第51話 橘酒造
天文十九年(1550年)、春。
近江国、愛智郡、朝霧村。
冬の間も、向山の仕事は止まらなかった。
岩松組は古穴を広げながら試し掘りを続け、八風街道から山へ入る細道も、背負子を担いだ者が行き来できるところまで整っている。
笠松、酒井、宮田、志野原では、雪解けを待って開墾の支度が始まった。尾張へ送る荷の用意も進んでいる。
五年先の話をしたところで、すぐに人や銭が増えるわけではない。
田畑を増やすにも、商いを広げるにも時間が掛かる。結局、今できることを一つずつ進めるしかない。
朝稽古を終え、屋敷の裏を流れる水路へ下りた。
山の雪が解けたせいか、冬よりも水の勢いが強い。柄杓ですくって口へ運ぶと、歯に染みるほど冷たかった。
濁りもなく、妙な匂いもしない。
ああ、酒が飲みてぇ。
前々から考えてはいたが、酒の話だけは切り出しにくかった。
これまで俺が口にしてきたのは、どれも橘を強くするための策だ。七つや八つの子供が言い出すには妙でも、領地のためだと言えば周りも耳を傾けてくれた。
だが、口当たりのいい清酒が飲みたいとか、仕事を終えた後にはビールをあおりたいとか言い始めれば、春だけでなく頼政にも怪しまれるだろう。
それで、酒だけは後回しにしていた。
酒は飲むためだけのものではない。
上等な清酒なら、寺社や武家へ高く売れる。ビールなら、清酒より安く造り、人足や職人へ数を出せる。
蒸留した強い酒なら、傷や道具を洗い、薬草を漬けるのにも使える。さらに先へ進めば、油と火を扱う技術にも役立つはずだ。
何より、朝霧には水がある。
酒造りに使う米と麦は、外から買えばいい。
柄杓を水路の脇へ戻し、その日のうちに評定を開いてもらった。
座敷には頼政、春、政澄、久助、新九郎が集まった。
久助の前には、すでに筆と帳面が置かれている。
俺が何かを始めると言えば、まず銭が出ていく。久助が最初から帳面を開いているのも、今までの積み重ねだろう。
頼政は、久助の前に開かれた帳面へ目をやった。
「それで、今度は何を始める」
俺は皆を見回した。
「再び、水を使います」
久助が筆を持ったまま顔を上げる。
「水車を増やされるのでございますか」
「いや。今度は、水そのものを使う」
「水そのものを?」
「酒を造る」
春が真っ先に口を開いた。
「小徳丸が飲むためではありませんね」
「売るためです、母上」
「ならば、小徳丸は飲みませんね」
「味を確かめるくらいは必要かと」
「それを飲むというのです」
「ほんの少しだけです」
「小徳丸」
「その話は後でしますから、先に酒造りの話をさせてください」
春は黙ったが、許されたわけではなさそうだった。
俺は頼政へ向き直った。
「まず、米から澄んだ清酒を造ります。百済寺や永源寺へ納めて、御屋形様へ贈っても恥ずかしくない酒にしたいです」
「待て、小徳丸」
政澄が顎へ手を当てた。
「その酒蔵を、どこへ置く」
「朝霧です。水路の近くに建てるつもりです」
「朝霧は百済寺郷の内だ。百済寺では昔から僧坊酒を造り、百済寺樽として売っている。その足元へ別の酒蔵を立てれば、寺の商いを奪うつもりかと受け取られるぞ」
「そこは黙って始めません。建てる前に百済寺へ話を通します」
「話を通せば、それで済むとは限らん。酒に米を使えば、年貢や寺への納め物が減るのではないかと疑われる。薪も人手も要るだろう」
「朝霧と四村の食い扶持、年貢、寺への納め、備蓄には手を付けません。酒に使う米と麦は、別に外から買います」
「人手まで外から入れるのか」
「蔵人を雇います。足りなければ新しく入れますし、百済寺の蔵から勝手に引き抜くつもりもありません」
