第54話 木曾の馬
天文十九年(1550年)、夏。
近江国、愛智郡、朝霧村。
八風街道の話が片付いた数日後、俺は朝霧に一同を集め、評定を開いた。
部屋の端には、日吉丸と子供たちも座らせている。
「次は畜産です!」
久助が帳面の新しい頁を開いた。
「家畜を増やし、売られるのでございますか」
「売るだけじゃない。鶏は卵と肉、豚と牛は食料と肥料、馬は軍に使う。全部を同時に始める」
「全部を、でございますか」
「増えるまで時間がかかるものばかりだ。順に始めていたら、必要な時に間に合わない」
「家畜の代金だけでは済みませぬぞ。小屋、柵、餌、世話をする者の扶持まで要ります」
「酒と漆器が売れている今のうちに始める。家畜と施設を分けて勘定へ入れておけ」
「承知仕りました」
五年後には、今より大きな軍勢を動かす。
兵を出す時になってから、食料も馬も足りないと気づいても遅い。増えるまで何年もかかるなら、始めるのは早い方がいい。
頼政が広げた絵図の上へ手を置いた。
「どこへ置く」
「鶏は各村です。豚と牛、それに馬は笠松へ置きます」
政澄が絵図を引き寄せ、笠松の旧屋敷を指で押さえた。
「笠松も、今年から畑を起こす。耕せる土地を家畜に取らせる気はないぞ」
「もちろんです。使うのは、旧屋敷の周りと、畑に向かない場所だけです」
「旧馬屋は、屋根を葺き直せば使える。裏手も石は多いが、囲いを置くには困らん」
「では、馬はそこへ置けますね」
「馬だけならな。牛と豚まで同じ場所へ入れれば、水場がもたん。餌を運び込むにも手間が掛かるし、糞も毎日出る」
「糞は畑へ回せます」
「使えるようになるまで置いておく場所が要るだろう。馬屋の裏へ何でも押し込めば済む話ではないぞ」
政澄は旧屋敷から指を離し、村外れの下手を押さえた。
「豚は、井戸と畑から離せ。逃げても村へ入りにくい、この辺りがいい」
「牛はどうします」
「水は要るが、水場のすぐ脇には置けん。糞が流れ込むからな。そこは現地で高低を見て決める」
「では、牛舎だけは笠松へ行ってから決めるんですね」
「ああ。水を運べて、汚れが井戸や畑へ流れん場所を探す」
久助が帳面を三つに分けた。
「馬屋、牛舎、豚小屋。囲いも、それぞれ別に要りますな」
「冬の餌を置く場所もだ」
政澄が旧屋敷の脇にある蔵を指した。
「この蔵は使える。だが、家畜が増えれば足りなくなる」
「なら、もう一棟建てる分も見ておきます」
「久助。必要な材と人足を出しておけ。私は笠松へ行き、開墾地へ掛からぬよう場所を決める」
「承知しました、兵庫助殿」
「叔父上、お願いします」
「ああ。馬屋の細かな造りは、馬飼を連れてきてから詰めよう。先に決めすぎても二度手間になる」
「それで構いません」
まずは鶏だ。
「仲。各村の鶏は仲に任せる。日吉丸と子供たちを使って、鶏と卵、孵った雛の数を木札に残してくれ」
「わしらだけで村々を回っとったら、餌やりが終わる前に日が暮れるがね」
「なら、どうする」
「鶏を飼っとる家の子を一人ずつ付けるんだわ。そこの鶏は、そこの子に見させる。日吉らは何日かごとに回って、木札と小屋を確かめりゃええ」
「それでやってくれ。食べる卵と孵す卵も分けてくれ」
「そこは鶏を飼っとる女衆にも言っとく。日吉、聞いとったな」
「聞いとるがや、おっかあ」
「終わったら、誰をどの村へ付けるか決めな」
「分かったがや」
仲が引き受けると、日吉丸は膝の前へ木札を並べ始めた。
次は豚だった。
「新九郎。雄を一頭、雌を二頭探してくれ」
「承知しました。近江の市だけでは見つからぬやもしれません。おりんを伊勢へ出し、ほかの者には近江の市と、堺へ通じる商人筋を探らせます」
「見つけた者は、戻らずに使いを寄越せ。飼ったことのある者も探してくれ」
「餌、囲い、病、子を産ませる時の扱いまで聞かせます」
「知らせが来たら、取引は久助が進めろ」
「承知仕りました。値だけでなく、受取場所と道中の餌も確かめます」
頼政には牛を頼んだ。
