第41話 動く朝霧
天文十八年(1549年)、六月。
頼政、政虎、政澄は、江口へ向かう六角勢に加わるため、兵を連れて朝霧を発った。
男手と馬が減った屋敷は、いつもより静かだった。人が抜けた分だけ、庭まで広くなったように見える。
それでも、台所では桶が鳴り、女中たちは廊下を行き来していた。
朝飯を済ませた俺は、日吉丸を呼んだ。
「朝霧の内を見て回る。ついて来い」
「はい」
庭へ下りようとしたところで、金堀衆を探しに出していた新九郎が戻ってきた。
「見つかったか」
「二組に当たりをつけました。一組には、石を見られる頭がおります。もう一組は人数こそ揃っておりますが、口が軽うございます」
「口の軽い方は外せ。人数だけ揃っても意味がない」
「承知しました。向山の古穴へ入れるわけにはまいりませぬ」
「残る一組は」
「まだ素性を洗っております。殿がお戻りになるまでには、向山へ入れて差し支えない者か見極めます」
「急がなくていい。石を見る前に、こちらから穴のことを漏らしたら意味がない」
「承知しました」
新九郎が下がると、日吉丸が草履を両手で差し出した。
「若様、温めておきました」
「六月だぞ」
「……はい」
「今は温めなくていい。すぐ履けるよう、向きを揃えて置け」
「はい」
日吉丸は草履を置き直し、俺が足を入れるまで、その横にしゃがんでいた。
庭では、弦十郎が番の者から朝の報告を受けている。
村口を通った荷、山へ入った男、油場へ回した人足。一つずつ聞きながら、時折、門の外へ目をやっていた。
「若様、お出になりますか」
「朝霧の内を見てくる」
弦十郎は、俺の後ろに立つ日吉丸を見た。
「若様の背中ばかり追うな。横と後ろにも目を配れ」
「はい」
日吉丸の背筋が伸びた。
屋敷を出ると、道にはまだ朝の湿りが残っていた。
道脇では、男が箱罠の板を直している。板の端には獣が噛んだ跡があり、そばには縄が二つに分けて置かれていた。
「また餌だけ取られたのか」
「狐か狸ですな。板には触れず、うまいところだけ持っていきよった」
男は苦笑しながら、湿った縄を持ち上げた。
「その縄はまだ使えるか」
「荷を括るくらいなら持ちます。罠へ戻すには、少し心許ありませんな」
「油場で使った縄は」
「外してあります。油の匂いが残っておりますので」
日吉丸が、分けられた縄を覗き込んだ。
「匂いがすれば、獣は逃げるのですか」
「逃げるものもおるし、寄るものもおる。どちらにせよ、いつもと違う匂いは嫌いますな」
俺は板の横へ積まれた古縄を見た。
「今足りないのは、縄か、人か」
「縄です。人手は足りております。古い縄を荷へ回せるなら、罠へ使う分だけ新しい縄が欲しいところで」
「孫兵衛と数を確かめろ。足りない分は出させる」
「分かりました」
油場へ近づくと、女衆の声が飛んだ。
「そこを踏むな。滑るぞ」
年嵩の女が若い女の袖を引き、油のこぼれた場所から遠ざけている。
軒下には、以前より壺と桶が増えていた。
だが、並んでいる数が、そのまま使える数ではないらしい。
「ずいぶん増えたな」
「増えたように見えるだけでございます。すぐに使える物は、それほどありませぬ」
年嵩の女は、軒下に伏せられた壺を示した。
「雨が続くと、乾かす場所がすぐに埋まります。中が湿ったまま油を入れれば悪くなりますし、地べたへ置けば下から湿気が上がります」
「棚が要るな」
「板を渡しただけでは、壺の重みで落ちます。木地師に見てもらえれば助かります」
「後で回す」
日吉丸が軒下へ入ろうとしたが、濡れた土に気づき、足を止めた。少し戻り、乾いた場所を選んで女たちの後ろへ回る。
「澱は混じっていないか」
「分けております。菜種とエゴマも別でございます。ただ、新しく来た者には、壺の字が読めぬ者もおりますので」
「置き場も分けよう。入口側を菜種、奥をエゴマにする。口を縛る縄は、菜種なら一つ結び、エゴマなら二つ結びにしろ」
「触れば分かりますな」
「ああ。今日からそうしろ」
女はすぐに近くの者を呼び、並んだ壺を動かし始めた。
水車場へ回ると、作兵衛が樋の差し込み口を外していた。足元の桶には、泥と葉が溜まっている。
「止めていたのか」
「朝方だけです。差し込み口に溜まったものを除けておりました」
