第30話 降る者、離れる者
宮田村へ戻った高晴は、その夜のうちに名主と組頭を屋敷へ集めた。
朝霧で見たものを、すべて話したわけではない。笠松から夜襲に出た者が一人も戻らなかったこと。翌朝までに、竹田の返答を持ってくるよう、橘から求められたこと。その二つだけを告げた。
笠松との古い付き合いを捨てる危うさを、年嵩の名主が口にした。
「長次郎殿へ背けば、宮田もただでは済みますまい」
「されど、返答を延ばせば、今度は橘から敵と見られます」
組頭の言葉を受け、別の名主が高晴へ迫った。
「茂兵衛様は、いかがなさるおつもりでございますか」
「橘へ従う」
「笠松が兵を向けてきても、でございますか」
「だからこそ、ただ頭を下げるだけでは帰らぬ。竹田の家と宮田を橘の内として守るよう、約束を取りつける」
年嵩の名主は、それだけの庇護を得られるのかと疑った。
「橘が、そこまで約束いたしましょうか」
「人も材も出す。菜種と油も、橘の差配に従う。その代わり、笠松が宮田へ手を出せば、橘が受ける。村を守れぬまま降るつもりはない」
「長次郎殿との付き合いは、これまでどおりには戻りますまい」
「朝霧へ出た者が一人も戻らぬ今、それを惜しんでおる場合ではない。笠松に従い続ければ、次に差し出すのは宮田の男だ」
高晴は、座にいる者たちへ異論を求めた。
「竹田は橘に従う。異がある者は、今ここで申せ」
誰も口を開かなかった。
「ならば明朝、わしとともに朝霧へ行け。竹田と宮田の返答として伝える」
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翌朝、高晴は宮田の名主と組頭を連れ、朝霧へ戻ってきた。
前日に連れてきた人足は、木戸や水車の修理へ加わったまま残っている。今日は木材も米俵もなく、持ってきたのは返答だけだった。
高晴は頼政の前へ進み、両手をついた。
「竹田は、橘殿に従いまする」
後ろに控えた名主と組頭も、揃って頭を下げた。
「笠松から求められても、橘へ害をなすための人足、荷、道案内は出しませぬ。火急の折には宮田から人を出し、菜種と油の扱いも橘殿の差配に従います。その代わり、竹田の家と宮田をお守りいただきたい。長次郎殿が兵を向けた時、宮田を見捨てぬとお約束いただきとうございます」
頼政は、高晴の後ろに並ぶ者たちも、その返答に責任を負うのか確かめた。
「それは、茂兵衛殿一人の返答か」
「宮田の返答にございます。笠松から恨みを買うことも承知の上で、橘殿に従うと決めました」
「笠松から人を出せと迫られても、断るのだな」
「断りまする。朝霧へ向ける兵も人足も、宮田からは出しませぬ」
「よかろう。宮田を橘の内として預かる。笠松が宮田へ手を出せば、橘が受ける。竹田の家も宮田の差配も、これまでどおり茂兵衛殿に任せよう」
「ありがたき幸せにございます」
高晴が深く頭を下げたところで、俺は昨日の言葉を改めた。
「昨日、竹田が笠松につくなら、宮田も敵として扱うと伝えた」
「はい」
「今日の返答は受けた。竹田はもう橘の敵ではない。従った後まで追い詰めれば、降った意味がない」
高晴は、もう一度頭を下げた。
俺は弦十郎へ命じた。
「茂兵衛殿たちに膳を出せ。宮田から来ている人足の飯も、今日からこちらで持つ」
「承知いたしました」
「若様。人足は宮田から出した者にございます。そこまでしていただかずとも」
「宮田からは人も材も出してもらった。これから同じ側に立つ者へ、働いた分の飯も出さないわけにはいかない」
高晴は、それ以上断らなかった。
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高晴たちが膳につくと、俺は屋敷の奥へ呼ばれた。
頼政、政虎、弦十郎が座り、久助、新九郎、おりんも控えていた。
頼政は、昨日と今日で高晴への扱いを変えた理由を確かめた。
「昨日は宮田を焼くと迫り、今日は飯を出して守ると申す。茂兵衛殿も、さぞ戸惑うたであろうな」
「昨日は、竹田が敵になるかどうかを聞きました。今日は、こちらへ従うと答えました。返答が変わったのに扱いを変えなければ、次から誰も降りません」
「敵であるうちは容赦せず、降った後まで追い詰めはせぬか」
「はい。その違いは、宮田の外にも知らせます」
俺は新九郎へ命じた。
