第50.5話 閑話 上田の秋
天文十八年(1549年)、秋。
近江国、愛智郡、上田村。
朝霧を出たのは、朝露がまだ道端の草に残っている頃だった。
俺の前を、松茸の小箱を抱えた弦十郎が歩いている。後ろには久助、可成、犬千代、日吉丸が続いた。
頼政の遣いとして、上田の景近へ秋の御挨拶を届ける。先に採れた松茸は売ったが、その後も孫兵衛たちが赤松林を見回り、傘の閉じたものを幾つか採ってきた。その一部を小箱へ詰め、景近へ持っていくことにしたのだ。
久助たちを連れてきたのは、景近への顔見せも兼ねている。
山道を下るにつれ、木々の間から見える空が広くなった。朝霧の山が背後へ退くと、前を遮るものがなくなる。
刈り取りを待つ田が、畦と水路に区切られながら遠くまで続いていた。すでに稲を刈った田には切り株が並び、畦には束ねた稲が立て掛けられている。荷車が田の間の道を進んでいた。
犬千代が足を止めた。
「ずいぶん広いがね。向こうまで走ったら、日が暮れそうだわ」
「走るのは構わないが、田へ入れば久方様だけでなく百姓にも叱られるぞ」
「なら、畦を走ればよかろう」
「畦も百姓が使う。好きに走っていい場所ではない」
久助に言われ、犬千代は口を曲げた。
日吉丸は道の左右へ視線を忙しく動かしている。
「これだけ田があれば、刈るだけでも大勢要りますな」
「お前は景色より米の方が気になるのか」
「食う者が増えれば、米はいくらあっても困りませぬ」
可成は田を眺めるより、その先にあるものを気にしていた。
川沿いの一段高い土地に、柵と土塁が見える。大きな城ではないが、周囲に高い山も林もないため、砦の姿が遠くからでもよく分かった。
「あれが大叔父上の砦だ」
「山城とは、ずいぶん勝手が違いますな」
「隠れる場所が少ない代わりに、遠くまで見える」
「この地形なら、川筋も道もあそこから押さえられますな」
犬千代が可成を振り返った。
「三左殿は、どこへ行っても砦ばかり見とるがね」
「犬千代は、どこへ行っても走れそうな場所ばかり探しておる」
「走れん土地よりはええがね」
「田を荒らさずに済むならな」
上田の集落へ近づくと、道の脇に家々が並び始めた。屋根の下には稲藁が積まれ、庭では女衆が籾を選り分けている。子供たちは見慣れない一行を遠巻きに眺めていた。
砦へ上がる坂の途中で振り返ると、歩いてきた道も、その向こうの田も一度に見渡せた。朝霧では、少し歩けば山や木立に視界を塞がれる。ここなら、人も荷車も近づく前から分かる。可成が気にしていた理由もよく分かった。
門を抜けると、景近が屋敷の前で待っていた。
「小徳丸殿。ようお越しくだされた」
「大叔父上。父上より、秋の御挨拶をお預かりして参りました。それと、朝霧で採れた松茸もお持ちしました」
弦十郎から小箱を受け取り、景近へ差し出す。蓋には橘の焼印が入っている。
景近は焼印へ指を触れ、それから蓋を開けた。粗い鋸屑の上に、傘の閉じた松茸が三本並んでいる。
「茸まで、このような箱へ入れるようになられましたか」
「そのまま運ぶと崩れますので、箱を作らせました」
「箱だけでも、捨てるには惜しゅうござるな」
「そのまま使ってください。返していただかなくても構いません」
「返せと申されても、返すつもりはござらぬ」
景近が笑い、近くの家人へ箱を渡した。
座敷へ通されると、俺たちは景近と向かい合って筵へ座った。弦十郎は俺の斜め後ろへ控え、久助たちがその横へ並ぶ。
景近は、並んだ四人を順に確かめた。
「それで、こちらが先頃から朝霧へ入られた方々でございますかな」
「はい。まず、滝川久助です。使者や帳面を任せています」
久助が膝を進め、筵へ両手をついた。
「滝川久助にございます。久方様には、初めて御挨拶申し上げます」
景近は久助の名を聞き、ゆっくりとうなずいた。
久助が頭を下げて元の位置へ戻る。隣では、可成が腰の刀を外側へ寄せていた。
「こちらが森三左衛門です。兵の鍛錬を任せています」
可成が前へ出て、両手をつく。
「森三左衛門にございます」
景近は可成の体つきまで確かめるようにして、短くうなずいた。
可成が膝を引くと、その後ろで犬千代が背筋を伸ばした。早く自分の番を済ませたいのか、両手はすでに筵の上へ置かれている。
「こちらは前田犬千代です。俺の側へ置いています」
「前田犬千代にございます」
犬千代が勢いよく頭を下げた。
その勢いのまま伸びた背筋まで見て、景近の口元が少し緩んだ。
