第32話 手打ちの席
部屋へ入ってきた久助と新九郎が、俺の前で膝をついた。
外では、風が雨戸をかすかに鳴らしている。
新九郎の報告を聞き終えたあと、俺は二人へ手打ち当日の役目を伝えた。
「手打ちの席は年の暮れだ。当日の警固は二人に任せる。久助は屋敷の内だ。広間と土間、それに客の供を見ろ」
「承知しました」
「新九郎は外だ。門から村口まで、人の出入りを見ろ」
「承知しました」
「それぞれ、使う者は自分で選べ」
「屋敷の内は、某が腕と顔を知る者から選びます」
「外には、私が甲賀の者を置きます」
二人は揃って頭を下げた。
---
天文十七年(1548年)、年の暮れ。
その日、朝霧では昼過ぎから細かな雪が降り始め、日が落ちる頃には、庭の土も屋根の端も白く覆われていた。
小氷河期のただ中だけあって、年の暮れとはいえ、前世の感覚よりも雪の訪れは早い。
広間には酒と膳が用意されていた。
上座には頼政が座り、その側に俺と春、高晴、重尚が並んでいた。正面には正綱が座り、吉規は双方の間に席を取っていた。
弦十郎と政虎は、広間と土間を見渡せる壁際に控えていた。久助は広間と土間を行き来し、新九郎は門外の警固に出ていた。
正綱と吉規の供にも、土間や隣室で酒と膳が振る舞われていた。惟丸は幼いため、奥に残されていた。
春は女中たちに膳を運ばせた後、正綱と吉規へ頭を下げた。
「本日は、ようお越しくださいました」
「うむ。馳走になる」
「どうぞ、ごゆるりと」
春が席へ戻ると、頼政は先の朝霧の一件から話を切り出した。
「まず、朝霧で討たれた者についてだ。笠松は仇討ちも償いも求めない。橘も、これ以上、誰が命じたかは追わぬ」
「先に斬ったのは、そちらであろう」
正綱は盃を膳へ戻した。
「先に朝霧へ入ったのは、そちらの者だ」
「笠松が命じた証はあるまい」
「だから詫び状も銭も求めていない」
「ならば、討たれた者のことも捨てろと申すか」
「橘へ償いを求めないということだ。橘も、先の一件を理由に笠松へ兵を向けない」
正綱は返事をせず、頼政の言葉を量るように盃の縁へ指を置いた。
頼政は二村の扱いへ話を進めた。
「宮田と志野原は、すでに橘の内へ入った。今後、笠松が二村へ人や荷を求める時は、先に橘へ話を通してもらう」
「話を通せば応じるのか」
「その時の事情による。だが、二村へ直接求めることは認めない」
正綱は、まず高晴へ問いただした。
「茂兵衛殿も、それでよいと申すのか」
「宮田は、すでに橘へ降っております。今後は橘の差配に従います」
「これまでは、笠松の求めにも応じてきたであろう」
「応じ続ければ、宮田がもちませぬ。そのために橘へ降りました」
次に問われた重尚も、言葉を濁さなかった。
「右近殿も同じか」
「はい。篠原の家も志野原も、橘の内にございます」
「橘を後ろ盾に、笠松の求めを拒むと」
「今は橘の差配にございます。人も荷も、橘を通さずに出すことはできませぬ」
「言葉を変えただけではないか」
「篠原の家と志野原が決めたことでございます」
正綱はしばらく重尚を見据えた。
「なるほど。二人とも、すっかり橘の家臣というわけだ」
「その通りだ」
頼政は二人の立場を引き受けた。
「茂兵衛も右近も、自ら橘へ降った」
「それでも、これまでは笠松の求めに応じてきた者たちだ」
正綱の声が低くなった。
「その二人を橘の内へ入れ、人も荷も笠松には出させぬ。朝霧へ入った者は斬ったまま、こちらには仇討ちも求めるなと申す」
正綱は頼政から目を逸らさなかった。
「笠松にだけ退けというのか」
「長次郎にとって不利な話であることは分かっている」
