第27話 詰めの山
天文十七年(1548年)、春。
新九郎は第二陣を連れてくるため、再び甲賀へ戻っていた。
朝霧には、甲賀衆の一部が残っている。その者たちを通じて、越前の報せが届いた。
朝倉孝景が、三月に亡くなった。
春になり、人の行き来は増えていた。商いの荷も、寺へ向かう者も、山へ入る者も増える。その流れに乗って、越前の報せも朝霧まで届いたのだろう。
人が増えれば、兵や間者が紛れ込む隙も増える。
だが、俺が気にしていたのは、越前のことだけではなかった。
去年、朝霧には三人の間者が入り込んだ。油場と水車場を探られ、百済寺道の祠で待つはずだった相手は姿を見せなかった。
捕らえた男は、笠松長次郎正綱の名を吐いた。寄合でも、正綱は朝霧の内を知りすぎていた。
それでも、正綱が命じたという証はない。
誰が敵かは、まだ決められない。だが、朝霧が一度探られた事実まで消えるわけではなかった。
さらに、残った甲賀の者から、笠松で人が動いているという話も入っていた。
普段は畑へ出る若い者が屋敷へ呼ばれている。蔵から槍が出され、夜にも人の出入りがあるという。
笠松が自分たちの番を固めているだけかもしれない。
だが、今の朝霧が見過ごしてよい話でもなかった。
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屋敷の奥で、春が惟丸を抱いていた。
惟喬親王にあやかった名だと聞いている。
山の木を使い、木地師の腕を借りようとしている今の朝霧には、不思議と縁のある名に思えた。
惟丸は、まだ小さい。話すことも歩くこともなく、春の腕の中で口を動かし、時折小さな声を漏らすだけだった。
それだけで、屋敷の空気は変わっている。
守るものが増えた。
そう思うと、自然と屋敷の外へ意識が向いた。
食い物をどこへ移すか。水をどう運ぶか。いざという時、春と惟丸をどこへ逃がすのか。
惟丸の寝息を聞きながら考えるには、あまり穏やかな話ではなかった。
「小徳丸」
春の声で、俺は顔を上げた。
「また考えごとですか」
「いえ、母上」
「いえ、ではありません。先ほどから惟丸の顔ではなく、壁の向こうばかり見ております」
言われて、俺は少しだけ目を逸らした。
春は、俺のそういう顔をよく知っている。何を考えているかまでは分からずとも、考え込んでいることはすぐに察する。
部屋の端では、日吉丸が盆を持って控えていた。
朝霧へ来てから、もう一年近い。
近江の言葉には困らなくなり、屋敷の雑用も一通り覚えている。
だが、聞かなくてよい話まで聞こうとする癖と、人の隙を探す目だけは変わっていなかった。
惟丸の方へちらりと顔を向けた瞬間、弦十郎が無言で日吉丸へ視線を投げた。
日吉丸は、すぐに目を伏せた。
叱られる前に引くことは覚えた。だが、まだ目を離してよい相手ではない。
「日吉丸」
「はい、若様」
「盆を置いたら、外で待て。呼ぶまで勝手に動くな」
「……はい」
返事が一拍遅れた。
日吉丸は盆を置き、できるだけ音を立てずに下がっていった。弦十郎が顔を向けると、今度はわざと少し足音を立てた。
器用なのか、落ち着きがないのか。
たぶん両方である。
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日吉丸が下がると、頼政が入ってきた。
頼政は春の腕の中の惟丸へ顔を向け、それから俺の前に腰を下ろした。
「越前の報せを聞いたか」
「朝倉弾正左衛門尉殿が亡くなったという話ですか」
「うむ。越前がすぐに乱れるとは限らぬ。だが、人が動く季節になったことは確かだ」
「はい」
「笠松の話も聞いたな」
「若い者と武具を集めているという話ですね」
「長次郎が朝霧へ向けると決まったわけではない」
「分かっています」
頼政は、俺の返事を待った。
「ですが、先の間者の件も、まだ終わっていません」
「長次郎が動かした証はない」
「はい。笠松を敵と決めるつもりはありません」
「ならば、何に備える」
「誰が来ても守れる朝霧にします」
春が惟丸を抱き直した。
