第40.5話 閑話 日吉丸、飛び出し坊やになる
春は膝に抱いた惟丸の守り袋を結び直し、乱れていた袖口を整えた。
「小徳丸」
「はい、母上」
「明日、永源寺へ参ります」
「永源寺へ、ですか」
「ええ。父上たちの無事を願います。橘に縁の深い寺ですから」
頼政とともに出た政虎と政澄は、まだ朝霧へ戻っていなかった。
「弦十郎は屋敷へ残しますか」
「ええ。皆で朝霧を空けるわけにはいきません。久助を供につけます」
「分かりました」
「日吉丸も連れていきなさい」
「日吉丸もですか」
「あの子を屋敷へ残しても、門の方ばかり気にして仕事にならないでしょう」
日吉丸は朝から何度も庭を横切り、門の外を覗いていた。頼政たちからの報せが来ないか、気になって仕方がないらしい。
俺も同じなので、責める気にはなれなかった。
「俺も屋敷を空けていいのですか」
「あなたも、父上の無事を願っているのでしょう」
「それは、もちろん」
「屋敷で待っていても、報せが早く届くわけではありません。祈れる時に祈っておきます」
春は惟丸の胸元へ守り袋を戻した。
「分かりました。弦十郎には俺から伝えます」
「小徳丸」
「はい」
「明日は見回りではありません。詣でです」
「分かっております」
「道や水場ばかり見て、置いていかれないようになさい」
「……気をつけます」
俺が道を歩くと、どうしても使えそうな場所へ目が向く。春には、すっかり見抜かれていた。
その日のうちに弦十郎へ留守を頼み、久助にも明日の供を伝えた。
日吉丸は永源寺へ行くと聞いた途端、背筋を伸ばして返事をした。その後、また門の外を覗いていた。
* * *
翌朝、俺たちは永源寺へ向かった。
道端の草には朝露が残り、剥き出しになった石の表には薄く苔がついている。山から下りる風には、冷たい川の匂いが混じっていた。
春は惟丸を抱いた女中と並び、足元を確かめながら歩いている。久助は少し先を進み、道の曲がり角と谷側へ目を配っていた。
道の下では、川の水が岩に当たり、白く砕けている。
日吉丸も忙しく目を動かしていたが、久助とは見ている場所が違った。
「若様、川が近うございますな」
「ああ」
「あれだけ水があれば、魚もおりますか」
「いるだろうな」
「大きな魚もおりますかね」
「今日は捕らないぞ」
「捕るとは申しておりませぬ」
「なら、川から離れろ」
「はい」
日吉丸は谷側から離れ、道の中央へ寄った。
しばらくは黙って歩いていたが、寺へ続く石段が見えてくると、今度は首を反らして上を見た。
「永源寺は、大きな寺でございますな」
「昔は、もっと多くの坊が並んでいたらしい」
永源寺は、六角氏頼が寂室元光を迎えて開いた寺だ。
明応の兵火を受け、昔の姿をそのまま残しているわけではない。それでも、山中へ続く石段と堂宇には、長く人が出入りしてきた跡が残っている。
橘も代々、永源寺の禅に帰依してきた。春が頼政たちの無事を願う場所に選んだのも、その縁があるからだろう。
石段の上では青楓が揺れ、濡れた葉の奥へ黒ずんだ石と古い木が続いていた。
「小徳丸、足元を見なさい」
「見ております」
「石段ではなく、脇の水筋を見ていたでしょう」
「……はい」
欠けた石の間から、どのように水を逃がしているのかが気になった。
「滑れば、父上の無事を願う前に、こちらが僧を呼ぶことになりますよ」
「気をつけます」
俺は水筋から目を離し、濡れた石を踏み外さないよう春の後へ続いた。
* * *
寺へ上がると、僧が春へ頭を下げ、静かに堂内へ案内した。
頼政が兵を率いて出ていることは、寺にも伝わっているらしい。