「分かっておって、飲めと」
「ああ。だが、宮田と志野原が橘へ降ったことは、もう戻せない。二人が村ごと決めたことだ」
「ならば、笠松には何が残る」
「橘は笠松の田畑にも人にも手を出さない。詫び状や銭も求めず、先の一件もこれ以上は追わない」
「それだけか」
「西の道も、これまでどおり使ってよい。笠松の菜種も、朝霧へ持ち込むなら、宮田や志野原と同じ値で引き取る」
「朝霧へ売れと申すか」
「売ることを強いるつもりはない。持ち込むなら、同じ値で買うというだけだ」
正綱は盃へ手を伸ばしたが、口はつけなかった。
吉規は、笠松の顔が立つ条件へ話を戻した。
「長次郎殿が橘へ膝を屈したという話にはせぬ」
「ほう」
「茂兵衛殿も右近殿も、自ら村ごと橘へ降った。そこは、もう動かせぬ」
「だが、それでは笠松だけが退く」
「ゆえに橘も、これ以上は笠松へ求めぬ。先の一件はここで収め、田畑や人にも手を出さぬ。これまでどおりとはいかぬが、長次郎殿もそこは認められよ」
「討たれた者の仇も求めるなと」
「求めれば、また争いになる」
吉規は両者の間へ盃を置いた。
「今後、道や水を巡って揉めた時は、まず酒井へ話を通す。わしが間に立とう。長次郎殿が橘に屈したのではなく、百済寺郷の者同士が争いを収めた。そういう話にすればよい」
「左近殿が、笠松の顔を預かると」
「そのための仲立ちだ」
正綱は高晴と重尚を順に見た後、頼政へ確かめた。
「宮田も志野原も、もう笠松の求めには応じぬのだな」
「橘を通さない求めには、応じさせない」
頼政は二村の扱いを譲らなかった。
「長次郎にとって苦い話なのは承知している。だが、ここから先まで争えば、笠松の田も人も傷む」
「脅しか」
「そう聞こえることも分かっている。だが、わしは長次郎とこれ以上争いたくない」
正綱は長く黙った末、盃を取り上げた。
「よかろう。左近殿の顔を立てる」
「では、先の一件はここで収めるのだな」
「これ以上は求めぬ。宮田と志野原が橘へ降ったことも認める。西の道も止めん」
「橘も笠松へ兵を入れない。田畑や人にも手を出さない」
「道や水で揉めた時は、酒井を通す」
「それでよい」
細かな文言は吉規が整え、年が明けてから起請文を交わすことになった。
頼政が盃を掲げた。
「長次郎。今宵は、争いを収める酒としたい」
正綱は頼政を見返し、自分の盃を上げた。
「弥三郎がそこまで言うなら、今夜は飲んでやる」
二人の盃へ酒が注がれた。
頼政と正綱は、互いに目を逸らさないまま酒を飲み干した。
酒が二巡した頃には、二人の話は幼い頃へ戻っていた。
「弥三郎。覚えておるか。まだ互いに背も低かった頃だ。百済寺へ参った帰り、そなたが干し柿を落とした」
「覚えておらんな」
「嘘を申せ。落とした干し柿を、わしのせいにした」
「長次郎が先に、わしの袖を引いたのだろう」
「袖など引いておらぬ。そなたが勝手に落としたのだ」
正綱の笑い声が広間へ響いた。頼政も口元を緩める。
「それから、観音寺へ上がる坂だ。雨の後で道がぬかるんでおった。わしが足を取られた時、そなたは笑うておった」
「手は貸した」
「貸す前に笑うておった」
「長次郎が、あまりに見事に転んだからだ」
「ほれ見ろ。やはり笑うておったではないか」
「長次郎ほど口は悪くない」
「よく申す」
正綱が盃を空けると、頼政が酒を注ぎ足した。
「まだ飲むか」
「今夜はそなたの酒だ。遠慮はせぬ」
「帰りにまた転ぶぞ」
「その時は先に手を貸せ。笑うのは後だ」
「考えておこう」
「やはり、そなたは昔から変わらぬ」
二人はまた盃を空けた。
