第39話 白い糸と古穴
天文十八年(1549年)、六月。
屋敷の蔵へ並べた二十の小壺は、十日も経たぬうちに半分近くが駄目になった。
青や黒の黴が浮いたものは、見つけ次第、外へ出させた。布の下から腐った臭いが漏れた壺も、蔵には戻していない。
それでも、一本の墨線を引いた壺には、白いものが残っていた。
俺が棚の前へしゃがむと、壺を見る役を任せた山仕事の男が、端の一つを指した。
「若様、これは昨日より広がっております」
鋸屑の表を、細い糸のようなものが這っている。
「二本線の方はどうだ」
「残ったのは二つです。ほかは黒くなりました」
榾木から取った木片より、椎茸の内側から取ったものの方がよく残っている。
まだ椎茸の菌だと言い切ることはできない。だが、政所の榾木で見た白いものには似ていた。
「一本線の壺を三つ、棚の端へ移せ。ほかの壺とは離しておけ」
「口は開けず、このままでよろしいですか」
「ああ。もう少し広がったら、新しい鋸屑へ移してみる」
男は壺を一つずつ抱え、揺らさないよう棚の端へ移した。
蔵を出ると、近くの田から声が聞こえた。
短い布を結んだ縄が、泥の上へまっすぐ張られている。一列植え終えるたび、両端の者が墨の印を付けた棒を当て、同じ幅だけ縄を動かしていた。
最初に試すと決めた二枚だけではない。隣の田にも、同じ縄が張られている。
俺に気づいた百姓が、泥の中で腰を伸ばした。
「若様。列が曲がらぬので、植えた場所を見失いません」
「列の間は狭くないか」
「草を取る者にも歩かせました。前より足を入れやすいそうです」
田の中では、別の百姓が布の印へ苗を置いていた。列が揃っているため、植え残した場所は遠目にもすぐ分かった。
その足で、作兵衛の仕事場へ回った。
壁際には、長さを揃えた鍬と鎌の柄が立てかけてある。土間には千歯こきの試作品が置かれ、歯の間隔を変えた三枚の鉄具が並んでいた。
作兵衛は、その一枚を木枠へ当て、歯の並びを確かめている。
「若様、こいつはまだ駄目です」
「どこが悪い」
「へえ。穂を引くと、端へ寄ってしまいます。枠を少し狭めるか、歯の向きを変えにゃなりません」
「三つのうち、使えそうなものはあるか」
「真ん中の間が、いちばんましですな。まず枠を直して、もう一度やってみます」
宮田では、木地師が水路と田の高さを測り、水を上げる水車の寸法を詰めていた。鍬と鎌の柄も、村々で実際に使わせながら、二つの長さへ絞り込んでいる。
屋敷へ戻ると、庭の向こうから日吉丸が走ってきた。
「若様、殿がお戻りです」
「観音寺からか」
「はい。すぐ座敷へ来るようにとのことです」
日吉丸はそれだけ告げると、次の使いへ走った。
座敷へ入ると、頼政はすでに腰を下ろしていた。湯を一口飲み、椀を膝の前へ置く。
「日取りが決まった」
「摂津ですか」
頼政の手が止まった。
「なぜ摂津だと思った」
答える前に、言葉を選んだ。
「観音寺へ上がる前から、三好方と細川方が争っていると聞いていました。六角が兵を出すなら、都の東ではなく摂津かと」
「そこまで聞いておったか」
「摂津へ向かうと決まったことまでは、知りませんでした」
嘘ではない。
頼政は俺を見たまま椀を置いたが、それ以上は問わなかった。
「江口へ向かう六角勢に加わる。六月十八日までに、兵を率いて観音寺へ入れとの仰せだ」
「十日余りですね」
「そうだ。今日から支度を始める」
「父上と彦九郎、叔父上が行くのですね」
「わしが率いる。彦九郎には兵を選ばせ、兵庫助には兵糧を見させる」
「俺は」
「残れ」
頼政は間を置かなかった。
「お前は、まだ戦へ連れていける歳ではない。弦十郎も残す」
「弦十郎には屋敷を任せるのですか」
「ああ。お前は五村を見ろ。わしと彦九郎、兵庫助がいない間、領内で何かあれば、お前が決めるのだ」
春と惟丸は屋敷に残るが、頼政だけでなく政虎と政澄まで出れば、家中の実務を担う者が一度に三人いなくなる。
「残る兵の持ち場は、弦十郎と決めます」
「ああ。その後で五村を回れ。出る兵と荷はこちらで見る」
「分かった」
「出立まで十日余りだ。今日から動け」
「はい、父上」
座敷を出ると、庭では兵を集める声が飛び始めていた。
江口。
俺の記憶どおりなら、六角勢が着く前に戦は終わり、頼政たちが槍を交えることもないはずだ。
それでも、兵を出せば米も銭も使う。十日余りで人と荷を揃え、観音寺まで運ばなければならない。