堂内には香の匂いが残り、外から入る光の中で細かな塵が漂っていた。本尊は観世音菩薩だった。
春は惟丸を抱いた女中を少し後ろへ下がらせ、手を合わせる。
俺も隣へ座り、頭を下げた。
頼政が無事に戻ること、政虎も政澄も、連れていった兵たちも、誰一人欠けずに帰ること、朝霧へ戦の火が及ばないこと――願えば、一つでは済まなかった。
隣では、日吉丸も目を閉じ、神妙な顔で手を合わせている。外から子供の声が聞こえると、その目がわずかに開いた。
「日吉丸」
「はい」
「祈るなら、外を見るな」
「見ておりませぬ」
「今、目が開いた」
「声が聞こえましたので」
「耳まで閉じろとは言っていない」
日吉丸は口を結び、もう一度目を閉じた。
春は何も言わなかったが、伏せた顔がわずかに緩んでいた。
* * *
参詣を終えて石段を下りる頃には、朝の冷えも薄れていた。
下の道から馬の鈴が聞こえる。
寺へ上がる者、荷を背負って下りる者、山沿いの道を行く者が、それぞれ足を進めていた。
春は惟丸を抱く女中の隣を歩いている。久助は少し後ろへ下がり、行き交う者と馬へ目を配っていた。
細い横道では、二人の子供が追いかけ合っていた。
逃げる子が笑い声を上げ、後ろの子が追いつこうと腕を伸ばしている。
日吉丸が二人を目で追った。
「混じるなよ」
「混じりませぬ」
返事は早かったが、目は子供たちから離れていない。
やがて、追いかける方を見たまま、日吉丸が口を開いた。
「弟がおりまして」
「尾張にか」
「はい。あれくらいの背で、よう走ります。止まれと言うても、なかなか聞きませぬ」
久助が横道へ目を向けた。
「道へ出る前だけでも、足を止めさせねばな」
「母も、同じことを申しておりました」
「聞いておらなんだのか」
「わしではなく、弟の話でございます」
その直後、逃げていた子供が横道から本道へ飛び出した。
下から、荷を負った馬が上がってきている。
馬子が手綱を引いた。
「危ない!」
声に驚いた子供が、馬の前で足を止める。
日吉丸が駆け出した。子供を引こうと、馬の前へ飛び込む。
久助が横から日吉丸の肩を掴み、強く後ろへ引いた。
馬が首を振り、前脚を踏み替える。
馬子が手綱を引き絞ると、子供はその場へ尻餅をついた。
蹄は、子供のすぐ手前で止まった。
春が惟丸を抱く女中の前へ出た。
「小徳丸。二人を見なさい」
俺は子供のところへ駆け寄った。
尻を打っただけらしく、手足に傷はない。久助に引かれた日吉丸も、肩を押さえているだけだった。
馬子は馬を落ち着かせると、久助へ頭を下げた。
「助かった。もう一歩出ておれば、止められなんだ」
「こちらの者も前へ出ました。馬を驚かせ、申し訳ございませぬ」
久助は日吉丸から手を離した。
俺は日吉丸の前へ立つ。
「助けようとしたことは分かる」
「……はい」
「だが、お前まで馬の前へ出れば、二人とも踏まれる」
「申し訳ございませぬ」
「子供しか見ていなかっただろう」
「はい」
「足が速いことと、間に合うことは違う。周りを見てから動け」
「はい」
日吉丸の顔には、まだ血の気が戻っていなかった。
久助はそれ以上叱らず、馬が横を通り過ぎるまで、日吉丸の肩へ手を置いていた。
飛び出した子供は、声を掛けられてもすぐには止まれなかった。日吉丸も子供だけを見て、馬の前へ入った。
前世で、道端に立っていた板を思い出す。
両手を広げた子供の姿をした、道へ飛び出してくるように見える板だ。目立つ色をつけ、遠くからでも人の姿だと分かるように作られていた。
あれを置けば、必ず事故を防げるわけではない。