「元気そうなお方でござるな」
「じっとしておれぬだけです」
可成が横から言うと、犬千代はすぐに食いついた。
「三左殿、それは久方様の前で言わんでもよかろう」
「いずれ分かることなら、先に知っていただいた方がよい」
「まだ何もしておらんがね」
「座っているだけで十分分かる」
「三左殿」
犬千代が口を曲げて後ろへ下がる。その横から、日吉丸が小さな身体を前へ出した。
「最後が日吉丸です。尾張から朝霧へ連れてきました」
「若様。尾張から攫ってきた、の間違いではございませぬか」
斜め後ろから弦十郎が口を挟んだ。
「朝霧に残ると決めたのは日吉丸だ」
「それは着いてからの話にございます」
日吉丸が筵の縁へ両手を揃え、頭を下げる。
「日吉丸にございます。檻に入れられて参ったことは、間違いございませぬ」
景近は弦十郎の言葉と日吉丸の挨拶を聞き、とうとう笑った。それから改めて四人を見渡し、うなずいた。
その時、座敷の奥から、俺と同じほどの年頃の少年が顔を出した。景近が手招きすると、少年は柱の陰から離れ、筵の脇まで進んでくる。
「小徳丸殿。これは孫の福若にござる」
福若は俺の前で膝をついた。
「福若にございます。小徳丸様のお話は、祖父から聞いております」
「どんな話を聞いたんだ」
「朝霧には、水車が幾つも並んでいると」
「それなら本当だ。見たければ、今度朝霧へ来ればいい」
「では、祖父にお願いしてもよろしいのでございますか」
「ああ。来る日が決まったら知らせてくれ」
景近が開け放たれた板戸の向こうを示した。座敷からも、田の先で光る川筋が僅かに見えている。
「せっかく参られたのです。川へ行かれてはいかがかな。今なら鮎も狙えましょう」
「それはいいですね。近くに釣れる場所があるのですか」
「福若が知っております。この辺りの浅瀬なら、某よりも詳しゅうござる」
砦を下り、田の間の道を東へ進む。水路を渡る橋の板は、周りより新しい色をしていた。
「この橋板、朝霧から送った木ですよね」
景近が足を止め、橋板へ目を落とした。
「よう覚えておられましたな」
「父上から、上田の橋に使ったと聞いていました」
「左様にござる。これに替えてからは、荷車が通っても軋みませぬ」
景近は橋を渡りながら、感心したように言った。
「噂どおり、聡いお方でござるな」
「役に立っているなら、それが一番です」
「こちらも米を出した甲斐がございました」
さらに歩くと、水の音が大きくなった。
愛知川は、朝霧の谷川よりはるかに広かった。秋の日を受けた水面が細かく光り、流れの緩い岸辺では、丸い石が水の中まで続いている。
景近の家人から、俺と弦十郎、可成、久助が竿を受け取る。
犬千代も手を伸ばしたが、その前に福若が浅瀬を指した。
「あちらには、小魚と蟹がおります」
「鮎より捕まえやすいか」
「手で捕るのでしたら、鮎よりは」
「なら、わしはそちらへ行くがね」
日吉丸も福若の後ろへ回った。
「わしも参ります」
「お前は釣らないのか」
「じっと待つより、追う方が早そうでございます」
三人が川下へ向かう。可成が犬千代の背へ声を掛けた。
「深いところへ行くな」
「福若が知っとるで、大丈夫だわ」
「福若殿。犬千代が言うことを聞かなければ、耳を引いて戻してくだされ」
「三左殿」
「承知しました」
福若が真顔で答え、日吉丸が口元を押さえた。
俺たちは少し間を空け、川へ糸を垂らした。
隣の弦十郎は、浮きだけでなく、何度も俺の足元と上流へ注意を向けている。
「弦十郎。さっきから魚より俺の方を気にしてないか」
「魚も見ております」
「今も浮きじゃなく、こちらを見ていただろう」
「若様が流されれば、鮎を逃がすより困りますので」
そう言っている間に、弦十郎の浮きが沈んだ。
「弦十郎、引いてるぞ」
「何がでございますか」
「浮きだ。鮎が掛かってる」
慌てて竿を上げたため、銀色の魚は水面で跳ね、そのまま外れた。
可成が笑う。
「魚より若様を気にしておるからですな」
「三左衛門殿も、まだ一匹も釣れておりませぬ」
「某はこれから釣る」
「先ほどから、それを聞いております」
久助の糸は、後ろの草へ絡んでいた。
「某は、魚と勝負するところまで辿り着いておりませぬな」
「帳面なら、そんなところには絡まないのにな」
「帳面を川へ投げる仕事でなくて助かりました」
浅瀬から、犬千代の声が響いた。
「そちらへ行ったがね!」
「犬千代が水を叩くから逃げたではないか!」
