第25話 熊と猿
朝の鍛錬を終えたあと、俺は茶畑の様子を見に行くことにした。
庭を出ようとしたところで、孫兵衛が戻ってきた。
「どうした、孫兵衛」
孫兵衛は俺に一礼した。
「若様。殿に、急ぎの報せがございます」
その声で足が止まり、頼政も奥から出てきた。
「何があった」
孫兵衛は膝をついた。
「熊の痕跡がありました」
「熊か」
頼政の声が低くなった。
「場所は」
「罠場の近くです。沢の奥手にございます。土を掻き、木の皮も剥いでおります」
「被害は」
「まだ、ございませぬ」
孫兵衛は、そこで一度言葉を切った。
「下りてくれば、新しい畑へ出ます」
頼政の顔が険しくなり、近くにいた家人へ顔を向けた。
「彦九郎と弦十郎を呼べ。山へ出る支度をさせろ」
「はっ」
「孫兵衛、熊の跡を追える者を二人つけろ。弓も槍も持たせる」
「承知いたしました」
熊が新しい畑へ下りれば、人が死ぬ。畑を荒らされるだけでは済まない。
頼政の判断は早かった。だが、命じた支度は、いつもの山狩りのものだった。
それを聞いた瞬間、俺は口を挟んでいた。
「父上」
「何だ」
「作兵衛に作らせているものがあります」
「熊に使えるものか」
「分かりません。まだ試作段階です」
頼政はすぐには答えず、俺の顔を見た。
「何を作らせている」
「弩です」
「それは何だ」
「弓に近いものです。ただ、手で引き続けるのではなく、弦を掛けて留め、太い矢を据えて放ちます」
「待ち構えて射るものか」
「はい。続けて撃つものではありません。ですが、据えて待てば、弓より深く入ります」
傷一つない熊を、槍だけで正面から受けるのは避けたかった。
「熊が近づく前に、まず足を止めたいのです」
頼政はしばらく黙り、やがて短く言った。
「俺も出る」
「父上もですか」
「新しい畑へ下りるかもしれぬのだろう。ならば、俺が出ぬわけにはいかぬ」
ほどなく、政虎と弦十郎が庭へ入ってきた。
頼政は二人へ熊の痕跡が見つかったことを告げると、政虎へ顔を向けた。
「彦九郎。熊が抜けた時は、お前が押さえろ」
「承知いたしました」
「弦十郎」
「はっ」
「小徳丸の護衛を」
「承知いたしました」
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「作兵衛」
「へえ」
作兵衛は、抱えていた弩を前へ出した。
「できたのか」
「へえ。まずは試しの形にしてみました」
頼政が眉を寄せる。
「これが、その弩か」
「へえ。弦を掛けて留め、太矢を据えて放つものにございます」
俺は弩を確かめた。形にはなっているが、まだ試作だ。
熊相手に外した時のことを考えると、正直、怖い。それでも、今は出すしかない。
「熊に使えるか」
作兵衛は弩の木床を軽く叩いた。
「急所へ入れば止められます。肩や腹では、怒らせるだけになるやもしれませぬ」
「一挺だけか」
「同じものを、あと二挺作ってあります。壊れるかもしれませぬし、外すかもしれませぬ。一挺だけでは、熊相手には怖うございます」
頼政が短く頷いた。
「一挺は久助、もう一挺は孫兵衛に持たせろ」
「残る一挺は」
もう一挺はと俺が聞くと、頼政は弩を受け取った。
「俺が持つ」
「父上がですか」
「武士が武具を持つだけのことだ」
そう言われると、返す言葉がなかった。
久助が太矢を手に取った。
「重い」
「軽ければ熊には浅いですぞ」
頼政が久助へ問う。
「扱えるか」
「引いて狙い続けるものではなく、機を見て落とすものにございます。ならば、某にも扱えましょう」
「なぜ、そう思う」
「山で獣を追う腕は、孫兵衛殿に及びませぬ。ですが、待つ場所を選び、逃げ道を塞ぐ役ならできます」
孫兵衛も弩を手に取った。