それでも、人の形が道の脇へ立っていれば、馬子は早く気づく。走る子供の目に入れば、一歩だけでも足が緩むかもしれない。
「若様」
日吉丸が不安そうに俺を見た。
「まだ怒っておられますか」
「怒っている。だが、別のことも考えている」
日吉丸が黙り込む。
「朝霧へ戻ったら、両手を広げて立て」
「……罰でございますか」
「違う。板の形を見る。さっきの子供と、お前の背丈が近い」
「それだけでございますか」
「それだけだ」
春が小さく息を吐いた。
「小徳丸」
「はい」
「思いついたことを始める前に、まず仏へ感謝なさい。誰も怪我をしなかったのですから」
「はい、母上」
俺は寺の方へ向き直り、もう一度頭を下げた。
それでも、両手を広げた板の姿は、すでに頭から離れなくなっていた。
* * *
朝霧へ戻ると、俺はそのまま木地師を呼ばせた。
大がかりなものを作らせるつもりはない。板を一枚、子供の形に切ってもらうだけだ。
俺の話を聞いた木地師は、しばらく黙ってから首を傾げた。
「若様。椀でも箱でもなく、人の形をした札でございますか」
「札に近い。子供くらいの大きさに切り、道の脇へ立てる。両手を広げて、今にも飛び出してきそうな形にしてほしい」
「その大きさでは、札というより板そのものですな。立てるなら、風を受けても倒れぬよう、杭へ留めるところまで考えねばなりません」
「まず一枚作って試す。日吉丸と同じくらいの大きさで頼む」
木地師は庭にいた日吉丸へ目を向けた。
「形を見るなら、立ってもらうのが早いですな」
「日吉丸。両手を広げろ」
「やはり、わしの板を作るのでございますか」
「子供の形をした板だ。お前は大きさを見るために使う」
「それを、わしの板と申すのでは」
「いいから立て」
日吉丸は納得しないまま庭へ出ると、両手を横へ広げた。
木地師は少し離れて全体を眺めたあと、日吉丸の正面と横へ回った。
真っすぐ立つよりも、片足を前へ出した方が、道へ飛び出してくるように見える。頭も少し大きくし、遠くからでも人の形だと分かるようにする。
木地師が使う板を選び始めたところで、勘次たちが庭へ入ってきた。
「若、日吉丸に何させてるんだ」
勘次は両手を広げた日吉丸を見るなり、その前へ回り込んだ。平助と虎松も、木地師が運んできた板を覗き込む。
「道の脇へ立てる板を作る。遠くから見ても、子供が飛び出してきたように見える形だ」
「それで日吉丸を見てるのか。なら、日吉丸の板だな」
「背丈を借りるだけだ」
勘次が笑うと、日吉丸は両手を広げたまま顔をしかめた。
「若様は先ほどからそう申されますが、どう見てもわしを作っております」
「顔は別に描く」
「若様、顔も描くのですか」
おたまが板の後ろから顔を出した。
勘次はすぐに日吉丸を指した。
「顔なら、そこにあるじゃないか」
「日吉丸なら、もういるからいい」
「では、なぜわしを立たせておるのでございますか」
「大きさを見るためだ。腕はまだ下ろすな」
「先に申してくだされ」
日吉丸は下がりかけていた腕を上げ直した。
木地師は口元を緩めながら、板へ炭で線を引いていく。胴を取り、両腕を横へ伸ばし、片足を前へ出した。
虎松が切りかけの板へ手を掛けると、木地師は鋸を引く手を止めた。
「まだ動かさんでくれ。今ずれれば、引いた線から外れる」
「端を持つだけだぞ」
「端を持てば、そちらだけ浮く。持ちたいなら、切り終わるまで待ってくれ」
木地師は虎松の手を板から離すと、ずれた板を元の位置へ戻した。
目線を作業台の高さまで下げ、炭の線と切り筋を見比べる。わずかなずれが気になったのか、一度置いた板をまた動かし、切り口へ息を吹きかけて木屑を払った。
