第45話 中村の家族
那古野で一晩を明かし、翌朝、中村へ向かった。昨日のうちに訪ねるはずだったが、信長に捕まり、相撲場まで連れ回されたせいで一日遅れている。
日吉丸は朝から落ち着かなかった。道を知っているはずなのに、何度も先へ出ては、田畑の間を通る細道を確かめていた。
「迷ったのか」
「迷っとりません」
「なら、なぜ止まる」
「道が前より細うなった気がしただけです」
「道は勝手に細くならないだろ」
「草が伸びとるんです」
尾張へ戻ってから、日吉丸には少しずつ元の言葉が戻っていた。那古野ではまだ抑えていたが、中村が近づくにつれ、その気もなくなったらしい。
弦十郎は黙って後ろを歩いていた。背負った荷には、米と塩、味噌、干魚、それに木綿の布が入っていた。
家族を訪ねるのに、手ぶらではまずい。かといって銭を持ち込めば、日吉丸を連れ出した詫びや、口止めのようにも見える。
食べ物と布なら、そのまま暮らしに使える。
「若様」
日吉丸が足を止めた。
道の先に、古びた家が数軒並んでいる。壁には板を打ちつけた跡があり、屋根もところどころ沈んでいた。日吉丸が指したのは、その中でも小さな家だった。
「……あれです」
戸口の脇には欠けた桶が伏せられ、細い大根が土の上へ干されている。家の裏に見える畝も、二、三本しかなかった。
朝霧にも貧しい家はある。それでも、ここまで傷んだ家は少ない。
「行くぞ」
「はい」
日吉丸は戸口の前まで進んだが、上げた手をそのまま止めた。
「どうした」
「……何でもありません」
ようやく戸を叩く。
「おっかあ」
返事はなかった。
日吉丸はもう一度、先ほどより強く戸を叩いた。
「おっかあ、わしだ。日吉だわ」
家の中で何かが落ちた。
続いて女の声が返ってきたが、早口の尾張言葉で半分も聞き取れない。
日吉丸がこちらを振り返った。
「誰だ、何の用だ、と」
「お前の声が分からないのか」
「急に帰ってきたもんで、分からんのかもしれません」
戸がわずかに開き、隙間から日に焼けた女の顔がのぞいた。乱れた髪を後ろで束ねている。
女は日吉丸を見たあと、俺と弦十郎へ目を向けた。そのまま戸を閉めようとする。
日吉丸が慌てて戸へ手を掛けた。
「待ってちょう! おっかあ、わしだって!」
女が怒鳴り返した。
今度は一言も分からない。
「何と言った」
「知らん武家を連れてきて、何を企んどる、です」
「俺たちより、お前を疑っていないか」
「……それも言っとります」
家の奥から、二人の娘が顔を出した。一人は日吉丸より年上で、もう一人はまだ幼い。
その後ろから痩せた少年が現れ、戸口を塞いだまま日吉丸の頭から足まで眺めた。
「誰だ、おみゃあ」
「小竹、わしだわ」
「嘘つけ。兄者は、もっと痩せとった」
「飯を食っとるからだわ」
「そんなええ着物も着とらん」
「向こうでもろうたんだて」
「髪まできれいだがね」
「洗ったらいかんのか!」
朝霧で髪を整え、服と食事を与えられた日吉丸は、家族が覚えている姿とは違って見えるのだろう。
日吉丸は頭をかいた。
「おっかあ、智姉、旭、小竹。ほんとにわしだって。裏の柿を取って怒られた時、逃げて川へ落ちたの、覚えとるだろ」
年上の娘が一歩前へ出た。
日吉丸の頬をつかみ、強く引っ張る。
「痛い、痛いって!」
「日吉だわ」
「だから言っとるがね!」
旭が戸の陰から飛び出した。
「兄ちゃん!」
日吉丸の腹へ勢いよく抱きつく。日吉丸はよろめきながら、旭を受け止めた。
母親だけは動かなかった。日吉丸を見つめたまま、唇を固く結んでいる。
「おっかあ」
日吉丸が呼ぶと、女はその腕をつかんだ。
「……ほんとに、日吉なんだね」
「うん」
それだけは、日吉丸に聞くまでもなかった。
仲。
日吉丸の母だ。
仲は日吉丸を家へ引き入れ、智と旭も続いた。
小竹だけは戸口に残り、俺たちを警戒している。
「この人らは誰だ」
「わしがお仕えしとる、朝霧の若様だわ。こっちは弦十郎殿」
「朝霧?」
「近江だがね」
「なんで近江の武家と一緒におる」
日吉丸が黙った。
家の中からも声が消える。
そこを曖昧にはできない。
「中で話す」