頼政は膝の上で指を止める。
「申せ」
俺は膝の上で手をそろえた。
「朝霧は、前より大きくなっています」
「うむ」
「人を受け入れ、畑を広げ、水車も油場も動いています。山へ入る者も、朝霧へ入る荷も増えました」
そこで一度、息を置いた。
「ですが、守る者が足りません」
春が、惟丸を抱く腕に少し力を入れた。
俺は続けた。
「村の者は、皆が武士ではありません。いざとなれば、百姓にも槍を持たせることになります」
「それが雑兵だ」
「分かっています。ですが、集めればすぐ守れるわけではありません」
百姓を集めれば、数は揃う。
だが、合図一つで持ち場へ動き、命じられた場所を守れるとは限らない。
普段から武具を扱い、いざという時にすぐ動ける者が要る。
「いつでも動ける兵が要ります。百姓を集めてから持ち場を決めていては、間に合いません」
頼政は、すぐには答えなかった。
「常に兵として置けば、その者は畑へ出られぬ」
「兵として、銭で雇います」
「その銭は、どこから出す」
「油の売上から出します。まずは十人ほど。給金を切らさず払える数から始めます」
「善右衛門の荷が止まれば」
「善右衛門だけに任せず、近江の寺や市へ売る先を増やします。油を運ぶ道も、一つには絞りません」
「すぐにできるか」
「すぐには無理です。それでも、善右衛門との取引が途切れたり、一本の道を塞がれたりしただけで、給金まで止まる形にはできません」
「兵を畑へ戻すつもりはないのだな」
「はい。兵として雇った者は、兵の務めに専念させます」
頼政は目を細めた。
「十人で足りるか」
「足りません。ですが、今すぐ雇って動かせるのは、そのくらいです。甲賀から来た者も合わせて、番と稽古を重ねます」
朝霧では、畑も油場も広がり、水車を使う仕事も増えた。
だが、人も物も増えた分だけ、守らなければならないものも増えた。奪われてからでは遅い。
「先の間者は、村の中まで入りました。祠の相手は捕らえられず、山には抜け道もあります。次も村口から来るとは限りません」
「村口だけでは足りぬか」
「はい」
「屋敷を固めるか」
「屋敷も大事です。ですが、最後に籠もる場所には向きません」
頼政は黙った。
春も、何も言わない。
俺は続けた。
「屋敷だけでは持ちません。兵が押し寄せれば、女子供や年寄りまで抱えて籠もるには狭い。村の中にあるから火にも巻き込まれやすく、水や食い物も長くは持ちません」
「ならば、どこへ籠もる」
頼政の声が低くなった。
俺は屋敷の外へ顔を向けた。
村の向こうには、山がある。
熊が下りてきた山だ。人が入れば危うい山でもある。
だが、先に道と水場を押さえれば、こちらの守りにもなる。
「山です」
頼政は、すぐには答えなかった。
「朝霧の後ろの山に、逃げ込める場所を作ります。村口で敵を止めている間に、女子供や年寄りを逃がせる場所が要ります。屋敷まで破られてからでは遅い」
「山に砦を置くつもりか」
「はい。そのつもりです」
口で言うのは簡単だ。
水場がなく、荷も運べなければ、逃げ込んでも長くは持たない。柵や小屋を作る前に、まず場所と道を見なければならなかった。
頼政が言った。
「山に砦を築けば、長次郎は朝霧が戦支度を始めたと騒ぐぞ」
「騒ぐでしょう」
「分かっていて進めるか」
「初めから大きな砦を築くつもりはありません。まずは水場と逃げ道を確かめて、荷を運べる道を作ります。柵や小屋は、そのあとです」
「言い分は立つか」
「朝霧の者を逃がすための場所です。笠松へ攻め入るためではありません」
「長次郎が、そう受け取るとは限らぬ」
「分かっています。ですが、間者を入れられたあとで、何も備えないわけにはいきません」
正綱を刺激する危険はある。
だが、正綱の機嫌を損ねないために、朝霧を無防備のままにすることはできなかった。
「それだけではありません」
頼政が、膝の上に置いた手をわずかに動かした。
「まだあるのか」
「砦を作るなら、それに合う武具も要ります」
「武具か」
「村口や狭い道を守るなら、長柄が要ります。一人で振り回す槍ではなく、並んで敵を止めるための槍です」