作兵衛は桶の中を見せた。
「樋の奥までは入っておりませぬ。ここで止まっております」
「ならいい」
水は落ち、羽根はいつもの速さで回っていた。軸の音にも乱れはない。
「油場で、壺を乾かす棚が要る。木地師を回すが、金具が必要か見てやってくれ」
「へえ。この掃除が済んだら、昼から見ておきます」
「木や鉄が要るなら、先に言え」
「へえ」
作兵衛は樋の口を戻し、桶の水で手についた泥を洗った。
日吉丸は、作兵衛の手元と回る羽根を交互に見ている。
「まだ回っておるのに、外して見るのでございますか」
「音が変わってから開けたのでは、もう詰まっておる」
日吉丸は羽根を見たまま、小さく頷いた。
山裾へ回ると、茂七が茶の木の前にしゃがんでいた。指先で土を崩し、根元の湿りを確かめている。
「どうだ」
「葉は出てますけど、まだ摘めませんわ」
「なら、触らせるな」
「はい。今摘んだら、木が痩せます」
茂七は根元の草を一本抜き、土を払った。
「風は」
「まともに当たるところだけ、枝を立てて片側を避けます」
「囲わないのか」
「囲うたら、今度は湿りが抜けませんので」
「任せる」
「分かりました」
茂七はもう一度土を指で崩し、そのまま茶の木へ目を戻した。
屋敷へ戻る途中、空桶を提げた若者二人が、油場へ続く道へ曲がりかけた。
一人は甲賀から来た者で、もう一人は近頃移ってきた家の若い男だった。
曲がり角にいた村の子が、二人の桶を見て声を上げた。
「そっちは飲む水じゃないよ」
「水場は、こっちではないのか」
「違うよ。飲む水は向こう」
村の子が道の先を指すと、甲賀の若者は桶を持ち直した。
「すまぬ。助かった」
二人が水場へ向かうのを見送り、俺は曲がり角へ目を戻した。
「ここに目印を置く」
「油場の印でございますか」
「違う。桶を持った者が、飲み水へ向かう道を迷わないための印だ」
「油場へ入るなと書くより、早く分かりますな」
「字が読めなくても分かる形にしろ」
日吉丸は、油場へ続く道と水場へ向かう道を見比べた。
村の中心へ戻ると、針仕事場に使っている空き小屋から、おせんの声が聞こえた。
「その糸は、そちらへ使うな。先に袋を仕上げなさい」
日吉丸が足を止めた。
「揉めておりますか」
「糸の使い道で怒っているだけだ」
小屋の中では、おせんが古布を広げ、女たちに色と厚みを分けさせていた。
今入れば、全員の手が止まる。
俺は戸口の前を通り過ぎた。
「聞かなくていいのですか」
「後で、おせん一人に聞く。今入れば、皆がこちらを見る」
「仕事を止めさせぬためでございますか」
「急ぎでなければ、その方が早い」
屋敷へ戻ると、弦十郎はまだ番の者と話していた。
朝に出た者と戻ってきた者の名を合わせているらしい。
俺を見つけると、報告を切り上げて寄ってきた。
「何かございましたか」
「油場の棚は、木地師と作兵衛に見させる。水場への目印を置くまで、曲がり角へ一人立たせろ。罠の縄は孫兵衛に数を出させる。糸は後で、おせんから残りを聞く」
「承知しました。村口では、新しく入った者の出入りも分けて見させます」
「頼む。父上が戻るまでは、屋敷の番も緩めるな」
「はっ」
弦十郎は番の者を呼び戻し、水場へ立たせる者を選び始めた。
その横で、日吉丸が首を傾げている。
「若様、見て回るたびに、何か見つかりますな」
「そう見えたか」
「はい。縄も棚も目印も、少しずつ足りておりませぬ」
俺は、油場へ走る者と、門で荷を確かめる者を見た。
「前は、足りないと困るほど仕事がなかった」
「仕事がなかったのでございますか」
「人も少なかった。道を間違える者もいなかったし、壺を乾かす場所で困るほど油も出ていない。糸を分けて使うほど、縫う物もなかった」
「増えたから、足りなくなったのでございますな」
「ああ。足りない物が分かれば、まだ直せる。縄を足し、棚を組み、目印を置けば、次の仕事が動く」
日吉丸は少し考え、屋敷から持ち場へ散っていく者たちを見た。
「では、足りない物がなくなれば、もっと仕事が増えるのでございますか」
「その時は、また別の物が足りなくなる」
「いつまでも終わりませぬな」
「終わらないから、見て回るんだ」
