第26話 猿の目
日吉丸が朝霧で二度目の朝を迎えた。
つまり、逃げなかった。
飯が出るからだろうが、そこだけは褒めてもいい。昨日は飯場で、飯の残った椀に手を伸ばしかけ、弦十郎に手の甲を叩かれた。水車の裏へ回り込んだところを、久助に首根っこを掴まれた。
それでも朝になれば、何食わぬ顔で俺たちの間に座っていた。
おたまだけは、自分の椀を両手で抱えていた。完全に飯泥棒を見る目だった。
「わしは何もしとらんでよ」
「何もしていない、だ」
新九郎が横から直した。
日吉丸は嫌そうな顔をしたが、しばらく考えてから言い直した。
「……わしは何もしていない」
「昨日はしただろ」
勘次が言うと、日吉丸はすぐに顔を向けた。
「昨日のことは言っとらんでよ!」
「また尾張の言葉だぞ」
虎松に笑われ、日吉丸は新九郎を睨んだ。
「そんなにいっぺんに直せるか!」
おはつが、その様子を眺めてから俺へ顔を向けた。
「小徳丸、この子、本当に大丈夫なの」
「勝手にはさせない」
日吉丸は聞こえていないふりをして飯を食っていたが、耳はこちらを向いていた。
一度叱られたことは覚える。誰が飯をくれ、誰が見張っているかも見ている。
放っておけば、朝霧の決まりより先に抜け道を覚えるだろう。
朝の食事を終えた頃、久助が山際の見回りから戻ってきた。
熊を仕留めたあとも、山際の番は続けている。一頭を倒したからといって、山から熊がいなくなったわけではない。
「新しい熊の跡はございませぬ」
久助はそう報告してから、話を続けた。
「一つ目の尾根までは見ております。そこで、普段の猟道から分かれる踏み跡を見つけました」
「村の者が使っている道ではないのか」
「そこまでは分かりませぬ。衣掛へ上がる方角へ続いておりますが、その先は見ておりませぬ」
「分かれ目までは歩いて確かめたのだな」
「はい」
まずは、その分かれ目を自分の目で見ておきたかった。
「一つ目の尾根まで見に行く」
俺が告げると、久助は頭を下げた。
「承知いたしました」
俺は久助と日吉丸を連れ、頼政と春のところへ向かった。
「久助が見つけた踏み跡の分かれ目まで行ってきます」
俺が話すと、頼政は久助へ目を向けてから尋ねた。
「どこまで入る」
「久助が確かめた一つ目の尾根までです。勘次たちも連れていきます」
「子供たちも連れていくのか」
「はい。山へ入ってよい場所と、入ってはならない場所を見せます。分かれた道の先は、あとで久助たちに調べさせます」
村が広がれば、子供たちの動く範囲も広がる。水車小屋や油場へ勝手に入るなと教えている以上、山についても教えておく必要があった。
頼政は久助へ顔を向けた。
「一つ目の尾根までは、新しい熊の跡はないのだな」
「ございませぬ」
久助が答えると、頼政は俺へ向き直った。
「分かった。熊の跡があれば、すぐ戻れ」
「はい」
「日が高いうちに下りろ。弦十郎も連れていけ」
「そのつもりです」
春は、俺の後ろにいた日吉丸へ目を向けた。
「その子も連れていくのですか」
「側に置くと決めましたので」
「逃げんでよ」
日吉丸が、まだ聞かれてもいないことを答えた。
春は日吉丸を見たまま言った。
「山で勝手に走れば、逃げる前に転びますよ」
「……走らん」
「なら、よろしい」
庭へ出ると、弦十郎を呼んだ。
「一つ目の尾根まで入る。勘次たちも連れていく」
「承知しました。供は何人つけますか」
「山に慣れた兵を二人。先導は久助に任せる」
「念のため、縄も二本持たせます」
「山へ入るなら、その方がいい。任せる」
「承知しました」
同行するのは、俺、日吉丸、勘次、平助、虎松、おはつ、おたま。そこへ久助、弦十郎、山歩きに慣れた兵二人をつける。孫兵衛には、普段どおり山際の番を見てもらうことにした。
日吉丸は、兵が持つ飯包みを見ていた。
「山にも飯を持ってくんか」
「昼までかかるかもしれん」
「なら、わしの分もあるな」
「ある。だが、勝手に触るな」
「分かった」
返事だけは早い。
屋敷を出ると、水車小屋の脇を抜けて山際へ向かった。
