第36話 雪の政所で祖父母に会う
朝霧を出た時、空は白く曇っていた。
雪は降っておらず、風も弱い。ところどころに雪の残る畑沿いの道を進むと、遠くから犬上川の水音が聞こえてきた。
弦十郎は俺の半歩前を歩き、凍った場所を見つけるたびに足元を示した。
「若様、雪がなくとも、日陰は凍っております。お気をつけください」
「分かっている」
「今朝も同じことを申されましたな」
「今度は転ばない」
「転んでからでは遅うございます」
前を歩く頼政が振り返った。
「弦十郎。小徳丸が黙っていても、寒そうなら止めろ」
「承知しております」
「父上まで言わなくても大丈夫です」
「昨日も同じことを言っておった」
玄恵が頼政の隣から口を挟んだ。
「兄上も、人のことばかり言えますまい。雪が降り始めても、行けると見れば止まらぬでしょう」
「降ってもいないうちから騒ぐな」
「その返しも昔のままですな」
頼政は答えず、歩みを速めた。
昼前になると、山から冷たい風が吹き下ろしてきた。
細かな雪が袖に張りつき、ほどなく頬を横から打ち始める。道の先も薄く霞み、畦と畑の境が見えにくくなった。
頼政が足を止め、前後の道を見比べた。
「政所まで進む」
「戻らないのですか」
「ここからなら、政所の方が近い。道が隠れる前に着くぞ」
玄恵が空を見上げた。
「政所へ着く前に雪が強くなれば、引き返す道もなくなります」
「だから急ぐ」
「やはり、止まるおつもりはありませんな」
頼政は聞こえなかったように歩き出した。
雪はすぐに道を白く覆った。踏み固められた土と、脇の柔らかな場所との境も分からない。
雪の下で石が転がり、俺は前へつんのめった。
弦十郎が腕を掴み、倒れる前に引き戻す。
「若様、私の後ろへ。私が踏んだところから外れませぬよう」
「分かった」
弦十郎は足で地面を探りながら進み、石や窪みを見つけるたびに止まった。俺が同じ場所を越えたのを確かめてから、また先へ進む。
風が吹くたび、前を歩く頼政の背が白く霞んだ。
「弦十郎。本当に政所の方が近いのか」
「はい。今から瑞照寺へ戻るより近うございます。朝霧は、さらに遠うございます」
「そうか」
もう進むほかない。
玄恵は肩の雪を払いもせず、頼政の背へ声を掛けた。
「兄上は昔から、進めると決めれば止まりませぬ」
「その話は着いてからにしろ」
「着けば、都合よく忘れられます」
「黙って歩け」
「はい」
こんな兄弟の話は、火鉢の前で聞きたかった。
しばらく進むと、弦十郎が顔を上げた。
「屋敷が見えます」
白い空の下に、古びた屋根が浮かんでいた。
こちらに気づいた家人が、屋敷から駆けてくる。
「弥三郎様!」
頼政は足を止めずに命じた。
「火を強くしろ。濡れた衣と足袋を替えさせよ」
「はっ」
* * *
土間へ入った途端、肩や蓑から雪が落ちた。袖は水を吸って重く、足袋の中まで冷え切っている。
弦十郎が俺を火のある方へ連れていく。
「若様、先に足を温めてください」
「お前も替えろ」
「若様が済んでからにいたします」
「倒れられたら、帰りに困る。片足だけでも先に替えろ」
「……承知しました」
外では、さらに風が強くなっていた。戸板が鳴り、開いた戸口から細かな雪が吹き込んでくる。
奥から、髪に白いものの混じった男が出てきた。背筋は伸び、足取りもしっかりしている。
男は頼政から俺たちの濡れた姿を順に見て、最後に玄恵へ目を止めた。
「雪の日に連れてきたか」
橘弥右衛門政秀。
頼政の父で、俺の祖父だ。
頼政が濡れた袖を払った。
「出た時は、まだ降っておりませんでした」
「降り始めても戻らぬのが、お前だ」
「ここまで来れば、政所へ進む方が近うございました」
「お前は昔から、そう言って先へ進む」
玄恵が頭を下げた。
「御無沙汰しております、父上」
「久しいな。お前が弥三郎と揃って来たとなれば、ただの顔見せではあるまい」
頼政はすぐには答えず、俺の背を押した。
「小徳丸。爺様に挨拶せよ」
「小徳丸です。初めてお目にかかります、爺様」
政秀は俺の顔を見た後、濡れた足元へ目を落とした。
「よう来た。話は温まってからだ」