その日のうちに、政虎が出陣させる兵を庭へ集めた。
名を呼ばれた者が列を離れ、政虎の前へ進み出る。呼ばれなかった若い兵が半歩前へ出ると、政虎はすぐに目を向けた。
「お前は西の番に残れ。出る者の穴を誰かが埋めねばならん」
若い兵は口を結んだが、頭を下げて列へ戻った。政虎は次の名を呼ぶ。
俺は縁に腰を下ろし、その様子を見ていた。少し後ろには弦十郎が控えている。
「弦十郎。出たかったか」
「命があれば出ます。残れと言われれば残ります」
「惜しくはないか」
「出る兵より、残る兵の持ち場を考えております。屋敷と五村を空けるわけには参りません」
「では、頼む」
「はい」
政虎は長槍の組と弩の組を分け、出る者へ武具と持ち場を告げていった。普段から同じ番で訓練しているため、組み替えにも迷いがない。
その横に、火縄銃を持つ組はまだなかった。
一挺買えば済む話ではなかった。玉と火薬を切らさず用意し、雨から守り、壊れれば直せる者まで要る。今の稼ぎだけでは、とてもその数は揃わない。
油と茶に続く、もう一つの銭の道が要る。
「久助」
庭の端にいた久助が寄ってきた。
「新九郎を呼んでくれ」
「はっ」
久助が庭を出ようとすると、日吉丸が声を掛けた。
「わしも行きます」
「日吉丸は屋敷に残れ。今は中の使いをまとめてくれ」
「久助殿より早く走れます」
「速さではなく、戻った報せを誰へ回すかを任せる」
「……分かりました」
日吉丸は庭に残り、次の使いを呼び止めた。久助は近くの兵へ行き先を告げてから走っていく。
新九郎は、ほどなく姿を見せた。
「若様、お呼びで」
「前に話していた山は、どうなった」
新九郎は庭に並ぶ兵へ目を向けた。
「出陣の支度が始まった日に、山の話とは思いませなんだ」
「兵を動かすだけでも銭が出る。火縄銃を揃えるなら、なおさらだ」
「それは、ごもっともで」
新九郎は縁の端へ腰を下ろした。
「近いところなら向山でしょうな。甲津畑から千種へ抜ける山道の近くに、昔、人が掘った穴があると聞いております」
「小倉の領分か」
「そこまでは分かりませぬ。ただ、近うございます。人を入れれば、いずれ耳には入りましょう」
「隠し通せるとは思っていない。古穴と山道を見に行く。鉱山を探しているとは触れ回るな」
「小倉に問われた時は」
「見たままを答えればいい。古穴を見ただけで、鉱かどうかは決められない」
「金堀衆へ見せるおつもりで」
「ああ。俺達じゃ分からんだろう」
新九郎は頷いた。
「奥の蛇谷にも噂はありますが、あちらは若様を軽くお連れできる場所ではございません」
蛇谷。その名には、銀山という覚えがあった。
だが、山の名を知っていても、どこを掘れば銀が出るかまでは分からない。
「向山なら、掘れると思うか」
「私には分かりませぬ。慣れた金堀でも山を外します。古穴があっても、鉱の筋とは限りません」
「金堀衆への伝手は」
「取り次げそうな者はおります。ただ、銭の匂いがすれば、余計な者も寄ってきましょう」
「まず取次だけ頼む。本決まりは父上へ通す」
「承知いたしました」
「向山への道は、おりんへ伝えておけ。久助にも支度をさせろ」
「久助殿を護衛につけるので」
「ああ。弦十郎は屋敷に残す。久助には、山で俺の側を守らせる」
「かしこまりました」
* * *
向山へ行く話をすると、頼政はすぐには頷かなかった。
「出陣の支度が始まった今、山へ入るのか」
「出立まで十日余りあります。金堀衆を呼ぶ前に、古穴と道だけ見ておきたいのです」
「鉱山か」
「そのつもりです。ただ、まだ何があるかも分かりません」
「小倉に近いのだな」
「はい。こちらが動けば、いずれ伝わります」
脇にいた政虎が腕を組んだ。
「古穴を探っていると知れば、小倉が黙っておりますかな」
「黙らぬだろうな」
頼政は俺へ顔を向けた。
「銭になる石があったとして、お前に見分けられるのか」
「分かりません。今回は、金堀衆を連れていく価値がある場所か確かめます。うまく当てられれば、また銭になります」
政虎が小さく息を吐いた。
「七つの子が申すことではございませんな」
頼政は話を戻した。
「誰を連れていく」
「おりん、孫兵衛、久助。それに供をつけます」
「弦十郎は」
「屋敷へ残します」
「山へ入るのだぞ」
「久助を護衛につけます。父上たちが出た後まで考えれば、弦十郎は屋敷に必要です」