春は途中で、惟丸が起きたとの知らせを受け、奥へ下がった。
酒の回った吉規は、自分が残した三者の利を隠そうともしなかった。
「右近殿も茂兵衛殿も、これで少しは落ち着こう。長次郎殿も笠松へ顔が立つ。橘も、今後はわしを抜いて話を決められぬ。仲立ちの酒としては悪くない」
重尚は静かに頭を下げ、高晴は返事の代わりに盃を取った。
宴も酣となった頃、正綱が盃を膳へ戻した。
「雪が強くなる前に戻る」
「長次郎、道中は気をつけろ」
「手打ちの夜に転んでは、笑い話にもならぬからな」
正綱が立ち、俺も席を立った。
「門までお送りします」
「若様自らか」
正綱は俺を見下ろした。
「殊勝なことだ」
俺は頭を下げるだけにした。
土間へ下りると、久助が正綱を待っていた。
「長次郎殿の供は、酒に当たった一人を連れ、先に村口へ下がっております」
「揃いも揃って、何をしておる」
正綱は鼻を鳴らし、履物を履いた。
門の外では、先ほどより強い雪が降っていた。
正綱は屋敷を振り返った。
「今宵の酒、悪くはなかった」
「父上にも、そう伝えます」
「そうせよ」
正綱は西の道へ歩き出した。松明の赤い火が、降りしきる雪の向こうへ遠ざかっていく。
「さようなら、長次郎殿」
俺は赤い火が雪に隠れるまで、門前に立っていた。
広間へ戻ると、高晴と重尚は別室へ移っていた。雪が強いため、今夜は朝霧に泊めることになっている。
吉規も帰り支度を始めていた。
「わしも、そろそろ戻る」
久助がその前へ進み出た。
「左近殿。もう一言だけ、内々《ないない》にお話がございます」
「まだ何かあるのか」
「今宵の仲立ちに関わる話にございます」
吉規は口元を緩めた。
「そうか。ならば聞こう」
久助は吉規を伴い、広間を出た。
---
控えの間へ入ると、久助は襖を閉め、出口を背にした。
吉規は座らず、久助との間合いを測るように足を止めた。
「今宵の仲立ちに関わる話と言ったな」
「はい。先の朝霧への襲撃について、左近殿へ確かめておきたいことがございます」
「朝霧の一件は、先ほど収まったはずだ」
「橘と笠松の間では、収まりました」
吉規の眉が動いた。
「何を申したい」
「襲撃に加わった者のうち、二人が酒井から笠松へ出ております。一人は朝霧までの道を教え、もう一人は屋敷への出入りを見張った」
「何の証があって申す」
「二人が酒井から出たことは、確かめております」
「わしが命じたという証もあるのか」
「命じた者までは分かっておりません」
「ならば、なぜわしを責める」
久助は吉規の問いを否定しなかった。
「命じた者を問い詰めるために、左近殿をお呼びしたのではございません」
「では、何のためだ」
吉規は閉じられた襖を見た。
「仲立ちを終えるまで、酒井のことを伏せておったのか」
「はい」
「わしが長次郎殿を朝霧へ連れてくるのを待っていたと」
「左近殿が仲立ちを引き受けなければ、長次郎殿はお越しにならなかったでしょう」
「用が済んだというわけか」
「今宵の仲立ちは、確かに果たしていただきました」
吉規の右足が半歩下がった。
「橘は、初めからわしまで――」
言葉が途切れた。
吉規の右手が刀の柄へ走った。
久助は吉規が刀を抜くより早く間合いを詰め、抜き打ちの刃を脇腹へ入れた。
吉規の膝が畳へ落ちた。それでも刀から手を離さず、鞘ごと持ち上げようとした。
久助は吉規の手首を押さえ、刃をさらに深く入れた。
吉規の刀が畳へ落ちた。
「わしが……まとめた席だぞ」
吉規は久助の袖を掴んだ。
「笠松も、橘も……今夜は、酒を飲んだではないか」
「若様は、初めから手打ちで収めるおつもりなど、ございませんでした」