「笠松が三十四人を夜襲に出し、一人も戻らなかったことを、朝霧だけの話で終わらせるな」
「宮田や志野原だけでは近すぎます。商人と寺を使えば、観音寺まで届かせられましょう。竹田が橘へ従い、家も村も残されたことも流しますか」
「頼む。朝霧を襲った者は戻らず、降った竹田は家も村も残った。その二つで足りる。ただし、橘が言い触らしているとは悟らせるな」
「承知しました。別々の場所から出た話にいたします」
噂を先に観音寺へ届かせる一方、六角への正式な報告をどうするのか、頼政が決断を求めた。
「六角へは、まだ知らせぬのか」
「正式な報告は、笠松を仕置きした後です。今知らせれば、長次郎殿も先に言い分を入れます」
「こちらから書状は出さず、噂だけを先に歩かせるか」
「笠松が勝手に兵を出し、宮田まで笠松から離れた。その事実が先に知られていれば、仕置きの後から笠松の言い分だけを通すことは難しくなります」
頼政は、宮田を味方に入れた後の警備を政虎へ任せた。
「彦九郎。宮田から来ている者は丁重に扱え。ただし、人と荷の出入りは記録せよ。味方に入れたからと申して、番まで緩めるな」
「承知いたしました。砦と村口にも、そのように申しつけまする」
頼政は、笠松の側から次に切り離す相手を求めた。
「次はどこだ」
「志野原です。右近殿を動かします」
政虎は、重尚本人へすぐ迫ることに危うさを見た。
「茂兵衛殿のようには参りますまい。右近殿は、どちらが勝つか見えるまで動かぬ方にございます」
「だから、本人へ先に迫れば笠松へ走る。久助、どう動かす」
「右近殿ご本人より先に、篠原の家中を動かします」
頼政は、篠原家中へ何を聞かせるのかまで詰めた。
「竹田が橘へ降っても、家と村を残されたこと。笠松に従えば、朝霧との争いへ人を出さねばならぬこと。その二つを、別々の口から入れます」
「こちらが仕掛けたと悟られぬか」
「竹田の扱いは、宮田から朝霧へ来ている者を見れば隠せませぬ。笠松が志野原へ何を求めるかも、使いの動きを追えば分かります。某らが橘へ従えと説くのではなく、篠原の者自身に笠松と橘の扱いを比べさせます」
俺は、新九郎に笠松の動きを任せた。
「笠松から志野原へ入る使いを探れ。長次郎殿が何を求め、右近殿がどう返すつもりかを知りたい」
「表の道だけでなく、裏から入る道も見ます。おりんには村へ入ってもらいましょう」
おりんは、村の女たちへ紛れる方法を選んだ。
「宮田から麻糸を運ぶ女に交じります。水場へ入れれば、宮田がどう扱われているかも、笠松へ人を出すことを村がどう見ているかも、向こうから話し始めるでしょう」
頼政は三人に、志野原を追い込まぬよう命じた。
「笠松へ逃げ込む理由を与えるな。削るのは、志野原が笠松に従い続ける理由だけだ」
「心得ました」
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夏の間、朝霧は焼けた場所を直しながら、笠松に備えた。
畑は耕し直され、崩れた畝には新しい土が入った。宮田から来た者も朝霧の者に交じり、鍬を振るった。
初めのうちは、休みになっても宮田の者は宮田の者だけで固まっていた。それでも、同じ場所で土を運び、同じ桶の水を回すうち、離れて飯を食う者はいなくなった。
朝霧山の上では、砦が形を見せ始めた。空堀と土塁が山道を押さえ、丸太の柵と木戸が据えられた。見張り台からは、西の道と川沿いの畑、朝霧へ入る細道まで見渡せる。
砦の下では、橘兵が組ごとに槍を振った。弦十郎の号令で穂先が揃い、政虎の合図で列が向きを変える。夜番も砦と村口へ分かれ、西から来る者を村へ入る前に見つけられるようになった。
その間、新九郎は志野原へ通じる道を探り、おりんは村へ入った。久助は二人の持ち帰る話をつなぎ、重尚が笠松の求めを受けるかどうかを見定めた。
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おりんは、宮田から麻糸を運ぶ女たちに交じって志野原へ入った。
荷を下ろした帰り、水場には何人もの女が集まっていた。おりんも輪の端へ腰を下ろし、手拭いを水に浸した。
「宮田の者は、まだ朝霧へ出ておるそうじゃ」
「焼けた畑を直しておると聞いた。飯も朝霧で出されておるそうな」
