第48話 五年後、北伊勢へ
百済寺道を抜けると、朝霧の屋敷が西日に染まっていた。門番の手で槍が大きく揺れる。
「若様がお戻りだ!」
張り上げた声が、門の内へ駆け込んだ。
庭へ入るなり、春が惟丸の手を引いて姿を見せた。
「あにうえ」
惟丸は春の手を振りほどいた。覚束ない足取りが、途中から小走りに変わる。転びかけた勢いのまま俺へぶつかり、両手で袖をつかんだ。
「ただいま、惟丸」
「おかえり」
「誰に教わった」
「ははうえ」
小さな指が布越しに食い込み、引かれた肩が少し下がる。
春はその後ろから、俺の顔、肩、手足へ素早く目を走らせた。
「怪我はありませんか」
「ありません」
「弦十郎」
呼ばれた弦十郎が、俺の斜め後ろで頭を下げる。
「怪我はございません。ただ、美濃を出た後、小谷へも向かわれました」
奥から出てきた頼政の足が止まった。
「小谷だと」
「城と山麓を見ただけです」
「美濃までと聞いておったぞ」
「詳しい話は中でします」
眉間の皺が、留守にした日数まで数えているようだった。頼政は何か言いかけたが、俺たちの後ろに立つ二人へ目を移し、口を閉じる。春も同じ方を見た。
「その前に、一緒に戻られた方々を紹介してください」
惟丸に袖を取られたまま、可成を手で示す。
「こちらが森三左衛門です。尾張で、俺に仕えることとなりました」
可成は頼政の前へ進み、迷いなく片膝をついた。
「森三左衛門にございます。このたび、若様にお仕えすることとなりました」
「橘弥三郎だ。話は新九郎から聞いておる。詳しくは後で聞こう」
「はっ」
頼政はしばらく黙ったまま、可成の立ち姿を上から下まで見た。可成は身じろぎもせず、その視線を受け止める。
入れ替わるように、犬千代が勢い任せに前へ出た。頼政との間を詰めすぎ、弦十郎に肩をつかまれる。
「そこでは近すぎる」
「この方が顔もよう見えるがね」
「下がれ」
犬千代は鼻を鳴らしたものの、逆らわず二歩戻って片膝をついた。
「前田犬千代だがね。若様の側仕えになった」
「前田家から預かった子だな」
「槍なら誰にも負けん」
「小徳丸の側にいるなら、槍だけでは済まぬぞ」
「字と算用も覚えろと言われとる」
「言われただけか」
「覚えるがね」
頼政の目がこちらへ来た。
「お前が教えるのか」
「三左衛門にも見てもらいます」
「犬千代の稽古と行儀は、某が責任を持って教えます」
可成が頭を下げる。
「前田家から預かった子だ。鍛えるのは構わぬが、無茶はさせるな」
「承知いたしました」
春が女中たちを振り返った。
「湯と食事の支度はできています。話はその後にしましょう」
屋敷へ入ろうとしても、袖は惟丸の手に縫い止められたままだった。
「惟丸、湯から出たらまた来る」
「あにうえ」
「茶も一緒に飲もう」
「ちゃ」
惟丸は俺と春を何度も見比べた。やがて指が一本ずつ緩み、春の腕へ収まる。それでも、俺が屋敷へ入るまで、こちらへ手を伸ばしていた。
旅の汚れを落とし、食事の席へ向かう。座敷には日吉丸が先に来ていた。
犬千代を見つけた途端、椀へ伸ばしかけた手が止まり、腰が浮く。
「犬千代まで来たんか」
「猿、お前も朝霧におったのか」
「猿と呼ぶな。わしには日吉丸という名がある」
「なら、わしも犬と呼ばせんがね」
「二人とも座れ」
可成の一声で、犬千代は日吉丸の向かいへ腰を下ろした。膳が並んでからも、互いの椀ばかり気にしている。だが、口へ飯が入れば声は出ない。それだけで十分だった。
* * *
食事を終えると、頼政は政澄、政虎、久助、新九郎を一室へ集めた。灯りを挟んで頼政と春が並び、俺の後ろには弦十郎が控える。可成は末席へ座り、口を挟まず座の様子を見ていた。
「新九郎から、中村でのことは聞いておる」
「なら、日吉丸の家族については問題ありませんね」
「本人たちが望んで来たのなら、わしに異存はない。だが、お前が連れ帰ったのは、あの一家だけではなかったな」
頼政の視線が末席へ向いた。
「三左衛門。小徳丸へ仕えると決めたのは、お前自身だな」
「はい。某自身の仕え先は、己で見定めよと父から言われておりました。父と一族へも話を通してございます」
「家族と郎党も、朝霧へ移すつもりか」
「某に従うと決めた者だけを連れてまいります。田代へ残る者へ、無理に従わせることはいたしません」
「橘は大きな家ではない。望むだけの兵も土地も、すぐには与えられぬぞ」
「若様からも、人数と働きを見ずに知行は約束できぬと伺っております」
「小徳丸が何を始めようと、途中で投げ出すことは許さぬ」
「心得ております」
灯りの芯が小さく爆ぜた。
