第30.5話 閑話 二丈坊
夏も終わりに近づいた頃、朝霧から北へ少し進んだ、多賀へ抜ける道沿いの集落から妙な噂が入った。
二丈坊が出たという。
もとは多賀の山中で語られている化け物らしい。
川に棲む川獺――この辺りでいう、かわそが坊主に化ける。その背丈は二丈。人の背丈を三つ重ねても、まだ足りない。
夜の川辺に立ち、言うことを聞かない子供を連れていく。嘘をつく者の口を裂き、夜に村を襲った者を川へ沈めるという話まで加わっていた。
最後のあたりは、どう考えても朝霧への夜襲が混じっている。
平助は、持ち込まれた話を人ごとに板へ書き分けていた。
「見た人より、聞いた人の方が多いです」
「噂として育ちすぎているな」
見たという者がほとんどいない以上、放っておけば話だけが膨らんでいく。
俺は集まった者たちへ告げた。
「えー、本日は二丈坊を捕獲します」
日吉丸が片手を上げた。
「若様。捕まえた後は、どこで飼うんですか」
「まだ決めていない」
「決めてから捕まえに行くべきでは」
「捕まえてから考える」
「そのやり方で困るのは、たいてい捕まえる方ですよ」
日吉丸はそう言いながら、壁際に置いてあった網を引き寄せた。
勘次も棒を取った。
「若、俺も行く」
「遊びではないぞ」
「分かってる。出てきたら、俺が棒でぶっ叩く」
おたまは袖口を握ったまま動かなかった。
「私は怖いです」
「正直でよろしい。お前は前へ出るな」
それでも帰るとは言わず、俺のそばに残った。
網の継ぎ目を確かめていた弦十郎が、縄を強く引いた。
「若様。本当に生け捕りになさるので」
「川獺なら、正体を村の者に見せられる。人が仕掛けているなら、そいつを捕まえる」
「そのどちらでもなければ」
「その時に考える」
弦十郎は網を畳み直した。
「若様が網を掛けに出るのは、おやめくだされ。私が先に押さえます」
「網が届かなければ出る」
「その時は、先にお声を」
日吉丸が、畳まれた網を抱え上げた。
「ところで若様。二丈というのは、どれくらいですか」
「お前が三人、縦に並んでも足りない」
「それ、もう坊主じゃなくて寺ですよ」
おはつが吹き出しかけ、慌てて口を押さえた。
日吉丸は網を見下ろした。
「本当に二丈もあったら、掛ける前に踏まれませんか」
「槍が届けば、弦十郎が止める」
弦十郎は槍の穂先を確かめた。
「届くところまで来れば、突く」
「届かなかったら、どうするんですか」
「若様を担いで退く」
「わしは」
「自分で走れ」
「ひぇー」
そうして俺たちは、北の集落へ向かった。
同行するのは、弦十郎、日吉丸、勘次、平助、虎松、おはつ、おたま。
弦十郎は槍を持ち、俺は短い槍と縄を持った。日吉丸と平助には畳んだ網を担がせ、勘次は使い慣れた棒を肩へ載せている。
大人の口には上らず、子供の間だけで広がっている話もある。まずは、誰が何を見たのかを確かめる。
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北の集落に着いた時、日はまだ高かった。
家は十数軒あり、川沿いに細い畑が並んでいた。その奥には竹藪と古い祠があり、山風が入るたびに竹が擦れた。
集落の者たちは、俺たちが担いできた網を見るなり顔を曇らせた。
「若様まで、二丈坊を見に来なさったのですか」
「見に来たのではない。捕まえに来た」
「……捕まえるのでございますか」
「ああ」
年寄りの男は、網を見たまま黙り込んだ。
聞き取りは、思ったより面倒だった。
問いを一つ返すと、たいていは誰かから聞いた話になる。
最初は、川端の家の老婆だった。
「白い坊主を見たのか」
「坊主かどうかは、分かりませぬ。川向こうに、白いものが立っておりました」
