第42話 尾張への旅支度
天文十八年(1549年)、夏。
ここのところ、日吉丸が妙に静かだった。
飯は食う。桶も運ぶ。庭も掃く。だが、いつもなら余計なことを二つ三つ言うところで、何も言わない。
縁側の端にいた弦十郎も、その様子を見ていた。
日吉丸は水の入った桶を提げ、屋敷前の道を横切った。道端には、両手を広げた飛び出し坊やが立っている。
普段なら、似ていないと言い張る俺へ、一言くらい文句を言う。今日は板の向こうを見たまま歩き、桶から水をこぼしていた。
「日吉丸」
「はい、若様」
「水が減っているぞ」
「あっ」
日吉丸は慌てて桶を下ろした。中の水は、半分近くまで減っている。
弦十郎が縁側から声を掛けた。
「謝る前に、汲み直してこい」
「はい」
日吉丸は桶を抱え、井戸へ駆けていった。
いつもなら、走りながらでも何か言い返す。今日は振り返りもしなかった。
水を汲み直して戻った日吉丸は、桶を置かずに俺の前へ立った。
「若様。お願いがございます」
「銭か、飯か」
「飯は欲しゅうございますが、今は違います」
「なら言え」
日吉丸は桶の縁を握ったまま、しばらく俯いていた。
「尾張に、おっかあと姉、弟、妹がおります」
「ああ」
「皆を朝霧へ呼ばせていただけませぬか」
桶の縁から水が落ち、足元の土へ染み込んだ。
日吉丸を朝霧へ連れてきたのは、俺だ。
尾張の中村に、後の秀吉がいると踏み、新九郎へ探させた。従わなければ攫ってこいとまで命じている。
日吉丸は、俺の命令で家族と引き離された。
ここで知らぬ顔をすれば、俺は日吉丸を攫い、都合よく働かせているだけになる。
それに、弟がいる。
日吉丸の弟なら、後の世で豊臣秀長となる男かもしれない。
日吉丸一人でも、朝霧には過ぎるほどの人材だ。その弟まで来る可能性がある。
欲しくないはずがなかった。
日吉丸への負い目と、弟まで手に入れたいという欲が、同じ結論へ向いている。
断る理由はなかった。
「呼ぶことには反対しない」
「本当でございますか」
日吉丸が顔を上げた。
「ただし、俺一人では決められない。人が増えれば、住む場所と食わせる分が要る。父上が戻ってから話す」
「はい」
「家族が朝霧へ来るかも分からない。嫌だと言われたら、無理には連れてこないぞ」
「おっかあは……」
日吉丸は言いかけて、口を閉じた。
突然いなくなった日吉丸が戻り、今度は知らない土地へ来いと言う。家族がどう答えるかなど、日吉丸にも分からない。
「そこも話さなければならない」
「わしが話します」
「お前一人で尾張へ帰すわけにはいかない」
「若様も来てくださるのでございますか」
「そこまで決まったとは言っていない」
日吉丸は桶を抱えたまま、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ父上に話してもいない。先に水を置いてこい」
「はい」
今度の日吉丸は、少しだけ足取りが軽かった。
* * *
昼を過ぎた頃、先触れが戻った。
頼政たちが帰ってくる。
春は奥の女中へ湯と食事の支度を命じ、弦十郎は門と庭へ人を回した。
ほどなくして、馬の蹄が道を叩く音が聞こえてきた。
門を入った頼政は、馬を下りる時、鞍へ置いた手に力を込めた。
鎧にも槍にも、戦った跡はない。それでも、顔には疲れが残っていた。
後ろに続く政虎と政澄、兵や人足も同じだった。列は崩れていないが、誰も余計な声を出さない。
春が縁側から庭へ下りた。
「お帰りなさいませ」
「ああ。戻った」
頼政は春に答え、俺へ目を向けた。
「小徳丸。留守はどうだった」
「大きな騒ぎはありません。父上も皆も、御無事で何よりです」
「槍を振るう場もなかったからな」
頼政は肩を回した。
「大山崎へ着いた時には、もう江口へ入れる様子ではなかった。並ばされ、待たされ、動くと言われて支度をし、また待たされた」