「竹田の家も取られなんだのであろう。長次郎殿は、さぞ腹を立てておられるじゃろう」
「腹を立てようが、宮田は残った。前に朝霧へ出た者は、一人も戻らなんだぞ」
年嵩の女は、宮田が負っているものも軽くはないと釘を刺した。
「宮田は人も菜種も出すのであろう。ただで守られておるわけではあるまい」
「それでも、家も畑も残るならよい。うちまで男を出せと言われたら、どうする」
近くにいた女が、周りを気にして声を落とした。
「刈り入れ前じゃぞ。家から一人抜かれれば、田が回らぬ」
「断れば、長次郎殿に睨まれる。出せば、橘と争うことになる」
おりんは、手拭いを絞りながら口を挟んだ。
「一度出せば、次も求められましょう。前に出た者が戻らぬなら、なおさらです」
女たちは返事をせず、桶の水へ目を落とした。
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笠松から志野原へ入る細道は、竹藪の脇を抜け、使われなくなった畑の端へ続いていた。
新九郎は甲賀の者を一人連れ、竹藪を見渡せる斜面に伏せていた。
夕暮れ前、一人の男が笠松の方から現れた。志野原の外れでは、重尚の家人が待っていた。
二人は竹藪の陰へ入った。
「長次郎殿よりだ。男を八人出せ。宮田へ通じる道を見張り、朝霧へ荷を入れる者がいれば名を控えよ」
「八人も出せば、刈り入れに差し支える。道を見るだけなら、半分でも足りよう」
「人数を決めるのは右近殿ではない。長次郎殿は、志野原がどちらに立つのか見ておられる」
「また朝霧へ出るつもりか」
「余計なことを聞くな」
「ならば、なぜ宮田への道を見張らせる。荷の名を控えるだけで済む話ではあるまい」
笠松の使いは、文を家人の胸へ押しつけた。
「先に道を押さえるためだ。右近殿へ渡せ。竹田のように橘へ降りたいのか、とも伝えよ」
「その言葉まで、長次郎殿の仰せか」
「違えず伝えればよい」
家人は文を懐へ入れた。
二人が別れ、笠松の使いが竹藪の向こうへ消えてから、新九郎も斜面を離れた。
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志野原の屋敷では、その夜、重尚の前に家人と村の名主が集められた。
笠松から届いた文が、灯明の脇に置かれている。
笠松との古い縁を重く見る年嵩の家人は、求めを断った後の報復を恐れた。
「長次郎殿の求めを断れば、志野原は郷で立てませぬ。笠松とは、これまで幾度も道を合わせてきました」
「その付き合いのために、刈り入れ前の男を八人も道へ立たせるのでございますか」
村の名主が言い返すと、別の家人も文の内容を疑った。
「道の番だけで終わるとは限りませぬ。朝霧へ荷を入れる者の名を控えれば、志野原も橘へ敵対したことになります」
「朝霧をこのままにしておけば、いずれ志野原も呑まれる。笠松から離れれば済むという話ではあるまい」
「竹田は橘へ降りましたが、家も村も取られておりませぬ。長次郎殿の文には、志野原の刈り入れを気遣う言葉すらございませぬ」
重尚は、灯明の脇に置かれた文を取った。
文を受け取ってきた家人が、重尚の決断を待った。
「右近様。いかがなさいます」
「橘へ使いを出す」
「降られるのでございますか」
「降るとは申しておらぬ。笠松へ人を出さず、橘とも争わずに済む道があるかを聞く」
「橘が、そのような話を受けましょうか」
「聞きもせず、志野原の男を差し出すつもりはない。受けぬなら、その時に次を考える」
重尚は家人の一人へ、笠松から届いた文を渡した。
「明朝、朝霧へ行け。篠原には橘と争う心はない。笠松から、橘へ害をなすための人足を求められても応じぬと伝えよ」
「笠松からの求めも話しますか」
「隠すな。男を何人求められ、何を見張れと命じられたかまで話せ。こちらが腹を隠せば、向こうも何も見せぬ」
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翌日の夕刻、志野原から使いが来た。
三十を少し越えたほどの、落ち着いた男だった。
使いは頼政の前で深く頭を下げた。頼政の脇には俺が座り、政虎、弦十郎、久助も控えていた。
「篠原右近様より、御挨拶にございます。篠原には、橘殿と争う心はございませぬ。志野原の西の道、荷の通り、人足の扱いにつきまして、話を合わせたく存じます」