「撃つ場所を決めれば、使えます」
作兵衛が頷く。
「ただ、弦を掛けるのに手間がかかります。一度外せば、そこで終わりと思うてくだされ」
「撃った後はどうする」
「すぐ私へ渡してくだされ。掛け直します」
「間に合うか」
「熊が待ってくれれば」
作兵衛は、そこで口を歪めた。
「待たぬでしょうな」
頼政が弩を見た。
「なら、初めに当てるしかない」
「へえ。急所を外せば、槍で受けることになります」
誰もすぐには返さなかった。
山へ出る前に、庭の端へ藁束を立てた。久助、孫兵衛、頼政が一度ずつ弩を放つ。
三本とも藁束へ深く食い込み、そのうち一本は後ろの板まで届いた。
久助は引き金の重さを確かめ、孫兵衛は矢の落ち方を見ていた。
「近ければ、狙ったところへ入ります」
孫兵衛が言うと、作兵衛が頷いた。
「離れれば矢が落ちまする。熊を待つ場所で、距離を決めてくだされ」
作兵衛は撃ち終えた弩の先にある輪へ足を入れ、腰の鉤を弦へ掛けた。そのまま体を起こして弦を引き上げ、留め具へ掛ける。
「こうして掛け直します。手だけでは引けませぬ」
「時間がかかるな」
「へえ。ですから、三挺ございます」
頼政は孫兵衛へ顔を向けた。
「熊の通る道は読めるか」
「当然にございます」
「久助と場所を決めろ」
「承知いたしました」
孫兵衛と久助は、余計な言葉を交わさなかった。
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沢の奥手は、鹿狩りの時に入った場所より、さらに奥だった。木が深く、足元も悪い。その手前に罠場がある。
孫兵衛が痕跡を追い、連れてきた山の者二人が左右へ分かれた。一人は沢沿いを見張り、もう一人は新しい畑へ下りる道へ回る。熊がそちらへ逸れれば、声を上げる手筈だった。
孫兵衛は、木の幹に残った爪痕を確かめた。
「新しい」
久助が周囲を見回す。
「下りてきますか」
「腹が減っていれば」
孫兵衛の返事は短い。それだけで、十分に嫌だった。
孫兵衛と久助が選んだのは、沢から畑へ下りる細い獣道だった。左右を木と岩に挟まれ、熊が通れる場所は狭い。途中に横たわる倒木を越える時だけ、足が止まる。
久助と孫兵衛は、獣道を挟んで左右へ伏せた。頼政は二人より少し後ろに立ち、作兵衛は撃ち終えた弩を受け取れる位置についた。
政虎は、熊が横へ抜けた時に槍で塞ぐ位置についた。弦十郎は俺をさらに後ろへ下げた。
山の者二人も、それぞれの持ち場から獣道の奥を見張っていた。
作兵衛は久助の弩に太矢を乗せ、弦の掛かりを確かめた。膝元には、布に巻いた替えの太矢が置かれていた。
「無理に追わんでくだされ。撃つなら、足が止まった時に」
「分かっております」
「撃ったら、すぐこちらへ」
「頼む」
久助の声は落ち着いていたが、弩を持つ手には力が入っていた。
弦十郎が俺の前に立つ。
「若様は、ここから動かれませぬよう」
「ああ」
熊相手に前へ出ても、役に立つことは何もない。
沢の音がして、風が木の葉を揺らしていた。その中に、獣が喉の奥で鳴らすような湿った音が混じった。
左へ回った山の者が、手を上げた。
孫兵衛も顔を上げる。
「来ます」
木の奥が揺れ、黒い影が現れた。誰も動かず、沢の音だけが残った。
熊は頭を下げ、土を嗅いだ。
久助の指が、弩の引き金にかかった。まだ撃たない。
熊が一歩前へ出て、倒木の手前へ入った。
孫兵衛の手が、すっと下がった。
「今だ」
久助の指が落ち、乾いた音がした。
太矢が熊の肩口へ刺さった。浅い。
熊が吠え、山の空気が震えた。
作兵衛が横から久助の弩を受け取り、先の輪へ足を入れた。腰の鉤を弦へ掛け、体を起こして引き上げる。
熊は肩に太矢を刺したまま、こちらへ向いた。
「孫兵衛、次だ」
