第35話 百済寺への報告
その日の夕刻、廊下の向こうで雪を踏む足音が止まった。
障子の外に膝をついた使いが、百済寺からの返答を伝えた。
「明朝、お越しいただきたいとの仰せにございます」
頼政は使いを下がらせると、俺を呼んだ。
「小徳丸。明朝、百済寺へ行け。手土産は、年始の挨拶に足るだけでよい」
「はい」
「話す筋は、昼に決めた通りだ。討ったことも、その後に決めたことも隠すな。ただし、寺に決め直してもらう話にはするな」
「分かっています」
「供養や布施を求められても、その場では約束するな。話を聞いて持ち帰れ」
「承知しました」
頼政はそこで口を閉じた。俺も立ち上がり、明朝の支度をするために広間を出た。
* * *
翌朝、俺は弦十郎と久助を連れ、朝霧を発った。
日吉丸と下人には、米と菜種油、茶、木地師の器を持たせている。荷を背負った日吉丸が、歩きながら俺へ尋ねた。
「若様、五村のことを話しに行くにしては、品が少なくありませんか」
「仕置きの礼ではない。年始の挨拶だ」
「同じ日に持っていっても、別のものなので?」
「別だ。ここで多く渡せば、五村を押さえた礼を持ってきたと思われる」
日吉丸は背負い紐を握り直した。
「では、足りぬと言われても増やさぬのですな」
「今日はな。別に求めるものがあるなら、何を求めているのか聞いて帰る」
昨夜の雪は、畦や木の根元に残っていた。人の通った跡を選んでも、草鞋の先から冷たさが染みてくる。
木立の向こうに山門が見えると、以前、頼政に抱かれてここへ来た時のことを思い出した。
「百済寺へお越しになったことがあるのですか」
久助に問われ、俺は山門を見上げた。
「ああ。まだ歩けなかった頃にな。堂の暗さと、木の観音は覚えている」
「幼い頃のことを、よく覚えておられますな」
「貫主が父上へ、木を伐るなら次に残すことも考えろと言ったこともな」
久助は山門へ目を向けた。
「では、話の分からぬ御仁ではないと」
「以前と同じならな」
若い僧に案内されて奥へ進むと、正面に座っていたのは、以前に会った老僧ではなかった。
俺が名乗って年始の挨拶を述べると、僧は自らが百済寺を預かる貫主であると告げた。
「以前お目通りした貫主様は、おられないのでしょうか」
「先代は、昨年亡くなられた」
「存じ上げませんでした。失礼いたしました」
俺は改めて頭を下げた。
先代へ報告するつもりで来たが、相手は変わっている。日吉丸と下人が持参した品を並べ、壁際へ下がった。
「朝霧より、年始の御挨拶の品にございます」
新しい貫主は、米俵、油の壺、茶、器を順に見た。
「朝霧は、以前とは見違えたと聞いておる。菜種から油を取り、西へ通じる道でも商いをしておるそうだな」
「まだ、村の者が食いつなげるようになったところにございます」
「以前の朝霧を知る者には、謙遜には聞こえぬな」
貫主は品から俺へ目を戻した。
「郷内の仕置きについて、報告があるそうだな」
「はい。笠松の正綱と、酒井の吉規を討ちました」
「両家の当主を、どちらもか」
「笠松家は立てません。酒井家は分家の者に継がせました。宮田と志野原も、今後は橘が預かります」
貫主は俺の後ろに控える弦十郎と久助へ目を移した後、膝の上の数珠を一つ送った。
「橘が五村を束ねると定めたのだな」
「はい」
「正月早々、郷内で二家の当主が死んだ。残された者の弔いも要ろう」
「そのことは承知しております」
「笠松も酒井も百済寺郷の者だ。十分な供養をするなら、灯明も経も要る。橘が五村を預かる以上、百済寺へも相応の礼があろう」
俺はすぐには答えなかった。
「仰せの礼とは、正綱と吉規の供養を百済寺へ任せよ、ということでしょうか」
「二人だけではない。此度のことで死んだ者がおる。残った者だけで、皆の弔いを整えるのは難しかろう」
「それぞれの家には、縁のある寺がございます。橘の仏事についても、永源寺へ伺います」
「百済寺には任せぬと申すか」
「百済寺郷で血が流れた以上、百済寺と無関係だとは申しません。必要な弔いについて御考えがあるなら、伺って父上へ伝えます。ただし、誰に家を継がせ、誰を村へ戻すかは、橘が決めます」
貫主の指が数珠の上で止まった。
「百済寺郷の仕置きを、寺へ諮らず決めたのだな」
