第44話 近江の若様、尾張のうつけに絡まれる
勘定を済ませる頃には、日吉丸が三度も通りへ顔を出していた。
荷を担ぐ男を追ったかと思えば、馬のいななきに振り返る。戻ってきても腰を下ろさず、また戸口へ目をやった。
「落ち着かないな」
「落ち着いております」
「嘘をつくな」
「……津島は、人の声が多いんだわ。いや、多いんです」
言い直したが、もう遅い。尾張の言葉が少し戻っている。
弦十郎は荷を一つずつ確かめ、宿の者にも忘れ物がないか尋ねていた。
「若様、支度は整っております」
「分かった。那古野へ向かう」
「はっ」
日吉丸の顔が、わずかに引き締まった。
宿を出ると、津島の通りはすでに人と荷で埋まっていた。
俵を担ぐ男、馬の口を取る者、店先を開ける女、使い走りの小僧。誰もこちらの旅支度など気に留めない。
津島では、立ち止まっている方が目立つ。
水辺の町の騒がしさを背に、俺たちは那古野へ向かう道へ出た。津島を離れても、荷の流れは途切れない。
「この荷は、みな那古野へ入るのか」
日吉丸は前を行く荷車を見た。
「那古野へ行く荷もありますけど、末森へ回る荷もあります。弾正忠様は、今はそちらだと聞きます」
「那古野城は若殿の城だったな」
「はい。若殿の城です」
少し後ろを歩く弦十郎が口を開いた。
「清洲織田家や岩倉織田家もございます。尾張の織田は、一つの城を見れば済む相手ではございませぬ」
「町で働く者でも、そのくらいは聞きます」
日吉丸は道の先を見たまま続けた。
「清洲織田家がどうとか、岩倉織田家がどうとか、津島の商人がどちらへ顔を向けるとか」
「中村は」
「そういう話には、あまり出ませぬ」
「城も市もないか」
「ありません。田と家と、道くらいです」
日吉丸の声が少し落ちた。
「那古野からは遠いのか」
「遠くはありません」
「なら、先に寄るか」
日吉丸が困った顔をした。
「若様、荷を持ったまま行ったら、おっかあに怒られます。先に宿です」
「それは困るな」
「困ります」
弦十郎が後ろで小さく息を吐いた。笑ったのか、呆れたのかは分からない。
「なら、まず那古野だ」
「はい」
日吉丸は安堵したような、残念そうな顔になった。
家へ向かうにしても、先に宿を決めて荷を置く。日吉丸の家族を伴うことになれば、帰りの支度も必要になる。
那古野へ近づくにつれ、刀を差した若い者が増えてきた。武家だけではない。武家に使われる者、荷を運ぶ者、道端で物を売る者が、同じ道を行き交っている。
声も足取りも荒い。
「若殿の噂もあるのか」
「あります」
「どんな」
「……あまり、いい噂ばかりではありません」
「うつけか」
日吉丸が慌てて周囲を見た。
「若様、声が大きいです」
「小さい」
「小さくても、ここは尾張です」
弦十郎が俺の横へ半歩寄った。
「若様。那古野では、名を出す相手にご注意ください」
「分かっている」
那古野は、もう近かった。
* * *
那古野の外れへ入ったところで、道の先が騒がしくなった。
若い衆が道の真ん中にたむろしている。
一頭の馬が首を振り、その手綱を乱れた格好の若い男が片手で引いていた。馬を押さえるというより、わざと苛立たせているように見える。
周りの若い衆は、それを見て笑っていた。
通る者は少し距離を取り、目を合わせずに脇を抜けていく。皆、見慣れてはいる。だが、近づきはしない。
俺たちも横を通ろうとした。
その時、馬がこちらへ首を振った。
弦十郎が俺の横へ半歩寄る。
「若様」
馬の鼻先が道を塞いだ。
手綱を持った若い男が、こちらを見る。
「何を見ておる」
「邪魔なんだが」
口に出した瞬間、日吉丸の顔が引きつった。
「若様、まずい。こりゃ……織田の若殿だ」
織田の若殿。
道中で聞いた名と、目の前の格好がつながった。
うつけ。
その本人が、道の真ん中にいる。
若い男は怒るでもなく、俺を上から下まで眺めた。
「わしが邪魔か」
「事実を言っただけだ」
弦十郎の肩が、わずかに沈んだ。
いつでも俺を後ろへ下げられる位置だ。右手は刀へ寄っていない。だが、必要なら一瞬で動く。