「戦わなくても、疲れるのですね」
「戦わぬまま待つ方が、身体を休める時を決められん」
政虎が兵の列へ目を向けた。
「若い者には、槍を交えぬまま戻る方が堪えたようでございますな」
「倒れた者はいるか」
「おりませぬ」
「ならいい。まず兵と馬を休ませろ」
俺は屋敷へ入ろうとする頼政を呼び止めた。
「父上。日吉丸のことで、後ほどお話があります」
「分かった。話は湯の後だ」
春と弦十郎が人を動かした。
庭では荷が下ろされ、馬が引かれ、外した具足が並べられていく。
帰ってきた者だけでなく、持ち帰った武具や荷まで数えなければならない。
日吉丸の話ができるようになったのは、夜に入ってからだった。
* * *
頼政は湯を使い、着替えを済ませて座敷へ入った。
政虎も残っている。弦十郎は柱際に座り、日吉丸は廊下で待たせてあった。
「それで、日吉丸の話とは何だ」
「家族を朝霧へ呼びたいそうです」
「入れろ」
弦十郎が声を掛けると、日吉丸が座敷へ入り、畳に手をついた。
頼政が先を促した。
「申せ」
「尾張に、おっかあと姉、弟、妹がおります。皆を朝霧へ呼ばせていただきとうございます」
頼政はすぐには答えなかった。
「お前を朝霧へ連れてこさせたのは、小徳丸だ。新九郎に探させてな」
「はい」
日吉丸の肩が、わずかに硬くなった。
「そのために家族と離れたのなら、こちらにも責任がある。呼び寄せることは許す」
「ありがとうございます」
「まだ礼を言うな。家族が来ると決めるかは別の話だ。母御や姉弟が嫌がるなら、無理に連れてくるな」
「はい」
頼政は俺へ目を移した。
「中村まで、誰を出すつもりだ」
「新九郎に頼むことも考えていました」
「新九郎は出すな」
「なぜです」
「甲賀から来た者たちを、今は朝霧へ馴染ませねばならん。探し人の次は尾張、その次は山では、新九郎たちを都合のいい足として使い潰す家に見える」
新九郎自身は、命じれば尾張まで走るだろう。だが、朝霧へ移った甲賀の者たちまで、同じように考えるとは限らない。
「金堀衆の件も、しばらく置け。江口へ人を出したばかりだ。山も穴も逃げはせん」
「後回しにして、いいのですか」
「今は、急ぎすぎる方が危うい。動かす者にも休ませる時は要る」
「分かりました」
金堀衆の話を先へ送りたくはない。それでも、今は頼政の言う通りにするしかなかった。
頼政は日吉丸へ向き直った。
「家族は、中村の同じ家にいるのだな」
「はい。おっかあと姉、弟、妹がおります」
「父は」
「おりませぬ」
日吉丸が俯いた。
頼政はそれ以上聞かず、俺へ顔を向けた。
「なら、小徳丸が行け」
「俺が、ですか」
「連れてこさせたのは、お前だ。母御へも、自分の口で話せ」
「父上は」
「わしは行かぬ。槍は振っておらぬが、江口は江口だ。戻れば戻ったで、兵も荷も改めねばならん。彦九郎も兵庫助も、こちらに置く」
「では、供は」
「弦十郎。小徳丸と日吉丸を連れていけ」
弦十郎の眉が、ほんの少し動いた。
「私一人でございますか」
「人数を連ねて尾張へ入れば目立つ。日吉丸の家族へ話をしに行くのだ」
「帰りには、人数が増えるかもしれませぬ」
「道中で人手が要るなら、宿場で雇え」
「久助は、いかがいたしますか」
「残せ。久助も小徳丸の近くで二年目だ。お前が留守の間くらい、代わりを務めさせろ」
「承知しました」
八風街道を越えて田光へ下り、桑名から川を渡って佐屋へ入る。
そこから東へ向かえば中村だ。
行きは三人でも、帰りには日吉丸の家族が増えるかもしれない。
頼政は俺と日吉丸を順に見た。
「それと、尾張で騒ぎを起こすな」
「起こしません」
「お前にそのつもりがなくとも、揉め事は向こうから来る。何かあっても、すぐ刀へ手を掛けるな」
「はい」
「日吉丸の家族へ話をし、来る者を連れて帰る。それだけだ」
「承知しました」