奥から、小柄な女が足早に出てきた。
「まあ。小徳丸ですか」
松乃。
頼政の母で、俺の祖母だ。
「はい。初めてお目にかかります、婆様」
「挨拶は後でよいのです。こちらへいらっしゃい」
頼政が口を挟む。
「母上。先に濡れたものを」
「そのために呼んでおります。弥三郎は人の心配をする前に、自分の上着を替えなさい」
松乃は俺の頬についた雪を払い、火鉢のそばへ座らせた。濡れた上着を替えさせ、温かな湯を持ってこさせる。
弦十郎が一歩下がると、松乃はすぐに気づいた。
「そちらも濡れているでしょう。足袋を替えて、湯を飲みなさい」
「私は若様の供にございますので、後で構いませぬ」
「供が倒れれば、小徳丸が困ります」
「……恐れ入ります」
湯呑みを両手で包むと、冷え切っていた指が痛み始めた。しばらくして頬の感覚も戻り、火鉢の熱が体の中まで入ってくる。
全員が着替え終わるのを待ち、政秀が火鉢の向こうへ座った。
「それで、何があった」
頼政は、朝霧への襲撃から手打ちに至った経緯と、その夜に俺が正綱と吉規を討たせたこと、笠松と酒井を押さえた後の処置まで、順を追って話した。
政秀は途中で口を挟まず、頼政の話を聞き終えた。
「長次郎と左近は、二人とも死んだのだな」
「はい。小徳丸が手の者に命じ、二人を討たせました。わしが知ったのは、その後です」
政秀の目が俺へ移った。
「小徳丸。間違いないか」
「はい。俺が命じました」
政秀は頼政へ目を戻した。
「理由も聞いたのか」
「聞きました。承知したわけではありませんが、起きたことは戻せません」
「そうか」
政秀はそれ以上、二人を討った経緯を問い返さなかった。
「残った家はどうした」
「笠松家は立てません。酒井家は分家の者に継がせました。茂兵衛と右近は、家中へ入れます」
「笠松の者は」
「玄恵に預けます」
頼政が玄恵へ顔を向けた。
「還俗させ、橘へ戻します」
「寺へ入れた弟を戻し、空いた瑞照寺は儂に見ろというわけか」
「永源寺へ後任を頼みます。それまで、瑞照寺を預かっていただきたい」
政秀は頼政へ答えず、玄恵を見た。
「お前は、すでに引き受けたのか」
「はい」
「寺を出て、初めに預かるのが笠松の残った者だ。楽な役ではないぞ」
「承知しております」
「弥三郎に頼まれたから受けたのか」
「それだけではありません。笠松家を立てぬなら、残った者には別の預かり手が要ります」
政秀は俺へ目を移した。
「小徳丸。玄恵に預けた後は、すべて任せるのか」
「いいえ。叔父上が聞き取ったことと、こちらで調べさせたことを合わせて決めます」
「言葉だけでは見誤るぞ」
「分かっています」
「なら、どの家に属していたかではなく、本人が何をしたかで見ろ。命じられて動いた者と、自ら進んで加わった者を同じにするな」
「はい」
政秀は玄恵にも言った。
「お前も、本人の話だけで決めるな。別の者にも確かめよ」
「承知しました」
外で風が唸り、戸板が強く鳴った。
政秀は火箸で崩れた炭を寄せた後、頼政へ答えた。
「分かった。雪が落ち着いたら、儂が瑞照寺へ入る」
「かたじけない」
「礼は要らぬ。橘の菩提寺を空けたままにはできん」
松乃が鍋の置かれた方へ立ち上がった。
「話が決まったのでしたら、今夜は粥にしましょう。干したきのこを入れれば、体も温まります」
「母上。まだ話が」
「この雪では、今夜は動けません。続きは粥を食べてからにしなさい」
頼政は戸を鳴らす風を聞いた。
「今夜はこちらへ泊めていただきます」
「初めから、そのつもりで火を焚かせています」
* * *
日が暮れてから出された粥には、細く裂いたきのこが入っていた。
肉や魚は入っていないが、噛むほどに濃い味が出る。椀の中を見ている俺に気づき、松乃が笑った。
「裏の山で採れたものです。爺様が、きのこの出る場所を知っております」
「知っておるだけだ。育てているわけではない」
政秀がすぐに口を挟んだ。
「きのこの出た木を、湿り気のある場所へ集めているでしょう」
「木を動かしただけだ」
「毎年、出たかどうか見にも行かれます」
「山を見るついでだ」