「どれほど大きかった」
「竹より低く、家より高く」
「二丈坊と言ったのは誰だ」
「さあ……誰でございましたか」
老婆が見たのは、川向こうに立つ白いものだけだった。
次は、水場にいた女だった。
「二丈坊が子供を連れていくという話は、誰から聞いた」
「皆がそう申しております」
「連れていかれた子供はいるのか」
「おりませぬ」
「なら、見た者もいないのだな」
「私は、そう聞いただけでございます」
水場を離れると、おはつが声を落とした。
「小徳丸。今の人より、周りで聞いてた人たちの方が怖がってた」
「話していた本人よりか」
「うん。誰も見てないのに、みんな知ってるみたいな顔をしてた」
三人目は、川で魚を捕っていた男だった。
「かわそを見たのか」
「三日前の夕暮れ、川の中ほどにある平たい岩の上で見ました。犬より小さな獣が、こちらを見ておりました」
「それだけか」
「後ろ脚で立ちました」
「川獺なら立つこともある」
「違います。立ってからも、白い腹がするすると上へ伸びたのです」
男は、川向こうの竹藪を指した。
「あの竹ほどの高さまで伸びました」
日吉丸が、自分の担いでいる網と竹藪を見比べた。
「若様。今からでも、普通の川獺を捕まえたことにして帰りませんか」
「まだ普通の川獺すら捕まえていない」
「では、まずそれからにしましょう」
最後に話を聞いたのは、川端の家の嫁だった。
女は膝の上で手を握り、隣にいる五つほどの子供は母親の袖を離さなかった。
「夜中、何があった」
「川向こうから、この子の声で、おいで、おいでと呼ばれました」
「その時、子供はどこにいた」
「私の隣で寝ておりました。声に起こされ、戸へ手をかけたところで、この子が泣きまして」
「外から聞こえた声も、この子の声だったのだな」
「はい」
平助の炭が、板の上で小さく鳴った。
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日が落ちる前に、俺たちは川辺へ移った。
弦十郎は浅瀬へ入り、川底を足で探った。滑る石を避けながら、岸から平たい岩までの距離を確かめていく。
集落から借りて足した縄は日吉丸に持たせ、網は俺の足元へ置いた。
「日吉丸は、何か出たら皆を岸の奥へ下げろ。勘次は、おはつとおたまを守れ。何が来ても追うな」
日吉丸は岸の奥までの道を確かめていた。
「若様と弦十郎殿は」
「俺たちは捕らえる」
「若様も一緒に下がってください。あれだけ大きいなら、捕らえる必要はありません」
弦十郎も譲らなかった。
「正体が分かるまでは、私より前へ出られませぬよう」
「網を掛ける時だけは出る」
「私が腕を止めます。止められなければ、網は捨ててくだされ」
「分かった」
勘次は棒を握ったまま、川の方を見ていた。
「俺も前に出る」
「前にいる俺たちには、後ろが見えない。おはつとおたまを任せる」
「……分かった」
勘次は二人の前へ移った。
平助と虎松には松明を持たせた。
弦十郎が浅瀬の手前に立ち、俺はその半歩後ろへ入った。勘次たちは、さらに後ろへ下げた。
空が暗くなると、集落の者たちは誰も川へ近づかなくなった。
川面には山の影が落ち、岩へ当たる水の音だけが妙に大きく響く。
ざあ、ざあ、という音の奥に、子供が囁くような声が混じった。
「おいで」
後ろにいたおたまが、俺の袖を掴んだ。
「若様。今、誰か」
「川音だ」
そう答えた直後、同じ声が聞こえた。
「おたま」
声は川向こうから聞こえた。
「今のは、俺の声か」
「……はい」
弦十郎が川の中ほどにある岩へ槍先を向けた。
「来ます」
平たい岩の上に、黒いものが乗っていた。
犬より小さな獣だった。丸い頭と太い尾は、川獺に見える。