頼政は日吉丸へ向き直った。
「お前もだ。家族の前で、小徳丸に無理やり言わされたような顔をするな。来てほしいなら、自分の口で話せ」
「話します」
「尾張へ戻って、朝霧へ戻りたくないと思ったなら、それも申せ」
日吉丸が顔を上げた。
「逃げてもよいのでございますか」
「逃げる話ではない。家族に会ったうえで、朝霧へ戻るか、尾張に残るかを自分で決めろ」
「わしは戻ります」
「まだ尾張へ着いてもおらぬ」
「それでも戻ります。家族を呼べるなら、朝霧で働きます」
日吉丸は畳へ両手をついた。
「若様のところで、働かせてください」
頼政は日吉丸を見たまま、少し間を置いた。
「なら、働け」
日吉丸は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼は、家族へ話してからにしろ」
頼政は俺へ目を戻した。
「急いで戻れとは言わん。だが、尾張へ長く留まるな」
「承知しました」
「日吉丸の家族へ、都合のいい話だけをするな」
「分かっています」
「日吉丸が、どうして朝霧へ来たのかも隠すな」
「はい」
「分かったなら、余計な者を連れて帰るな」
「日吉丸の家族だけです」
「今は、そう言っておけ」
弦十郎が小さく息を吐いた。
* * *
翌朝、門の前へ荷を並べた。
人数は、俺と日吉丸と弦十郎の三人だけだ。
米と干し飯、替えの草鞋、手拭い、小さな薬。旅の途中で使う銭も、目立たないだけに抑えた。
弦十郎は刀と短い槍を持つ。
俺は定頼から拝領した太刀を佩き、腰刀も添えた。
日吉丸が太刀を見た。
「若様。尾張では、その太刀を抜かぬでください」
「抜くつもりはない」
「若様は、そう申されても抜きそうでございます」
「俺を何だと思っている」
「若様でございます」
日吉丸の声に、いつもの調子が少し戻っていた。
春は門の内側に立ち、俺たちの支度を見ている。
「小徳丸。無理に急いではなりませんよ」
「分かっております、母上」
「弦十郎。二人を頼みます」
「はっ」
春は日吉丸へ向き直った。
「日吉丸。家族に会ったら、まず無事な顔を見せなさい。言い訳は、その後でいいのです」
「はい」
日吉丸は深く頭を下げた。
頼政は縁側からこちらを見ていた。
「小徳丸」
「はい」
「戻りを急いで、道を誤るな」
「承知しました」
「尾張を見てこい。だが、見た物を何でも朝霧へ持ち帰ろうとするな」
「……はい」
「今の間は何だ」
「何もありません」
弦十郎が、俺より先に頭を下げた。
「私が見ております」
「頼んだ」
俺たちは門を出た。
屋敷の庭には、江口から戻った具足がまだ並んでいる。
頼政たちが帰ったばかりだというのに、今度は俺たちが尾張へ向かう。
山へ入る道には、朝の湿りが残っていた。
日吉丸は俺たちより半歩先を歩いている。
普段なら道の脇へ目をやり、見つけたものを片端から口にするが、今日は前だけを見ていた。
「日吉丸」
「はい」
「家へ戻るのが怖いか」
「少し」
「母親に叱られるからか」
「それもございます」
日吉丸は足元へ目を落とした。
「わしだけ飯を食って、着る物も頂いております。おっかあたちが、どうしているかも分からぬまま」
「なら、会って話せ」
「はい」
前を歩く弦十郎が、そのまま口を開いた。
「若様」
「何だ」
「尾張で、日吉丸の家族以外に目をつけても、勝手に連れ帰らないでください」
「まだ何も見ていない」
「見る前に申し上げております」
「見てからでなければ、連れて帰るかも決められないだろう」
「その返事が一番困ります」
日吉丸が振り返り、俺と弦十郎を見比べた。
「わしも、そう思います」
「お前は、どちらの側だ」
「今は弦十郎殿の側でございます」
山道の先で、風が木々を揺らした。
その向こうに、まだ尾張は見えない。
日吉丸は前へ向き直り、歩みを速めた。