「猿、口を動かす前に塞げ!」
「猿と呼ぶな! 福若殿、どちらでございますか」
「その石の間です。犬千代殿は動かずに!」
大きな水音の後、福若の笑い声が聞こえた。
可成が一度だけ振り返る。
「止めに行かなくていいのか」
「犬千代の声が聞こえております。静かになった時だけ見に行けば足ります」
その可成の浮きが沈んだ。
可成はすぐに竿を立て、鮎を岸へ寄せた。弦十郎が籠を差し出し、一匹目が中へ入る。
「三左衛門が先か」
「仕合で一本取られましたので、鮎くらいは先にいただきませんと」
「鮎まで勝負にしていたのか」
「今、そう決めました」
景近は少し離れた石へ腰を下ろし、俺たちと川遊びの三人を交互に眺めている。
「小徳丸殿。朝霧も、賑やかになりましたな」
「人はずいぶん増えました」
「それだけではござらぬように見えます」
川下では、犬千代が膝まで水に入り、福若と日吉丸が両側から石を動かしていた。
「毎日、だいたいあんな感じです」
「それなら、弥三郎殿も退屈はなされますまい」
「父上が気にしているのは、犬千代より日吉丸の方です」
「日吉丸殿が何かされるのでござるか」
「逆です。黙っている時ほど、何か考えているので気になります」
その日吉丸が、犬千代の背後から水を掛けた。
「猿、待つがね!」
「猿と呼ぶな! 福若殿、逃げますぞ」
「こちらです!」
三人が浅瀬を走り、水飛沫が日を受けて光った。
「なるほど。あれは確かに気にした方がよさそうでござるな」
景近が笑った時、俺の浮きも沈んだ。
竿を上げると、手元へ重さが伝わる。糸の先で鮎が水面を割り、身体をひねった。流れに逆らわず岸へ寄せると、弦十郎が籠を差し出した。
その後、可成がもう一匹釣り、弦十郎と久助も一匹ずつ籠へ入れた。日が傾く頃には、鮎は五匹になっていた。
川遊びの三人が戻ってくる。
犬千代と日吉丸は膝から下を濡らし、福若も袖まで水が跳ねていた。日吉丸の両手には、小さな蟹が一匹挟まれている。
「鮎は釣れましたか」
「五匹だ。そっちは蟹一匹だけか」
「小魚も捕まえかけたのですが、犬千代が逃がしました」
「猿が網も持たずに捕ろうとするからだがね」
「猿と呼ぶな。網がなくとも、福若殿は捕まえておったぞ」
「福若は川の石を知っとる。わしらとは違うわ」
「犬千代も、最後には一つ覚えておった」
犬千代が日吉丸を睨んだ。
「余計なことを言うでない」
福若が犬千代の濡れた膝を見た。
「滑る石でございます」
犬千代は黙って顔を背けた。可成が濡れた裾を見る。
「転んだのか」
「片足を取られただけだわ」
「それで両膝まで濡れたのか」
「倒れる前に手をついたでな」
「それを転んだと申す」
砦へ戻ると、釣った鮎のうち三匹に塩が振られ、火へ掛けられた。
景近が家人へ声を掛けると、持ってきた松茸も一本だけ裂かれ、網の上へ並べられる。焼けた松茸の香りと、鮎から落ちる脂の匂いが庭へ広がった。
膳には上田の米も盛られた。
「朝霧の松茸に、上田の鮎と米でござるか」
「松茸を届けに来たはずなのに、こちらで食べることになりましたね」
「持ってきた者も、食べてこそでござろう」
「残った鮎は、父上への土産にします」
「それでは二匹だけでござろう。家の鮎も持たせます」
「それでは、持ってきた時より荷が増えてしまいます」
「親類の遣いとは、そのようなものでござる」
向こうの膳では、犬千代と日吉丸が、どちらが蟹を捕まえたかでまだ言い合っていた。
福若は二人の間に座り、黙って鮎を食べている。やがて犬千代が福若へ向き直った。
「次に来た時は、もっと深いところへ行くがね」
「深いところは流れも速うございます」
「なら、泳げばよかろう」
「その前に、三左衛門殿へお尋ねください」
「福若、お前まで三左殿の味方をするのか」
「犬千代殿が転ばれたところを見ておりますので」
日吉丸が声を立てて笑った。
帰る頃には、田の向こうへ日が傾いていた。
景近と福若に見送られ、砦を下りる。広い田には夕日が差し、用水の水が細く光っている。
犬千代と日吉丸は、帰り道でも福若から聞いた魚の追い込み方を言い争っていた。久助の背には、景近から持たされた鮎の籠がある。可成は時折振り返り、一段高い土地に建つ砦の位置を確かめていた。
やがて山が近づき、少しずつ空が狭くなる。
松茸を届け、景近へ久助たちを引き合わせる。それだけの遣いだった。
こういう日なら、たまにはあってもいい。




