第29話 利の代価
夜襲から一夜が明けても、朝霧には焦げた臭いが残っていた。
焼け落ちた夜番小屋では、黒くなった柱や屋根材が脇へ除けられている。油場では割れなかった壺と使える原料を選り分け、水車場には作兵衛と木地師たちが集まっていた。
傾いた木戸にも新しい支えが打たれ、その前では政虎が番の者を増やしている。
誰も手を止めてはいないが、声は少なかった。普段なら軽口を叩く者まで、黙って焼け跡を片づけている。
昨夜、命を落とした二人は屋敷近くの小屋へ移され、筵を掛けられたまま弔いの支度を待っていた。
屋敷の土間では、傷を負った者たちが横になっている。深手を負った者もいるが、今のところ新たに息を引き取った者はいない。
俺の左腕にもまだ布が巻かれていたが、刀を振るうには支障がなかった。
それよりも、朝霧の者を二人殺され、女子供まで連れ去られかけたことを思うたび、怒りがぶり返した。
畑も油場も、焼かれたなら作り直せる。水車も木戸も直せる。
だが、殺された者は戻らない。
女や子供まで連れ去れと命じた相手を、同じ六角家中だからというだけで許す気はなかった。
「若様」
新九郎が、屋敷の前から声をかけた。
その後ろには、昨夜、山道の手前へ残していた者たちがいる。荷を背負った者や女子供、老人、それを守っていた甲賀の者たちだ。夜明けを待ち、ようやく朝霧へ入ったらしい。
「連れてきた者の中に、若様へお目通り《めどおり》させたい者がおります」
新九郎の横から、一人の女が進み出た。
まだ若い。着物も髪形も、村の女と大きくは変わらない。
だが、頭を下げながらも、屋敷の出入口や周囲にいる者の位置をさりげなく見ていた。
声を聞きつけた頼政も、屋敷から出てくる。
「名は」
頼政が尋ねると、女はその場に膝をついた。
「おりんと申します」
「どこの者だ」
「伊賀の藤林に連なる者にございます」
俺は、おりんを見直した。
「もしや、藤林長門守殿の御息女か?」
おりんの目が、わずかに動いた。
「……ご存じにございましたか」
藤林長門守の娘。
新九郎がわざわざ俺に引き合わせた理由は、それで十分だった。
「仔細あって甲賀へ流れ、彦右衛門が預かっておりました。このたび、私と共に朝霧へ参りました」
新九郎が続けると、頼政はしばらくおりんを見た。
「朝霧へ来ることは、お前自身が決めたのか」
「はい。新九郎殿より話を聞き、こちらで働くことを望みました」
頼政が新九郎を見る。
「新九郎」
「はっ」
「お前が預かるのだな」
「私が責を負います」
頼政は頷いた。
「ならばよい。昨夜から皆、休めておらぬ。まずは体を休めよ。詳しい話は、その後に聞く」
「承知いたしました」
おりんは、もう一度頭を下げた。
藤林長門守の娘なら、働きまで疑う必要はない。どこまで任せられるかは、これから見ればいい。
「新九郎」
「はっ」
「朝霧へ入れた者の数と、使える者を後で教えてくれ。住む場所も決めなければならない」
「すでに分けております。昼までにはお持ちいたします」
「頼む」
人が増えたのは助かるが、そのぶん住まいも食い扶持も用意しなければならない。
それでも、昨夜のようなことがもう一度起きるなら、兵も見張りの目も、いくらあっても足りなかった。
---
昼前、宮田村から人が来た。
先頭にいたのは、竹田茂兵衛高晴だった。
後ろには五人ほどの供と、人足が十人余り続いている。縄や木材を担ぎ、米俵や味噌樽も運んできていた。
昨夜の半鐘と火は、宮田まで伝わっていたらしい。
「この度は、まことに痛ましきことでございました」
高晴は頼政の前で深く頭を下げた。
「僅かではございますが、木戸や水車を直す材と食い物を持たせました。人足も、しばらく朝霧で使ってくだされ」
「かたじけない」
高晴は、焼けた油場や傷を負った者たちも見てきた。屋敷へ入った後も、眉間の皺は消えていない。
見舞いだけを述べて帰るなら、こちらも礼を返せた。
