第23話 人を選ぶ村
翌朝、俺は妙に機嫌がよかった。滝川久助が、俺の後ろに控えていたからだ。
弦十郎は、いつものように俺の近くに立っている。久助は、その少し外側に立っていた。朝霧の勝手が分からぬのだろう。背筋を伸ばしたまま、肩だけが少し硬い。
「若様」
弦十郎が、低い声で言った。
「久助殿が、困っております」
振り返ると、久助が恐縮したように頭を下げた。
「某、何か至らぬことをいたしましたか」
「いや、何もない。ただ、よい者が側に来たと思っただけだ」
「過分にございます」
真面目だ。そこもいい。
「若様」
「分かっている」
外の声は聞こえていた。名を告げる声、荷を下ろす音、場所を問う声。
尾張へ流れるはずの大物が、今は朝霧にいる。それを喜ぶ暇も、長くはなかった。
昨日、甲賀から来たのは久助だけではない。新九郎が連れてきた第一陣もいる。それに、棚上げしていた移住希望の者たちもいる。
住まいも畑も、明日からの飯も要る。
「行くぞ」
俺が言うと、弦十郎がすぐに頷いた。久助も一拍遅れて、姿勢を正す。
「某も、お供いたします」
「当然だ。今日から、お前も朝霧を覚えるのだ」
久助は短く頭を下げた。
屋敷の外へ出ると、朝の空気の中に、炊き出しの煙と土の匂いが混じっていた。村が、いつもの村ではなくなっていた。
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屋敷の外には、人と荷が集まっていた。
鍬や鉈を抱えた男。古びた鍋を布で包んだ女。背負子に筵を括りつけた若者。子供の手を引き、もう片方の手で小さな包みを抱える者。
逃げてきただけではない。移るために、持てる物を持ってきた者たちだった。
村の者たちは、少し離れたところから見ていた。村はずれで待たせていた者たちも、甲賀から来た者たちと並び、受け入れの時を待っている。
「新九郎は」
俺が問うと、政虎が答えた。
「朝早くに出ております」
「そうか。もう出たのか」
政虎が、残っていた甲賀者の一人を呼んだ。
「新九郎殿より、残った者の仕分けは、この者がするようにと」
仕分け役を任された甲賀者が、短く頭を下げた。
「若様。まず名を改めまする。世帯ごとの人数、持ってきた道具、動ける者と休ませる者。それを分けます」
「よい。名と世帯ごとの人数を先に押さえろ」
「はっ」
「甲賀から来た者も、前から待たせていた者も、ここでは同じだ。飯や寝場所に差をつけるな」
「心得ております」
「動ける者は荷運びと普請へ。子連れ、年寄り、足を痛めた者は仮小屋へ回せ」
「座ってできる仕事も分けまする。縄を綯う者、筵を広げる者。動ける者からは、水を運ぶ者も出します」
「それでいい」
仕分け役が振り返ると、残っていた甲賀者たちが動き出した。
押すでも急かすでもなく、人の流れが少しずつ分かれていく。甲賀から来た若い男と、前から待たせていた男が、同じ荷を運んでいた。
だが、流れができたからといって、安心できるわけではない。名乗りを鵜呑みにはできない。荷を広げたがらぬ者もいる。村の者と目を合わせぬ者もいる。
誰が紛れ込んでも、おかしくはなかった。
人の流れが落ち着くと、政虎が俺の横に来た。
「若様。世帯ごとに仮小屋へ入れるだけなら、今日のうちは何とかなります」
「今日のうちは、か」
「はい。ですが、あれをそのまま置き続けるわけには参りませぬ」
政虎の言う通りだった。仮小屋は、雨風をしのぐためのものだ。人を住まわせ、根を下ろさせる場所ではない。
「若様」
声をかけてきたのは、村の男だった。
「この者らを、村に住まわせるので」
「そうだ」
「なら、家はどこへ。今ある家並みに入れられては、村の者も落ち着きませぬ」
「今ある家並みには入れない。別に居住地を開く」
「どちらへ」
俺は山際へ顔を向けた。
「まず小屋を並べる場所を作る。畑は、その後だ」
政虎も、開墾地の奥に続く山の方へ向いた。
「木を伐り、根を抜き、地をならすことになります」
「一度に全部は無理だ。まず小屋地からだ」
「収穫までは扶持が要ります」
「そこが一番痛い」
畑はすぐには実らない。俺は政虎を呼んだ。
「彦九郎」
「はっ」
「村の者も、甲賀から来た者も、前から待たせていた者も混ぜて、小屋地の普請にかかれ」
「承知いたしました」
政虎が人を呼びに向かうと、山際では、杭を運ぶ者と下草を払う者が分かれ始めた。
まだ手際は悪い。それでも、仮小屋を並べる場所だけは、今日のうちに決めねばならない。
小屋地の普請へ人が動き始めたころ、孫兵衛が屋敷の方からやって来た。手には小さな木札をいくつか持っている。
「若様」
「どうした」
「扶持のことでございます」
「足りないか」