「雄を一頭、雌を二頭です。子を産んだことのある雌を選び、できれば一頭は腹に子がいる牛を」
「田へ出さず、乳と子を取るのだな」
「はい。初めの三頭は食べません」
「牛を扱える者も要るぞ」
「叔父上に、世話人も探してもらいます」
「売り手は、わしが探そう。牛舎が整ってから連れてくる」
「お願いします、父上」
最後は馬だった。
俺は旧馬屋と、その裏手に残る土地へ指を置いた。
「初めに、すぐ使える軍馬を十頭は買います。それとは別に、種にする雄馬、繁殖用の雌馬、若馬も求めます」
「どこから買う」
頼政に問われ、俺は可成へ言った。
「三左衛門は、心当たりがあるか」
「軍馬を求められるのであれば、木曾がよろしいかと存じます。美濃で何頭か見ましたが、小柄でも脚と蹄が強く、険しい道でも歩みが乱れませぬ」
「十頭をまとめて買えると思うか」
「一度で揃うかは、木曾へ赴いてみなければ分かりませぬ。ただ、近江で一頭ずつ探すよりは早いかと」
「なら、俺も木曾へ行く。馬の良し悪しは三左衛門が見てくれ」
「承知いたしました」
頼政が絵図を畳んだ。
「供は」
「弦十郎、三左衛門、犬千代。それと、馬を連れ帰る者を付けます」
「犬千代もか」
「いずれ騎馬の一隊を預けられるか、今から見ておきたいと思っています。馬を選ぶところから、三左衛門の側で覚えさせます」
「三左衛門。犬千代をよく見ておけ」
「承知いたしました」
* * *
出立までの十日で、笠松では旧馬屋の修理が始まった。
政澄は開墾地へ杭を打たせ、その外側に牛舎と豚の囲いを置く場所を決めた。仲は日吉丸たちを村々へ出し、新九郎は甲賀の者へ探る土地と商人筋を割り振った。
出立の前日、久助が銭箱と清酒、漆器を座敷へ運ばせた。
「軍馬十頭のほか、種雄馬、雌馬、若馬まで買えるだけの銭を用意いたしました」
「帰り道の宿と餌は」
「別にしております。木曾から馬飼を迎えることになっても、当面の扶持は出せます」
「馬だけ連れて帰っても、笠松で扱えなければ意味がないからな」
「その代わり、一頭ごとの年、毛色、用途、値は残していただきますぞ」
「三左衛門と馬飼に確かめさせる」
「若様も御覧くだされ」
「分かった」
俺たちは銭と土産を積み、朝霧を発った。
七日目、木曾谷へ入る。
両側から山が迫り、その間を縫うように木曾川と街道が続いていた。
川音は道の下から絶えず聞こえ、見上げれば斜面の上まで木々が重なっている。わずかな平地には家や畑が寄り集まり、軒先には馬具や干し草が掛けられていた。
荷を背負わせた馬が急な坂を行き交う。どの馬も蹄を置く場所を選び、狭い道で人とすれ違っても歩みを乱さない。近江で見てきた荷馬より小柄だが、脚は太く、山道を歩くことに慣れていた。
先に使者を出していたため、その日のうちに木曾家の館へ案内された。
板敷きの座敷には厚い敷物が敷かれ、開け放した板戸から木曾川の音が入ってくる。
木曾家の当主、木曾中務大輔義康は、脇息へ片肘を預けていた。
義康は土産の漆器を手に取り、椀の縁を親指でなぞった。
「これは近江の品か」
「はい。橘の領内で作らせた漆器にございます、中務大輔殿」
「酒も橘で造っとるそうだな。麦の酒なら、木曾へ来る商人や馬借が樽で運んでおる」
「こちらまで届いておりましたか」
「この辺りでも、飲んだ者は珍しくない。値の割に量があり、暑い時には悪くない酒だと聞いておる」
「ビールは数を造り、広く売っております」
「だが、澄んだ酒は、そう出回っとらんずら」
「清酒は造れる量が限られます。今回はこちらを持参いたしました」
義康は椀を敷物の端へ置き、清酒の樽を引き寄せた。封へ指を掛けたが、開けずに手を離す。
「麦の酒を木曾まで流し、その上の酒まで造るか」
義康は樽を俺の方へ押し戻した。
「それで、この酒は何頭の馬を連れ出すための土産だ」
「すぐ使える軍馬を十頭。それとは別に、種にする雄馬を一頭、繁殖用の雌馬を四頭ほど、若馬を二頭求めております」
義康は上体を大きく後ろへ反らし、脇息へ片手をついた。
