第50話 松茸の箱
天文十八年(1549年)、秋。
近江国、愛智郡、朝霧村、橘屋敷。
向山で試し掘りが始まってから、十日ほどが過ぎた。
朝から細かな雨が降り、屋敷の庭にも湿った土の匂いが立っている。
朝飯を終えたところで、椎茸の床を任せていた山仕事の男が、縁の前へ駆け込んできた。
「若様。鋸屑の床から、茸が出ております」
六月に残った白い菌糸は、その後も新しい床へ移されていた。
蒸した楢の鋸屑へ米糠を混ぜ、菌糸の広がった部分を分け入れる。床全体へ白く回れば浅い木箱へ移し、黴や腐った臭いが出たものは捨てる。
俺が尾張へ出ている間も、男たちは教えた通りに作業を続けていた。
「いくつ出た」
「六つの床でございます。小さいものまで入れれば、二十は越えております」
「見に行く」
蔵の裏へ回ると、軒下の棚に浅い木箱が十ほど並び、そのうち六つから薄茶色の傘が出ていた。最初に作った床の大半は夏の間に駄目になったらしいが、残ったものには白いものが全体へ広がっている。
男が、最も多く出た箱の布をめくった。
「昨日までは、まだ傘が閉じておりました」
「今朝の雨で開いたか」
一本を根元から折り、傘の裏を確かめる。政秀と見た榾木の椎茸と、形も匂いも変わらない。
採ったばかりの椎茸を串へ刺し、炭火へかざさせた。傘に水が浮き、香りが立つ。塩を少し振って口へ入れると、肉厚ではないが、間違いなく椎茸だった。
「今日出た数と、どの印の床から出たかを控えろ。傘が開いたものから採り、小さいものは明日まで残せ。二度目が出るかも見たい」
「承知しました」
春も焼けた椎茸を半分に割った。
「政所のものより、少し薄いですね」
「床が小さいからかもしれません。次は鋸屑の量と米ぬかを変えて比べます」
「増やすのですね」
「榾木より早く採れます。安定すれば、冬でも作れるかもしれません」
「まずは、今日採れたものを無駄にしないことです」
「はい、母上。半分は干します」
榾木は軒下に並んだままで、穴へ白いものを詰めた木にも変化はない。そちらは来年まで待つしかなかった。
採れた椎茸を籠へ移していると、孫兵衛が山から戻ってきた。背負った籠には、土の付いた白い軸と茶色い傘が重なっている。
「若様。赤松の山で、今年のものが出始めました」
松茸だった。
傘の閉じたものもあれば、大きく開いたものもある。孫兵衛の後ろにいた男が、開いた一本を手に取った。
「これは今夜、焼いて食えますな」
「毎年、このくらい採れるのか」
「年によって違います。今年は、落ち葉を除けたところに多く出ております。小さいものは残し、土も掘り返しておりませぬ」
「売ったことは」
「ございませぬ。村で食うか、余れば傷むだけでございます」
山里では秋に採れる茸の一つでも、上方では値が付く。
「久助。善右衛門は、まだ朝霧にいるか」
「尾張へ送る荷を見ております」
「ここへ呼んでくれ。それと、木地師の小箱を幾つか持ってこさせろ」
善右衛門は松茸の入った籠を見るなり、傘の閉じた一本を手に取った。
「ずいぶん揃っておりますな」
「売れるか」
「売れます。ただ、このまま積めば道中で傘が割れます。開いたものと蕾も分けた方がよろしいでしょう」
「蕾の揃ったものを小箱へ入れる」
久助が運ばせたのは、木地師が仕上げた浅い小箱だった。蓋もきちんと合っている。
俺は椎茸の床へ入れる前に取り分けておいた、乾いた楢の鋸屑を持ってこさせた。細かな粉を篩に掛け、粗い鋸屑と鉋屑だけを箱の底へ敷く。
「木の香りが移りませぬか」
「楢なら強くはない。湿ったものは使うな。松茸は一段だけ並べ、隙間にも詰めて動かないようにする」
木地師の男が三本を並べると、軸の太い一本だけが蓋へ当たった。
「この一本には、箱が浅うございます」
「大きさを揃えろ。合わないものを無理に詰めるな」
「ならば、こちらは四本。大きなものは二本で別にいたします」