「ならば受け入れる。小徳丸付きとして働け。連れてくる者の数と家族が決まったら、先に知らせよ」
「はっ。謹んでお仕えいたします」
俺の時より早い。
そう思ったところで、頼政の目がこちらへ戻った。
「犬千代のことも、その場で決めたのだな」
「前田家とは話をつけました」
「そういうことを申しておるのではない」
「必要な者でした」
「必要なら、わしへ知らせず連れ帰っていいのか」
春が静かに口を挟んだ。
「三左衛門と犬千代を迎えたことだけを責めているのではありません。殿から止められていたのに、何の相談もなく決めてきたことを言っているのです」
「尾張で返事を待っていれば、話が流れるかもしれません」
「それでも、知らせることはできたでしょう」
「次からは先に知らせます」
「必ずですよ」
「はい、母上」
頼政の眉間は晴れなかったが、春が言質を取ると、それ以上は追わなかった。
「中村を出た後は、予定どおり美濃へ向かったのか」
「その前に、木曽川へ寄りました」
「木曽川へ何をしに行った」
「蜂須賀小六という男に、橘の荷を運ぶ仕事を頼みました」
「知っておるか」
「木曽川沿いで人を集めている者です。舟、人足、渡し場にも顔が利くと聞いております」
「どこまで任せた」
「桑名から先です。尾張と美濃へ荷を分け、舟と人足を手配させます」
「今の商人との取引はどうする」
「変えません。橘の御用商人と、保内、小幡の商人への卸しは続けます。その上で、木曽川筋を加えます」
任せるのは荷運びと売り先への仲介まで、値と行き先は橘が握る。銭の受け渡しと、荷を失った時にどちらが負うかも、あらかじめ小六と決めてきた。最初は油と木の品を一便だけ出す。増やすのは、届いた荷と戻った銭を見てからだ。
話の途中から、久助の指が膝の上で動き始めていた。
「同じ市へ同じ品を運べば、値を崩しかねません」
「小六には勝手に行き先を決めさせない。どこへ何を出すかは、こちらで分ける」
「では、今ある販路とは帳面も分けます。桑名で荷を渡した時と、届けた時の数も、双方に控えを残させましょう」
「頼む。どの道で、どれだけ売れたかを比べたい」
「承知仕りました」
「小六という男を、もう信用したのか」
「まだです。だから一便だけにしました」
「荷を持って消えた時は」
「その時は、新九郎に調べてもらいます」
「消える前に調べるべきかと存じます」
新九郎の返事が、こちらの言葉へ食い込んだ。
「小六の周りを調べてくれ。使っている舟と渡し場、それに誰と商っているかも知りたい」
「かしこまりました」
「美濃では何を見た」
「井口の町です。人も荷も多く、油と木の品を売る場所としては悪くありません」
「斎藤の城下だ。こちらの都合だけで商える場所ではあるまい」
政澄が膝の上で手を組み直した。
「はい、叔父上。町だけでなく、道にも斎藤の支配が及んでいました。向こうの都合で荷を止められることもあります」
「それで、美濃だけへ流さぬのか」
「一つの道へ寄せれば、止められた時にすべて動かなくなります。木曽川だけでなく、今ある道も残します」
「道を増やすのは構わない。だが、領内で使う分まで売るなよ」
「最初の一便で売れ方を見ます。朝霧で使う分を削るつもりはありません」
「ならいい」
「小谷へ寄ったのはなぜだ」
「城と山麓を見るためです」
「浅井方へ会いに行ったのではあるまいな」
「会っていません」
「弦十郎」
「浅井方とは接触しておりませぬ。城へ続く道と山麓を見た後、そのまま離れました」
「帰路を外れるなら、次からは先に知らせろ」
「分かりました」
猿夜叉丸を見かけたことまで、ここで話す必要はない。あの小さな姿は、まだ胸の内へ沈めておく。
「織田三郎はどうだった」
「面白い男でした」
「それだけか」
「今は、尾張の一部を押さえているだけです。それでも、あの男の周りには人が集まり始めています」
「いずれ大きくなると見るか」
「はい」
「危うい相手だな」
「だから、早いうちに会っておきたかった」
「向こうも同じように、お前を見ておるぞ」
「分かっています」
信長の目は、最後まで笑っていなかった。俺も、あの男を友として見てはいない。
頼政はしばらく俺の顔を見ていた。
「桑名を見て、尾張へ入り、美濃と小谷まで回った。織田三郎にも会った」
そこで声が途切れる。座にいる者の目が、俺へ集まった。
「それで、これから橘をどうする」
旅先で見た人波と荷の山が、まだ目の奥に残っている。朝霧へ戻っても、外の動きは止まらない。
「五年後、橘は北伊勢へ兵を出します」
沈黙が座敷を塞いだ。
「五年後か」
「はい」
「なぜ北伊勢だ」