頼政も政虎もいない屋敷で、弦十郎の指図を受けた者たちが、それぞれの持ち場へ散っていった。
* * *
その頃、大山崎では、六角勢の列が街道に残っていた。
馬を下りた者はいても、荷駄は列から外されず、兵も槍を抱えたまま待っている。
定頼の本陣には、三好政長討死の報が届いていた。
床几に座る定頼の前には、蒲生下野守定秀、後藤但馬守賢豊、進藤山城守貞治、平井加賀守定武、目賀田摂津守綱清らが控えている。
頼政は政虎と政澄を連れ、末席に座っていた。橘の兵は、本陣の外に待たせてある。
細川右京大夫晴元の行方を追っていた使番が戻り、定頼の前へ膝をついた。
「申し上げます。細川右京大夫様は、公方様父子を奉じ、丹波を経て坂本へ向かわれる由にございます」
「三好は」
「江口に兵を置いております。大山崎へ向かう動きは、まだ見えませぬ」
定秀が口を開いた。
「御屋形様。江口へは、もう」
「入れぬ」
定頼の返事は早かった。
「助ける相手は、もうおらぬ。勝った三好の前へ、こちらから出るだけよ」
定秀は頭を下げた。
賢豊が地図へ目を落とす。
「諸隊は、まだ江口へ向かう列のままにございます」
「崩すな。大山崎に留める」
定頼は諸将を見回した。
「下野守は諸隊へ伝えよ。荷は解かせるな」
「はっ」
「但馬守は物見を出せ。三好が江口を出るか見よ。動けば戻れ。戦うな」
「承知しました」
「山城守、加賀守は各隊へ戻れ。いつでも列を動かせるようにしておけ」
「はっ」
「摂津守は本陣の出入りを締めよ。報は使番から取れ」
「承知しました」
定頼の目が末席へ向いた。
「弥三郎」
「はっ」
頼政が膝を進めた。
「そなたの兵は」
「本陣の外に控えております。槍列も荷駄も崩しておりませぬ」
「そのまま待て」
「承知しました」
命を受けた諸将が立ち上がった。
定秀は伝令を呼び、賢豊は物見を出す道を確かめる。貞治と定武は陣幕を出て、綱清は入口へ向かった。
頼政も本陣を出た。政虎と政澄が後ろに続く。
陣幕の外では、小倉右京亮実房が足を止めていた。
「橘殿」
「右京殿。お久しゅうございます」
互いに頭を下げた。
「その節は、朝霧を拝見いたしました」
「右京殿も御出陣でしたか。御父君は」
「父は後ろの隊におります。私は先に本陣へ出てまいりました」
実房の目が、頼政の後ろに並ぶ兵へ移った。
「こちらが、橘殿の兵でございますか」
「左様にございます」
「あの折は、水車と畑を拝見いたしました。今は、これほどの槍まで揃えられた」
「まだ、働きをお見せする場は得ておりませぬ」
「場がなくとも、橘殿の力が増したことは分かります」
実房はもう一度、橘の列を眺めてから、父の隊がいる方へ戻っていった。
頼政はその背を見送り、政虎へ向き直った。
「彦九郎、槍列は崩すな。兵は組ごとに休ませろ」
「承知いたしました」
「兵庫助、人足と馬を見ろ。水は取らせてよい。飯はまだ広げるな」
「はっ」
政澄は荷駄の方へ下がり、政虎は槍列へ向かった。
橘の兵は槍を手元に置き、組ごとに列の位置を崩さず腰を下ろした。荷駄の脇から人足が離れることもない。
若い兵の一人が、遠ざかる実房の背を見て呟いた。
「よく見ておられましたな」
政虎が足を止めた。
「何をだ」
「我らの槍をでございます。せっかくなら、動くところまで見せとうございました」
隣の男が肘で突いたが、政虎は怒鳴らなかった。
「ならば、次に見せればよい。今は命を待て。勝手に動けば、腕を見せるより先に隙を晒すぞ」
「はっ」
頼政は、そのやり取りを聞いていた。
兵たちは肩を落としていない。江口の方を見る目にも、怯えはなかった。
むしろ、槍を振るう場がなくなったことを惜しんでいるように見える。
「小徳丸がここにおれば、何と言うと思う」
「若様でございますか」
「ああ」
政虎は、並んだ槍を見回した。
「せっかくここまで来たのに、城の一つも落とさず帰るのか、と申しましょうな」
「それだけでは済まぬ」
「そのまま御屋形様のもとへ参り、一働きさせてくだされと願い出るやもしれませぬ」
「……やりかねん」
頼政は短く笑った。
馬を引く者が手綱を持ち直し、荷駄の脇では人足が腰を上げた。
まだ、戻れという沙汰はない。
橘の兵は槍列を崩さず、江口の方を見たまま、次の命を待っていた。