「久助に任せられるのか」
「衣掛へ入った時も、俺の側についていました。山にも慣れています」
「それでも弦十郎を残すのだな」
「はい」
頼政はしばらく黙った。
「夕までには戻れ」
「はい、父上」
* * *
翌朝、俺はおりん、孫兵衛、久助と供を連れ、向山へ向かった。
頼政と政虎、政澄は屋敷で出陣の支度を進め、弦十郎も朝霧に残している。
山へ入ると、おりんが先頭に立った。久助は俺のすぐ後ろにつき、孫兵衛と供がその後へ続く。
「沢を二つ越えます。二つ目から右へ上がると聞いております」
おりんは沢沿いの踏み跡へ入り、土に残った跡を見ながら進んだ。
「新しい人の跡はありません。ここしばらくは、獣しか通っていないようです」
「道は使えるか」
「今は通れます。ただ、雨が続けば沢側から崩れます」
「別の道は取れそうか」
「上の斜面から回れるかもしれませんが、穴まで行ってから見た方がよいかと」
「まず穴へ行こう」
再び歩き始めると、久助は俺の歩みに合わせながら、斜面と木の間へ目を配っていた。
しばらく登ると、踏み跡が木の間を大きく曲がった。
「ここへ荷は通せるか」
孫兵衛は道幅を確かめ、曲がりの先まで歩いて戻ってきた。
「人なら通れます。馬は荷が木へ当たりますな」
「今のままでは、人に背負わせるしかないか」
「はい。大きな石を運ぶなら、木を切って道を広げねばなりません」
「鉱があるかも分からんうちから、そこまではできない」
「まず石を見てもらうことでしょうな」
沢の音が大きくなり、木の間から湿った岩肌が見えた。その脇に、草へ半ば埋もれた窪みがある。
穴と呼ぶには浅い。だが、自然に崩れたにしては、奥の形が揃っていた。
おりんが膝をつき、入り口の草を払った。久助は俺の前へ半歩出て、窪みの奥を覗いた。
「人や獣が潜んでいる様子はありません」
「ここが古穴か」
久助が脇へ退くと、おりんが頷いた。
「かなり古うございますが、ただ崩れただけではありません」
孫兵衛も身をかがめた。
「昔の者が石を取ろうとしたのでしょうな」
「鉱か」
「そこまでは、私には分かりません」
岩肌には、黒とも赤ともつかない石の中へ、白い筋が何本か走っている。
銀山や鉛のことを知っていても、石を見分ける目まではなかった。
「この前では、人を働かせられないな」
俺が窪みの前を見渡すと、孫兵衛が足元を確かめた。
「掘った石を置けば、通る場所がなくなります。少し戻ったところに平らな場所がございました」
「人を休ませ、荷をまとめるなら、あそこか」
「はい。沢から水も取れます。ただ、小屋を置くなら斜面側でしょうな。増水すれば、沢際は使えませぬ」
久助は俺の脇に立ったまま、戻ってきた道へ目を向けた。
「平場から先は、こちらの姿が見えにくくなります。人を置くなら、道の曲がりにも見張りが要ります」
「人が入り始めれば、護りも考えなければならないか」
「はい。若様や荷を狙う者が出ぬとも限りません」
孫兵衛も後ろの道を見た。
「平らなところまでは道を広げられます。その先は、人が背負って運ぶしかありますまい」
「金堀衆には、穴だけでなく平場と道も見せる」
「掘る話になれば、使える場所か向こうが決めましょう」
おりんは古穴の前から山道を振り返った。
「ここへ人が通い始めれば、すぐに目につきます」
「小倉の耳にも入るか」
「銭になるか分からぬうちでも、山へ人が入れば噂になります」
「今は、見た者だけに留めろ」
「承知いたしました」
俺は岩肌を見上げた。
「蛇谷は、さらに奥か」
孫兵衛が首を横へ振った。
「まだ奥でございます。今日のようには参れません」
「まず向山を金堀衆へ見せる。それからだ」
俺たちが岩肌を眺めていても、これ以上は分からない。
「戻る」
孫兵衛が古穴から顔を上げた。
「もうよろしいのでございますか」
「穴と道は見た。あとは金堀衆を連れてくる」
「殿には、そのように」
「ああ。呼ぶ話を通す」
おりんが、払った草を窪みの前へ戻した。
「外で問われた時は」
「古穴と山道を見ただけだ。それ以上は何も決まっていない」
孫兵衛が沢の上へ続く斜面を見上げた。
「帰りに、上から回れる道がないか見て参りましょう」
「皆で動く。久助から離れるな」
おりんは短く頷き、元の道を下り始めた。俺の横へ久助がつき、孫兵衛と供も続き、古穴をあとにした。