「十七頭か。すぐに出せる数ではないぞ」
「一度にすべて揃わなくても構いません。ただし、軍馬十頭は今回連れ帰りたいと思っております」
「銭があっても、出せる馬がなければ買えん」
「数を揃えるために、悪い馬まで求めるつもりはございません。使える馬だけを選び、足りない分は改めて参ります」
義康は脇息を後ろへ押しやり、敷物の上を膝で進んだ。間にあった酒器を手の甲で脇へ寄せる。
「馬を選ぶと言ったな。何に使う」
「五年ほど先までに、橘の騎馬兵を増やします。近江の笠松へ馬屋と馬場を整え、買った馬を使うだけでなく、繁殖も始めます」
「木曾から馬を買わずに済ませるつもりか」
「橘で必要な馬をすべて増やせるようになるまで、何年かかるか分かりません。それまでは、軍馬も繁殖に使う馬も木曾から求めます」
「その後は、木曾との取引を止めるのか」
「いいえ。近江で馬を欲しがる者をこちらで集めます。橘で足りなければ、木曾へ注文を回します」
義康が掌で膝を打った。
「馬を買うだけでは足りず、六角家中へ売ると申すか」
「まずは実物を見せます。目賀田殿と小倉両家には話を持ち込めます。評判を得られれば、御屋形様へも申し上げます」
「そなたは何を取る」
「取次の銭と、近江から木曾へ品を運ぶ商いをいただきます」
「木曾馬の名で、悪い馬を流されては困るでな」
「売る馬は木曾で選んでください。買い手と用途も隠しません」
「繁殖用に出した馬を、勝手に売ることも認めんぞ」
「橘の馬屋へ入れた繁殖馬は売りません」
義康は床へ片手をついて立ち上がり、板戸を開けた。
館の裏から、馬の嘶きと蹄の音が入ってくる。
「口だけなら、何とでも言えるずら。まず馬を見てみよ」
* * *
館の裏手には、柵で囲われた馬場があった。
可成は馬を一頭ずつ歩かせ、脚の運び、蹄、胸、背を確かめた。馬飼から年齢、運ばせた荷、山道での様子、気性も聞いていく。
犬千代も後ろから離れずについて回った。
最初に引き出された栗毛に可成が乗り、歩かせ、駆けさせ、向きを変えて止める。鞍から下りると、馬の脚と息を確かめた。
「すぐ軍馬へ回せます。人や物音にも慣れております」
「そいつは戦へ出したこともある。脚も潰れとらん」
次の鹿毛へ犬千代が正面から近づくと、可成が腕を伸ばして止めた。
「犬千代。馬の目の前へ立つな。肩から入れ」
「こうかね」
「手を見せ、急に触るな」
犬千代は馬の肩側へ回り、掌を見せながら近づいた。鹿毛はその手を嗅ぎ、逃げずに首を下げる。
「力で押さえるな。人を嫌わせれば使えなくなる」
「分かったがね、三左殿」
可成は犬千代に手綱を持たせ、馬場の端まで歩かせた。
日が傾く頃には、軍馬十頭、繁殖用の雄馬一頭と雌馬二頭、若馬一頭が別の柵へ移されていた。
義康は最後の若馬の尻を掌で軽く叩いた。
「雌馬を四頭、若馬を二頭と言っておったな」
「はい」
「今すぐ出せる中で、森殿が認めたのはこれだけだ。残りまで連れていけば、数合わせになるぞ」
「十四頭、すべて買います。足りない分は改めて参ります」
「値も聞かずに決めるか」
「使える馬なら買います。使えない馬なら、一頭でも買いません」
義康は馬飼へ向けて指を鳴らした。
「選んだ馬を、奥の柵へ移せ」
馬飼たちが動き出す。
「馬は売ろう。だが、近江で増やすなら、馬だけ持っていっても続かん」
「馬飼も探しております」
「なら、ちょうどよい者がおる」
義康は柵の向こうにいた男を、鞭の柄で招いた。
四十前後の男だった。日に焼けた手には古い傷がいくつもある。妻子と弟夫婦を連れ、自分で馬を育てられる土地を求めているという。
「近江へ移る気はありますか」
「まず、土地の話を聞かせてもらいてえです」
俺は笠松の旧馬屋と、裏手の囲いについて話した。
「家と畑を用意し、当面の扶持も出します。馬屋や柵は、必要に応じて直してください」
「笠松っちゅう所は、冬に雪がどれほど積もるずら」
「木曾ほどではありません。ただ、冬草は笠松だけでなく、周りの村からも集めます」