「はい。武家の仕置きは、橘が責めを負って決めました」
「報告には来るが、寺の沙汰は受けぬと」
「仕置きの許しをいただきに参ったのではございません。されど、郷内で起きたことを知らせずに済ませるつもりもございません」
部屋の外で風が吹き、軒から雪が落ちた。
貫主はしばらく俺を見ていたが、やがて数珠から手を離した。
「よい。報告は受けた」
「承知しました」
「百済寺への礼については、改めて橘弥三郎と話そう。郷内が再び乱れることのないようにな」
「父上へ、そのように伝えます」
俺は頭を下げ、百済寺を辞した。
山門から離れたところで、日吉丸が後ろを振り返った。
「若様。あの御方は、供養の話だけをされていたのですか」
「そう聞こえなかったか」
「初めはそう思いました。ですが、笠松と酒井をどうしたかまで、寺で決めたかったようにも聞こえました」
「だから、どこまで百済寺へ任せるのかを答えた」
「寺領で暮らしているなら、寺の許しを得るものではないので?」
「寺が関わることならな。だが、酒井を誰に継がせるかまで寺へ任せれば、橘が五村を預かるとは言えない」
日吉丸は少し歩いてから、もう一度口を開いた。
「知らせるために来たのであって、決めていただくためではなかったのですな」
「ああ。どちらも寺へ来て話すことに変わりはない。だから、混ぜないようにする」
日吉丸は頷き、下人の後ろへ戻った。
* * *
朝霧へ戻ると、頼政は広間で待っていた。上田から戻った政虎も、脇に控えている。
俺が先代貫主の死を伝えると、頼政はしばらく黙った。
「昨年か」
「はい。今の貫主は、五村を預かるなら百済寺へ相応の礼があるだろうと申しました」
「供養の話から、仕置きへ口を入れてきたか」
「誰に家を継がせるかは橘が決めると返しました。百済寺との縁まで否定したわけではありません」
「それでよい。礼については、わしと改めて話すと言ったのだな」
「はい」
「ならば、こちらから縁を切る必要はない。だが、仕置きを渡す必要もない」
頼政は政虎へ向き直った。
「彦九郎。百済寺へ出入りする者の様子を見ておけ。とくに、これまでより人を出すようになった家があれば知らせろ」
「出入りそのものは止めますか」
「止めるな。参詣か、別の用向きかも分からぬうちから塞げば、隠れて動くだけだ」
「承知いたしました」
政虎が頭を下げると、頼政は上田での話を尋ねた。
「叔父上は何と申された」
「此度の仕置きに異は唱えられませんでした。ただ、六角へは早く知らせるようにとのことにございます」
「先触れは出してある。返事を待つ間も、郷内から目を離すな」
「はっ」
頼政は立ち上がった。
「小徳丸。瑞照寺へ行くぞ」
「今からですか」
「遠くはない。笠松の者を、いつまでも仮小屋へ置いてはおけん」
「笠松の家中を見させると仰っていた方が、瑞照寺にいるのですか」
「ああ。玄恵だ」
頼政はそれ以上話さず、俺とともに瑞照寺へ向かった。
* * *
瑞照寺は山の端に寄るように建つ、小さな寺だった。門から堂までの雪は細く除けられ、その道の先に一人の僧が立っていた。
「兄上」
僧が静かに頭を下げる。
「玄恵」
頼政が名を呼んだ。
玄恵は頼政より少し若く、頬は細かったが、目元や鼻筋には似たところがあった。
俺へ向き直った玄恵が、しばらく顔を見た。
「そちらが小徳丸か」
「はい。小徳丸にございます」
「甥の顔を一度見たいと思っていた。ようやく会えたな」
「俺も、叔父上にお会いしたいと思っていました」
「叔父上か。寺では、そう呼ばれることもないからな」
玄恵はわずかに笑い、俺たちを奥へ通した。
茶が置かれると、頼政は前置きをせずに切り出した。
「正綱と吉規を討った」
「二人ともですか」
「ああ。笠松家は立てぬ。酒井は分家の者に継がせた」
「茂兵衛殿と右近殿は」
「橘の家中へ入れる」
玄恵は頼政の言葉を聞き終えると、俺へ目を向けた。
「小徳丸も、その場にいたのか」
「二人が討たれた時は、朝霧にいました。ですが、討つよう命じたのは俺です」
玄恵は頼政へ視線を戻した。
「兄上はご存じだったのですか」
「知らなかった。すべてが終わってから聞かされた」
頼政は茶へ手を伸ばさないまま続けた。
「玄恵。還俗して橘へ戻れ」