日吉丸は完全に青ざめていた。
「この尾張で、わしに邪魔と言うか」
「尾張だろうが近江だろうが、道の真ん中でたむろするなよ。邪魔なんだよ」
若い衆の笑いが止まった。
馬が鼻を鳴らす。
若い男は怒鳴らなかった。口元だけがゆがむ。
「お前、どこの者だ」
「近江の者だが」
「名は」
「橘小徳丸だ」
「小徳丸、か」
俺の顔を見直し、若い男は笑った。
「近江の小倅が、わしにその口を利くか」
「先に邪魔をしたのはそっちだろ」
日吉丸が声にならない息を漏らした。
若い男は俺から目を外さず、近くの若い衆へ馬の手綱を投げる。
「預かれ」
「はっ」
手綱を受け取らせると、俺の前まで歩いてきた。
年は俺より上で、背も高い。だが、まだ大人の武将というほどではない。
織田三郎信長。
戦国武将の名としては、前世で一番有名と言っていい。性別まで変えられている。
だが、目の前にいるのは歴史上の偉人ではない。
道を塞ぎ、こちらへ因縁をつけてきたクソガキだった。
「来い」
「どこへ」
「那古野を見に来たのであろう。わしが見せてやる」
「まだ言ってない」
「その面で、ただ通り過ぎる気か。つまらぬ」
何だ、その決めつけは。
信長は返事を待たずに歩き出した。
さっきまで道を塞いでいた若い衆が、今度は人や荷車を脇へ寄せて道を開ける。
「若様」
弦十郎の声に、俺は信長の背を見たまま答えた。
「行くしかないだろ」
「承知」
日吉丸は泣きそうな顔をしている。
「若様、本当に行くんですか」
「相手が先に歩き出した」
「それ、理由になりますか」
「ならない。だが、ここで帰る方が面倒だ」
俺たちは信長の後を追った。
案内ではない。連れ回しである。
* * *
信長は振り返らず、早足で町へ入っていった。
先に立つ若い衆が道を開ける。町の者も慣れているのか、大きく逆らう者はいない。
日吉丸が俺の横で声を潜めた。
「若様、これ、ついていっていいんですか」
「もうついていっている」
「そういう話ではなく」
「分かっている」
弦十郎は一歩後ろを歩いている。近すぎず、離れすぎず、信長の供と俺たちの間が開かないようにしていた。
那古野の中へ入ると、人の数がさらに増えた。
店先には籠や木桶が並び、干した魚の匂いが混じっている。町人も武家に使われる者も、同じ道で声を張っていた。
津島では水が荷を動かしていた。
ここでは、人と荷が土の道を埋めている。
信長が横目で俺を見た。
「どうだ、那古野は」
「騒がしい」
「それだけか」
「歩きにくい」
「邪魔だの歩きにくいだの、お前は文句ばかりだな」
「聞かれたから答えただけだ」
「なら、気に入ったところを申せ」
「店も人も多い。揉めている横で、平気で物を売っている」
「褒めておるのか」
「商いとしてはな。歩く方としては邪魔だ」
信長が声を出して笑った。
日吉丸が細く息を吐く。斬られなかっただけで、少し寿命が延びたような顔だった。
信長は通りの脇を顎で示した。
「見ろ」
店先で、前掛けをした男と武家の小者らしい男が言い合っている。声は荒いが、店の女は二人の横で別の客へ品を渡していた。
「止めないのか」
「刃が出ぬうちは、放っておけばいい」
「刃が出たら」
「出る前に誰ぞが蹴り飛ばす」
「雑だな」
「尾張だ」
答えになっているようで、なっていない。
それでも、二人の周りでは商いが止まっていなかった。
「近江は違うか」
「朝霧では、外の者が揉めればすぐ目立つ。顔が分かるからな」
「顔が分かれば、何が変わる」
「嘘をつきにくい」
「悪いところは」
「逃げにくい」
信長はまた笑った。
笑っているだけではない。こちらが答えるたび、次の問いが少し変わる。
俺も通りを見た。
城下というには、町の声が勝ちすぎている。織田の名はあるが、その下で動いているのは荷と銭と人だった。
「何を考えておる」
「また因縁か」
「聞いただけだ」
「織田の城下というより、織田の名が乗った騒がしい町だと思っただけだ」
信長の足が止まった。供の若い衆も、少し遅れて止まる。
「ほう。わしの前で、よくそこまで言う」