「そんなに変わらないだろ」
「変わらなく見えるうちに直すんだ。切ってからでは戻せん」
虎松は不満そうに口を尖らせたが、木地師はもう板しか見ていなかった。
何度か端を押して浮きを確かめ、ようやく鋸を引き始める。
形が切り出されると、勘次が板の前へ回った。
「うわ、走ってくるみたいだ。これなら、道でいきなり見たら驚くぞ」
平助は庭の端まで下がり、正面と横から板を眺めた。
「若、正面からは見えるけど、横だと細い。曲がった道に置いたら、何だか分からないかもしれない」
「立てる向きで変わる。道を来る者から広く見えるように置く」
「じゃあ、置く時に見ないとな」
表面へ柿渋を引き、髪と目には墨を使う。小袖は弁柄で赤茶に塗り、乾いたあとで荏胡麻油を薄く擦り込ませることにした。
木地師が顔を描き始めると、勘次がすぐに身を乗り出した。
「目はもっとでかい方がいい。遠くからでも見えるだろ」
「大きすぎたら怖いよ。小さい子が見たら、泣くかもしれない」
おはつが眉を寄せると、おたまも板の顔へ近づいた。
「若様、今くらいでもちゃんと見えます」
木地師は三人の顔を順に見たあと、目の輪郭を少しだけ太くした。
虎松は板と日吉丸を何度も見比べ、首を傾げた。
「やっぱり日吉丸に似てるな。耳は、もう少し出てるけど」
「似せんでいいがや!」
日吉丸の声が庭へ響き、勘次たちが一斉に笑った。
出来上がった板の子供は、赤茶の小袖を着て両手を広げ、片足を道へ踏み出そうとしていた。
勘次が日吉丸と板を見比べる。
「やっぱり日吉丸だ。日吉丸坊やでいいだろ」
「違う。飛び出し坊やだ」
「どっちでも、わしにしか見えんがや!」
また笑いが起こった。
* * *
最初の一枚は、屋敷前を通る道が集落へ入るところへ立てた。
人や荷がよく通り、子供も走ってくる。試すにはちょうどいい。
木地師は杭へ板を留めると、道の先まで下がって正面から眺めた。戻って杭を少し打ち直し、また同じ場所まで下がる。
「まだ曲がっているのか」
「若様のところからは真っすぐでも、道の先から見ると少し左へ傾いております」
木地師は板の横へ戻り、杭の根元を踏み固めた。
赤茶の小袖を着た板の子供が、両手を広げ、今にも道へ飛び出してきそうに見えた。
「若様。こうして道の脇へ立てると、ずいぶん目立ちますな」
「目立たなければ意味がない」
日吉丸も板の横へ立ち、同じように両手を広げた。
「こうでございますか」
「お前まで立つな」
勘次たちがまた笑った。
おはつは板の正面へ回り込み、大きな目を見上げた。
「近くで見ると、やっぱり少し怖いね」
「見ないよりはいい」
その時、屋敷の裏手から小さな子が走ってきた。
転がる木の実を追い、前を見ないまま道へ駆けてくる。
子供は板の手前でふいに足を止め、両手を広げた赤茶の人形を見上げた。
それから周りにいる俺たちへ気づき、少し恥ずかしそうに道の端を歩いていった。
馬も荷車も来ていない。
あの板がなくても、何も起きなかったかもしれない。
それでも、走っていた足は止まった。
日吉丸は道端の板を見上げ、しばらく黙っていた。
「これを、しばらく立てておくのでございますか。わしに似た板が、朝霧の道へ立ち続けるので」
「ああ。似ていないから気にするな」
「似ております」
「飛び出し坊やだ」
日吉丸は板と俺を交互に見た。その後ろで、勘次たちがまた笑い出す。
その日から、朝霧の道端には、日吉丸によく似た飛び出し坊やが立つようになった。
似ていない。少なくとも、俺はそういうことにした。