仲は俺には答えず、日吉丸へ何か言った。
日吉丸が俺の言葉を尾張言葉で伝えると、仲は短く返し、戸を大きく開いた。
「入れ、と」
「今のは俺にも分かった」
頭を下げなければ、戸口へ額をぶつけそうな家だった。
中はさらに狭い。
土間の奥に板を置き、その上へ薄い筵を敷いている。鍋は一つで、椀も人数分には足りていなかった。
弦十郎が荷を戸口の脇へ下ろす。
米、塩、味噌、干魚、木綿の布。
旭が干魚へ目を向けると、智がその肩を引いた。
仲は日吉丸を自分の側へ座らせた。
「そんなん、受け取れん」
「詫びの代わりではない」
日吉丸が俺の言葉を家族へ伝える。
「日吉丸を連れ出したことが、これで済むとは思っていない。家を訪ねるのに、手ぶらで来るのも違うと思っただけだ」
仲は戸口の荷を見たあと、日吉丸の腕をつかみ直した。低い声で何かを問いかける。
日吉丸はすぐには訳さなかった。
「何と言った」
日吉丸が唇をかんだ。
「なんで、うちの子なんか攫ったんですか、と」
仲の指に力が入った。
「俺が命じた」
日吉丸が訳すと、仲の顔が強張った。
「本人にも家族にも断らず、朝霧へ連れてこさせた。悪かった」
俺は仲へ頭を下げた。
弦十郎がわずかに動いたが、何も言わない。
日吉丸を連れ出すよう命じたのは俺だ。そこを他人のせいにはできない。
仲が続けて問いかける。
「どうして日吉だったのか、と」
俺は頭を上げた。
「日吉丸に、それだけの価値があると思ったからだ」
日吉丸が家族へ訳しながら、妙な顔で俺を見た。
「こいつは人を見る。頭も回る。文字や算用を覚えれば、今よりもっと使える」
「若様……」
「今の俺は、領主の息子にすぎない。だが、ここで終わるつもりはない」
仲たちは、日吉丸の訳を黙って聞いている。
「俺が上へ行くには、日吉丸の才が要る」
日吉丸の声が止まった。
「どうした」
「……わしのことを、そんなふうに思ってくださっとったんですか」
「そうでなければ、わざわざ尾張まで探させない」
「聞いとらんです!」
日吉丸は袖で目元を拭った。
「わしは、飯を食わせてもらって、字まで教えてもらって、それだけでも十分だと思っとったのに……」
「泣くな。家族へ伝わらない」
「無理です!」
日吉丸が顔を覆った。
旭が慌てて背中をさすり、智は口元を押さえている。小竹は何も言わず、兄を見ていた。
仲が日吉丸へ何か言った。
「何だ」
「そんなに泣くほど、今まで何も言ってやらんかったのか、と」
「言えば、こいつはつけ上がる」
「若様!」
日吉丸が顔を上げた。
「今の話を聞いた直後に、それを言いますか!」
「もう言い返しているだろ」
「つけ上がっとらんです!」
仲が日吉丸の頭を軽く叩いた。
何を言ったかは分からなかったが、智が小さく笑った。
小竹が口を開く。
「兄者は、向こうで白い飯を食っとるのか」
「毎日ではないわ」
「肉も魚も食っとる?」
「たまにはな」
「ずるい」
「何がずるいんだわ」
「兄者だけ、ええ暮らししとる」
「わしだって働いとるわ!」
「着物もええ。字も習っとる。旭は腹減らして泣いとるのに」
日吉丸が黙った。
旭は何か言い返そうとしたが、その前に腹が鳴った。
誰もすぐには口を開かなかった。
仲が小竹を強い声で叱った。
「何と言った」
「みっともないことを言うな、と」
「みっともなくはない」
日吉丸が俺の言葉を伝える。
「腹が減っているなら、食える場所へ移ればいい」
仲と智が動きを止めた。
日吉丸一人を朝霧へ戻しても、家族の暮らしは変わらない。日吉丸も、また家族を残していくことになる。
「日吉丸だけを連れ帰るつもりはない。望むなら、家族全員を朝霧へ迎える」
仲が聞き返した。
「わしら全員を、ですか、と」
「全員だ。同じ家で暮らしている者や、残していけない親族がいるなら、その者たちも話に入れていい」
智が息をのんだ。
「生まれも身分も問わない。働く場所は用意する」
仲が日吉丸へ何か尋ねた。
訳される前に、畑という言葉だけは聞き取れた。
「畑はある。農業ができるなら、それで食える」
仲は身を乗り出し、続けざまに日吉丸へ問いかけた。