「ならば、酒を造れる者をどう集める」
「最初は、百済寺から借りたいと思っています」
政澄の手が止まった。
「百済寺郷の内で、百済寺の蔵人に、百済寺樽と売り場を争う酒を造らせるのか」
「働きと手ほどきへの代価は払います。最初に出来た酒も、百済寺へ納めます」
「寺が貸さぬと言えば」
「その時は、ほかから探します。ただ、郷内に酒蔵を建てる以上、百済寺へ何も言わずに始めるつもりはありません」
頼政が尋ねた。
「百済寺樽の名を使うつもりはあるのか」
「ありません。橘の酒として売ります。百済寺樽の名も印も使いません」
「売る先は、もう考えておるのだな」
「桑名、尾張、美濃です。寺や商人にも売って、贈り物にも使います」
政澄が眉を寄せる。
「それでは、百済寺が酒を入れてきた村と重なるところも出るぞ」
「そこは避けきれないと思います」
「ならば、近くでは売らぬと寺へ約束するか」
「いえ。そこまでは約束しません」
座敷が静まった。
「百済寺の酒を止めるつもりはありませんし、寺への礼も通します。借りた蔵人への代価も払って、年貢も納め物も減らしません。でも、橘の酒をどこへ売るかまで百済寺に決めてもらうつもりはありません」
政澄はしばらく考えていた。
「寺がよい顔をせぬことは、覚えておけ」
「はい、叔父上」
「それと、条件は初めにはっきりさせておけ。後で話が違うと言われれば面倒だ」
「蔵人を借りること、代価を払うこと、最初の樽を納めること、百済寺樽の名と印を使わないこと。この四つはこちらから先に伝えます」
「売り先については、こちらから触れぬのだな」
「聞かれれば答えます。でも、売り先を制限する約束はこちらからはしません」
頼政が政澄へ命じた。
「兵庫助。百済寺へ話を持っていけ。蔵を建ててから知らせる形にはするな」
「承知しました、兄上」
「向こうから別の条件を出されても、その場では受けずに持ち帰れ」
「お願いします、叔父上」
百済寺へ出す条件が決まったところで、春が俺を呼んだ。
「小徳丸」
「はい、母上」
「それで、清酒のほかにも飲むものがあるのでしょう」
「飲むためではありません、母上」
「酒を造るのでしょう」
「清酒だけではありません。大麦から、ビールも造ります」
「びいる?」
「麦から造る酒です。清酒より安くして、数を多く出せます」
久助が帳面へ筆を走らせた。
「安く売って、それでも利が残るのでございますか」
「一樽ごとに大きく取る必要はない。多く造って、多く売る」
「そこまで数が出ますかな」
「人足や職人が、仕事の後に飲める値にする。高い清酒には手が出なくても、安い酒なら買える者は多いはずだ」
「どのような味なので?」
「麦の甘みに、少し苦味がある。喉が渇いた時に飲みたくなる酒だ」
久助の筆が止まった。
「まだ造ってもおられぬのに、ずいぶん自信がおありですな」
「これは売れる」
久助はそれ以上聞かず、帳面へ目を戻した。
「大麦は、朝霧で採れる分を使われますか」
「朝霧産は領内へ回す。兵や職人、人足、岩松組の者へ安く出して、普請や働きへの褒美に使ってもいい」
「それでは、外へ売る分が足りませぬな」
「足りない分は外から買う」
「清酒の米も、同じように買い入れるのでございますね」
「そうだ。酒造用として、食料とは別に集める」
「最初は、どれほど買われます」
「買えるだけ買いたい」
「それでは置く蔵がございません」
「なら、蔵も建てる」
「酒蔵だけでも銭が掛かりますぞ」
「そこは惜しまない」
久助は帳面に並んだ数を確かめた。