「去年は採りすぎたと、残念がっておられましたね」
「あれは人が来たからだ」
どうやら政秀は、きのこを育てているとは認めたくないらしい。
松乃が俺の椀へ粥を足そうとした。
「婆様、もう十分です」
「遠慮をしているのではありませんか」
「本当に腹がいっぱいです」
「そうですか」
松乃は杓子を鍋へ戻した。
「笠松の者を残すのであれば、食べさせる米も考えておきなさい」
「朝霧へ戻ったら、蓄えを確かめます」
「斬らずに済ませるだけでは、冬は越せませんからね」
「はい」
「分かっているなら、今は粥を食べなさい。冷めています」
「はい」
雪が戸を叩く中、政所の屋敷には粥の湯気が満ちていた。
* * *
翌朝には雪がやみ、風も静かになっていた。
朝の食事を終えると、政秀は俺を裏山へ連れ出した。頼政と玄恵が続き、松乃も後からついてきた。
斜面の窪みには、朽ちかけた木が数本寄せてあった。木肌は黒く湿り、積もった雪を払うと細かな割れ目が見える。
政秀は一本の前で足を止めた。
「風が抜けすぎれば乾く。水が溜まれば腐る。木を置くなら、このくらいの場所がよい」
周囲の木立が風を遮り、斜面には水も溜まっていない。
「この木には、まだ出ておらぬ。出た時も、採り尽くさずに残せるだけ残す」
「全部採ってしまう年もございますけれど」
松乃が後ろから言った。
「余計なことを言うな」
「去年のことでしょう」
俺は黒く湿った木肌を見た。
「爺様。残しておけば、また出るのですか」
「出ることもある。木が腐りきれば終わりだ」
「出なくなった木は替えるのですか」
「そうだ。すぐに出る木もあれば、何年置いても出ぬ木もある」
政秀は別の木を足で示した。
「人の思ったとおりになるものではない。置く場所を選び、どの木に出たか覚えておくだけだ」
昨日の粥に入っていたきのこも、こうして集めたものなのだろう。
政秀はそれ以上きのこの話を続けず、屋敷へ戻った。そのまま蔵へ入り、米俵の奥に積まれた木箱を一つ下ろした。
蓋を開けると、中には古い紙の束が収められていた。
「瑞照寺で橘の法要を営んだ時の控えだ」
政秀が広げた紙には、家の名と供えた品が並んでいる。墨が薄れ、読みにくくなった箇所もあった。
政秀が一つの名を指で叩いた。
「この家を見よ」
「同じ名が、何度もあります」
「長次郎が生まれる前から、瑞照寺へ米を出しておる家だ」
「笠松に仕えていた家ですか」
「そうだ」
別の年の控えにも、同じ名が残っていた。
「笠松に仕える前から橘と縁のあった家もある。笠松家に属していたからといって、それ以前の縁までなくなるわけではない」
政秀は紙を重ね直し、玄恵へ差し出した。
「笠松家を立てぬことと、関わった者をすべて捨てることは違う。お前が預かるなら、これも持っていけ」
「よろしいのですか」
「瑞照寺に残した控えは別にある。これは橘家の分だ」
「では、お預かりします」
玄恵は両手で受け取った。
「名だけで決めず、今の家の者にも会って確かめます」
「そうせよ」
政秀は木箱の蓋を閉じた。
* * *
昼前には、朝霧へ戻る支度が整った。
松乃は干しきのこを布で包ませ、俺へ持たせる。
「朝霧で食べなさい」
「ありがとうございます、婆様」
「また来るのですよ。今度は雪のない日に」
頼政が横から答えた。
「次は雪のない日を選びます」
政秀が鼻で笑う。
「お前が言っても信用ならぬ」
「次は空を見て決めます」
「昨日も空を見て出たのであろう」
「父上」
俺は笑いそうになり、口元を引き締めた。
松乃は俺の襟元を直し、きのこの包みを持ち直させる。
「小徳丸。重ければ、弦十郎に渡すのですよ」
「これくらいなら持てます」
「寒くなった時も、同じことを言ったのではありませんか」
「今日は本当に大丈夫です」
「なら、無理になる前に言いなさい」
「はい」
屋敷を出ると、雪の止んだ道が朝霧へ向かって延びていた。
昨日の足跡は雪に埋まり、朝の光を受けた白い道の上へ、俺たちの新しい足跡が続いていった。
松乃に持たされた干しきのこの包みを抱え直し、俺は頼政の後を歩いた。