「八風街道の先にあり、朝霧から兵糧を運べます。桑名まで押さえれば、尾張と美濃への商いも広げられる。その先は海です」
「商いのために戦をするつもりか」
「商いだけではありません。北伊勢は、一つの家がすべてを押さえているわけではない。橘が外へ領地を広げるなら、最初はあそこです」
政虎がわずかに身を乗り出した。
「家が分かれているからといって、弱いとは限りませぬぞ」
「分かっている。今の橘が兵を出せば、城を取る前に朝霧の守りが薄くなる」
「攻める相手まで、もう決めておられるのでございますか」
「まだ決めない。五年もあれば、城主も家同士のつながりも変わる。その時に、取った後まで守れる場所を選ぶ」
頼政の指が、膝をゆっくり叩き始めた。
「御屋形様の許しはどうする」
「先に願い出ます。橘だけの都合で兵を出すつもりはありません」
「今の橘に、北伊勢を任せる理由はないぞ」
「だから、五年でその理由を作ります」
指の音だけが、しばらく続いた。
「今の兵を連れていけば、朝霧と四村が空になる。城を取れたとしても、守る兵がおらぬ。三左衛門を得ても、兵を預けられる者はまだ足りぬ」
「それも分かっています」
「ならば、五年で何をする」
すぐには答えが出なかった。道中で考えていたことはある。だが、口にすれば粗が見える。それでも、黙っているよりはましだった。
「人と銭を、増やせるだけ増やします」
「どれほどだ」
「……十倍とは、言いたいところですが」
「言えぬのか」
「今の朝霧の伸びを見れば、五年で十倍は大言です。ですが、狙う数字が低ければ、そこで足が止まります」
座敷が、わずかにざわめいた。
「容易く申したものだな」
「容易いとは思っていません」
春が静かに口を開いた。
「日吉丸の家族も、まだ朝霧へ来たばかりです。三左衛門と一緒に来る方々もいるのでしょう。増やす数ではなく、暮らし続けられるかを考えなさい」
「分かっています」
「人だけを集めれば、米が減ります」
政澄が続けた。
「田畑だけを広げても、すべての者を百姓にはできない」
「笠松、酒井、宮田、志野原を広げます。四村をまとめた今なら、争いを避けて残された土地にも手をつけられる」
「それだけで十倍になるか」
「なりません」
「ならば」
「田畑で食わせ、油と木の品、茶で銭を作ります。売る量が増えれば、作る者だけでなく、運ぶ者も必要になる」
「仕事を作ってから、人を入れるのだな」
「はい、叔父上」
政澄は返さず、視線を膝元へ落とした。
「久助」
「はっ」
「木曽川へ出す荷の帳面を急げ。売れた銭だけではなく、どれだけの人と日数を使ったかも残せ」
「承知仕りました」
「兵庫助は、日吉丸の家族と、三左衛門が連れてくる者を含め、住まいと食い扶持を見よ」
「分かりました、兄上。ただ、人数だけ先に増やすことは認めません」
「俺も、そのつもりはありません」
「若様」
可成の声が、頼政の指示へ重なった。
「何だ」
「五年後に兵を出すのであれば、人を集めて終わりでは間に合いませぬ」
「率いる者も要るな」
「はい。五十人を預けられる者と、百人を預けられる者は同じではありません」
「三左衛門には、彦九郎と兵を見てもらう。今いる者の中から、任せられる者を育ててくれ」
政虎はすぐに可成を見た。
「まずは、橘の兵をご覧いただきまする。こちらのやり方を知らぬままでは、話も始まりませぬ」
「承知いたしました。某も、尾張でのやり方へ固執するつもりはございません」
政虎と可成は、互いにほとんど同時に頭を下げた。
「新九郎」
「はい」
「小六に渡す荷が桑名へ着いたら、荷の他に、北伊勢の道と関がどこにあるかも見てきてくれ。誰が押さえている関で、幾ら取られるかまでだ」
「北伊勢を、もう見に行かせるのでございますか」
「五年後に困らないよう、今のうちに知っておきたい」
「かしこまりました」
頼政は俺を見た。
「言葉ばかりが先に立つな。何から始める」
「向山です」
頼政の目が細くなる。
「古穴か」
「はい。油と木の品を増やすだけでは、五年で必要な銭に届かないかもしれません。向山に使える石があるなら、先に確かめます」
「何があるかも分からぬ山へ、人を入れるのか」
「いきなり掘らせません。まず石を見られる者に、古穴と捨てられた石を見せます」
新九郎が膝を進めた。
「残しておいた金堀の一組は、素性を改めました。頭は石を見られる男にございます」
「向山へ入れてもいいか」
「古穴を見せる前に、若様ご自身で会われるのがよろしいかと存じます」
「どのような男だ」
「請けた仕事と銭には細かい男です。曖昧な話では動きません」
「その方がいい」
「新九郎。俺が、金堀衆の棟梁と会う」