頼政の声が飛ぶ。
「分かっております」
孫兵衛の弩が鳴り、二本目の太矢が熊の脇へ入った。熊の前脚がもつれたが、勢いは止まらなかった。
「彦九郎、前へ出すな」
「承知」
政虎が槍を前へ出し、熊の鼻先を押さえた。熊が唸って体を寄せると、槍の柄がしなった。
政虎は踏み込まず、半歩だけ下がった。
弦十郎が俺の前を塞ぐ。
「若様、動かれますな」
動けるわけがなかった。
作兵衛は足を踏ん張り、引き上げた弦を留め具へ掛けた。太矢を一本取り、木床へ据える。
「掛かりました!」
久助が張り直された弩を受け取った。孫兵衛も撃ち終えた弩を作兵衛へ渡す。
「こちらも掛け直します」
熊が政虎の槍を嫌い、横へ逃げようとした。その横手には、久助が伏せていた。
「次を」
「見えております」
久助の指が落ち、三本目の太矢が熊の腹の横へ入った。
熊が大きく体を揺らした。
頼政の弩が動いた。狙っているのは頭ではない。首の下、前脚の間だった。
熊が政虎の槍を弾いた。
その瞬間、頼政の指が落ちた。
四本目の太矢が熊の胸元へ消え、巨体が前のめりに倒れた。
爪が土を掻き、口から荒い息が漏れた。
「まだ寄るな」
頼政の声に、政虎は槍を構えたまま熊の頭の前へ回った。孫兵衛も、近くに立てていた槍を取る。
熊が首を上げようとした。
「彦九郎、押さえろ」
「承知」
政虎の槍先が熊の肩口を押さえた。熊が唸ったところへ、孫兵衛の槍が首の下から胸元へ深く入る。
熊の体が大きく跳ねた。
「下がれ」
頼政の声で、二人が一歩引いた。
熊は土を掻いたが、もう立ち上がらなかった。荒い息が、少しずつ細くなっていった。
「もう一度」
頼政が言った。
孫兵衛が頷き、槍を入れ直した。今度は、熊の体が小さく震えただけだった。
しばらくして前脚の力が抜ける。
孫兵衛は槍を構えたまま少し間を置き、ようやく言った。
「終わりにございます」
頼政が弩を下ろした。
作兵衛は久助の弩を受け取り、木床と弦を確かめる。
「壊れてはおりませぬな」
「次を撃つ間など、ほとんどありませんでした」
久助が言うと、作兵衛は弩を持ち上げた。
「だから、一挺では怖いのでございます」
久助が低く息を吐く。
「一度外せば、終わりにございますな」
孫兵衛は熊を見下ろした。
「畑へ下りる前でよかった」
その言葉に、誰も反論しなかった。
熊は、もちろん捨てない。肉も皮も骨も使える以上、これも山から得たものだった。
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熊の処理を孫兵衛たちに任せ、屋敷へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
庭先へ入ると、新九郎が膝をついて待っていた。
「尾張より戻りました」
「ご苦労」
俺はそう返し、新九郎の隣に置かれたものへ目を止めた。
木枠だった。荷籠にしては大きく、檻にしては雑である。竹と木で組まれ、縄で括られていた。
その中で、何かが動いていた。
「新九郎」
「はっ」
「例の猿か」
「若様の仰せの通り、尾張の中村におりました」
「それで、檻に入れて連れてきたのか」
「縄では抜けます。飯で釣っても、食えば逃げる小僧です」
「……なるほど」
なるほどではない。
だが、俺が言ったのだ。従わぬ時は、攫ってこいと。
頼政も、見つけたら逃がすなと命じていた。その結果が、この木枠だった。
木枠の中から、甲高い声が飛んだ。
「おみゃあら、何するんだわ! わし、何もしとらんがや!」
「腹ぁ減っとっただけだで! 飯くれる言うたで、ついて来たんだわ! それを、こげな籠に入れよって!」
「猿じゃあるまいし! わしは人だがや!」