「長さを揃えるか」
「はい。作兵衛には穂先と補強を見てもらいます。柄は木地師に削らせます」
弦十郎が黙って聞き、わずかに頷いた。
「それと、弩も増やしたいです」
頼政の手が、膝の上で止まった。
「三挺では足りぬか」
「三挺では足りません。村口と山道、屋敷へ分ければ、一か所に一挺しか置けません」
「弓では駄目か」
「弓は、すぐには扱えません。ですが弩なら、少し教えれば構えて放つところまではできます」
「誰でも兵にできる、ということか」
「兵にできるわけではありません。ただ、木戸の内や砦の上で待たせることはできます。逃げ込む者を守り、敵の足を止めるための武具です」
「熊に使ったものを、そのまま増やすか」
「いいえ。まず、三挺を作兵衛に見直させます。弦の掛かり、留め具、太矢の重さを直し、型が決まってから同じ形で増やします」
「形を揃えるのか」
「はい。形がばらばらでは、直すにも教えるにも手間がかかります」
頼政が短く息を吐いた。
「相変わらず、作兵衛をこき使うのう」
「否定はできません」
「できぬか」
「はい。ですが、作兵衛一人に任せるつもりもありません」
俺は、そこで少し言葉を区切った。
「職人を増やします」
頼政は黙って続きを待った。
「作兵衛と木地師だけでは足りません。水車や油場の仕事に、農具の直しもあります。そこへ長柄と弩まで加えれば、いずれ手が止まります」
「手先の器用な者を、下につけるか」
「はい。朝霧の百姓や移ってきた者、甲賀者からも探します。新九郎が連れてくる者も含めます」
「百姓でもか」
「向く者なら、作兵衛たちの下につけます。畑へ戻すより、その方が朝霧のためになります」
頼政は、しばらく考えていた。
「山へ逃げ込める場所を作り、いつでも動ける兵を置く。長柄と弩を揃え、それを作る者も増やすのだな」
「はい」
頼政の口元が、わずかに動いた。
「小徳丸。それは、朝霧を戦にも耐える村へ作り替えるということだぞ」
その通りだった。
朝霧を大きくするなら、守れる形にも変えなければならない。
俺は膝の上で拳を握った。
「分かっています。ですが、今のままでは守れません」
頼政は、しばらく俺を見ていた。
やがて、短く言った。
「彦九郎を呼べ。兵と番の組み方を詰める」
「はい」
「久助と孫兵衛に、山の水場と抜け道を調べさせる。砦を築ける場所も探させよ」
「はい」
「作兵衛には、長柄と弩の話をする。今夜から村口と山道の番も増やす」
「笠松へ続く道は」
「久助に甲賀の者を二人つける。何か動けば、すぐ知らせよ」
頼政はさらに続けた。
「油場と水車場には、水桶と濡らした蓆を置け。女子供を集める場所も決めておく」
「はい」
「それと」
頼政が戸口へ目を向けた。
「日吉丸を、そこから離せ」
弦十郎が顔を向けるより早く、外で小さく板が鳴った。
やはり聞いていた。
「日吉丸」
俺が呼ぶと、戸の向こうで気配が固まった。
「入れ」
少し間があり、戸がゆっくりと開く。
日吉丸は、ばつの悪そうな顔で膝をついた。
「聞いていたか」
「少しだけです」
「どこからが少しだ」
「山に砦を作る辺りからです」
「ほとんどではないか」
日吉丸は目を伏せた。
「今聞いたことは、外で話すな」
「話しません」
「誰に聞かれてもだ」
「はい」
頼政が弦十郎へ顔を向けた。
「今日は、目の届くところへ置け」
「承知いたしました」
日吉丸の肩が少し落ちた。
「用があるなら声をかけろ。戸口に隠れて聞くな」
「……はい」
返事だけは素直だった。
頼政が短く息を吐いた。
「忙しくなるぞ」
「はい」
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まだ、砦も逃げ込む道もない。兵も武具も、これから揃えなければならなかった。
それでも頼政は、その日のうちに村口と山道の番を増やした。久助には甲賀の者をつけ、笠松へ続く道を見させる。
正綱が動く証はない。
だが、敵がこちらの支度を待ってくれるとも限らなかった。