黒い獣は前脚を揃え、こちらを見ていた。
松明を掲げた平助が、その姿を見分けた。
「かわそだ」
獣が後ろ脚で立ち、白い腹を見せた。
それだけなら、ただの川獺だった。
だが、立ち上がった体は止まらなかった。
白い腹が上へ伸び、細くなった胴と黒い頭が人の背を越えても、まだ高くなっていく。
水面に立つ白い影は、やがて竹藪へ届きそうなほどになった。
二丈という噂も、大げさではなかった。
肩らしきものが左右へ広がり、白い胴から濡れた僧衣のようなものが垂れた。黒い頭と合わせれば、巨大な坊主にしか見えない。
日吉丸が縄を抱えたまま声を上げた。
「若様、あれは無理だがや!」
「言葉が戻っているぞ」
「今は直しとる場合じゃないです!」
黒い頭が傾いた。
顔は暗く、目も鼻も見えない。ただ、口らしき裂け目だけが開いた。
「おいで」
今度は、春の声だった。
白い腕が弦十郎の頭上を越え、後ろのおたまへ伸びた。
勘次が、おたまの前から棒を振った。
「こっちへ来るな!」
棒が白い腕へ当たり、水を張った革袋を打ったような鈍い音がした。
白い腕はおたまの肩先をかすめ、横へ逸れた。
勘次が踏み込もうとした。
「勘次、下がれ!」
勘次は追わず、おたまとおはつの前へ戻った。
「日吉丸、皆を下げろ!」
「言われなくとも!」
日吉丸はおたまの腕を掴み、平助たちを岸の奥へ下がらせた。
二丈坊の腕が、もう一度こちらへ伸びた。
弦十郎が白い腕へ槍を突き込んだ。
穂先は途中まで沈み、何か硬いものに当たった。弦十郎が槍を捻ると、二丈坊の体が大きく揺れた。
「手応えは」
「あります。ですが、人でも獣でもありませぬ」
弦十郎は槍を引き戻し、石突で腕を打ち払った。
俺は足元の網を開いた。
「弦十郎、殺すな。腕を押さえろ」
浅瀬へ入ろうとすると、弦十郎が槍の柄を横へ出した。
「腕を止めるまで、お待ちくだされ」
「ここからでは網が届かない」
「届かせます」
弦十郎は一歩踏み込み、二丈坊の腕を槍の柄で川辺の石へ押さえつけた。
「今です!」
俺は浅瀬へ入り、網を白い胴へ投げた。
網は二丈坊へ掛かり、白い巨体がその中でもがいた。
皆を下げ終えた日吉丸が、縄を抱えて浅瀬の手前まで戻ってきた。
「若様、縄を!」
日吉丸は片方の端を握ったまま、もう一方の端を投げた。
俺は受け取った端を、網の上から二丈坊の胴へ回した。
「引け!」
「はい!」
俺と日吉丸が縄の両端を引くと、網が白い胴へ食い込んだ。弦十郎は槍の柄で腕を押さえ続けている。
二丈坊の体が川面へ傾いた。
白い首から、黒い数珠が垂れていた。
一つ一つの玉が、子供の拳ほどもある。
網の中から白い手が伸び、俺の顔へ迫った。
俺は縄を離さず、短槍で手首を払った。刃が触れた瞬間、冷たい水が顔へ弾けた。
肉を斬った感触ではない。
それでも、白い手は止まった。
「捕らえた!」
俺が叫んだ瞬間、二丈坊の口が大きく開いた。
念仏のような低い声が、川音の奥から響いた。
耳から聞こえる声ではなかった。頭の内側へ直接入り込み、何も考えられなくなるほど強く響いた。
網の中で白い体の輪郭が崩れ、そのまま網の目から溢れ出した。
弦十郎が槍を引き、崩れかけた体へ突き直した。
「若様、下がられよ!」
「まだだ!」
俺は黒い数珠へ手を伸ばした。
指が一つの玉に触れた。
氷のような冷たさに手が強張った瞬間、数珠が大きく揺れた。
紐が切れ、黒い玉が一つ落ちた。
俺は咄嗟にそれを掴んだ。
川が白く光り、上下が分からなくなった。
弦十郎や勘次、日吉丸の声が聞こえたが、言葉までは分からない。
冷たい水が全身を包み、そこで俺の記憶は途切れた。