善右衛門が箱を見下ろした。
「籠に積まれていた時とは、別の品に見えますな」
「蓋へ橘の焼印を入れる。箱へ入れるのは、傘が閉じ、虫食いも傷もないものだけだ」
「悪い品を一つ混ぜれば、橘の名で覚えられますぞ」
「だから混ぜない。開いたものは籠で売り、傷のあるものは村で食え」
久助が箱と松茸の数を帳面へ書いた。
「焼印入りは、十二箱ほど作れます」
「今日のうちに詰めろ。善右衛門、売れるところへ持っていけ」
「観音寺へ出入りする商人なら、贈り物に欲しがりましょう」
「安くまとめて渡すな」
「箱まで作られて、安く売るつもりはございません」
二日後、善右衛門は空の荷車と銭を持って戻った。
十二箱はすべて売れ、傘の開いたものにも値が付いたという。箱代と運び賃を引けば大きな儲けではないが、向山の道具代と今月の人足賃の足しにはなる。
善右衛門は、橘の印を押した空箱の蓋を久助の前へ置いた。
「次も同じ箱で欲しいと申した商人がおります」
「なら、箱に入れる品を落とすな。数が少ない年は、少ないまま売れ」
「数を揃えるために質を落とせば、印を入れる意味がなくなりますからな」
孫兵衛には赤松林へ勝手に入る者を止めさせ、採った場所と本数を控えさせた。菌床から採った椎茸は、半分を干し、残りを屋敷と村へ分けた。
椎茸も松茸も、去年か、それより前に蒔いた種がようやく形になったものだった。今日一日で銭に換わったわけではない。
人を育てるのも、同じだけの時が要る。
* * *
善右衛門が戻った日の午後、雨の上がった庭から槍を打ち合わせる音が聞こえた。
政虎が勘次、平助、虎松を並べ、足運びを見ている。その向こうでは、可成が犬千代の突きを槍の柄で外した。
犬千代はすぐに二度目を突いたが、可成は半歩だけ退いて穂先を叩き落とし、前へ流れた身体を柄で止めた。
「犬千代。踏み込みが深い」
「届くと思ったがね」
「届かなかった時の足が残っておらぬ。槍先ばかりを追うな」
犬千代は唇を結び、元の位置へ戻った。
日吉丸は庭の端で槍を持っていたが、振るたびに穂先が下がる。久助が柄の後ろを持ち、何度も高さを直していた。弦十郎も稽古槍を手にしている。
「俺も入る」
政虎がこちらを見た。
「若様は、朝の稽古を終えておりまするぞ」
「今日は身体が動きそうだ」
「そのような日は動き過ぎるものにございます。足が乱れておらぬか、まず見せてくだされ」
庭へ下り、刃を外して穂先へ布を巻いた槍を取った。何度か突いて足を入れ替えると、槍を引くより先に次へ出す足が動く。
政虎は俺の周りを一度歩き、土に残った足跡を確かめた。
「朝より動きが滑らかになっておりますな」
「なら、誰かと合わせたい」
「形だけでは分からぬところもございまするか」
可成も犬千代の槍を下ろさせ、こちらへ歩いてきた。
「若様のお相手なら、勘次たちから始めてはいかがでしょう」
「俺たちもですか」
虎松が声を上げると、政虎は三人へ向き直った。
「稽古の続きだ。お前たちが若様の相手をせよ。仕合の中で、自分の足がどこまで使えるかも確かめろ」
政虎は槍の石突で、土の上へ大きな円を描いた。
「穂先を胸か胴へ止めるか、相手を倒して押さえれば勝ちにございます。円の外へ両足が出ても負け。槍を落としても終わりではなく、そのまま組討ちまで続けまする。ただし、拳と蹴りは急所へ当てず、止めなされませ」
「俺たちも、同じでいいのですか」
平助が尋ねた。
「同じだ。だが、当てることに夢中になって加減を忘れるな」
勘次たちが槍を持って並び、その横では犬千代も順を待つように槍を握り直した。
虎松が真っ先に前へ出た。
「若様、俺からお願いします」
「来い」
虎松は声と同時に踏み込んだが、前足が着くより先に穂先が下がった。半歩外へ出て槍を流し、胸へ穂先を止める。
「もう一本」
「次だ」