「一度に買い集めれば、米も麦も値が上がります。売れなければ、蔵に俵を抱えたまま銭だけがなくなりますぞ」
「買う場所と時期を分けろ。一人の商人へ任せきりにもするな」
「初めから、かなりの量を仕込まれるおつもりで?」
「少し造って客を待つつもりはない。増やすことを前提に始める」
酒造りを道楽で終わらせるつもりはない。
向山から銅が出ても、売れるようになるまでには時間が掛かる。その間にも人を養い、道を造り、兵を増やす銭が要る。
頼政が帳面へ目を落とした。
「仕入れ先は近江だけでは足りぬのだな」
「伊勢からも買いたいです」
「桑名まで手を広げるか」
「はい、父上。米を買い続ければ、商人だけでなく、船頭や馬借、蔵を持つ者ともつながれます」
今の橘には、伊勢の米を大きく動かせるほどの銭も蔵もない。
最初は酒造りに使う分だけでいい。それでも毎年買えば、誰が米を集め、どの道で運び、どこに蔵があるのかが分かってくる。
新九郎が頭を下げた。
「桑名で米と麦を扱う商人を調べます」
「近江と伊勢で何人か選べ。値だけでなく、毎年きちんと荷を出せる相手を探せ」
「かしこまりました」
頼政が尋ねた。
「清酒と麦の酒で終わりではなさそうだな」
「もう一つあります」
俺は指を三本立てた。
「清酒、ビール、それに蒸留酒です」
春が首を傾げる。
「じょうりゅうしゅ?」
「酒を温めて、上がった湯気を冷やし、もう一度雫に戻します。それを集めた、もっと強い酒です」
頼政が聞いた。
「酒を煮るのとは違うのか」
「少し違います、父上。出た湯気を逃がさず、冷やして集めます」
「どれほど強くなる」
「そこは実際に造ってみないと分かりません。ただ、普通の酒みたいに椀で飲むものではありません」
久助はすぐに商いの方へ話を戻した。
「それも売り物になるのでございますか」
「珍しい酒として高く売れる。ただ、飲むためだけじゃない。傷や刃物を洗ったり、薬草を漬けたりするのにも使える」
「酒で傷を洗うので?」
「水だけで洗うより、傷が悪くなりにくいはずだ」
どれほどの強さが必要なのかは、造りながら確かめるしかない。
頼政は、三本立てた俺の指を見た。
「清酒、麦の酒、蒸留酒。それを一度に始めるのだな」
「はい」
「ならば、全体をまとめる者が要るぞ」
「そこは俺が見ます」
久助の筆が止まった。
「若様ご自身で、三つとも取り仕切られるので?」
「造る酒の種類と、使う米と麦、仕込む量は俺が決める。毎日の仕込みまで俺がやるわけじゃない。そこは蔵人に任せる」
春が続けた。
「では、小徳丸は毎日酒蔵へ通うのですね」
「必要な時は行きます」
「当然、味も見るのでしょう」
「舌へ触れる程度です」
「飲み込んではなりません」
「分かりました」
「そこだけは、本当に守ってください」
「ちゃんと吐き出します、母上」
ここで逆らえば、酒蔵へ入ることすら許されなくなる。
頼政が久助の帳面を指した。
「ほかに何が要る」
「酒蔵、米蔵、麦蔵、大釜、甕、桶、樽。それから蒸留器です」
「その蒸留器というものは、誰に造らせる」
「作兵衛です」
久助が肩を落とした。
「また作兵衛殿でございますか」
「俺の話を聞いて、実際に使える形まで持っていけるのが今は作兵衛しかいない」
* * *
政澄が百済寺へ向かってから、返事が来るまでに数日掛かった。
百済寺は、酒造用の米と麦を郷の年貢や寺への納め物から出さないこと、百済寺樽の名と印を使わないこと、貸した蔵人の働きと手ほどきには代価を納めること、最初に出来た清酒を一樽納めることを求めてきた。
政澄は書付を俺の前へ置いた。
「酒を売る先については、条件に入っておらぬ」
「それなら、この条件で受けます」