畑の間を歩くうちは、勘次たちも普段と変わらない。勘次と虎松が前へ出ようとし、平助がその後を追った。おはつとおたまは少し後ろを歩き、日吉丸は朝霧へ来てからまだ見ていない小屋や道があるたびに顔を向けていた。
山際へ近づくにつれて畑が途切れ、道へ木々の影が落ち始めた。沢の音も次第に大きくなっていく。
久助が足を止め、山へ続く細い踏み跡を示した。
「ここから山へ入ります」
道は人一人が通れるほどの幅しかなく、その先は木々に隠れている。どこへ続いているのか、下から見ただけでは分からなかった。
俺は子供たちへ顔を向けた。
「ここから先は、久助より前へ出るな。脇道にも入るな」
「分かってる」
勘次が答え、平助たちも頷いた。
日吉丸は沢の方を見ていた。
「日吉丸」
「聞いとる」
「なら、列を外れるな」
「分かった」
久助が山へ入り、俺たちもその後へ続いた。
山腹へ入ると、踏み跡はすぐに細くなった。草の倒れた隙間を抜け、木の根が浮いた斜面を上がっていく。沢沿いの土は湿っており、草鞋では踏ん張りが利かない。
「ここから足場が悪くなります」
久助に言われ、足元を見ながら進んだが、それでも次の一歩で草鞋が滑った。
すぐ横から弦十郎の手が伸びる。俺はその腕を掴み、どうにか踏みとどまった。
「助かった」
「足元をよくお確かめください」
「ああ」
弦十郎は、また半歩後ろへ下がった。
大人なら跨げる岩も、今の俺には小さな崖だった。越えるたびに足が重くなる。
勘次は先へ出たがったが、久助より前には出なかった。沢へ下りる細い踏み跡を見つけると、そこへ足を向ける前に俺を呼んだ。
「若、あっちにも道がある」
「入るな」
「分かってる。だから聞いた」
以前なら、そのまま入っていたかもしれない。少しは覚えているらしい。
日吉丸も列の中にはいたが、前だけを見ているわけではなかった。笹の陰や木の根元、斜面の下へ何度も顔を向けている。
食える物を探しているのか、逃げられる道を探しているのか。おそらく両方だろう。
弦十郎も気づいていたが、日吉丸が列を外れない限りは何も言わなかった。
一つ目の尾根へ近づいた頃、日吉丸が急に足を止めた。後ろを歩いていた虎松が、危うく背中へぶつかりかける。
「止まるなよ」
虎松が文句を言うと、日吉丸は斜面の下へ顔を向けたまま、低い声で返した。
「静かにしろ」
いつもの調子ではなかった。
「何かあるのか」
俺が尋ねても、日吉丸は答えず、耳を澄ませている。
平助も足を止め、同じ方角へ顔を向けた。
「今、声がした」
平助の言葉で、全員が黙った。
沢の音に混じって、かすかな声が聞こえた。
「下に誰かおる」
日吉丸が笹の際まで寄り、斜面を覗き込んだ。弦十郎がすぐに肩を掴み、一歩後ろへ下げた。
「それ以上出るな」
久助が戻ってきた。
「どこだ」
「倒れた木の辺りだ。あそこから聞こえる!」
日吉丸が斜面の下を指した。
久助は地面へ膝をつき、身体を低くして斜面の下を覗いた。しばらく動かなかったが、やがて低い声で言った。
「人がおります」
俺は弦十郎へ顔を向けた。
「助ける」
「はっ」
弦十郎はすぐに兵へ指示を出した。
「お前は村へ戻れ。縄を追加で持たせ、担架と人を寄越せ」
「はっ」
兵が来た道を駆け下りていった。
「平助、勘次たちをあの木の内側まで下げろ。おはつとおたまから離れるな」
「分かった」
平助は、おはつとおたまを先に下がらせた。勘次と虎松にも声をかけ、二人が木の内側へ移ったのを確かめてから、その前に立った。
弦十郎は日吉丸の肩を押さえたまま、残った兵へ縄を木に回させた。
「おい、聞こえるか!」
日吉丸が呼びかけたが、返事はなかった。
もう一度呼ぶと、下からかすかな声が返った。
久助は縄を腰へ回した。
「某が下ります」
「急ぐな。足場を確かめろ」
弦十郎が言い、残った兵とともに縄を支えた。
久助が斜面を下り始める。足を置くたびに土が崩れ、細かな石が下へ転がっていった。
「日吉丸。そこから動くな」
「ここなら下が見える。久助殿が下りたら、木で見えんようになる」
「分かっている。だから動くな」
「はい」
久助の姿が木々の間へ隠れると、日吉丸が斜面の下を見ながら声を飛ばした。