平助は槍を正面へ置き、こちらが動くまで待った。穂先を一度下げると釣られて槍が動き、柄を滑らせて外へ回ると、向き直る足が揃った。そこへ石突を当てて膝を落とし、背へ穂先を置く。
「参りました」
日吉丸が横から進み出た。
「次は、わしが」
「穂先が下がっているぞ」
「当てる時だけ上がればよろしいのです」
始まると同時に、日吉丸は大きく右へ回った。俺が向きを変えると槍を短く持ち、力比べを避けるように足元へ差し込んでくる。
俺は柄を立てて受け、そのまま日吉丸の槍を地面へ押さえ込んだ。日吉丸は両手で引いたが、槍は動かない。引くことへ意識が向いたところで、自分の槍を滑らせ、日吉丸の胴へ穂先を届かせた。
「まだ負けておりませぬ」
「俺の槍が届いている」
日吉丸は胸元の穂先を見て、ようやく槍から手を離した。
次に円へ入った勘次は、槍を正面に置き、腰も浮いていなかった。
「勘次、来い」
「おう、若」
最初の突きは速かった。穂先を外しても槍を大きく引かず、そのまま二度目を繰り出してくる。横へ回れば追い、柄を打てば、すぐに持つ位置を変えた。
三合、四合と槍が鳴る。勘次が前足を狙い、こちらが石突を返すと、後ろへ跳んですぐに構え直した。
肩が動く前に腰が沈み、穂先が来る前に前足へ重さが移る。以前はそれを見てから足を動かしていたが、今日は考えるより先に身体が外へ出た。勘次の槍へ柄を沿わせ、穂先が脇を抜けたところで胸へ突きを止める。
「参った」
政虎が何も言わず、俺の足元を見ていた。
久助が槍を取る。
「次は、某がお相手いたします」
「手加減するな」
「某も、容易く一本を譲るつもりはございませぬ」
久助は仕掛けてこず、こちらが穂先を動かしても目だけで追っていた。誘いに乗らないなら、正面から場所を奪う。
胸へ突くと見せ、久助が柄を払ったところで手の内を滑らせる。短くなったと思った槍がもう一度伸び、久助は身を引いてかわしたが、その両足は円の外へ出ていた。
「外へ出されましたか」
「待つだけなら、場所を奪える」
「心得ました」
次に槍を持った弦十郎は、俺の足も持ち替える癖も知っていた。仕掛けを二度止めた後、槍を短く持って懐へ入ろうとする。刀を得物とする弦十郎には、その間合いの方が動きやすいのだろう。
俺は一歩退いて槍を長く使い、追ってくれば半歩だけ離れた。弦十郎が届かないと見て持ち直した瞬間、その胴へ穂先を送り込んだ。
「槍では、若様の間合いへ付き合わされました」
「刀なら違ったか」
「同じようには参りませぬ」
犬千代が待ちきれずに円へ入った。
「若様、次はわしとやってくれんか」
「三左衛門に言われたことを忘れるな」
「今度は、足を残してみせるがね」
犬千代の槍は勘次より重く、速かった。一撃目を柄で受けると両腕が痺れ、二撃目を流しても三撃目が追ってくる。押し込まれるほど勢いは増したが、当てようとするたびに踏み込みが深くなり、槍先と足の動きが離れていった。
四度目の突きを柄に沿わせて外へ流し、そのまま横へ入る。前足を石突で払って膝を落とし、起き上がる前に胸元へ穂先を止めた。
可成が短く告げる。
「犬千代。今の足だ」
「……分かったがね」
「強く突くことと、深く入り過ぎることは違う」
犬千代は悔しそうに土を払い、円の外へ出た。
政虎が槍を持った。
「では、私が参りまする」
「最初から本気で来てくれ」
「心得ました。若様も御遠慮なされますな。仕合では容赦いたしませぬぞ」
政虎の穂先はほとんど動かなかった。こちらが誘っても乗らず、踏み込めば先に槍が来る。横へ回っても腰がこちらを追い、突きを流されるたびに石突で押し戻された。
犬千代に使った足払いも、弦十郎に使った間合いも通じない。俺が足を動かし始めた時から見てきた相手に、槍だけで勝つのは難しかった。