だが、話が一段落したところで、高晴は膝の上の手を組み直した。
「油場も、早く動かさねばなりますまい」
頼政が黙って先を促す。
「宮田には、まだ菜種がございます。人手とともに朝霧へ入れましょう。油に替われば、宮田にも分けていただきたい」
頼政は、すぐには答えなかった。
油場を直す材と人足を出し、代わりに宮田の菜種も朝霧で搾って油の利へ加わる。
商いの話としては悪くない。高晴も、何も持たずに利益だけを求めているわけではなかった。
だが、夜襲の翌日に持ち出されれば、話は違う。
頼政が口を開いた。
「量と分け前は、改めて――」
「父上」
俺は頼政の言葉を止めた。
「その話を受ける前に、茂兵衛殿へ確かめたいことがあります」
「申してみよ」
俺は高晴へ向き直った。
「宮田は、昨夜の襲撃をどう見ておりますか」
「どう、と申されましても……朝霧を狙った、まことに許し難き所業と存じます」
「誰が襲ったかは」
「笠松の者と聞き及んでおります」
昨夜の半鐘と火は近隣まで伝わり、襲撃者は三十四人も死んでいる。隠し通せる話ではなかった。
「笠松の手勢が朝霧を襲った。それを承知で、宮田は油の話を持ってきたのですね」
「若様、某は朝霧を案じておりますればこそ、人と材を――」
「ならば、宮田はどちらに立つつもりです」
「どちら、と申されましても……」
「笠松と敵対する覚悟があるのですか」
高晴の言葉が止まった。膝の上に置いた手が、わずかに縮む。
政虎が顔を上げ、弦十郎も高晴から目を離さない。
「それは……」
高晴は頼政を見た。
「宮田は戦を望んでおりませぬ。笠松とも朝霧とも争わず、郷内が穏やかに収まることを――」
「つまり、どちらにもつかず、勝った方から油を得るつもりですか」
「そのような意味ではございませぬ」
「では、どういう意味です」
答えは返ってこなかった。
平時なら、中立を保ちながら両方と話をするのもよい。
だが、笠松は昨夜、朝霧へ火を放ち、二人を殺し、女子供まで奪おうとした。その翌日に、どちらにもつかぬまま油の利だけへ手を伸ばしている。
こちらが、それを許すと思われている。
「新九郎」
「はっ」
「あれを持ってこい」
新九郎は何も尋ねず、立ち上がって広間を出た。
高晴はその背を見送ったが、何を持ってこさせるのかまでは分かっていないようだった。
だが、橘の者たちは分かっていた。
政虎の顔から表情が消え、弦十郎の手が刀の柄へ置かれる。久助も黙って立ち位置を変え、広間から土間へ下りる場所を塞いだ。
高晴の供の一人が身じろぎすると、久助の視線が向く。供の男はすぐに動きを止めた。
やがて、新九郎が筵に包まれたものを運んできた。
まだ乾ききっていない血の臭いが広間へ入り、高晴の喉が動く。
新九郎は筵を高晴の前へ置いた。
「開けろ」
紐が解かれ、男の首が現れた。
昨夜捕らえ、俺が斬れと命じた三人のうちの一人だった。
高晴の肩が跳ね、供の者たちも息を呑む。
「この男を知っているか」
高晴は首を見たまま答えなかった。
「茂兵衛殿。知っているかと聞いている」
「……若様」
「答えろ」
高晴の唇が震えた。
「笠松の……者にございます」
「それは、もう分かっている」
俺は首の髪を掴み、その顔を高晴へ向けた。
「どこの誰だ」
「長次郎殿の屋敷へ出入りしていた者にございます。何度か、宮田へも参っております」
やはり知っていた。
「よく見ろ」
高晴が目を逸らそうとする。
俺は首を高晴の膝先へ引き寄せた。
「見ろと言っている」
高晴の顔が引きつった。
「こいつらは朝霧へ火を放った」
俺は髪を掴んだまま言った。
「木戸を破れ。油場と水車を焼け。屋敷へ入れたなら、父上か俺を討て」
広間の中で、誰も動かなかった。
「食い物と鶏は奪え。女子供は連れ帰れ。そう命じられていた」
「某は、そのようなことは――」
「黙れ」
高晴が息を呑み、背を引いた。