「笠松からは、何を求められた」
「男を八人出し、宮田へ通じる道を見張るようにと。朝霧へ荷を入れる者がいれば、その名も控えよとの仰せにございます」
「右近殿は、どう返すつもりだ」
「人も荷も出しませぬ。橘へ害をなすために、志野原の道を使わせるつもりもないと申しております」
政虎は、重尚が笠松を前にしても同じ返答を貫けるのかを確かめた。
「その言葉を、長次郎殿にも返せるのか。橘の前だけで申しても、何の意味もない」
「返しまする。その前に、橘殿のお考えを伺うよう命じられて参りました」
頼政は、重尚の言葉だけでは受け入れないと示した。
「笠松へ返答した後、その内容を橘へ知らせよ。西の道には志野原からも番を出し、橘の者とともに立たせる」
「橘の者と番に立てば、笠松からは篠原が橘へついたと見られます」
「笠松へ人を出さぬと決めた時点で同じことだ。どちらにもよい顔をしたまま、志野原だけ争いを避けることはできぬ」
「右近様は、村を戦へ巻き込みたくないと申しております」
「こちらも志野原を焼きたいわけではない。だが、笠松の兵が志野原の道を通り、朝霧へ向かうことは認めぬ。右近殿が道を止めるなら、橘も志野原を笠松から守る」
「そのお言葉を、右近様へお伝えしてもよろしいのでございますか」
「伝えよ。右近殿が橘と道を合わせるなら、志野原を守る」
俺は、宮田と同じ条件で菜種を引き受けると伝えた。
「志野原の菜種も朝霧で引き受ける。油に替える分も、これまでどおり持ち帰らせる」
「篠原が笠松の求めを断れば、ということでございますか」
「それだけでは足りない。いずれ、右近殿ご自身に朝霧へ来ていただく」
久助は、重尚を呼ぶ時期が早すぎれば、篠原家中をかえって割りかねないと止めた。
「殿。今すぐ右近殿を呼べば、笠松へ知られます。篠原の家中も、まだ一つにまとまったわけではございませぬ」
頼政は、重尚が朝霧へ来る時期を刈り入れの後と定めた。
「右近殿自ら朝霧へ来い。その場で改めて言葉を交わす。それまでは西の道をともに守り、笠松からの求めを隠さず知らせよ」
「必ず、そのようにお伝えいたします」
頼政は弦十郎へ命じた。
「使いの者に飯を出せ。帰りには塩も持たせよ」
「承知いたしました」
使いが礼を述べる前に、頼政は塩を持たせる意味を違えぬよう釘を刺した。
「右近殿の申し出を受けた印だ。篠原を信じた印ではない。そこも違えず伝えよ」
「ありがたき幸せにございます」
使いは深く頭を下げた。
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志野原の使いが帰ると、新九郎とおりんも奥へ呼ばれた。久助はそのまま残っていた。
頼政は、重尚がどこまで笠松から離れたのかを久助に見定めさせた。
「右近殿は落ちたか」
「まだにございます。ですが、笠松に従い続けるなら、右近殿は家中を押さえつけねばならなくなりました」
「竹田の話が効いたか」
「竹田の話だけではございませぬ。笠松は刈り入れ前の志野原から男を出させ、朝霧への荷まで見張らせようとした。そこへ、竹田が橘へ従っても家と村を残された話が入った。篠原の者は、どちらが村を残すのかを比べ始めております」
新九郎は、笠松の使いが重尚の面目を潰す言葉まで持ち込んだと報告した。
「竹田のように橘へ降りたいのかと、脅すように申しておりました。あれでは、右近殿が求めを受けても、家中には笠松へ屈したと見られます」
おりんが水場で聞いた話も、使者の申し出と食い違わなかった。
「村では、男を一度出せば次も求められると見ております。笠松へ逆らうことは恐れておりますが、朝霧へ出た者が一人も戻らなかったことの方が強く残っております」
頼政は、久助が重尚本人を説くより先に、篠原家中の判断を変えたことを確かめた。
「右近殿を説き伏せたのではなく、篠原の内から笠松を疑わせたか」
「はい。こちらがどれほど利を説いても、右近殿は疑ったでしょう。篠原の者自身が、笠松へ従う利を見失わねば動きませぬ」
「よく組んだ」
「まだ、右近殿本人の言葉を受けたわけではございませぬ。西の道へ篠原の者が番に出るか。刈り入れの後、右近殿が朝霧へ来るか。その二つが揃って、初めて篠原の返答となります」
頼政は、刈り入れが終わるまで重尚を催促しないと決めた。