「広い野へ放して飼えるわけじゃねえんだな」
「ありません。田畑へ直しにくい土地を区切って使います」
男は可成へ言った。
「森殿は、その土地を見たことがあるんで」
「ある。旧馬屋と水場は使える。だが、水はけと冬草の置き場は、そなたに見てもらう必要がある」
「知らん者に、餌や馬屋を勝手に変えられちゃ困るでな」
「馬のことは任せます。笠松の者にも教えてください。ただし、馬の数、餌、病や怪我は残してもらいます」
「そこまで任せてもらえるなら、仕事はできるずら」
男は家族と相談するため、一晩待ってほしいと言った。
翌朝、近江へ移ると答えた。
本人は馬に付き添い、妻子と弟夫婦は荷をまとめた後、笠松へ向かうことになった。
代金と引き渡す馬を確かめると、義康が取引を書いた文を俺の前へ滑らせた。
「近江で木曾馬を見せる話だが、買い手がついたら、まず書状を寄越せ。用途と頭数を見て、こちらで馬を選ぶ」
「承知しました」
「そなたが勝手に木曾馬の名を使わぬなら、こちらも出せる馬は出そう」
俺は文を受け取った。
「馬の商いが続けば、いずれ木曾の材木も見せていただきたいと思っております」
「檜か」
「はい」
義康は両手を広げ、館を囲む山々を示した。
「馬に加えて、木曾の山まで欲しがるか」
「今すぐの話ではございません。まずは馬を近江へ無事に運びます」
「それがいい。檜の話は、その後ずら」
義康は清酒の樽を足元へ引き寄せた。
「馬の話が済んだなら、これを開けよ。木曾まで名が来とる酒が、どれほどのものか確かめてやる」
* * *
木曾を発って七日後、俺たちは十四頭の馬と、木曾の馬飼を連れて近江へ戻った。
道中は馬飼の指図で歩く速さを揃え、朝夕に蹄と背を確かめた。急な坂を越えた翌日は距離を縮め、近江へ入ってからも無理に先を急がせなかった。
笠松では旧馬屋の修理が終わり、裏手には軍馬と繁殖馬を分ける囲いができていた。
馬飼は馬を入れる前に窪地へしゃがみ、土を掴んだ。
「ここは雨が降りゃ水が溜まる。溝を切って、低い方へ流してもらいてえ」
「ほかには」
「冬草を置く蔵が小せえです。今の馬なら足りても、増やすならもう一つ要るずら」
政澄は旧蔵の脇から開墾地まで歩き、足元へ線を引いた。
「ここなら畑へ掛からん。蔵を一つ足そう」
「入口は馬屋へ向けてもらいてえです」
「分かった。その向きで建てる」
十日余りして、馬飼の妻子と弟夫婦も笠松へ着いた。
男と弟は馬の世話をしながら、笠松の者へ餌やり、馬屋の掃除、蹄の確かめ方を教え始めた。
木曾馬が笠松の水と餌に慣れると、可成と馬飼は、冬草を増やし、囲いをもう一つ分ければ、さらに十頭ほど置けると判断した。
義康との取り決めに従って書状を送り、可成をもう一度木曾へ向かわせた。二度目に買い付けたのは、軍馬四頭と繁殖用の雌馬三頭だった。
夏の終わりには、ほかの家畜も笠松と各村へ入り始めた。
仲と日吉丸たちは村ごとに木札を置き、鶏と卵、雛の数を残している。新九郎が探した豚三頭は、久助が手配した荷と餌で笠松まで運ばれた。頼政が買い付けた牛三頭も牛舎へ収まり、雌牛の一頭は腹に子を抱えていた。
旧屋敷裏手の馬場には、二度の買い付けで二十一頭の木曾馬が揃った。
軍馬に使える十四頭には乗り手が付けられ、可成が歩かせ、止め、向きを変えるところから教えている。
可成が鞭を横へ振ると、馬が一斉に歩き出した。
犬千代の馬だけが、半馬身ほど前へ出る。
「犬千代。前を追うな」
「わしの馬が速いんだがね」
「ならば抑えろ。後ろを置いていく者に、一隊は預けられん」
「わしが後ろに合わせるんか」
「預かる側はそうする」
犬千代は手綱を引き、後ろの馬が並ぶまで待った。
もう一度、可成の鞭が動く。
今度は十四頭が間を保ったまま進んだ。
まだ、騎馬隊と呼べるものではない。
だが、馬を買い、増やし、乗り手を育てる流れは動き始めた。
五年後、伊勢へ向かう騎馬隊は、ここから始まった。