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頬が冷たかった。
目を開けると、白み始めた空の下、俺は河原に倒れていた。体の半分には、昨日持ってきた網が掛かっている。
すぐ隣には弦十郎が倒れ、その向こうに日吉丸と勘次たちが固まって転がっていた。
「弦十郎」
弦十郎はすぐに体を起こし、俺の腕を取った。肩や背に怪我がないか確かめていく。
「若様。お怪我は」
「ない。皆を見ろ」
弦十郎は俺が立てることを確かめてから、勘次たちの方へ向かった。
網の下では、日吉丸が足を取られていた。
「若様」
「生きているか」
「たぶん」
「なら出ろ」
「網が絡んでます」
「自分で出ろ」
日吉丸は網を破らないよう、手で目を広げて抜け出した。
勘次たちも次々と目を覚ました。
勘次は、自分より先におたまとおはつの手足を確かめている。二人とも怪我はなかった。
少し離れた石の上には、勘次の棒が転がっていた。拾い上げると、濡れた先に白い毛のようなものが二本絡んでいる。
弦十郎の槍も、穂先から柄の半ばまで濡れていた。
「どこまで覚えている」
弦十郎は槍に残った水を指で拭った。
「若様が二丈坊に網を掛け、日吉丸と縄を引いておられました。私は槍の柄で腕を押さえておりました。そこまでは覚えております」
「その後は」
「二丈坊の体が崩れ、若様が数珠へ手を伸ばされました。白く光ったところから先は、覚えておりません」
勘次も、同じところまでしか覚えていなかった。
「急に何もかも白くなった」
平助と虎松も、それより後のことは覚えていなかった。
右手が痛んだ。
指を強く握り込んでいる。
ゆっくり開くと、子供の拳ほどもある黒い玉が一つ入っていた。
真ん中には紐を通す穴が開き、表面には細かな傷が走っている。木とも石ともつかないそれは、朝の空気より冷たく、川から拾い上げたばかりのように濡れていた。
穴の内側には、白い毛が一本絡んでいる。
日吉丸が俺の手を覗き込んだ。
「若様。それ、二丈坊の数珠じゃないですか」
「見るな」
「もう見てしまいました」
「忘れろ」
「こんな大きなもの、どうやって忘れるんですか」
弦十郎は槍を構えたまま、川面と竹藪を警戒していた。
「二丈坊は、どこへ消えたのでございましょうか」
「分からない。残っているのは、これだけだ」
河原には、二丈坊の姿も、切れた数珠の紐もなかった。
黒い玉だけが、俺の手の中で濡れていた。
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朝霧へ戻り、黒い玉を水で洗った。
もともと濡れていたため、洗ったところで何も変わらなかった。布で拭いても、しばらくすると表面に細かな水滴が浮かぶ。
日吉丸は、黒い玉へ手が届かないところまで下がっていた。
「若様、それは川へ戻しましょう」
「捨てて戻ってきたら、もっと嫌だ」
「では、燃やすか埋めるか」
「燃やして何か出たらどうする。埋めて土から出てきても困る」
「若様は、それを手元に置きたいんですか」
「置きたいわけがない。正体が分からない物を、その辺へ捨てる方がまずい」
木箱を一つ用意させ、底へ乾いた布を敷いて黒い玉を置いた。
呪物だ、これ。
箱の蓋を閉め、蔵の奥へ運ばせた。
日吉丸は、最後まで箱へ手を触れなかった。
「結局、二丈坊は捕まえられなかったんですよね」
「失敗だ」
「では、あの玉は何なんですか」
「戦利品ということにする」
「それ、呪われた土産じゃないですか」
「言うな」
蔵の戸を閉めた。
中から、ころり、と何かが転がる音がした。
日吉丸が一歩下がった。
俺も戸へ手をかけなかった。
しばらくして、蔵の中でもう一度、玉が転がった。