政虎が胸へ突き込んできた。槍を絡めて外へ流し、そのまま柄を手放すと、政虎の目が落ちる槍へ動いた。その隙に懐へ入り、胸へ拳を浅く当てる。腕で受けられた瞬間に前腿を蹴って重心をずらし、顎下へ伸ばした掌底を寸前で止めた。
政虎は首を引きながら俺の腕をつかんだ。つかまれた手を引かず、空いた拳を脇腹へ当て、押し返してくる力に合わせて身体を外へ回す。腰を落として投げを止められると、膝の横へ低い蹴りを入れて足をずらし、手首を押さえたまま肘の外へ肩を入れた。
昔は止まった足が、そのまま次へ出る。
政虎が踏ん張った方向へ身体を導いて足を掛けると、大きな身体が土へ落ちた。すぐに起きようとした腕を離さず、肩を地面へ戻して膝で押さえ、拳を顔の前で止める。
「そこまで」
可成の声が響いた。
俺が腕を放すと、政虎は片膝をつき、手首を確かめた。
「参りました。槍を捨てた後の動きが、まるで途切れませなんだ」
「槍では勝てなかった」
「ゆえに、勝てる間合いへ変えられた。そこも含め、若様の勝ちにございます」
政虎は土に落ちた槍を拾い、泥を払って俺へ返した。
可成も自分の槍を取り、円へ入る。
「若様。最後は、某がお相手いたします」
「三左衛門までやるのか」
「今の仕合を見れば、槍を交えずにはおれませぬ」
構えただけで、可成の槍が庭の中央を押さえた。
始まると同時に胸元へ穂先が走り、外へ払えば二撃目が胴へ、退けば三撃目が足へ来る。放った槍はすぐに中心へ戻り、柄を絡めようとすれば先に離され、懐へ入ろうとすれば石突が肩口へ伸びた。
政虎との仕合を見ていた可成は、拳も蹴りも届く位置へ入れてくれない。何度仕掛けても槍は中心から外れず、強く打てば弾かれ、軽く触れれば押さえ込まれた。腕は痺れ、呼吸も乱れてきたが、足だけは止めなかった。
可成が胸を狙って踏み込んだところで半歩外へかわし、俺の柄を沿わせて穂先を流す。可成は槍を引かず、手の内を返して石突を肩口へ送ってきた。身を沈めてかわしながら穂先を突き出したが、柄の中ほどで受けられ、外へ払われる。
払われた力に逆らわず槍を回し、石突を可成の脇へ走らせた。それも止められ、二本の槍が噛み合う。
力で押し返さず、可成が押す方向へ槍先を流す。噛み合いが外れた瞬間に後ろ手を滑らせ、槍を短く持って懐へ踏み込むと、可成は石突を使える間合いを保つために後ろへ退いた。
その足へ合わせ、逃げる胸を追って握りを滑らせる。可成も穂先を返したが、避けずに自分の柄を上から重ね、二本の槍を触れさせたまま内側へ入った。可成の穂先を肩の外へ押し流し、中心に残した俺の槍だけを送り出す。
布を巻いた穂先が、可成の胸へ触れた。可成の槍は、俺の肩口を指したまま止まっている。
政虎が二本の槍を見比べた。
「そこまで。若様の一本にございます」
可成は胸に触れた穂先を見下ろし、槍を引いて深く頭を下げた。
「参りました。若様の一本にございます」
「危なかった」
「某も、届いたと思いました」
「俺もだ」
「次は、某が一本をいただきます」
「簡単には取らせない」
「承知しております」
犬千代がすぐに槍を取り直した。
「わしも、もう一度やらせてくれんか」
「今日は終わりだ」
「まだ一本しか取られとらん」
「一本で負けだ」
庭の端では、勘次も平助も虎松も、黙って槍を握り直していた。
日吉丸だけが俺と可成を見比べ、久助へ小声で尋ねた。
「槍を持たずに勝つ稽古は、いつから始まるので?」
「まずは、その槍を真っすぐ持てるようになってからだ」
久助に柄を持ち上げられ、槍が日吉丸の顔を隠した。庭では、もう一度槍を打つ音が響き始めた。
槍を打つ音は、日が傾くまで続いた。
勘次の踏み込みも、犬千代の足も、まだ本物の敵を前にしたことはない。政虎や可成に届く一本も、稽古の中でのことだ。
それでも、蒔いた種が芽吹くように、一つずつ形になっていた。
五年後、この庭に立つ者たちがどこまで届くのか。
今はまだ、誰にも分からなかった。