「すぐに尽きるほどではございませぬ。ですが、減りが早うございます」
孫兵衛は木札を一つ押さえた。
「村の者に、甲賀から来た者。前から待たせていた者もおります。子供と年寄りまで含めれば、食わせる口はかなり増えました」
「分かっている」
働く手だけが増えるわけではない。俺は政虎を呼んだ。
「彦九郎」
「はっ」
「売りに回せる油はどれだけある」
「屋敷と灯りに使う分を除けば、まだございます」
「出せ。米、粟、稗、塩、味噌に替える」
孫兵衛が、わずかに顔をしかめた。
「かなり出すことになりますが」
「構わん。油を残して人が離れれば、何にもならない」
油はまた搾れる。だが、ここまで来た者たちは、飢えれば去る。去った者は戻らない。
「今は食わせる。ここに根を張らせる方が先だ」
「では、売る分と残す分を分けます」
「そうだ。だが、売り急ぐな。油は安く出す品ではない」
政虎が短く頷いた。
「油を欲しがる者に、米を持って来させます」
「米だけでは足りない。粟も稗も押さえろ。塩と味噌も要る。鍋や釜が足りなければ、それも探せ」
「承知いたしました。すぐに当たらせます」
今日の粥だけで済む話ではない。明日も明後日も食わせる算段が要る。
その時、油場の方で鋭い声が上がった。
「そこへ入るな!」
女衆の声だった。
俺が振り向くより早く、弦十郎が動いた。久助も一拍遅れて続く。
油場の入口で、男が一人、押さえられていた。手には荷も鍬もない。油の壺が並ぶ奥へ、入り込もうとしていたらしい。
「何だ」
「誰だ」
「油場で何をしていた」
周囲から声が飛び、名改めの列もそこで止まった。
俺は油場の前へ進んだ。
「何をしていた」
男は顔を伏せた。
「道を、間違えました」
油場の女が、震えた声で言った。
「嘘でございます」
男の肩が、わずかに動いた。
「その者、壺の数を見ておりました。裏の置き場へも回ろうとしておりました」
道を間違えた者が、油の壺を数えるか。
俺が口を開く前に、水車場の方から若い衆が駆けてきた。
「若様! 水車場にもおりました!」
ざわめきが広がった。
水車場で捕らえられた男は、腕を後ろで縛られていた。若い衆の一人が、小さな木片を差し出した。
「袖の内に、これを隠しておりました」
受け取ると、炭で細い線が引かれていた。車輪の大きさ、軸の位置、支え木の組み方、水を受ける板と樋の高さ。細かくはないが、ただ眺めた者の印ではない。
壊すにせよ、真似るにせよ、要所を見ている。
「若様」
仕分け役が、低く声をかけた。
「名改めの列にも、妙な者がおります」
仕分け役が目を走らせると、一人の男が列の後ろへ下がろうとしていた。呼ばれた名への返事も遅く、片手で懐を押さえている。
仕分け役が、その肩をつかんだ。
「この者を外しまする」
男の懐を改めると、小さな木片が二つ出てきた。一つには油壺に似た印、もう一つには車輪に似た印が、炭で描かれていた。
三人が縛られて並べられた時、名改めの場は完全に止まった。荷を下ろしていた者も、仮小屋へ向かう者も、動きを止めた。
村の者も、新たに受け入れられる者たちも、縛られた三人を見ていた。
「殿」
政虎の声で、頼政が屋敷の方から出てきていることに気づいた。
頼政は止まった広場を見渡し、縛られた三人へ目を向けた。
「何があった」
「油場、水車場、名改めの場。三か所で探りを捕らえました」
頼政の顔つきが変わった。
「一人ではないのか」
「三人です」
頼政はしばらく黙った。俺は一人目の前に立った。
「お前は油場を見ていた。相違ないな」
「道を間違えただけにございます」
男はすぐに答えた。早すぎる。
「壺の数を見て、裏の置き場へ回ろうとして、か」
「某は、そのようなことは」
男が油場の女を睨み、女が一歩退いた。
「女を睨むな。聞かれているのはお前だ」
男は口を閉じた。
俺は二人目を見た。
「お前は水車場にいた。相違ないな」
「迷っただけにございます」
若い衆が差し出した木片を、二人目の前に出した。
「袖の内に隠していたな。車輪、軸、支え木、樋。迷った者が見るところではない」
二人目の喉が動き、目だけが木片から弦十郎の刀へ移る。
「それは……拾っただけで」
「拾った木片を、袖の内に隠すのか」
二人目は答えなかった。
俺は三人目に向いた。
「お前は名改めの列にいた」
「某は、何も」
声が細い。一人目、二人目よりも先に、膝が震えていた。
「懐から木片が出た。油壺と車輪の印だ。油場と水車場を見ていた二人と、無関係ではないな」
「違いまする」
答えとは裏腹に、男の膝は震えたままだった。
「油場を見る者。水車を見る者。その二人と同じ列に紛れたお前。三人で動いていたな」
「違いまする。某は、ただ頼まれて」