「畑があって、働いて食えるなら、それ以上はいらん。けど、知らん土地で、本当に家族みんなが暮らせるのか、と」
「暮らせるようにする」
「できんかったら」
「俺の責任だ」
仲は俺を見たまま、返事をしなかった。
小竹は弦十郎の刀、戸口の荷、日吉丸の服を順に見た。
「朝霧へ行ったら、俺は何をする」
「最初は、できることをすればいい」
「畑か」
「畑でも、家の手伝いでもだ」
「兄者みたいに字も習えるか」
「覚える気があるならな」
小竹が身を乗り出した。
小竹。
後の世で、豊臣秀長となる男だ。
今は痩せた小僧にしか見えない。兄の着物や食事を羨んでいるだけで、後の姿など欠片も見えなかった。
それでも、朝霧へ行けば何をするのか、字を習えるのかと聞いている。
「子供には、働ける範囲で働かせる。字や算用を覚えれば、それに合う仕事もさせる」
小竹が聞いた。
「わしらを家来にするんですか」
「使える者は取り立てる」
日吉丸だけではない。
小竹もいる。
この家につながる縁からは、後に加藤清正や福島正則も出てくる。
まだ生まれてもいない人間まで当てにするつもりはない。それでも、家族や親族ごと朝霧へ迎える価値はあった。
仲が問いかけ、日吉丸が答えに詰まった。
「何だ」
「そんなうまい話があるわけない。何を取る気だ、と」
「働いてもらう」
仲の顔を見て続ける。
「食わせる代わりに働いてもらう。俺の領地が広がれば、必要な仕事も増える。それだけだ」
仲は黙り、智がその耳元で何かを囁いた。旭はまだ干魚を見ている。小竹は俺の返事を待ったまま動かなかった。
生まれた土地を捨てる話だ。
今すぐ答えを求めるものではない。
「今日は決めなくていい」
日吉丸が家族へ伝えた。
「ほかに話すべき親族がいるなら、話しておけ。畑や家をどうするかも決めなければならない。俺が戻るまでに考えてくれ」
仲は日吉丸の腕を離した。代わりに両手でその頬を挟み、早口で何かを言う。
日吉丸が鼻をすすった。
「何と言った」
「痩せとらん。ちゃんと食わせてもらっとる顔だ、と」
仲は日吉丸の額へ、自分の額を当てた。
旭が二人へ抱きつき、智は顔をそむけた。
少し離れていた小竹は、日吉丸の肩を一度殴った。
「痛いがね!」
「兄者だけずるい」
「まだ言うか!」
「俺も字を習う」
「分かった、分かったって」
家の中が一気に騒がしくなった。
全員が尾張言葉で話し始め、もう聞き取れない。
弦十郎を見ると、静かに首を横へ振った。あちらも諦めたらしい。
「帰るぞ」
俺が立つと、日吉丸も慌てて腰を上げた。
「若様、わしも――」
「お前は残れ」
日吉丸の足が止まった。
「ですが」
「家族と話しておけ。俺が戻るまで、ここにいろ」
日吉丸は家族を見た。仲は何も言わず、その袖をつかんでいる。
「俺はまだ用がある。戻る時に迎えに来る」
「いつ、お戻りに」
「まだ決めていない」
「そんな」
「中村の場所は分かった。次は迷わない」
「わしが迷っとったみたいに言わんでください」
泣いた直後でも、言い返す余裕はある。それなら、置いていっても大丈夫だろう。
「荷は置いていく」
仲が戸口の荷を指し、日吉丸へ何か尋ねた。
「受け取っていいのか、と」
「家を訪ねた手土産だ。日吉丸を連れ出した詫びは、あれとは別だ」
日吉丸が伝えると、仲はしばらく俺の顔を見たあと、深く頭を下げた。
俺も軽く頭を下げ、戸口へ向かう。
「若様」
小竹に呼び止められた。
「朝霧には、本当に畑があるのか」
「ある」
「字も習えるか」
「覚える気があるならな」
小竹は黙ってうなずいた。
外へ出ると、弦十郎が続いた。背後で戸が閉まる。
家から少し離れたところで、弦十郎が口を開いた。
「日吉丸を置いてよろしいのですか」
「家族に返しただけだ。戻れば、また連れていく」
「一家だけでなく、親族まで朝霧へ迎えるおつもりで」
「そのつもりだ」
弦十郎はしばらく黙って歩いた。
「ずいぶんと大きく出られましたな」
「日吉丸一人で、あれだけ使える」
振り返ると、小さな家からまた大きな声が聞こえた。
言葉までは分からない。
日吉丸と小竹が言い合う中で、字と畑という言葉だけが、何度か外まで飛んできた。




