもりだ。秋には西へ出す米も増える」
「でしたら、船賃と積み替え賃は最初から分けて残します。誰がどこまで運び、どこで荷を渡したかまで残さねば、途中で傷んだ時に揉めます」
新九郎は伊勢へ向かわせる者を選び始め、久助は桑名へ送る書付をほかの帳面から抜き出した。
* * *
頼政へ話を通し、数日後には志摩へ向かった。
供は久助と護衛の兵。荷の見本として清酒とビールを一樽ずつ、蒸留酒を小さな壺で二つ積み、油、漆器、革も持ってきている。
海へ近づくにつれて潮と干した魚の匂いが強くなった。浜には小舟が並び、その沖には帆柱を立てた船が何艘も浮かんでいる。船を引き上げる男たちの掛け声へ、船板を打つ槌の音が重なっていた。
田城の館で俺たちを迎えたのは、九鬼宮内少輔浄隆だった。
挨拶を済ませ、持ってきた品を板間の低い台へ並べる。浄隆は清酒の樽へ手を伸ばした。
「これが橘の酒でございますか」
「ああ。まず飲んでみてくれ」
注がれた清酒を一口含み、浄隆は盃を明かりへ掲げた。色を確かめてからもう一口飲み、次はビールへ移る。
「こちらは随分と変わった酒にございますな」
「麦から造ってる。人足や職人でも買える値で出してる酒だ」
「では、この小さな壺は?」
浄隆が蒸留酒を手に取った。
「そっちは蒸留酒だ。量を少なくして、高く売ってる」
蓋を開けた浄隆は壺へ鼻を寄せ、清酒とは違う匂いを確かめてから中を覗き込んだ。
「色は水と変わりませぬな」
「強い酒だから、一度に飲まない方がいい」
小さな盃へ少しだけ注がせると、浄隆は口に含み、しばらく舌の上で転がしてから飲み下した。
「これは……喉へきますな」
「少しでも強く酔う」
「水と思って飲めば、立てなくなりそうにございます」
「だから小さな壺で売ってる」
浄隆は壺を戻し、清酒や油の並ぶ方へ向き直った。
「酒に油、漆器、革。これだけの品を九鬼の船で運ばせたいとのお話でございますか」
「ああ。秋からは米も加わる」
「どこまで運べばよろしいので?」
「西は堺、東は駿河まで送りたい。ただ、九鬼の船だけで最後まで運ぶ必要はない。途中の湊で別の船へ渡してくれればいい」
浄隆は敷物の端に置かれていた沿岸の絵図を引き寄せた。
「つまり九鬼には、桑名へ船を入れ、そこへ集まった荷をまず海へ出す役を任せたいと」
「ああ。桑名から船に載せられれば、陸で遠くまで引く荷を減らせる」
久助が帳面を開き、桑名へ集まる荷と行き先を浄隆の前へ差し出した。
「西へ向かう物は清酒と油が多く、秋からは米も加わります。東は蒸留酒と漆器が中心にございます。船賃は船ごと、運んだ区間ごとに分けて記します。途中で別の船へ渡す時は、品と数、それに傷みがないかを双方で確かめていただきます」
「湊で掛かった銭まで船賃へ入れるので?」
「そこは別にします。船へ払った銭と積み替えに払った銭が混じっては、後で品の値を決められません」
久助は折り畳んだ書付を一枚取り出し、帳面の横へ置いた。
「船荷について、先に決めておきたいことを書いてございます」
浄隆は脇に控えていた船頭を呼び寄せ、二人で書付へ目を通した。
先に口を開いたのは船頭だった。
「ここに、船頭が危ないと判断した時は、荷主が急がせても船を出さぬ、とございます」
「ああ。海へ出るかどうかは船頭に任せる」
「商人が今日中に出せ、明日までに運べと騒いでも?」
「従わせる。出さなかった理由だけは書付へ残してくれ」
「それなら、無理に船を出さずに済みます」
船頭はそのまま次の行を追った。
「船を助けるため、荷を捨てねばならぬ時はどうなります」
「人と船を守るために必要だったなら、九鬼だけに損を負わせるつもりはない」
「捨てられた荷の持ち主は、丸損でございますか」
「その荷を捨てたことで船とほかの荷が助かったなら、助かった荷の持ち主にも負担させる」
浄隆が書付から顔を上げた。
「変わった定めにございますな」
「一人の荷を捨てて船と残りの荷を助けたのに、その一人だけが全部失うのはおかしい」
船頭は同じ箇所をもう一度読み、それから先へ進んだ。
「途中の湊で別の船へ渡した後に何かあった場合も、九鬼が償うのでございますか」
「そこまでは求めない。渡した相手と品、数、傷の有無を双方で控える。受け渡しが終わったところから先は、次の船持ちの責だ」
「その定めでしたら引き受けられます」
浄隆は絵図へ戻り、桑名の位置へ指を置いた。
「まず、何艘ほど桑名へ入れればよろしいので?」
「三艘だ。西と東へ荷を出して、掛かる日数と傷み方を確かめたい。どの船を使うかは宮内少輔殿に任せる」
「ならば一艘を西、一艘を東へ出しましょう。残る一艘は、集まった荷と海の具合を確かめてから行き先を決めます」
「それでいい」
「先に申し上げておきますが、船賃は安くできませぬぞ」
「構わない。高いと言う商人には、これまでどおり桑名まで自分で取りに来てもらう」
「荷が続くようなら、その後も九鬼の船を桑名へ入れるので?」
「ああ。定期的に頼みたい」
「でしたら、最初だけ安くして後で上げるような決め方はいたしませぬ。こちらも続けられる値を最初から出します」
「その方がいい」
浄隆は書付を久助の前へ戻した。
「細かなところは、久助殿とこちらの船頭で決めればよろしいですな」
「ああ。船賃と積み替え、それから荷を渡す時の定めまで詰めてくれ」
久助と船頭は書付を挟み、最初に桑名へ入れる船と出船日を決め始めた。
浄隆は二人へ任せると、話から外れていた蒸留酒の壺へもう一度手を伸ばした。
「これだけの荷が続くのであれば、九鬼にも利がございます」
「九鬼に利がなければ続かない。そのために、こっちも続けられる条件を持ってきた」
「ならば、こちらも荷が途切れぬよう船を出しましょう」
館の外から男たちの掛け声が届いた。
浜へ引き上げられていた船が何人もの手で押され、船底で砂を鳴らしながら海へ戻っていく。
あと三年もない。
伊勢の領主がこちらの動きに気づいても、その時には米を売る商人も、橘の酒を扱う商人も、船で荷を運ぶ者もいる。
兵を出すのは、その後でいい。