自分でも、普段とは違う声が出たのが分かった。だが、抑えるつもりはなかった。
「知らなかったから何だ。見舞いを持ってきたから何だ。人と材を出したから何だ」
首を高晴の前へ押し出す。
弦十郎の刀が鞘の中でわずかに鳴り、政虎が片膝を立てた。新九郎は高晴の後ろへ回り、久助は出口から動かない。
高晴の供も、すでに顔を伏せていた。
「笠松とは争わぬ。橘にもつかぬ。それで油の利だけを得られると思ったのか」
「若様……某は、郷内の争いを避けたく――」
「争いは、もう始まっている」
俺は高晴を睨んだ。
「朝霧の者は二人死んだ。女子供まで攫われかけた。それでも中立を口にするなら、次に朝霧が焼かれても黙って見ているのと同じだ」
「違いまする」
「何が違う」
高晴は答えられなかった。
「宮田が橘に降るなら、油の話をしてやる」
高晴が息を止める。
「降らぬなら、敵だ」
「若様、それはあまりに――」
「次は宮田へ兵を入れる」
高晴の腰が引けた。だが、背後には新九郎が立っている。
俺は首を持ち上げ、高晴の鼻先へ突きつけた。
高晴の喉から、細い声が漏れる。
「竹田の屋敷を焼く。蔵も焼く。田畑も踏み荒らす」
高晴から目を逸らさず、続けた。
「竹田の家だけで済むと思うな。宮田という村を、二度と立て直せぬようにする」
首を高晴の前へ落とす。
鈍い音が板の上に響き、政虎が立ち上がった。弦十郎も半歩前へ出る。
高晴の供が腰を浮かせかけたが、久助が刀の柄へ手を置くと、そのまま固まった。
「この男と同じ側に立つのか」
「橘に降るのか」
高晴の口が開いたが、声は出なかった。
首を見たまま、喉だけが何度も動いている。
やがて、高晴の袴の下から細い水音がした。
板へ落ちた雫が広がり、縁から土間へ垂れる。酸い臭いがゆっくりと広間へ広がった。
高晴の供はさらに深く顔を伏せたが、誰も笑わず、目も逸らさない。
高晴も自分の身に起きたことへ気づいたらしい。顔を歪めたが、裾を隠すことも立ち上がることもできず、縋るように頼政を見た。
「若様を止めていただきたい」
掠れた声だった。
頼政は答えない。
「弥三郎殿……」
「止めるつもりはない」
高晴の顔が固まった。
「昨夜、朝霧の者を二人殺された。女と子供まで奪われかけた。その翌日に、中立のまま利だけを望むなら、小徳丸の言葉を脅しと思うな」
政虎も刀の柄へ手を置く。
「茂兵衛殿」
声は低かった。
「我らは今、笠松へ攻め込むのを堪えております。宮田まで敵に回るというなら、堪える理由はなくなりますぞ」
高晴の体が大きく震えた。
「宮田へ戻れ」
俺が言うと、高晴は怯えた目を向けた。
「明日の朝までに、村の名主と組頭を連れて、もう一度ここへ来い」
「若様……」
「来なければ、笠松と同じ側に立ったものと見なす」
高晴は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。
両手を板につき、何度も頭を下げる。立ち上がろうとしても足に力が入らず、供の者が両脇から支えて、ようやく立たせた。
濡れた袴を引きずるように、高晴は広間を出ていく。
久助と新九郎は、最後まで出口から動かなかった。
宮田の者たちが屋敷を離れると、広間には血と尿の臭いが残った。
誰も、すぐには口を開かなかった。
やがて頼政が、板の上の首を見た。
「本当に、宮田を焼くつもりか」
「降らないなら」
俺は答えた。
「脅しただけではありません。宮田が笠松と同じ側に立つなら、敵として潰します。屋敷も蔵も焼き、二度と朝霧へ手を出せないようにします」
あれだけ言っておきながら、高晴が降らなければ何もしない。それでは、次から誰も橘の言葉を恐れなくなる。
頼政は黙って俺を見ていた。
「正綱の手勢は、朝霧へ火を放ちました」
俺は、板の上に転がった首へ目を落とした。
「もう、何があろうと正綱の首は取ります」
頼政は何も答えなかった。
だが、止めもしなかった。