「もう少し右だで! 倒れた木の下だ!」
しばらくして、下から久助の声が上がった。
「朝霧の猟師にございます。仕掛けを見に入り、足を滑らせたようです。右脚を痛めております」
「意識はあるか」
俺が尋ねると、久助が答えた。
「ございます。ただ、かなり弱っております」
斜面を滑り落ち、下の倒木に引っかかって止まっていたらしい。額からも血を流しているという。
日吉丸が斜面へ向かって叫んだ。
「おい、寝るな!」
返事はない。
「寝たら飯が食えんぞ!」
今度は、下から声が返った。
虎松が木の内側から日吉丸を見た。
「飯で起こすのか」
「飯を食いたくない者なんておらん」
日吉丸は真顔だった。
おたまが腰の竹筒を外し、平助へ差し出した。
「水は渡せないの」
平助は竹筒を受け取り、弦十郎のところへ運んだ。
「おたまが、これを下ろせないかって」
「分かった。久助、今から水を下ろす」
弦十郎は残っていたもう一本の縄へ竹筒を括りつけ、久助のいる場所まで下ろした。
声が途切れるたびに、日吉丸は斜面の上から呼びかけを続けた。
やがて、村へ戻った兵が、追加の縄と担架を持った者たちを連れて戻ってきた。
弦十郎は担架を道の内側へ置かせ、追加の縄を久助のもとへ下ろした。
「久助、脚を固められるか」
「枝と布があれば」
「すぐ下ろす」
弦十郎に命じられ、兵が真っ直ぐな枝を二本選んだ。救援の者が持ってきた布とともに縄へ括り、斜面の下へ送る。
久助は猟師の右脚を固定してから、胸と腰へ縄を回した。
「用意できました」
久助の声が上がった。
「久助の声に合わせろ。急に引くな」
弦十郎の指示で、兵たちが縄を握った。
「引け!」
弦十郎の声に合わせ、兵たちが縄を手繰った。
縄が軋み、久助に支えられた猟師が少しずつ斜面を上がってきた。
「脚を岩へ当てるな。右へ寄せろ」
弦十郎が位置を確かめながら声を飛ばした。久助は下から猟師の身体と右脚を支え、声に合わせて足場を選んでいる。
やがて泥にまみれた猟師の姿が木々の間から現れ、兵たちが道まで慎重に引き上げた。そのあとを久助が登ってきた。
猟師の額の血は乾き始め、右脚はひどく腫れていた。自力で立てる状態ではない。
久助は腰に差していた空の竹筒を、おたまへ返した。
猟師は薄く目を開け、かすれた声を出した。
「見つけたのは……誰だ」
久助が日吉丸へ顔を向けた。
「わしです」
日吉丸が答えた。
「そうか……助かった」
猟師の言葉を聞き、日吉丸は何か言おうとしたが、その顔を見て口を閉じた。
兵たちが猟師を担架へ載せたところで、見回りは打ち切ることにした。猟師を先に運ばせ、俺たちはその後ろを歩いて山を下りた。
上る時より、列は静かだった。
途中で日吉丸が、俺の腰にある飯包みへ目を向けた。手を伸ばしかけたが、途中で止める。
「少し、もらってもいいですか」
俺は包みから干し飯を割り、日吉丸へ渡した。
「よく見つけた」
「わしがおらんかったら、見つからんかったぞ」
「そうだな」
「なら、もう少し」
「それは駄目だ」
日吉丸は不満そうな顔をしたが、干し飯はすぐに口へ入れた。勘次たちが笑った。
村へ戻ると、猟師はそのまま屋敷へ運ばれた。
脚の骨が折れているかもしれず、しばらく山へは入れないだろう。慣れた猟師でも、足を滑らせれば一人では動けなくなる。
日吉丸が声に気づかなければ、日が暮れるまで斜面の下にいたかもしれなかった。
「久助」
俺が呼ぶと、久助が膝をついた。
「はっ」
「今後、山へ入る者には、行き先と通る道、連れの名、戻る刻を番へ告げさせろ」
「承知いたしました」
「番は帳面に残せ。当分、奥へは一人で入らせるな」
「はっ」
山は朝霧のすぐ後ろにあり、木も獣も水もある。近いからといって、安全な場所ではなかった。
おはつが日吉丸を見ながら言った。
「小徳丸。この子、本当に大丈夫なの」
「よく気づく。あとは朝霧の決まりを覚えさせる」
俺が答えると、日吉丸はすぐに胸を張った。
「わしは、もう覚えとる」
「なら、人の飯へ手を伸ばすな」
日吉丸の口が止まり、おたまも笑った。