「見たままだ」
日吉丸は俺の方を見ない。弦十郎も黙ったままだ。
信長はしばらく俺を見ていたが、やがて口元をゆがめた。
「お前は、妙な目で町を見るな」
「よく言われる」
「誰にだ」
「父上と家臣に」
「叱られるか」
「だいたい怒られる」
「であろうな」
なぜそこで満足そうな顔をする。
信長はまた歩き出した。
通りでは、何人かの武家が信長へ頭を下げた。深く下げる者、形だけの者、見なかったふりをする者もいる。
信長は、どれにも声を掛けない。
「あれも家中か」
俺が見なかったふりをした男を示すと、信長は前を向いたまま答えた。
「家中が一枚であるものか」
「嫌われているな」
「そう見えるか」
「見える」
「嫌われてはおる。だが、無視はさせぬ」
少しだけ間を置き、信長がこちらを見る。
「それでいいと思うか」
「立たせる場所次第だろ」
「お前は、人を荷か何かと思っておるのか」
「人より荷の方が、まだ素直だ」
信長が声を上げて笑った。
周りの若い衆も笑ったが、少し遅い。信長が笑ったから笑ったようにも見える。
信長は、その遅れまで見ているようだった。
やがて、通りの奥から太い声が聞こえてきた。笑い声と怒鳴り声が混じっている。
信長の足が、そちらへ向く。
「あれは何だ」
「相撲だ」
「那古野を見せるんじゃなかったのか」
「これも那古野だ」
信長は振り返った。
「来い、小徳丸。これも見ておけ」
「まだ行くのか」
「目があるなら、相撲も見ろ」
「目があるとは言ってない」
「わしがあると見た。来い」
勝手に決めるな。
人の輪が見えてくる。
土を踏み固めた空き地の周りに、町人や小者、飯を売る女たちが集まっていた。輪の中では、上半身を脱いだ男が二人、肩を回している。
信長が前へ出ると、人の輪が割れた。
俺たちも、その後ろから相撲場へ入った。
* * *
人の輪の内側だけは、土が深く削れていた。
丸い土俵があるわけではない。だが、男たちの足跡と周囲の立ち位置で、どこから中かは分かる。
汗と土の匂いが強い。
信長は当然のように前へ出た。
「退け」
前にいた男たちが場所を空ける。不満そうな顔もあったが、誰も口には出さない。
日吉丸が声を低くした。
「若様、前すぎませんか」
「俺に言うな」
「言えません」
「だろうな」
弦十郎は俺の後ろに立ったまま、信長の供と周囲の男たちを見ている。
信長が俺を見た。
「座れ」
「ここか」
「見やすいであろう」
「近すぎる」
「なら後ろで見ろ」
「それは見えない」
「文句が多い」
「連れてきたのはそっちだろ」
信長は笑い、俺の隣へ腰を下ろした。
仕方なく俺も座る。日吉丸も迷いながら隣へ座った。
土の上では、男が二人向かい合っている。
右は小柄だが、腰の位置がぶれない。左は一回り大きく、周りの声へ笑って応えていた。
「押せ!」
「腰を落とせ!」
「今度は負けるなよ!」
信長が二人を見たまま聞いた。
「どちらが勝つ」
「右」
「小さい方か」
「左の方が大きいぞ」
「大きいだけなら、荷車の方が強い」
「また荷か」
「倒れたら動かない分、荷車の方が厄介だ」
「お前は相撲を何だと思っておる」
「人がぶつかるところ」
「そのままではないか」
「違うのか」
信長は答えず、前を見た。
左の男が先に踏み込み、体ごと押し込む。右は受けながら二歩下がった。
左の肩が前へ出る。
その瞬間、右の男が身を引き、伸びた腕を払った。
土埃が上がり、左の男が両手をつく。
周囲の声が一気に膨らんだ。
信長が膝を叩いた。
「ほう、当てたな」
「見れば分かる」
「どこを見ておった」
「左は前へ出るだけだった。右は受けながら、体が伸びるのを待っていた」
信長は土を払う二人を見た。
「体は左が上だ」
「大きいから押せると思う。外されれば、そのまま前へ落ちる」
負けた男は悔しそうに笑い、勝った相手の肩を叩いた。その目は、相手の手元を追っている。
「負けても、また取る気だな」
「なぜ分かる」
「もう相手の腕を見ている。次はただ押さない」
「掴みに行くか」