「ただし、百済寺樽の商いを荒らすような真似はするなと、口では釘を刺された」
「売らない村や、売る量まで決めろとは言われなかったんですよね」
「そこまでは言われておらぬ」
「なら、こちらから条件を増やす必要はありません」
「小徳丸。書かれておらぬから、何をしてもよいという話ではないぞ」
「分かっています。こちらから百済寺の荷を止めるつもりはありません。でも、橘の酒を売る先まで譲るつもりもありません」
「そうなれば、いずれ商いでぶつかるかもしれぬぞ」
「その時は、酒の出来と商いで勝ちます」
政澄はしばらく俺を見た後、書付を頼政へ渡した。
酒を売る場所については、最後まで条件に加えられなかった。
百済寺も、橘が独自に酒を売ることは承知した上で蔵人を貸すと決めたのだ。
こちらから新しい制限を付け加える理由もなく、そのまま受けた。
作兵衛は、向山で使う楔を打っていた。
仕事を止めさせ、土の上へ蒸留器の形を描いた。
酒を入れる釜に覆いを被せ、上がった湯気を冷やして、管から外へ流す。
作兵衛は槌を脇へ置き、図の横へしゃがんだ。
「若様。わしは鍛冶屋でございます」
「知っている」
「酒を造る道具は、鍛冶屋の仕事ではございません」
「でも、火と金物を使うだろう」
「鍛冶屋は、火を使う物なら何でも造れるわけではございませんぞ」
そう言いながら、作兵衛は釜と覆いの継ぎ目を指でなぞった。
「全部を金で造れば、銭が掛かるうえに重くなります。下の釜は陶工に造らせ、冷やすところは桶師を使った方がよろしいでしょう」
「そこは任せる。だが、湯気は漏らすな」
「簡単に申されますな。釜と覆いが少しでも合わねば、隙間から逃げます」
「なら、その継ぎ目を締める金具を造れ」
「結局、わしの仕事ではございませんか」
「陶工と桶師は呼ぶ。お前がまとめろ」
「向山の道具も造っております」
「その分、人を増やす」
「若様は、人が足りなければ増やせば済むと思っておられますな」
「足りないままでは、向山も酒造りも止まるだろう」
「そこだけは間違っておりませぬ」
作兵衛は図へ新しい線を引いた。
「冷やす水は、流し続けた方がよろしいでしょう。桶へ溜めておくだけでは、すぐに温くなります」
「それなら水路から引く」
「ならば、酒蔵を建てる場所から決めねばなりませぬ」
酒蔵は屋敷から離し、火を使う場所を土壁で囲った。朝霧の水を樋で引き、甕や桶を洗う水と、蒸留器を冷やす水に使う。
隣には米蔵と麦蔵を建てた。
朝霧と四村の食料を置く蔵とは別だ。朝霧産の大麦と、近江や伊勢から買った大麦も分けて置いた。
久助は蔵ごとに帳面を作り、俵へ買った先の印を付けさせた。食料、年貢、備蓄、酒造用の米麦が混じることも許さなかった。
最初の米が届くと、新しい蔵の壁際まで俵が積み上がった。
久助が俵を見上げる。
「若様。これは、まだ最初の分なのでございますね」
「ああ。次も来る」
「それでは、この蔵だけでは入りきりませぬ」
「なら、隣にも建てる」
「建てている間にも次の荷は届きます」
「それまでは仮の置き場を作れ」
「米を雨と鼠から守るなら、仮とはいえ相応の物が要りますぞ」
「……分かった。最初から蔵として建てる」
「また銭が減ります」
「酒になって売れれば戻る」
「売れれば、でございます」
久助はすでに、大工へ渡す数を書いていた。
百済寺からは、蔵人をまとめる男が一人来た。
四十を過ぎたほどで、蔵へ入るなり米と甕を確かめた。俺が酒造全体を取り仕切ると聞くと、米を確かめていた手を止めた。
「若様は、麹を扱われたことがおありで?」
「ない」
「酒を仕込まれたことも」