吉規の指から力が抜けた。
久助は吉規の手を袖から外し、血のついた袖口を一度見た。
---
同じ頃、西の道を歩いていた正綱は、村口で足を止めた。
「……おらんな」
松明を持ち上げても、先に下がったはずの供は見えない。
「まだ吐いておるのか」
正綱が舌打ちをして道を進むと、雪の向こうから声が届いた。
「長次郎殿」
正綱は足を止めた。
「誰だ」
「朝霧の者にございます。若様が土産を渡し忘れたと申され、追って参りました」
「土産だと」
新九郎が布包みを手に、松明の明かりの中へ入った。
「こんなところまで追ってきたのか」
「はい」
「何だ」
「こちらにございます」
新九郎が一歩近づくと、正綱は布包みへ目を落とした。
その瞬間、背後から甲賀の者が正綱の右腕を押さえ、膝裏を払った。
正綱の体が傾く。刀へ手を伸ばすより早く、新九郎の刃が脇腹へ入った。
「ぐっ……」
正綱は雪へ膝をつきながら、左手で新九郎の腕を掴もうとした。新九郎は半歩外してその手を避け、もう一太刀を首筋へ入れた。
「卑怯な……」
新九郎は答えなかった。
正綱は雪の上へ崩れ、そのまま動かなくなった。新九郎は身を屈め、正綱の息が止まったことを確かめた。
---
広間には、手をつける者のいなくなった膳と、冷めかけた酒の匂いが残っていた。
俺は頼政の向かいに座っていた。弦十郎と政虎には、高晴と重尚が泊まる部屋を見てもらっている。
襖が開き、久助が入ってきた。袖口に薄く血がついている。
頼政の声が止まった。
「久助。その血は何だ」
「左近殿を討ち取りました」
頼政の顔から表情が消えた。
「……何を言っている」
「俺が命じました」
頼政が俺を見た。
「小徳丸」
「先の襲撃には、酒井から二人が加わっていました」
「左近殿が命じた証はあるのか」
「そこまでは確かめられていません」
「それで殺したのか」
「それだけではありません。吉規は今夜の仲立ちで、笠松にも橘にも恩を売りました。残せば、酒井の利を守るために両家の間を動き続けます」
「取り込むより、殺す方を選んだと」
「はい」
廊下から足音が近づき、新九郎が広間へ入った。肩にも髪にも雪が積もっている。
新九郎は広間の端で膝をついた。
「長次郎殿を討ち取りました」
頼政は動かなかった。
火鉢の中で、炭が小さく崩れた。
「手打ちを勧めた時から、二人を討つつもりだったのか」
「はい。正綱と吉規を朝霧へ呼ぶために、手打ちの席を進言しました」
「わしに長次郎を招かせ、酒を酌み交わさせておいてか」
「父上に知らせれば、正綱に悟られる恐れがありました」
「わしが長次郎と昔話をしていた時も、この後に討たせると決めていたのだな」
「決めていました」
頼政の指が盃の縁を強く掴んだ。
「長次郎が襲撃を命じた証はあったのか」
「ありません」
「それでも、手打ちを受けた長次郎を討ったのか」
「正綱を残したままでは、争いは収まらないと判断しました」
「わしまで謀って」
「父上が知っていれば、正綱を信じようとしたはずです」
頼政は盃から手を離した。
「わしは言った。最後に背負うのはわしだと。そなたには、笠松を含め、この先の始末を考えろとも言った。だが、わしを謀り、長次郎を討てとは言っていない」
「分かっています」
「それしかなかったのか」
「父上なら、手打ちに応じた正綱を信じ、生かして帰したでしょう」
「それを甘いと見たか」
「いいえ。父上には選べないと思いました」
頼政は何も答えなかった。
「だから、俺が選びました。これが、俺の始末です」
頼政の向かいには、正綱が置いていった空の盃が残っていた。