尾張の言葉が強すぎる。半分も分からないが、怒っていることと腹が減っていることは分かった。
そして、逃げる気があることも分かる。
頼政は木枠を見て眉を寄せた。
「小徳丸」
「はい」
「これが、そなたの申した小僧か」
「おそらく」
木枠の中にいたのは、十歳ほどの小僧だった。
痩せている。髪は乱れ、着物も汚れていたが、目だけが妙にぎらついていた。
こちらを恐れながら、値踏みもしていた。
「名は」
俺が聞くと、小僧は胸を張った。
「日吉丸だがや!」
日吉丸。尾張の中村。
前世で知っていた名が、木枠の中で怒鳴っていた。
今ここにいるのは、天下人ではない。腹を空かせ、隙があれば逃げ出そうとしている小僧だった。
「日吉丸」
「何だわ」
「腹は減っているか」
日吉丸の目が変わった。
「飯くれるんか」
「働けば、腹いっぱい食わせる」
「毎日か」
「働けばな」
「何すればええんだわ」
今のは分かった。
「従え。欲をかくな。嘘をつくな」
「欲をかくな、とは何だがや」
「分を弁えろということだ」
日吉丸は少し考えた。本当に、少しだった。
「飯が出るなら、従ったるわ」
「なら、ここにいろ」
「腹いっぱいだな?」
「腹いっぱいだ」
「寝るとこは」
「出す」
「着るもんは」
「働けば出す」
「殴らんか」
俺は少し黙った。
この時代に、絶対に殴らないとは言い切れない。だが、ここで曖昧にすれば逃げる。
「理由もなくは殴らん」
日吉丸は、じっと俺を見た。子供の目ではない。飢えた者の目だった。
「なら、ここにおる」
新九郎が訳す前に、俺にも分かった。
頼政は日吉丸を見てから、俺へ目を向けた。
「よいのか」
「はい」
「素性は、ようやく名が知れた程度だぞ」
「それでも、引き入れる価値はあります」
「逃げるぞ」
「飯を出している間は、たぶん逃げません」
日吉丸がまた叫んだ。
「たぶんとは何だがや! 飯がうまけりゃ逃げんわ!」
新九郎が訳す。
「飯がうまければ逃げない、と申しております」
「そこは分かった」
「では、訳は要りませぬか」
「要る」
尾張の訛りが強すぎる。勢いと飯の話は分かるが、それ以外はだいぶ怪しかった。
このままでは、毎回新九郎を挟むことになる。それは困る。
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弦十郎と新九郎が左右につき、木枠の戸を開けた。
外へ出された日吉丸は、逃げるより先に飯へ飛びついた。
食う、というより詰めていた。粥も、握り飯も、干し肉の端も、出したそばから消えていく。
朝霧の者が引くほど食った。
「おい、噛め」
俺が言うと、日吉丸は椀を抱えたまま顔を上げた。
「噛んどるわ! おみゃあ、飯食うたことないんか!」
「今のは」
新九郎が答える。
「噛んでいる。飯を食ったことがないのか、と」
「失礼なやつだな」
「そのようです」
日吉丸は気にせず食っていた。よほど腹が減っていたのだろう。椀に残った飯粒まで、指で集めて口へ入れていた。
朝霧には人が増え、畑も荷も増えた。山へ入れば熊が出て、尾張へ人を出せば、こんな小僧まで連れ帰ってくる。
村が大きくなれば、外から来るものも増えるらしい。
日吉丸が、飯粒を頬につけたまま何か言った。早口で、尾張訛りも強い。
俺は新九郎を呼んだ。
「新九郎」
「はっ」
「まず、こいつに近江の言葉を覚えさせろ」
新九郎は静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
日吉丸が椀を抱えたまま言った。
「飯が出るなら覚えたるわ」
新九郎が訳す。
「飯が出るなら覚える、と申しております」
俺は深く息を吐いた。
朝霧には、また一人、妙な者が増えた。