「ない」
「それでしたら、日々の仕込みはわしに任せていただきます」
「そこは任せる。ただ、どんな酒を造るかと、どれだけ仕込むかは俺が決める」
「酒造りをしたことのない若様が、でございますか」
「だから、お前を百済寺から借りた」
男は米を一粒取り、指で割った。
「失敗すれば、米を無駄にしますぞ」
「清酒に向かなかったものは蒸留へ回す。ビールで味を外したものも、使えるなら捨てない」
「失敗した酒まで使われるので?」
「使える物なら、捨てる理由はない」
男は納得した様子ではなかったが、仕事は早かった。
米を蒸す者、麹を見る者、甕を洗う者、火を守る者を決め、勝手に別の仕込みへ触れさせない。
俺が造る酒を決め、男が蔵人を動かした。
* * *
最初から、思いどおりにはならなかった。
清酒には濁りが残り、香りも仕込みごとに違った。
搾り方を変え、澱が沈むのを待つ。上の澄んだ酒だけを別の甕へ移し、仕込みごとの差を帳面へ残させた。
ビールは、最初のものが甘すぎた。
ホップなど手に入らない。そこで、そこらに生えているヨモギを煮出し、苦味を付けてみた。
次は入れすぎたらしく、蔵人の頭が一口で椀を置いた。
「若様。これは酒ではなく、薬でございましょう」
「俺もそう思う」
「さすがに、これは売られませぬな」
「売らない。次は草を減らせ」
男が麦の入った桶を見た。
「麦を芽吹かせるところから、また始めるのでございますか」
「そうだ」
「ずいぶん手間の掛かる安酒ですな」
「でも、同じ味を毎回造れるようになれば、後は量を増やせる」
蒸留器は、最初の火入れで継ぎ目から湯気を噴いた。
作兵衛が濡れた布を掴んで駆け寄る。
「漏れているぞ」
「見れば分かります!」
「酒が逃げる」
「若様の図には、漏れた時の直し方まで描いてございませんでした!」
「そこは作兵衛に任せたところだろう」
「便利な任せ方でございますな!」
隙間を塞ぐと、今度は冷やす水が温くなった。
樋を太くして流れる水を増やし、火の強さも変えた。一つを直せば、別のところで止まる。
それでも、蔵人たちは仕込みを繰り返した。
俺も毎日のように酒蔵へ通い、味を確かめては、甘みや苦味、香りの違いを伝えた。
春との約束どおり、口へ含んだ酒はほとんど吐き出した。
今の体で酔って倒れれば、その日の失敗だけでは済まない。たぶん、春に酒蔵そのものを出入り禁止にされる。
春が深まる頃、最初の清酒が仕上がった。
甕から汲み上げた酒は、淡く透き通っている。
頼政は小盃を受け取り、香りを確かめてから口へ含んだ。
「甘いな」
「後まで残りますか」
「いや。口には残らぬ。このくらいなら飲みやすい」
政澄も盃を受け取った。
「これなら、百済寺へ納めても恥にはならぬな」
「最初の樽は、約束どおり百済寺へ納めます。次を永源寺へ運んで、その後は御屋形様へ贈ります」
久助が帳面を開いた。
「売る分の値は、いかほどにいたします」
「贈った先の評判を見て決める。ただし、最初から安売りはしない」
「承知仕りました」
最初の樽を百済寺へ納めると、受け取ったとの返事が来た。
酒の出来についても、悪い言葉はなかった。売り先については、何も書かれていない。
永源寺へ運んだ樽も受け取られ、定頼へ贈る分は、久助が新しい樽へ詰め直させた。
次に売り出したのが、ビールだった。
朝霧の人足や職人、岩松組の者たちへ、最初の一樽を安く出した。
夕方になると、仕事を終えた男たちが酒蔵の前へ集まり、泡の立つ酒を入れた木椀を受け取った。
最初に飲んだ男が、口を曲げる。
「苦いな」
隣にいた岩松組の男が、自分の椀を覗き込んだ。