そこで、男は口をつぐんだ。
俺は頼政へ顔を向けた。
「偶然ではありません」
頼政は縛られた三人を見た。
「どうする」
「もう一度だけ聞きます」
俺は一人目の前に戻った。
「誰に命じられた」
「知りませぬ。某はただ、道を」
「それが答えか」
「若様、某は――」
「弦十郎」
「はっ」
「刎ねろ」
男の顔が凍った。
次の瞬間、弦十郎の刃が抜け、首が落ちた。
誰も声を出さない。二人目の顔から血の気が引いた。
俺は、その前に立った。
「誰に渡すつもりだった」
「知りませぬ。拾っただけで」
「袖の内に隠していたものをか」
「某は、本当に」
「それが答えか」
二人目は、落ちた首を見ないように顔を背けた。だが、口は開かなかった。
「刎ねろ」
二つ目の首が落ちた。
荷を抱えた女が、その場で固まっている。子供の泣き声だけが、細く残った。
三人目は、もう顔を上げられていなかった。
「次は、お前だ」
「申します。申しますゆえ」
「誰に命じられた」
「夕刻、百済寺道の祠で、待つ者に知らせる手筈でございました」
「何を知らせる」
「油場の場所、水車の造り、村口の番、新しく入った者の数、仮小屋の場所、飯場へ運ばれる米俵の数にございます」
「誰に」
男は一度、口を閉じた。
弦十郎が一歩近づくと、男は顔を歪めて吐いた。
「笠松長次郎殿にございます!」
「笠松だと!」
頼政の声が飛び、村の者たちの間にも低いざわめきが走る。
俺は頼政を見た。
「知っているのですか」
「ああ。同じ百済寺郷の笠松村を押さえる男だ」
笠松村。朝霧と同じ百済寺郷の名が出た。遠い敵ではない。
本当にその男が命じたのか。それとも、笠松の名を使った者がいるのか。今は、まだ分からない。
俺は三人目へ向き直った。
「待つ者を見分ける印は」
「祠の前に、笠を伏せて待つ手筈にございます」
「顔は知っているのか」
「知りませぬ」
俺は政虎を近くへ呼び、声を落とした。
「彦九郎」
「はっ」
「百済寺道の祠を押さえろ。笠を伏せて待つ者がいれば捕らえろ」
「承知いたしました」
政虎がすぐに人を呼び、百済寺道へ走らせた。
俺は三人目を見下ろした。
「聞くことは聞いた」
男の顔に浮かんだ安堵が、次の言葉で消えた。
「だが、朝霧へ探りに入ったことは消えない」
「刎ねろ」
三つ目の首が落ち、今度は誰かが小さく息を呑んだ。
俺は三つの首を見た。
「彦九郎」
「はっ」
「村口に晒せ」
政虎は一瞬だけ黙ったが、すぐに頭を下げた。
「承知いたしました」
頼政が、低く言った。
「小徳丸」
「はい」
「人を入れるということは、こういうものも招く」
「……はい」
「最後に背負うのは俺だ。だが、そなたが始めた流れでもある。笠松を含め、この先どう始末をつけるか考えよ」
「承知いたしました」
頼政はそれ以上言わなかった。
俺は広場に控える者たちへ顔を向けた。
「朝霧へ移る者には、住む場所を出す。働く者には仕事を出す。腹を空かせた者には飯を出す」
誰も動かない。
「だが、朝霧を探る者は置かない」
炊き出しの煙が、朝の風に流れた。
「今日から、朝霧に入る者は二つに分かれる。そのこと、よく心得よ」
「笠松が、朝霧を探らせたのか」
誰かが低く呟いたが、答える者はいない。
子を抱いた女が顔を伏せ、荷を抱えた男が慌てて包みの口を押さえる。
仕分け役は騒がなかった。ただ、手元の木札へ目を落とした。
「名改めを止めるな。飯も出せ」
「はっ」
「怪しい者は覚えておけ。今ここで騒ぎを増やすな」
「承知いたしました」
政虎が頷き、孫兵衛が声を張った。
「次の世帯を呼べ! 並んだ者から椀を渡せ!」
止まっていた広場が、ぎこちなく動き出した。
仕分け役は、先ほどまでと同じ調子で問いを重ねた。
「名を」
「世帯は」
「荷を開け」
ただ、開かれた荷から目を離すのが遅くなった。
村口へ三つの首が運ばれていく。だが、朝霧は止まらなかった。
「若様」
弦十郎が低く声をかけた。刃はもう拭われている。
「次は、どうなされますか」
「名改めを続ける。荷改めも、飯場も、普請も止めるな」
「はっ」
「祠へ回した者が戻り次第、何があったか、誰がいたかを聞く」
「承知いたしました」
「孫兵衛は米と雑穀の手配を急げ。油は売る。だが、安く出すな」
「はっ」
「久助」
呼ぶと、久助がすぐに頭を下げた。
「ここに」
「甲賀の者について回れ。人の分け方、荷の改め方、怪しい者の外し方を覚えろ」
「承知いたしました」
久助が仕分け役の方へ向かう。
山際では杭が打たれ、縄が張られていた。下草を払う声と、飯場で椀を配る声が重なる。
俺は村口の方を見た。三つの首が、朝霧へ入る道を向いていた。
朝霧は、人を抱え、人を選ぶ村になった。