「私を、ですか」
「残った笠松の者を預ける。橘の家中へ残せる者か、お前が見ろ」
玄恵は答えず、しばらく頼政を見ていた。
「笠松の者は、今どこにおります」
「朝霧の仮小屋だ。一族と郎党は分けている」
「長次郎殿に従っていたというだけで、すべて外すおつもりですか」
「それを分けるために、お前へ預ける」
「私が残せぬと申せば、どうなされます」
「何をした者かは、こちらでも確かめる。お前の一言だけで処分は決めぬ」
「では、私に何を見ろと」
「当主を失った後も正綱の名で争おうとする者か、武器を置いて橘の下で働ける者かだ」
玄恵は今度は俺へ尋ねた。
「小徳丸も、同じ考えか」
「はい。叔父上の判断を聞かずに残すつもりはありません。ただ、残せないという言葉だけで斬るつもりもありません」
「兄上ご自身が見ればよいのでは」
「わしは正綱を討ち、笠松家を潰した当主だ。わしの前では話せぬこともある」
「私は、その当主の弟です」
「寺に入って長い。少なくとも、わしと同じには見られぬ」
玄恵は茶の椀を脇へ寄せた。
「兄上は、私を笠松の新しい当主に据えるおつもりではありませんな」
「笠松家は立てぬ。お前には橘の家臣として、残った者を預ける」
「寺を離れ、家へ戻り、初めの役目がそれですか」
「ああ」
「昔から、兄上は頼み方が変わりませぬ」
「嫌なら断れ」
「断れば、笠松の者はどうなります」
「別の者に見させる。だが、わしはお前に頼みに来た」
玄恵はすぐには返事をしなかった。やがて頼政から俺へ目を移し、もう一度頼政へ戻した。
「瑞照寺は、どうなされます」
「後任が決まるまで、政所の父上に預かっていただく。永源寺へも、後任を頼まねばならん」
「父上が、寺まで引き受けられますか」
「頼みに行く。お前も来い。瑞照寺を離れるのはお前だ」
「私を家へ戻す話まで、父上へ決めていただくのですか」
「戻れと頼んでいるのはわしだ。父上には、寺を預かっていただけるか聞く」
玄恵は小さく息を吐いた。
「承知しました。還俗して橘へ戻ります。笠松の者も預かりましょう」
「明朝、朝霧へ来い。政所へ向かう」
「分かりました」
玄恵は俺へ向き直った。
「小徳丸。笠松の者と話す時は、同席してくれるか」
「はい。俺も聞きます」
「それなら、兄上の言葉を伝えるだけの役にはならずに済む」
頼政が玄恵を見る。
「わしの言葉を伝えるのが、それほど嫌か」
「兄上の言葉は短すぎます。受け取る側が、足りぬところを勝手に埋めることになる」
「お前は昔から、余計なところまで聞く」
「小徳丸も、その方が助かるだろう」
「叔父上に聞かれたことへは答えます」
「ほら見ろ。兄上より話が早い」
頼政は言い返さず、ようやく茶の椀へ手を伸ばした。
* * *
翌朝、玄恵は日の昇る前に朝霧へ来た。
門前では弦十郎が馬と供の支度を確かめている。玄恵は僧衣のままで、荷も小さな包み一つだけだった。
「叔父上、それだけですか」
「まだ瑞照寺を空けると決まったわけではない。父上が預かれぬと仰せなら、後任が決まるまで戻らねばならぬ」
「還俗を決めた後でも、寺へ戻るのですか」
「放り出してよいものではなかろう」
後ろから来た頼政が、玄恵の包みを見た。
「相変わらず、物を持たぬな」
「寺へ入った者が、兄上ほど荷を持っていては困ります」
「わしは当主だ。要る物が違う」
「父上の前でも、そのように申されるのですか」
「聞かれればな」
弦十郎が俺の馬を引いてきた。
「若様、雪の残る道にございます。私より前へは出られませぬよう」
「分かっている」
「小徳丸は、いつもこのように言われておるのか」
玄恵に尋ねられ、頼政が先に答えた。
「言われておる。それでも時々、先へ出る」
「父上」
「弦十郎、今日は目を離すな」
「承知しております」
弦十郎の返事に、玄恵が俺を見た。
「ようやく甥に会えたと思えば、思ったより手が掛かりそうだ」
「叔父上まで、父上と同じことを言わないでください」
「同じ家の者だからな」
頼政は玄恵を見たが、何も言い返さなかった。
門の外では、雪の上に馬の息が白く流れている。弦十郎が手綱を整え、俺たちの支度が済んだことを頼政へ告げた。
頼政は門前へ進んだ。
「玄恵、小徳丸。出るぞ」