「酒にしちゃ、妙に泡が出る」
「傷んでいるんじゃないだろうな」
「傷んではいない。嫌なら一口でやめればいい」
最初の男はもう一口飲んだ。苦そうな顔のまま、喉を鳴らして椀を空にする。
「もう一杯くれ」
岩松組の男が笑った。
「苦いんだろう」
「苦い。だが、もう一杯だ」
隣にいた者も銭を置いた。
一人が二杯目を頼めば、それを見ていた者も続く。日が山へ沈む前に、二日分として用意していた樽が空になった。
翌日には、前日に飲めなかった者まで酒蔵の前へ来た。
久助が空樽を叩く。
「若様。次に出せる樽は、いつになります」
「まだ仕込みの途中だ」
「では、しばらく売る物がございません」
「次から仕込みを増やせ」
「麦も樽も、人手も今のままでは足りませぬ」
「必要な数を出せ。全部増やす」
久助が呆れた顔をした。
「簡単に申されますな」
「これだけ売れるなら、造らない方がおかしい」
久助は返事をせず、帳面へ必要な数を書き始めた。
その日のうちに、街道沿いの宿から使いが来た。
客へ出したいので、一樽だけでも売ってほしいという。向山へ入る人足からも、山へ運んでくれと頼まれた。
酒を運び出す荷車には、帰りに米と麦を積ませた。
* * *
最後に形になったのが、蒸留酒だった。
何度目かの改良で、作兵衛の蒸留器はようやく湯気を漏らさなくなった。
釜へ酒を入れて火を焚く。
冷たい水が桶へ流れ込み、温くなった水が反対側から落ちていく。
作兵衛と蔵人の頭が竹管の先を見つめ、弦十郎は俺の後ろで腕を組んでいた。
やがて、透明な雫が落ちた。
間を置いて、もう一滴落ちる。
受け皿の底へ、強い匂いを持つ酒が少しずつ溜まっていった。
作兵衛が身を乗り出す。
「出ましたぞ」
「まだ触るな。最初に出た分は別に取っておく」
「途中から出る酒とは違うのでございますか」
「強さも匂いも同じじゃない。飲む酒には、使えるところだけを取る」
どこからどこまでを分けるかは、仕込みごとに確かめるしかない。
しばらく取った後、匂いを嗅ぎ、指先へ付けて舌へ触れさせた。
鼻と喉を刺す。
前世で飲んだものと同じではない。原料の匂いが残り、口当たりも荒い。それでも、酒を温めて別の強い酒を取り出すところまでは形になった。
作兵衛が、受け皿と俺の手元を交互に見ている。
蒸留器を造り始めた時から、最初の酒を飲むのは自分だと言っていた。
陶工に焼かせた小盃を取り出した。
普通の盃よりずっと小さく、一口分しか入らない。
「飲むなら、本当に少しだけだぞ」
作兵衛の小盃へ蒸留酒を注いだ。
作兵衛は小盃を目の高さまで持ち上げる。
「ずいぶん小さいですな」
「強い酒だからだ。一気に飲むな。舐める程度にしろ」
「この器を造ったのは、わしでございます」
「そうだな」
「蒸留器も、わしがまとめました」
「それも知っている」
「ならば、最初の一杯くらいは好きに飲ませていただきます」
「いや、だから一気には――」
作兵衛は小盃を一息にあおった。
目を見開き、喉を押さえて咳き込む。
「だから言っただろう!」
俺が背を叩くと、作兵衛は涙を浮かべながら手を上げた。
「だ、大丈夫でございます。これしきの酒で、わしが倒れるわけが――」
二歩進んだところで、足が止まった。
もう一歩踏み出そうとして身体が傾き、弦十郎が手を伸ばすより早く床へ倒れ込む。
「作兵衛!」
蔵人の頭が駆け寄った。
作兵衛は目を閉じたまま、口だけを動かした。
「……強すぎますぞ、若様」
息はしている。
蔵の入口には、新しい木札が掛かっていた。
橘酒造。
その下で、蒸留器を造った作兵衛が大の字になっていた。