「上手を取れれば投げる。取れなければ、また外される」
信長が俺を見る。
「勝った方ではなく、負けた方まで見るか」
「勝った方だけ見ても、次は分からない」
信長の口元がゆがんだ。
「なら、次はどう読む」
次の二人が土の上へ入る。どちらも若い。右は前のめりで、左は腰を落として待っていた。
「右は押す」
「左は」
「差して寄るか、突き落とすか」
「どちらが勝つ」
「右が一息で押し切れば右。止められたら左だ」
右の男が踏み込む。
左は受けず、腕を引いた。
右の膝が土につく。
「突き落としだな」
「だな」
「今度は、お前が言う前に読めたぞ」
「それはよかったな」
信長は楽しそうに笑い、今度は弦十郎を見た。
「そこの護衛、お前はどう見る」
「右は前へ出すぎました。左は、それを待っておりました」
「護衛まで目が利くか」
「俺の護衛だからな」
「自慢か」
「そうだ」
信長はまた笑った。
日吉丸も、つられて小さく笑う。
「猿」
日吉丸の笑いが止まった。
「お前は何を見た」
「猿では……」
日吉丸は俺を見たが、俺は何も言わなかった。
「右は、周りの声を聞いておりました」
「声だと」
「押せと言われて、すぐ前へ出ました。左は、声ではなく相手を見ておりました」
信長の笑いが止まった。
日吉丸は慌てて頭を下げる。
「……と、思いました」
「誰に教わった」
「若様に、見るなら相手だけでなく、周りも見ろと」
「小徳丸にか」
「はい」
信長が俺を見る。
「猿にも目をつけさせたか」
「日吉丸だ」
信長は日吉丸へ目を戻した。
「なら、日吉丸。次はお前が当ててみせよ」
「は、はい」
日吉丸は助けを求めるように俺を見た。
「見てから言え」
「若様まで」
「今、自分で言っただろ」
日吉丸は泣きそうな顔で次の二人を見た。
信長が笑う。今度は周りの者も、遅れずに笑った。
信長が前に座れば場所が空き、武家の若い衆が睨めば小者は下がる。
その中で、信長は相撲だけでなく、誰が笑い、誰が黙っているかまで見ていた。
* * *
しばらくして、信長が立ち上がった。
「もういい」
供の若い衆も一斉に立つ。
信長が座る時も勝手だったが、立つ時も勝手だった。相撲場の騒ぎは、そのまま続いている。
信長は俺を見た。
「近江の小徳丸、か」
「何だ」
「わしは覚えたぞ」
日吉丸が小さく息をのむ。
弦十郎の背筋も、わずかに伸びた。
道を塞いだクソガキ。相撲場の一番前で笑っていた若殿。
そして、織田信長。
全部同じ男だ。
「覚えていただけるとは、光栄に存じます」
信長の眉が動いた。
「急に言葉を改めたな」
「織田の若殿に名を覚えられたなら、このくらいはします」
「初めからその口を利け」
「道を塞がれなければ、考えました」
信長はしばらく俺を見てから、声を出して笑った。
「やはり妙な小倅だ」
「そちらも大概だと思いますが」
「わしに向かって言うか」
「言いました」
信長はまだ笑っていた。
だが、一歩引くと、周りの若い衆の顔つきが変わった。さっきまで一緒に笑っていた者たちが、若殿の供へ戻る。
「いずれ、また会うやもしれぬな」
声が少し低くなった。
俺も立ち上がる。
「おそらくは、またこちらから伺うことになりましょう」
信長の口元がゆがむ。
「なら、次は道の真ん中で待っていてやる」
「それは困ります」
「嘘をつけ」
信長は背を向けた。
「行くぞ」
供の者たちが動き、人の輪が信長の行く先だけ割れていく。
その背が見えなくなると、日吉丸がようやく息を吐いた。
「若様」
「何だ」
「もう少し、命を大事にしてください」
「斬ってくるようなら、見込み違いだっただけだ」
「それを、命を大事にしているとは言いませぬ」
弦十郎が静かに口を挟んだ。
「若様、宿へ向かいましょう」
「ああ」
俺たちは相撲場を離れた。
尾張へ来た以上、信長を見ずに帰るつもりはなかった。
礼を尽くして会いに行ったわけではない。道を塞がれ、因縁をつけられ、相撲場まで連れ回された。
それでも顔は見た。向こうもこちらを覚えた。
なら、悪くない。
手間が一つ省けた。




